憎しみのバルカン(2):戦争を利用する人々

98年10月30日  田中 宇


 ギリシャ北部の港町テサロニキの近郊に、「ボスニア億万長者」と呼ばれる人々の豪邸街がある。

 ボスニアで戦争が続いていた1992年から95年まで、EUなどの西ヨーロッパ諸国は、セルビア人によるイスラム教徒などに対する虐殺を止めさせるため、セルビアに対する経済制裁を実施していた。EUの一員であるギリシャも、制裁に参加していたのだが、それは表向きだけのことだった。

 実際は、ユーゴ情勢に詳しい実業家たちが、ブルガリアやアルバニアに輸送すると申請してテサロニキの港に陸揚げした食糧や燃料などの荷物をユーゴスラビアに運び込み、セルビアが戦争用に使えるようにしていた。正規に運んだものではないので、それらの積荷は高く売れ、ビジネスを手がけた人々は豪邸を建てたというわけだった。

 こんな不正行為は、当局の目を盗んで行われたのだろうか。そうではない。ボスニアの戦争は、正教会キリスト教徒のセルビア人、カトリックキリスト教徒のクロアチア人、そしてイスラム教徒という、ボスニアを構成する3つの民族の間の戦いだった。そして、正教会キリスト教徒であるギリシャ人としては、心情的にセルビア人の味方だった。

 セルビア人が特に攻撃していたイスラム教徒(ムスリム人)は、19世紀までバルカン半島を統治していたオスマントルコに協力した人々なのだが、19世紀にトルコとの血みどろの戦いをして独立をかちとったギリシャの人々にとって、ボスニアのイスラム教徒は仇敵の一味というわけだった。

 当時のギリシャでは、民族主義の傾向が強いパパンドレウ首相の時代で、かなりの部分、政界を挙げてセルビアを支援していた。セルビアのミロシェビッチ大統領は、今でも休暇にはギリシャ・エーゲ海の別荘でくつろぎ、ヨットに乗ってギリシャの政治家たちと歓談するのを毎年の行事にしているという。ボスニアで大儲けした人々の背後に、ギリシャの官民挙げての親セルビア意識があった。

 とはいえ、1995年にボスニア戦争が終わり、セルビアに対する経済制裁が緩和されると、このビジネスのうまみも失われた。それと前後して、ギリシャとマケドニア共和国との対立が表面化する。

●アレクサンダーの旗は誰のもの?

 ギリシャからセルビアに行くには、マケドニア共和国とコソボを通らなければならない。マケドニアは、もともとユーゴスラビア連邦に属していたが、1991年に独立した。マケドニアは、古代にアレクサンダー大王を生んだ地として知られているが、地域名としてのマケドニアは、「マケドニア共和国」のほかに、ギリシャとアルバニアの北部、ブルガリア西部にまたがっている。

 ギリシャにも「マケドニア州」があり、隣国が「マケドニア」という名前で独立されると、ギリシャのマケドニア州の人々もこれに呼応してギリシャから分離独立しようとするのではないか、と懸念したギリシャは、隣国が「マケドニア」という国名を使うことに強く反対した。

 ギリシャはまた、マケドニア共和国が、アレクサンダー大王の父が定めたマケドニアの紋章を使うことにも反対した。その紋章は自分たちに使う権利があるというわけだった。ギリシャは、アメリカがマケドニアを国家承認した直後の1994年2月から、マケドニアに対する経済制裁に踏み切った。(96年に解除した)

 これにより、ギリシャからセルビアに至る輸送ルートが断たれたのに加え、今年に入ると、マケドニアの北にあるコソボでも戦争が始まり、ボスニア億万長者の話は、過去のものとなった。

 現在のマケドニア人は、古代のマケドニア人とは違い、紀元後5-6世紀にこの地にやってきた、セルビアやブルガリアと同じ南スラブ系の人々である。マケドニア政府にとって、マケドニア人はブルガリア人ともセルビア人とも違う民族だが、ギリシャにとってはマケドニア人はギリシャ人の一部である。

