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変わるユーゴスラビア

2000年10月19日   田中 宇

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 地域紛争が耐えない旧ユーゴスラビアには6つの国があるが、いずれの国でも住民のほとんどは人種的にはスラブ人である。しかも言語は最南のマケドニアと最北のスロベニア以外は、ほとんど同じ言葉である。

 マケドニアとスロベニア以外では、「セルビア語」か「クロアチア語」が話されているが、両者の違いは、クロアチア語がアルファベットで表記するのに対し、セルビア語はロシア語と同じキリル文字で表記する点である。マケドニア語とスロベニア語も、言葉の構造はセルビア語などと近い。このように旧ユーゴ各国の人々はお互い非常に似ているのに、別々の国でなければならないのは、歴史的な経緯に基づいている。

▼複雑に入り組む歴史的背景

 ロシア方面からバルカン半島にスラブ人がやってきたのは6−8世紀ごろといわれ、その後セルビア王国とクロアチア王国ができた。15世紀にオスマントルコ帝国が攻めてきて、南のセルビア、ボスニア、マケドニアは400年間トルコの支配下に入った。ただ、セルビアの山岳地帯はトルコが攻めにくかったため、その後もセルビア人の自治王国であるモンテネグロとして残った。トルコが攻め込めなかった北のクロアチアはハンガリー王国に、最北のスロベニアは神聖ローマ帝国(ドイツにあった貴族領の集合体)に、それぞれ1000年近く支配されていた。

 19世紀、神聖ローマ帝国とハンガリー王国は、ドイツ帝国とオーストリア・ハンガリー帝国に生まれ変わり、中部ヨーロッパに強力な国家が登場すると同時に、東のオスマントルコは弱くなった。その中でオーストリア・ハンガリーは、スロベニアとクロアチアだけでなく、ボスニア・ヘルツェゴビナも領土に加えた。一方セルビアはトルコから独立し、同じく新しく独立した隣国ブルガリアと戦争してマケドニアを奪った。

 拡大をめざすオーストリア・ハンガリーはセルビアに圧力をかけ、両国間で対立が増加、ボスニアを訪れたオーストリア皇太子がセルビア人に暗殺されたことをきっかけに戦争となった。バルカン半島に勢力を拡大したかったロシアはセルビアを支援し、第1次世界大戦が始まった。

 この戦争は、強大になってきた中欧の勢力(ドイツとオーストリア・ハンガリーなど)が、西欧(英仏など)とロシアの東西両面を相手に、ヨーロッパの支配権をかけて戦ったもので、結果は中欧勢力の負けだった。戦後のベルサイユ条約(1919年)で中欧勢力は解体され、いくつかの民族国家が作られた。この時に、戦勝国となったセルビアを核とするユーゴスラビアが初めて作られた。(このほかチェコスロバキアが作られ、消えていたポーランドが復活した)

 ユーゴスラビアを構成した各国の個別の歴史的なアイデンティティ(民族意識)は、この時にはすでに生まれていた。北から、神聖ローマ帝国の一部だったスロベニア、独立国からハンガリー王国領になったクロアチア、オスマントルコ領からオーストリア・ハンガリー帝国領になったボスニアとヘルツェゴビナ、一度はトルコに支配されたが独立したセルビア、中世セルビア領のうちトルコ支配に組み入れられず自治を維持したモンテネグロ、そしてセルビアがブルガリアから奪ったマケドニアという、各国の歴史の違いがアイデンティティにつながった。

▼中欧勢力封じ込めのため鼓舞された民族主義

 「民族主義」という概念は、第1次大戦後の「ベルサイユ体制」とともに広められた。ドイツやオーストリア帝国の復活を防ぎたい西欧やロシアは、中欧の周辺部分にあった小王国が独自の民族主義を持って独立を維持することで、中欧勢力の解体を固定化しようとした。

 ユーゴスラビアの場合、6つの民族がばらばらに独立せず統合したのは、当時の東欧に「スラブ系の民族どうしで統合し、ドイツとオーストリアのゲルマン系の結束に対抗しよう」という汎スラブ運動が起きていたためである。この運動は、スラブ人の筆頭格であるロシアが勢力拡大の一環として展開していた。ロシアが革命でソ連になってからは、社会主義運動に取って代わられた。

 ユーゴは一つの国家になったものの、主要な2つの勢力であるセルビア人とクロアチア人とは対立しがちだった。第1次大戦から15年後にドイツでナチスが台頭し、中欧勢力が力を盛り返して第2次世界大戦が起きると、ユーゴはドイツとイタリアに解体され、クロアチア人の民族主義者はナチスの意を受けた国を作り、セルビア人を多数殺した。これは1990年代にユーゴ連邦が解体していく際、セルビア人とクロアチア人が再び殺し合う遠因となった。

 ユーゴ内部の民族対立は、第2次大戦後にユーゴを再統一した指導者チトーのカリスマ性と権力によって、いったんは抑え込まれ、独自の社会主義をめざす政策がとられた。(この独自性はソ連から攻撃されたが、ユーゴの人々は第1次大戦以来、大国から攻撃されることに慣れており、屈しなかった)

