フィリピンは救われるか2005年6月7日 田中 宇5月末、日本のマスコミは、フィリピン南部のミンダナオ島で旧日本軍の元兵士たちが終戦後も日本に帰らず生活し続けているという話で大騒ぎし続けたが、その件は結局のところ、不確実な情報に基づいた「ガセネタ」だったことが明らかになっている。(関連記事) 5月27日、最初にこの件を「スクープ」した産経新聞は、6月1日付で「情報と事実の峻別がないまま、その(仲介の男性がもたらした)情報に寄りかかりすぎた」として謝罪する文章を掲載した。「関係者の証言が、さまざまな食い違いを見せ」ており「思い込み、記憶違いが錯綜してい」たにもかかわらず「何が事実で何が事実ではないのか」を十分に確認せず、大量の記事を流してしまった。 この件を詳しく追ったフリージャーナリストの山本宗補氏の記事によると、産経新聞の情報源となった4人の人々は、いずれも今回生存しているとされた元日本兵たちに会っておらず、会ったとされていても、元日本兵の生存を裏づける証明が何もない。(関連記事) 一般に新聞記者が取材して判断する水準で考えると、このようなケースは「4人は話を誇張している可能性がある」と疑うのが普通である。何かの拍子にこのチェックが十分になされず、第一報では誇張された報道になってしまった場合でも、その次の日の報道からは、多角的な検証が入り、事実に近い報道に変化していくのが通常だ。 今回の産経新聞の場合は、第一報から数日後まで誇張された報道が続き、日本大使館員が元兵士側の仲介者に会えずに撤収し、事実性に対する疑いが広く持たれるようになった後になって「曖昧な情報に寄りかかりすぎた」と謝罪を表明している。こうした流れからは、産経新聞の上層部に、誇張と知りながら報道を続けていた「故意」または「未必の故意」が存在していたのではないかと感じられる。 その一方で、産経新聞の記事を発端とする今回の元日本兵騒動は、小泉首相やその配下の官僚機構内の「日本の戦争は悪くなかったという気運を国内に作りたい」と考えている人々にとっては、プラスの影響を持つものとなっている。日本国民に、フィリピンで苦戦した自国の兵士たちについて思い起こさせることは「多くの兵士が苦労し、戦死した。その労をねぎらうために首相が靖国神社に参拝して何が悪い」という世論を喚起することに役立っている。 ▼日本でも展開される情報操作 911事件後のアメリカでは、マスコミが、政府の戦争や謀略を成功させることができるような方向で、ニュースのトーンや解説の仕方を操作する状況が続いている。日本でも、同様のことが起きている可能性が大きい。 たとえば、ここ2年ほど、現実にはイラク情勢は次第に悪化しているにもかかわらず、NHKなどのテレビによく登場し、イラク情勢を解説する「専門家」の中には「イラクの情勢は次第に良くなっている」といった、事実と異なる方向のことを言い続けている人がいる。 小泉政権は、反政府的な言論を流すテレビ局を巧妙に制裁する技能を持っている。不祥事が続いて立場が弱いNHKなどは、政府の介入を食い止めるのが難しい。テレビ各局が、自衛隊のイラク駐留に反対する国内世論の勃興を防ぎたい日本政府に協力すべく「状況は良くなっている」と発言する「専門家」を使いたくなるのは無理もない。 (反対に、私の場合、一部のテレビ局から「反米論者」として使えると思われているらしく、ごくたまに日本国内で反米意識が高まると、ワイドショーなどに呼ばれたりする) 現状は、まさに「情報戦争」が展開しているといえる。この戦争から無縁でいたければ、マスコミのニュースに一切接しないという方法しかない。テレビや新聞を見るすべての人が、無意識のうちに、この戦争に「参戦」している。「マスコミはけしからん」「読者は被害者だ」と主張するだけの弱者意識の人は、自ら騙される傾向を増やしている。マスコミの偏向には意図があるはずで、それを考えつつ報道に接する必要がある。 ▼元日本兵騒動という一極主義と、ミンダナオ和平という多極主義 話を元に戻す。元日本兵の騒動などを機に、日本国民のより多くが「日本の戦争は悪くなかった。そう考えて何が悪い」と主張するようになり、小泉首相が靖国神社に参拝し続けている限り、日本は、朝鮮半島からインドまでのアジアの国々と戦略的な協調関係を深めていくことができず、この問題に対して沈黙しているアメリカとの関係のみに頼るしかない。 