 ブルガリアにとっては、マケドニア語はブルガリア語の方言でしかない。だから、マケドニアの独立にはブルガリアも異議を唱えており、ブルガリアはマケドニアとの各種条約の署名を先延ばしにしている。署名すると、マケドニアの独立を認めたことになるからだ。マケドニアには、ブルガリアとの併合を目指している野党もある。

 すぐ北にあるコソボが戦争状態に陥ったことは、マケドニアをいっそう危険な状態にさらすことになった。マケドニアは、75%のマケドニア人と、25%のアルバニア人から成っている。コソボのアルバニア人がセルビアからの独立戦争を起こしたことに呼応して、マケドニアのアルバニア人も、独立してコソボと一緒になることを求め始めている。

 昨年6月、マケドニアの議会は、公共の建物の敷地内に外国の旗を掲げてはならない、とする法律を作った。一見、当たり前のことのように思えるこの法律は、大きな紛争を引き起こした。アルバニア人が人口の大半を占めるマケドニア西部の町、ゴシュティバルでは、アルバニア民族主義を主張する市長が、アルバニアの国旗を掲揚していたからだ。

 旗を降ろさないゴシュティバルには、マケドニア軍の戦車が派遣され、抵抗する市民たちと戦いになり、市民3人が死亡、市長は逮捕されて懲役刑を言い渡された。アルバニア人の反政府感情は高まった。

 マケドニア西部は、隣のアルバニアにも隣接しているため、アルバニアからマケドニア西部を通ってコソボに武器が密輸されている。コソボの武装ゲリラ組織KLAは、マケドニアでも活動しており、今後の展開によっては、マケドニアでの武装闘争が始まってもおかしくない。

●ボスニアへの武器輸出で生き延びたアルバニアのねずみ講

 バルカン半島の戦争とともに生きてきた、という点では、マケドニアの西隣のアルバニアも同じだ。アルバニアは1940年代から80年代の冷戦時代を通じて、労働党(共産党)のホッジャ書記が独裁的な政治を敷き、鎖国状態を続けていた。1991年に労働党の独裁体制が終わり、市場主義経済に仲間入りした。だが、人々は40年以上も鎖国状態で生きてきたため、資本主義経済がどんなものか、よく知らなかった。

 そこを狙って1992年ごろから、冷戦後の東欧諸国でも被害を出していたねずみ講型の貯蓄会社が客集めを始めた。年に20ー60%もの利回りを約束するもので、初めに集めた資金の利払いを、その後集めた資金から捻出する方式で、最初に金を預けた人々が本当に高利回りの配当を受け取っているのを見て、人々の間に評判が広がって客が急増するが、やがて支払いができなくなって破綻するのが常だった。

 他の東欧諸国では、営業開始から1-2年で破綻するケースが多かったが、20社あまりが設立されたアルバニアのねずみ講は違った。1992年からとなりのユーゴスラビアでボスニア戦争が始まったからだ。

 ねずみ講の経営者は、客から集めた金でマシンガンなどを買い込み、ボスニアの戦地向けに売りさばいた。利益は大きく、ねずみ講の客に高利回りを払っても、まだ十分な利益が上がった。営業開始から1年たち、2年たっても、破綻しないどころか高利回りを持続しているのをみて、最初は半信半疑だった人々も、こりゃ本物だ、と思うようになり、お客が急増した。

 1992年の総選挙の際は、ねずみ講の経営者は民主党のベリシャ議長に選挙資金を提供し、ベリシャ氏の大統領就任に力を貸した。その後は政府もねずみ講のPRをしてくれるようになり、政府首脳は「アルバニアは独自の金融システム(ねずみ講)によって、貧困国から脱出し、豊かになる」とまで言うようになった。最後には、国民の75%がねずみ講に金を預けるまでになった。

