再び植民地にされるフィリピン2002年4月27日 田中 宇フィリピン政府は冷戦終結直後の1991年、アメリカに対してスービック海軍基地とクラーク空軍基地を撤去させることを決め、いったんは米軍を追い出した。アメリカとの合同軍事演習も1995年までは続けられていたが、その後はアメリカのクリントン政権が軍事費縮小に力を入れたため。廃止された。 ところがその後、アメリカ側は1998年ごろから再びフィリピンに軍隊を駐留させることを画策し始め、2000年には合同軍事演習を復活させた。2001年1月には言うことを聞かないエストラダ政権を転覆させることに協力し、「民衆蜂起」の名を借りたフィリピン軍のクーデターでアロヨ政権が打ち立てられた。(関連記事) エストラダが辞任に追い込まれるまでの半年ほど、マニラでは爆弾テロなど治安を揺るがす事件が続発し、共産主義組織の犯行だと発表されたが、それらの多くは実はフィリピン軍の仕業だった可能性が指摘されている。フィリピンはもともとアメリカの植民地で、軍の上層部は米軍で訓練を受けている。中南米諸国などの軍隊と同様、フィリピン軍は米軍配下の軍隊という色彩が強い。 アロヨ政権ができて9ヵ月後、アメリカで911事件が起きたが、アロヨ政権はすぐにスービックとクラークの両基地を再び米軍が使うことを承認した。軍事基地としてではなく、民間の港であるスービックに米軍の船も入港できるという取り決めだったが、スービックで米軍の船を修理する会社として、アメリカのチェイニー副大統領が会長をつとめていたハリバートン社傘下のエンジニアリング会社、ケロッグ・ブラウン・アンド・ルート(Kellog Brown & Root)が進出してくるなど、アメリカの政治とカネがからんだ話になっている。エンロン事件などと共通するブッシュ政権の金権体質がここにも現れている。(関連記事) 911後、米軍はフィリピン軍に協力するかたちで、フィリピン南部でイスラム原理主義組織「アブ・サヤフ」の掃討作戦を大々的に始めたが、彼らは総勢力が100人程度しかおらず、外国の軍隊である米軍が出ていって戦うような巨大な相手ではない。フィリピンの政府と軍隊がきちんと対応すれば壊滅させられるような相手だ。 アブ・サヤフの源流は、アフガニスタンでソ連軍の侵略と戦うため、アフガン人やサウジアラビア人などの「イスラム聖戦士」たちがアフガン・パキスタン国境地帯に作った7つの武装勢力のうちの一つ「ヘズベ・ワハダット」(Hizb-i Wahdat)で、指導者のアフガン人の名前がアブドル・ラスル・サヤフ(Abdul Rasul Sayyaf)だった。 この組織はサウジアラビアの資金で運営され、CIAやパキスタン軍が訓練を施していた。組織にはフィリピン南部のイスラム教徒も参加しており、その参加者の1人だったアブドラク・ジャンジャラーニ(Abduragak Janjalani)が、1989年にアフガニスタンからソ連軍が撤退した後、故郷のフィリピン南部に戻って作ったのが、フィリピンのアブ・サヤフだった。 彼らはミンダナオ島のイスラム社会をキリスト教徒中心のフィリピンから独立させることを目的にゲリラ戦をしていたが、1998年に指導者ジャンジャラーニがフィリピン警察との銃撃戦で殺された後、アブ・サヤフは2つに分裂し、独立運動より強盗や身代金目的の誘拐を繰り返す集団となり、絶頂期には4000人いた構成員も、100人以下にまで減った。 フィリピンでは2000年5月、上院議長が「アブ・サヤフを訓練したのはCIAだ」と指摘して注目されている。アブ・サヤフは2000年4月、フィリピン南部のパラワン島のリゾート地から、アメリカ人ら約20人を誘拐し、ボートに乗せて約600キロ離れたバシラン島の拠点に1日がかりで連行した。(関連記事) フィリピン軍は人質奪還のため、偵察機を飛ばして誘拐犯のボートの位置を探るよう米軍に求めたが、米軍は偵察機が撮った写真を沖縄の米軍基地まで持ち帰って現像し、ワシントンに送ってフィリピン軍に見せていいか吟味し、3日たった後でようやくフィリピン軍に写真を見せた。そのときには、すでにアブ・サヤフは人質をバシラン島に上陸させた後だった。こうした米軍の非協力的なやり方から、フィリピンではアブ・サヤフと米軍が裏で結託しているのではないかと疑われた。(関連記事) ▼中国封じ込めの不沈空母として再浮上? なぜアメリカがこうした「汚い戦争」を展開してまでもフィリピンを軍事的に再獲得したかったのかと考えると、それはフィリピンが中国をにらむ「不沈空母」のようなかたちで南シナ海上に存在していることと関係しているように思われる。 米軍がフィリピンで展開している軍事作戦は、イスラム教徒のテロ組織と戦うためだと言いつつ、実は中国を封じ込めるための、沖縄や中央アジア・アフガニスタンでの作戦と連動した、大きな作戦の一部なのではないか、ということである。 今年の米比軍事演習は、2種類の演習が相次いで行われた。