日本を含むアジア諸国では今、対立する2つの方向性が混在する過渡期の状態となっている。一つの方向性は「従来と同様、アメリカがアジアの重要事項を決める状態を続かせよう」という「一極主義」で、小泉政権の日本が最も顕著な例であるほか、韓国の野党ハンナラ党、台湾与党の中の独立派なども、この方向性を持っている。 もう一つは「アジアのことはアジアで決める。アメリカにも、それを容認してもらいたい」という「多極主義」で、中国の胡錦涛政権、韓国の盧武鉉政権のほか、東南アジアの多くの国の政府が、この傾向を持っている。 ミンダナオ島の元日本兵の騒動で、小泉首相の靖国参拝を支持する人を増やすという計略があるのなら、それはアメリカのみに頼る一極主義の外交政策を維持しようとする動きである。 興味深いことに、ミンダナオ島では、元日本兵の騒動が始まった5月27日、一極主義の流れとは反対の、多極主義の方向の出来事も起きている。約1900万人のミンダナオ島の人口のうち500万人前後を占めるイスラム教徒を代表するゲリラ組織「MILF」(モロ・イスラム解放戦線)が、全島から10万人とも50万人ともいわれる支持者を集めて大々的な「総会」を開いたのである。 元日本兵の騒ぎが起きたジェネラルサントス市から150キロほど離れたコタバト市の近くで行われた総会では、ミンダナオ島をフィリピンから分離独立させるという旧来の方針を止めることや、政府軍との戦闘をやめて交渉路線を進むこと、テロに反対し、フィリピン政府に協力して島内にいるアルカイダ系の勢力を掃討することなどが協議された。(関連記事) MILFとフィリピン政府は、マレーシアやリビアなど、OIC(イスラム諸国会議機構)の仲裁を受け、今年4月にマレーシアで交渉し、フィリピン政府はミンダナオ島のイスラム教徒が先祖伝来の土地を所有する権利を持っていることを認め、和平について部分的に合意した。両者は1997年からの8年越しの交渉をしてきたが、具体的な合意に達したのは初めてだった。(関連記事) これを受けてMILFは、フィリピンから国家的な独立を目指すのではなく、フィリピン国内での権利を拡大することで問題を解決する方向に転じることを目指して総会を開き、参加者はフィリピン政府との交渉をMILFに委任することを決めた。総会を開いたのは、MILFの中には、フィリピンからの独立放棄に反対する派閥もあり、こうした少数派の反対を封じ込めるため、できるだけ多くの一般民衆を総会に集め、大多数のイスラム教徒島民の付託を受けたという民主主義的な正当性を獲得するためだったと思われる。 ▼テロ戦争を永続化する戦略 これまでフィリピン政府とMILFの和平がうまく行かなかった主因は、フィリピン政府の最大の後ろ盾となってきたアメリカが、MILFをテロ組織として扱ってきたからである。 アメリカは、沖縄から東南アジアを通って中央アジアまで続く中国包囲網を「不安定の弧」と呼び、この地域でテロが多いという理由をつけて、包囲網を維持している。フィリピンは、この包囲網の一部となっている。その点では、ミンダナオで「テロ戦争」が続いた方がアメリカにとって好都合だった。 フィリピンはアメリカにとって、スペインから奪ったアジアで最初の植民地であり、1942−45年の日本の占領を経てアメリカの傘下に戻り、1946年に独立したが、その後もアメリカの強い支配のもとに置かれ、冷戦中にはベトナムや中国に対峙する場所として重視された。 1990年前後に冷戦が終わると、アメリカはフィリピンを軽視し、米軍基地が返還されたが、1997年ごろからアメリカ上層部のタカ派傾向が強まるとともにフィリピンへの再支配が始まり、2001年の911事件を機に「テロ戦争」の名目で、米軍がミンダナオ島に配備強化された。 米軍はミンダナオ島のイスラム教徒ゲリラ組織「アブサヤフ」を、アルカイダの一派であるとして壊滅させようとしたが、アブサヤフは構成員が100人ほどしかいない微少な組織であり、何千人もの米軍兵士と、その何倍かのフィリピン軍を動員してもアブサヤフが何年も潰れないのは奇妙だった。