 だが、ボスニア戦争は1995年のデイトン合意で終わる。もともと、アルバニアにはほとんど産業らしいものはないため、その後は利益が出せなくなった。昨年1月にはねずみ講の破綻が始まり、連鎖倒産に発展した。

 払い戻しが受けられないと分かった人々の不満は政府に向かったが、政府にも金はなかった。役人や軍人、警察官の多くもねずみ講の被害者だったので、混乱を止める気力もなく、軍の武器庫が襲撃されて大量のマシンガンなどが市中に流れ、混乱に拍車をかけた。

 政府に対する攻撃が強まる中、ベリシャ政権は崩壊し、昨年7月に総選挙が実施され、旧共産党を引き継いだ社会党が勝ち、ナノ氏が首相に就任した。

●隣国の戦争をあおって政権への返り咲きを狙うアルバニア前大統領

 ナノ氏は「バルカンのトニー・ブレア」(ブレアはイギリスの首相)を自認する改革派で、西欧寄りの考え方を持ち、南部の出身だ。一方、前大統領のベリシャ氏は、アルバニア民族主義を掲げ、北部の出身だ。アルバニアは北部と南部で人々の習慣や気質が異なり、どちらの出身者が政権に就くかで、政府から地方への資金配分などに差が出てくる。南部派のナノ首相の就任によって、北部の人々は不満を持つようになり、ベリシャ政権の復活をのぞむようになった。

 そんな時に勃発したのが、昨年末からのコソボでのアルバニア人の決起だった。コソボはアルバニア北部のすぐとなりにある。しかも北部のボスであるベリシャ前大統領は民族主義者で、コソボや西マケドニアを併合した大アルバニアを作るべきだ、と考えている。アルバニアには、昨年のねずみ講破綻以来の無秩序で、軍から流出した武器がたくさんあった。それらがいっせいにコソボに流れ込み、紛争に火を注いだ。アルバニア北部からは、たくさんの若者がゲリラの志願兵となってコソボに向かった。

 今年に入ってコソボ戦争が本格化すると、ベリシャ氏は支援者を集めて首都ティラナに押しかけ、「コソボを守れ」と主張するデモを何度も行った。この手の民族意識は北部、南部の地域主義を超えて、人々の心を掻き立てやすい。南部の人々の中にも、コソボに介入すべきだと主張する意見が出てきた。

 ナノ政権は、コソボ戦争に関与することには消極的だったため、民族意識の高揚は反政府意識にもつながりかねず、コソボの戦争が激化すればするほど、ベリシャ氏にとって有利な状況になっている。

●バルカンにイスラム主義は根付かない?

 バルカンの戦争を利用して勢力拡大を図っているという点では、イランやリビアなどのイスラム教国も同じだ。戦争当事者のうち、ボスニアのイスラム教徒勢力と、コソボやマケドニア、そしてアルバニアに住むアルバニア人の多くは、イスラム教徒である。

 バルカン半島のイスラム教徒は、共産主義時代に非宗教化政策が続いたため、1970年代以来、中東のイスラム教徒に大きな影響を与えたイスラム復興運動(イスラム原理主義)の影響もほとんど受けていなかった。

 だが、ボスニアで戦争が始まると、ボスニアに住むイスラム教徒(ムスリム人)を支援するため、アフガニスタンで1980年代に対ソ連ゲリラ戦を戦ったアフガン人やアラブ人の兵士たちがやってきて、セルビア人を相手に戦った。遠くマレーシアやインドネシアなどのイスラム教国でも、「ボスニアのイスラム教徒を救え」というキャンペーンが展開された。

 ボスニアのイスラム教徒は、社会主義時代には宗教上の区分ではなく、「ムスリム人」という民族名で呼ばれ、ことさらに宗教色を薄めた扱いを受けていたが、ボスニア戦争での他のイスラム教徒からの支援を通じて、イスラム信仰を強めた人も多い。デイトン合意でボスニアの国家内国家の一つとして生まれたムスリム人の政府には、イラン寄りの考え方を持つ人もいる。

