ユーゴスラビア:自国への空爆を招き入れた大統領

1999年4月1日  田中 宇


 世界の近現代史をみると、各地の独裁者の多くが、自己顕示欲の強い人々で、国土のあちこちに自分の銅像を建てさせたり、大通りに自分の名前を冠したりしてきた。

 最近、目についたのは、イスラエルに封じ込められたガザのパレスチナ人のために作られ、昨年秋に完成したガザ空港に、PLOのアラファト議長の名前がつけられたことだ。アラファトはパレスチナの中でも、反対派や議会の意見を聞かず、問題になってきたのだが、空港の命名をみて、独裁者志向が強いのだな、と改めて感じた。

 欧米からの多額の援助で作られた空港なのに、ちゃっかり自分の名前をつけてしまうなど、独裁者の風上にも置けない奴だ、とも思ったが、他方、アラファト氏の独裁性を利用して、パレスチナ内部の過激派を抑えこもうとしている欧米側の意思をも象徴している空港名なのではないか、とも読み取れた。

 そのような視点でみると、ユーゴスラビアのミロシェビッチ大統領は、風変わりな独裁者といえそうだ。自分の銅像を建てたり、通りに自分の名前をつけたりといったことを、ほとんどしてこなかったからである。

 彼が1989年にセルビア大統領になって以来の10年間、ユーゴは内戦続きで、自分の銅像を建てる余裕など、なかっただけかもしれない。だが彼はそれだけではなく、公の場に出て演説をすることも最近はほとんどないし、メディアからのインタビューも受けない。

 ユーゴの戦争をめぐる欧米との交渉の席に、酔っ払った状態で出てきたこともあるなど、社交性もあまりない人らしい。イラクのサダムフセイン大統領が、公の場での演説や、欧米メディアによるインタビューを戦略的に使ってきたのに比べ、対照的だ。

●権力拡大のために民族紛争を起こした

 とはいえ、ミロシェビッチ氏がやってきたことをみると、フセイン大統領に劣らない狡猾な戦略家であることが分かる。欧米を中心とする「国際社会」から批難され、追い詰められて空爆されながらも、対抗力を維持している彼のしぶとさや、「瀬戸際外交」の戦略は、サダムフセインや北朝鮮と比べて、引けをとらないものだ。

 世界を敵にして空爆を受けながらも、セルビア人の過半数は、おそらくまだ大統領を支持しているという点も、イラクにおけるフセイン体制と似ている。

 そしてミロシェビッチが恐ろしいのは、どうも彼は、3月25日に始まったNATOのユーゴ空爆を、自分から招き入れ、自らの権力の維持のために使おうとしているのではないか、と思えることだ。

 1987年にユーゴの民族紛争が始まって以来、彼が続けてきた政策は、ひとつの危機を回避するために、もっと大きな危機を発生させる、ということだった。そもそも、87年以来の民族紛争そのものさえ、彼が自分の権力獲得のために引き起こした、ともいえる。

 それまでのユーゴスラビアは、放っておけば分裂・反目してしまう国内の各民族を、社会主義というひとつの目標に向かって団結させ、安定と発展をはかる、というチトー主義を堅持していた。1980年にチトーが死去した後も、門下生たちが、その方針を貫いていた。

 だが、ソ連が弱体化し、社会主義体制をめぐる矛盾が次第に明らかになってきた1987年、セルビア共産党の党首だったミロシェビッチが、ひとつの破壊的な演説を行い、それがチトー主義を崩壊させた。

 その演説は、セルビア南部のコソボ州の州都プリスティナで行われた。当時、セルビア国内での自治拡大を求めて示威行動を始めたアルバニア系住民と、コソボでは少数派であるセルビア系住民との対立が高まっていたため、ミロシェビッチは両者をなだめるという名目で、コソボ入りした。

 (コソボ州は人口約200万人で、その90%がアルバニア系、10%がセルビア系である)

 ところがミロシェビッチは、コソボ州内でセルビア系住民が多く住んでいる地域に行き、「セルビア人はコソボを取り戻す権利がある」と言って、セルビア系がアルバニア系を攻撃することをけしかける演説を行った。

 セルビア人は、セルビアと、コソボなど周辺地域に住んでいるが、彼らのうちの多くにとって、コソボは「セルビア発祥の地」とみられている。ユダヤ人にとってのエルサレムのようなもの、とも考えることができる。歴史上、中世に最初のセルビア王国が作られた場所がコソボだったが、その王国は1389年にオスマントルコとの戦いに敗れ、消えていった。

 その後セルビア人は、今世紀初めにオスマン帝国が崩壊するまで、服従の500年間をすごした。この500年間に、セルビア人の居住地は北方に移り、コソボにはアルバニア人が住むようになっていた。そのためセルビア人には「コソボを独立させるな」という、ミロシェビッチが放ったスローガンが、心に響いたのだった。

●難民を生み出し、支持者とする策略

 一方、コソボのアルバニア系住民は1987年当初から、独立を要求していたわけではない。当時は、「アルバニア語による教育を認めよ」とか、「コソボでの公務員採用で、セルビア系住民を優先的に雇用する政策を止めよ」といったような、権利拡大要求を掲げていたにすぎなかった。