(関連記事) しかもその後、フィリピン軍やアメリカの諜報機関が、アブサヤフなどのイスラム過激派組織をこっそり支援しているのではないかという疑惑が持ち上がるに至って、米軍はフィリピン軍と組んでテロ組織を故意にはびこらせ、テロ戦争の永続化を画策している可能性が強まった。(関連記事その1、その2) ▼国家崩壊を誘発されかけたフィリピン 昨年になると、さすがにいつまでも微少なアブサヤフだけを敵にし続けてフィリピンに介入することに無理があることが分かったのか、アメリカはミンダナオ最大の反政府系イスラム組織であるMILFを敵視する方針に切り替えた。 米政府は、MILFがこっそりアブサヤフやアルカイダを支援していると主張した。この見方には、フィリピン政府内からも反発が出たが、経済支援が必要なアロヨ政権は、MILFとの和平交渉を維持しながらも、アメリカに従い続けた。 ところが、ここでアメリカのテロ扇動政策を容認したため、その後のフィリピンではテロ活動がおさまらず、混乱が拡大してアフガニスタンのような内戦状態の失敗国家になってしまうのではないかという懸念が増した。 経済が改善しないため財政赤字も増え、政府が対外債務を返せなくなってアルゼンチンのような経済的な失敗国家になるのではないかとの懸念も出てきた。(関連記事) しかも、アメリカはフィリピンのアロヨ政権を助けるどころか、在マニラ米大使館の幹部は今年4月「アロヨ政権が経済建て直しにばかり専念してテロとの戦争に努力していないので、フィリピンのアフガン化が進んでいる」と批判した。(関連記事) こうした米政府の言動からは、瀬戸際にあるフィリピンの状況をさらに悪化させ、むしろフィリピンがアフガン化した方が良いと思っているふしさえ感じられる。フィリピンが崩壊して「失敗国家」になれば、アフガニスタンやイラクと同様にテロリストの大拠点と化し、東南アジアの周辺国でもテロが激しくなり、アメリカに頼る傾向を強めざるを得なくなる。アメリカは冷戦時代のような永続的な支配力を回復できる。 ▼フィリピン安定化に動く周辺諸国 フィリピンが失敗国家に転落させられ、米軍とテロ組織だけが「活躍」する地域になることは、アロヨ政権もMILFも、東南アジアの他の国々も、中国も望んでいなかった。そのため今年に入り、アメリカの意向にそむくかたちで、フィリピンを安定化させるいろいろな動きが出てきた。 その中の一つが、アロヨ政権とMILFの和平交渉の進展だった。これにはマレーシア、インドネシア、リビアなどのイスラム諸国が協力しており、6月には次回の交渉が行われることになっている。今後、ミンダナオのイスラム教徒地域が、政府からどのような権利を受け取るのか、ミンダナオの統治形態はどのようになるのかが、次回以降に決まってくる。早ければ今年末には、ミンダナオに30年ぶりの和平が訪れる。(関連記事) MILFは、アメリカからテロ支援組織だと言われていることに対処するため、フィリピン政府が作った「テロリスト」一覧表に基づき、アブサヤフやジャマ・イスラミアなど、アルカイダ系「テロリスト」の掃討作戦を展開することを約束した。(関連記事) ミンダナオの紛争が終結すれば、フィリピンはかなり安定する。それを見越して、最近は対外債務の格付けも改善し「アルゼンチン化」の懸念は遠のいている。(関連記事) 一方、中国からは、4月末に胡錦涛主席がフィリピンを訪問し、フィリピンの経済基盤整備や鉱山開発などに対する投資や融資が契約された。石油の国内需要が増えている中国側は、フィリピンのパラワン島沖の海底油田探査を要望し、これも合意した。(関連記事) 5月23日には、フィリピンと中国の国防長官どうしが会談し、今後合同軍事演習を行うことで合意した。中国軍は、複数のアジアの国々の軍隊と合同で多国間の海上軍事演習を行う構想を持っており、フィリピン軍もそれに参加してほしいと要請した。(関連記事) また、中国軍がフィリピン軍に技術関連の設備を贈与することも決めた。これらの外交行為の結果、中国はアメリカが作る「中国包囲網」に風穴を開けつつある。(関連記事) ▼アメリカの態度急変の謎解き ここで奇妙なのは、アメリカがこれらの動きを黙認していることである。米政府は4月末まで「MILFはテロ支援組織なので、許すわけにはいかない」と主張していたのに、5月19日にはライス国務長官が、フィリピン政府とMILFの和平交渉を支持するとコメントしている。