 ただ、バルカンの人々の心の中には、自らの民族や宗教にこだわる意識がある一方で、ヨーロッパ人であるという意識もあり、中東で広がったような、反ヨーロッパ意識としてのイスラム主義は浸透しにくい。

 イランなどは、コソボにも入り込もうとしているようだが、アルバニア人の代表部(影の政府)は、西欧型の民主主義を重視し、イスラム側からの申し出を断っている。ただ、武装組織のKLAは、影の政府からは全く独立した存在なので、水面下で何が起きているか不明だ。

 イスラム教は、社会主義時代の40年間に宗教行事がほとんど認められなかったアルバニアにも、急速に浸透している。社会主義亡き後の新たな心のよりどころを求める人々で、毎週金曜日には、モスクは超満員だ。

 アルバニアは政府の力が弱いので、イスラム主義の「テロリスト」が、中東からヨーロッパに渡航する際の出入り口としても使われている可能性が強い。今年8月、アフリカのナイロビなどでアメリカ大使館が爆破された後、アルバニアの首都ティラナのアメリカ大使館にも爆破予告があり、一時緊張が走った。それだけアルバニアは、イスラムゲリラにとって行動の自由がきく場所なのである。

 宗教を通じてバルカン半島に特別な意識を持っている人々としては、セルビア人と同じスラブ民族で、正教会キリスト教を信じているロシア人がいる。ボスニア戦争の際、ロシアは国連でセルビア非難決議案を審議した際、何度も拒否権を発動した。また、中世以来のロシアの武装集団であるコサックが、セルビア人を支援するため、ボスニアの戦場に来ていた。

●「欧州大統合」が次の安定策となるか

 このように、混乱が増す方向の出来事ばかりが広がっているかのように見えるバルカン半島だが、秩序を確立できる希望がないわけではない。効果がありそうなのは、ブルガリアやギリシャで導入されている、西欧型の市場経済システムである。

 ギリシャやブルガリアでは、民族主義傾向の強い政権が選挙で敗北し、代わって改革派・西欧志向型の政権ができることで、少数民族との争いや、軍や役人の腐敗による治安悪化に歯止めがかかった。ギリシャでは1996年に、民族主義のパパンドレウ政権から、改革派のシミティス政権に代わって以来、周辺国を打ち負かすより、欧州通貨統合に入れてもらうことの方が国民のためによい、と考えられるようになり、マケドニアとの対立もおさまった。

 バルカン半島では、各民族の民族主義を超えるような権力やシステムが存在するときは、弾圧はありつつも安定し、それがなくなると殺し合いが始まる、という歴史を繰り返してきた。

 19世紀までの500年間はオスマントルコの時代で、それなりに安定していたが、オスマントルコが崩壊すると、バルカン戦争が始まった。第2次大戦後に社会主義がこの地を覆うと、再び50年近く安定した時代を迎えた。だが1990年にソ連が崩壊すると、再びボスニアなどで戦争が始まった。

 欧米諸国としては、再びバルカン半島を安定させるための方策として、バルカン諸国に西欧型の政治経済システムを植え付けて、ゆくゆくは欧州統合に参加させていくことを考えているようだ。

 バルカン諸国には、クロアチアのように「早くヨーロッパの一部として認められたい」という考えが主流の国と、セルビアのように「自分たちは偉大な民族であり、欧米文化に染められてはたまらない」という民族主義が主流の国があって、一筋縄ではいかない。それをどう乗り越えるかが課題となっている。

 

 

地図類

旧ユーゴスラビア全体の地図

民族ごとに分けた地図

マケドニアの地図 (217キロバイト)

同じくマケドニアの地図 (60キロバイト)

アルバニアの地図

ギリシャの地図

 

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