2月にはフィリピン南部を中心とした「バリカタン2002−1」が行われたが、これはアブ・サヤフの掃討作戦だった。訓練と称しているが、実際の軍事作戦である。この軍事演習は当初3週間の予定だったが延期され、フィリピンの国防長官は「今年末まで続くかもしれない」と言っている。(関連記事) そして、さる4月22日には、首都マニラを中心に「バリカタン2002−2」という演習が2週間の日程で始まった。その目的は「米軍との総合的な連携を高めるため」で、具体的な目的は公表されていないが、この部分が中国を仮想敵とした演習だったと思われる。 またアメリカはフィリピンだけでなく、タイ、オーストラリア、シンガポールとの間でそれぞれ2国間で行われていた軍事演習を統合して行う方向に動いている。アメリカを中心とするこの多国間軍事演習は「チームチャレンジ」と名づけられ、昨年から本格化した。 こうした演習を行う目的は「国連平和維持活動」や「難民救援」の強化だとされている。米軍は、バリカタン2002−2をチームチャレンジと統合し、日本の自衛隊や韓国軍なども参加させ、東アジアから東南アジアまでの大規模な多国間軍事演習に仕立てようとした。 フィリピン当局によると、この多国籍軍事演習が想定する非常事態には、中国と台湾、フィリピン、ベトナムなどが領有権を主張している南シナ海の南沙群島における中国軍の勢力が拡大し、軍事的緊張が高まった場合が含まれている。このためフィリピン政府は、中国の反発を懸念してバリカタンとチームチャレンジとの大々的な合体には懸念を表明したが、アメリカ側は予定通り演習を実施した。(関連記事) アメリカは、アブ・サヤフという総勢50−100人程度しかいない「テロ組織」との戦いをなるべく長引かせようとするだろう。この戦いが終わったら、米軍はフィリピンに米軍を置き続けることができなくなるからだ。 ミンダナオ島には、アブ・サヤフよりもずっと大きな「MILF」とよばれるイスラム教徒組織がある。この組織はミンダナオ島民を代表する2つの組織のうちの一つで、フィリピン政府はMILFと和平交渉を行ってミンダナオに平和をもたらすことで政治的な得点にしたいと考えている。米軍はフィリピン政府の強い要望により、今はまだMILFをテロリストのリストから外しているが、アブ・サヤフが消滅してしまったら、今度はMILFを挑発して敵に回すのではないかとも思われる。 フィリピンでは今年中に、バリカタン以外にも10種類の米軍との合同軍事演習が行われる計画が立てられており、演習という名目も利用して米軍は駐留を長引かせる能性が大きい。 ▼突出した貧富の格差 フィリピンは、非常に豊かな数十の地主家族が、国土の半分以上の土地を所有している。フィリピン政府の調査によると、7800万人のフィリピン人のうち約40%が、1日100円(0.75ドル)以下の収入で生活をしている。国連の調査によると、1日1ドル以下の生活をしている人は、インドネシアで11%、タイでは1%しかいない。 一人当たりの国民総生産は、フィリピンが1020ドル、インドネシア1410ドル、タイは1960ドルである。つまりフィリピン人は、平均年収からみるとタイの約半分なのに、非常に貧乏な人の割合はタイの40倍ということになる。他の東南アジア諸国と比べても、それだけ貧富の格差が大きいということだ。(関連記事) こうしたひどい貧富の格差は、19世紀にフィリピンを植民地支配していたスペインに利益をもたらすため、サトウキビ、タバコなどの商品作物を栽培する大農場が作られた時からのものだ。大農場を所有する人々が、スペイン政府の代理としてフィリピンを支配する構造になっていた。 この構造は20世紀に入ってアメリカの植民地になってからも変わらず、1946年に独立した後も、24議席からなる上院議員や、歴代大統領の多くは、この特権支配層と何らかのつながりを持った人々である。国を支配しているのが農村の地主層であるため、貧困は都会より農村で厳しい。フィリピン開発学研究所(Philippine Institute for Development Studies)によると、都会では最貧層の割合は人口の25%だが、農村では54%もの人が最貧層の生活をしている。 また、宗主国であるスペインがキリスト教国だった関係で、カトリック教徒の地域より南部のイスラム教徒の地域の方が貧しい状態に置かれており、首都マニラでは最貧層は市民の11%だが、南部のミンダナオ島では島民の71%が最貧層で、4割の人が十分な食べ物がない状態だ。 南部の人々は、マニラのフィリピン政府のことを「アメリカの植民地政府」と呼んだりするが、これはでたらめな表現ではない。貧富の格差のひどさからみれば、スペインの植民地だった時代と今とではほとんど変わりがなく、スペイン時代の支配構造をアメリカがそのまま引き継ぎ、独立後もそのまま間接支配を続けたことが、その背景にあると考えられるからである。
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