 だがミロシェビッチは、これを全く認めなかったどころか、「独立への動きだ」と断定し、弾圧した。そうすることによって、上手に処理すれば早期に解決できたはずのコソボ問題を逆に拡大させ、ユーゴ全体の民族対立を煽った。

 そして、その憎しみのパワーで、「民族を超えた団結」をうたっていたチトー主義は、一気に壊滅させられた。チトー主義を信奉していた政治家への人気は急速にしぼんだ。代わってミロシェビッチの人気と権力が膨らんでいき、1990年にはセルビア大統領となった。

 ミロシェビッチはその後、北方のクロアチアとボスニア・ヘルツェゴビナでも、少数派のセルビア系住民の民族意識を煽る手を打った。これらの地域は、1991年にユーゴスラビア連邦から離脱して独立したが、その直後から、両国の領土内に住んでいたセルビア系住民(国民の15-30%を占める)が、自治獲得を求めて武装蜂起し、それを支援するためにミロシェビッチ配下のセルビア軍が出動し、全面戦争へと発展した。

 この戦争で、双方で多くの人々が家を焼かれ、難民となった。セルビア系住民の場合、難民となった後は、多くが母国セルビアへと移動し、ベオグラードやニーシュ、ノビサードといった、セルビア領内の都市へと流入した。

 彼らは新しい土地で、仕事も家もなく、日々の生活にも窮していた。そんな難民に対して、ミロシェビッチ政権は、食料の提供や住宅の確保などの支援を行った。難民たちの多くが、ミロシェビッチの支持者となった。

 もとはといえば、ミロシェビッチの乱暴な政策が元凶となり、戦争が起きて難民となってしまった彼らなのに、いつのまにかミロシェビッチを支持している。そこが、彼の策略手腕であった。

 この戦いでは、ミロシェビッチの勝利だけでなく、彼の政策に反対してきた野党勢力、人権活動家、知識人といった人々の敗北も、明らかになった。

 これらの民主勢力のほとんどは、都市に住んでおり、中産階級の意思代表してきた。都会の人々にとって、難民の大量流入は、自分の地域が住みにくくなるという点で、あまり歓迎できないものだった。(同じセルビア人だという同胞意識から、難民を暖かく迎えた人も多かっただろうが)

 そうした意識が、ミロシェビッチへの反発のひとつにもなった。難民と、もともとの都市住民との不和は、そのままミロシェビッチに対する賛成派と反対派という、対立の図式になったが、戦争が長引くほど、セルビアの都市に流入する難民が増えた。そして、彼らにも選挙権が付与された。つまりこれは、ミロシェビッチ支持者が増えたということだった。

 難民たちは、自分たちを迷惑がる都市の中産階級の意見がミロシェビッチによって踏みにじられ、知識人が弾圧されても、いっこうにかまわなかった。ザマミロと思った人も多かっただろう。

 だから、セルビア国内では、「戦争をやめて仲良くしよう」といった論調が広がることはなく、「戦争は嫌だ」と思う人がいくら多くても、「ミロシェビッチは辞めろ」という声にはなっていない。

 3月25日からのNATO空爆の目的のひとつは、セルビア国内での反ミロシェビッチ陣営を広げ、政権を交代させる、ということのようだが、この目的が達成される可能性は低いのである。

●NATOの空爆も、招かれた災難

 空爆はまた、それ自体、ミロシェビッチ大統領が自分の権力維持のために招き入れたという側面がある、と筆者は感じている。

 というのは、もしユーゴ周辺に平和が訪れたら、ミロシェビッチは平時の政策で国民からの評価をつけられるようになり、人気を急落させてしまうかもしれないからだ。だから昨年以来、コソボでの弾圧を強め、軍服を着た部隊が、アルバニア系の一般市民を集めて殺害する、という暴力を繰り返したのではないか。

 「聖地コソボをアルバニア人に渡さず、守り抜く」という、ミロシェビッチのスローガンは、セルビア国内で支持される一方、それにともなう虐殺は「国際社会」からの怒りをかい、セルビア対欧米という対立の構図が強まる。

 その結果が、NATOによる空爆だと言えるわけだが、この対立が続く限り、セルビア人はミロシェビッチ大統領について行くしかない。他の人が政権をとって、欧米と和解することは、セルビア人にとって、かつてオスマントルコに支配されたときと同じように、欧米勢力から支配され、尊厳を踏みにじられ、聖地コソボを失うことになる。

 そうした対立の泥沼状態を維持拡大するために、国連の監視団がコソボ州内に滞在しているにもかかわらず、あえて残虐行為をエスカレートさせたのではないか、と筆者はみている。

 とはいえ、今回の空爆は、間もなく創設50周年を迎えるNATOにとっても、今後の存在意義をはっきりさせるという意味で、重要なイベントとなっている。

 また、戦争のもう一方の当事者である「コソボ解放軍」(KLA)などコソボの独立派にとっても、セルビア軍勢力が後退した分だけ前進できるという点で、空爆は望むところだった。

 

 

 


 

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 ニューヨークタイムスの特集コーナー(英語)

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 総合コラムサイト「World Reader」の記事。

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