MILF側も「アメリカは態度を急変させた」と述べ、米上層部には異なる対フィリピン政策を抱く複数の勢力が存在していると指摘している。(関連記事) 複数の対フィリピン政策とは、私流に見ると「一極主義」と「多極主義」であり、フィリピンに対する態度の変化は、アメリカの上層部で、一極主義を放棄して多極主義を容認する動きがあることを示している。 ライス国務長官は最近、中国とロシア、インドの外相がウラジオストクに集まり、中央アジアなど、ユーラシア全域の、安全保障や経済などの諸問題を、3カ国が協力して解決していくことで合意した件に関しても、歓迎する意を表明している。(関連記事) 中ロ印の同盟は明らかに、アメリカのユーラシア支配を不満とする「非米同盟」であり、一極主義のアメリカが歓迎できる類の動きではない。それなのにライスは、ウラジオストクの3カ国会談に向かう機内にいる中国の李肇星外相と電話で話し、米中両国が今後、国際的な問題を解決するために協力関係を強化しようと述べたという。これは、米政府が、中国やロシア、インドが目指す多極主義の動きを容認していることを示している。(関連記事) さらに、前回の記事で指摘した「実は一極主義者のふりをしてイラク戦争を起こしたネオコンは多極主義者なのではないか」ということを加味して考えると、そもそもアメリカが「中国包囲網」「悪の枢軸」などの、一極主義的な政策によって成し遂げようとしたことは、極端な一極主義を貫き、故意に世界を怒らせて愛想を尽かされることで、多極主義を実現することが目的だったのではないか、と思えてくる。 先日、フランスやオランダの国民投票でEU憲法が否決されたことに象徴されるように、多くの国の国民は、自国の政府が国境の外側で起きる内戦などを解決するために骨を折ったり、そのことを通じて覇権を拡大する構想などに対し、賛成していない。 冷戦後、世界が不安定になる中で、アメリカ一国だけが世界の問題を解決し続けることは、そのことから得られる利権を考えても、割に合わない面がある。しかし、他の国々は、アメリカから覇権を譲渡してもらいたいとはなかなか思わず、ドイツやフランスなどのように、政府がアメリカからの覇権の譲渡を希望しても、国民はそれに賛成しない。 このような状況下でアメリカが採り得た唯一の方法は、世界から嫌われ「アメリカに任せておいたらやばいことになる」と思わせることで、多極化を実現するということだったのではないか、というのが私の新しい仮説である。 ▼ミンダナオ和平を支援する日本 ミンダナオ和平交渉に関してもう一つ書いておかねばならないのは、日本政府が和平を支援するために経済協力を行っていることである。日本政府は、5月末にミンダナオ島で行われたMILFの総会にもマニラの大使館から担当者を派遣し、MILFがフィリピン政府との和平交渉を進めるなら、日本政府はMILFを全面的に支援すると表明している。 小泉首相は、2002年12月にアロヨ大統領が訪日した際、ミンダナオ和平に関連して4億ドルの経済支援を行うことを約束し、すでに総額の4割にあたる支援が実施されている。(関連記事) 日本政府は戦後一貫して、アジア諸国との協調関係を重視する外交政策を続けてきた。小泉政権になってからもしばらくは協調重視の外交を続けており、ミンダナオ和平に対する経済支援はその一つだが、その後アメリカがイラクの泥沼に沈むとともに世界的な軍事再編を加速するのにともない、日本はアメリカ一辺倒の傾向を強め、靖国神社参拝など、アジア諸国との関係を故意に悪化させたいかのような政策を採るに至った。 今も続くミンダナオ和平に対する経済支援は、日本の以前の外交政策に基づく決定を惰性で続けているだけなのかもしれない。だが、今後アメリカが「アジアの問題の解決はアジアに任せる」という多極主義を容認する傾向が定着した場合、日本政府は現在の一極主義的な外交を改め、かつてのようなアジア諸国との協調主義に戻る必要が出てくる。そのときには、ミンダナオ和平に対する経済援助を続けていて良かったということになる。
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