 だが1980年にチトーが死ぬと、連邦を束ねていた力は弱くなった。再び各国の民族主義が強くなり、ソ連崩壊に続き、1992年にはユーゴ連邦も崩壊した。その後は、セルビアの指導者ミロシェビッチの主導により、セルビアとモンテネグロだけで新しいユーゴスラビア連邦が作られたが、ミロシェビッチが退陣に追い込まれた今、モンテネグロ国内では連邦を離脱する声が強まっており、ユーゴスラビアという政治体制は終わりそうになっている。

▼言語や宗教をわざわざ他国と違うものにする

 ユーゴ連邦の時代には、連邦内でかなりの人の移動があり、どの共和国も多民族の色彩が強かった。特に最も勢力の大きいセルビア人は1991年の時点で、セルビア本国に650万人が住んでいたのに対し、ボスニア・ヘルツェゴビナに140万人、クロアチアに60万人が住んでいた。

 セルビアの指導者となったミロシェビッチは、これらの在外セルビア人を保護するという名目で、ボスニアやクロアチアに軍事介入しようとした。クロアチアとの戦争は91年から95年まで断続的に続き、最終的にはクロアチアの勝利となり、クロアチア内に住んでいたセルビア人のうち20万人が難民となり、主にセルビアへ追い出された。

 ボスニアでの戦争は、少し入り組んでいる。ボスニアの400万人の住民のうち、イスラム教徒(ボスニャック人)が44%、セルビア人が32%、クロアチア人が17%だったが、92年にイスラム教徒が主導してボスニアが連邦から独立すると、セルビア人はセルビアからの軍事援助を受け、自分たちの居住地域をボスニアから分離して「ボスニア・セルビア人共和国」を作った。

 そこにクロアチア人も相乗りし、クロアチア人居住地域に独自の国家内国家を作ることを宣言し、3者間で内戦が始まった。クロアチアでは殺しあったクロアチア人とセルビア人は、ボスニアでは共闘してイスラム教徒を大量虐殺する「民族浄化」を行った。NATOが介入して停戦させるまでの3年間に20万人が殺され、200万人が難民となった。

 かつては「スラブ人」という共通項で連帯意識を強め、ユーゴ連邦を構成した各国は、今やそれまでは各国で共通であった言葉や宗教を、わざわざ他国とは違うものにする努力を行っている。

 セルビア語とクロアチア語は、150年ほど前から両国の学者が話し合い、統一された言葉になったが、1991年以降は、クロアチアでは昔使われていた方言を復活させて語彙に加えるなど、セルビア語との違いを際立たせようとしている。また宗教面でも、以前はセルビア正教会に属していたモンテネグロの教会は、1991年に独自のモンテネグロ正教会を新設し、セルビアから独立した形にした。

▼遅れてきた民族主義者コシュトニツァ

 これらの政策を先導してきたのは、各国の民族主義指導者である。たとえば、クロアチア初代大統領となったツジマンは、クロアチアでの民族浄化や、自国内のセルビア人を追放する政策を進めた人だ。彼はもともと共産党員だったが、1967年に民族主義を煽る本を書き、その後何回も投獄された筋金入りの民族主義者で、クロアチアを連邦から独立させた指導者として英雄視されていたが、昨年暮れに死去した。

 ボスニアの大統領だったイゼトベゴビッチもまた、強硬な民族主義者である。彼はボスニャック人のアイデンティティであるイスラム教を使ってボスニアの民族主義を強めようと運動し、社会主義の時代に何回か投獄されている。独立後のボスニアで指導者となった彼は、セルビアとクロアチアからの攻撃に対抗するため、イランやサウジアラビアのイスラム主義の組織から、資金や武器、戦闘指揮者などを供給してもらった。

 ボスニャック人はイスラム教徒とはいえ、一般に信仰は篤くない。私が最近会ったボスニャック人ジャーナリストは、モスクには一度も行ったことがないと言っていた。だがイランなどからやってきたイスラム主義者たちは、支援の見返りにモスクの建設やイスラム学校の普及などを求めた。

 内戦の中で生きるボスニャック人の若者たちは、イスラム主義の純粋で特攻隊的な教えに傾注を強めたが、大人たちの多くはこのような傾向に反対し、ヨーロッパ的な生活スタイルの維持を求めるようになった。

 そのため、95年の和平合意の後はイスラム主義組織からの支援は減らされ、去る10月14日にはイゼトベゴビッチも大統領を辞任した。(ボスニアの大統領は3つの民族の代表者による輪番制で、イゼトベゴビッチは自分の任期の終わりに代表を降りた)

 このように旧ユーゴ諸国では、昔からの民族主義者が相次いで権力の座を去っていき、後には民主主義と人権重視、民営化の経済政策を掲げた欧米寄りの政権が生まれている。

 だが、そんな中で一人だけ、最近権力の座についた古株の民族主義者がいる。9月末のユーゴ大統領選挙でミロシェビッチに勝ったコシュトニツァである。彼はもともとベオグラード大学の教官だったが、1974年に民族主義を擁護する発言をして解雇され、チトー死後の81年にも民族主義を唱え、検挙されている。

 彼のような人が今ごろ大統領になったのは、セルビアではこの10年間以上、もともと社会主義者であったミロシェビッチが、ソ連の崩壊とともに民族主義者へと立場を変え、独裁的な政治を行ってきたためだ。ミロシェビッチからコシュトニツァへの交代が何を意味していて、今後何が起きそうか、それは次回に書くことにする。

(続く)



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