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再統一10周年のドイツに学ぶ

2000年10月9日   田中 宇

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 ベルリンの壁が崩壊してから1ヵ月ほど後の1989年の晩秋、イギリスのサッチャー首相とフランスのミッテラン大統領が会談した。テーマはドイツの統一問題だったが、話し合われたのは「ドイツの統一にどう協力するか」ではなかった。二人が話したのは「ドイツの統一がヨーロッパの平和をいかに脅かすか」という懸念についてだった。

 イギリスやフランスなどドイツ周辺諸国の人々は、歴史的な教訓として「強いドイツは危険な存在だ」と考えていた。ドイツは、民族的なアイデンティティは強かったにもかかわらず、地理的な要因などから、イギリスやフランスよりも、中央集権的な国民国家となった時期が遅い。

 そのため、先に国家の力を強めた英仏を追い越そうとするあまり、ドイツには強権的な政権ができやすかった。ヒットラー総統のナチス政権や、19世紀後半の宰相ビスマルク時代のドイツ帝国など、いずれも戦争によって経済を活性化し、他国の領土を奪い取る戦略に出た。ドイツと英仏の対立が原因で、ヨーロッパは2度も世界大戦の戦場となり、徹底的に破壊された。

 第2次大戦後のドイツの東西分割は、ドイツ人にとっては悲劇だったが、周辺諸国にとっては、ドイツ国家が持つ破壊的な性格を削ぎ落とすという目的を達成することができる、ちょうど良い状況でもあった。英仏の指導者はベルリンの壁の構築を、ソ連による人権侵害として非難しつつも、本心では、ドイツが分割されていることに安心感を覚えていた。

 ドイツは戦後、国内にファシズムが復活しないよう、法律の整備や教育改革などを強く進めた結果、人権保護政策では英仏より進んだ国となった。だが、英仏の指導者たちは、それはドイツが東西再統一を成し遂げるために「いい子」の皮をかぶっているだけで、再び強大な国になったら、昔のような全体主義に戻る可能性があると見ていた。ミッテランとサッチャーは、ベルリンの壁崩壊後の対談で、東西ドイツの統合に反対することを合意した。

▼指導者に信用されない国民意識

 英仏の反対にもかかわらず、東西ドイツは壁の崩壊から約1年後の1990年10月に統合した。それは、アメリカが統合を強く支持したからだった。ブッシュ政権のアメリカは、ドイツが再び強大になる懸念より、弱体化したソ連(ロシア)がいずれ再び力を盛り返す可能性の方を心配していた。ある程度ドイツの強大化を許し、アメリカ傘下の同盟国となったドイツをロシアに対抗させた方が良いとブッシュは考え、英仏の反対を抑えた。

 英仏の懸念に対し、ドイツのコール首相がとった戦略は、自分の国を、二度と周辺国と戦争できないような状況に置いてみせることだった。自国の主権の一部を、周辺国との合議の場に預けることになるEUの統合に積極的に参加することで、自国中心の強大化を押し進めない姿勢を見せた。フランスもこのドイツの姿勢に賛同し、仏独の協調を核にして欧州統合は90年代に大きく進み、通貨統合にまでこぎつけることができた。

 ドイツ政府はまた、過去にユダヤ人を弾圧した歴史を乗り越えるため、ソ連崩壊後の自由化によって出国を許されたロシアのユダヤ人たちが、ドイツに移民してくることを歓迎する政策をとった。ナチス政権前に50万人だったドイツのユダヤ人口は、ベルリンの壁崩壊時には東西合計で3万人にまで減っていたが、今では10万人を超えるまでに回復した。

 しかし、EU統合への積極参加や、ユダヤ人移民の受け入れ政策などは、伝統的なドイツ人の民族意識には反していた可能性が大きい。コール元首相はかつて、欧州通貨統合への参加やNATOへの加盟など、戦後の西ドイツと統合後のドイツ政府の重要な決定の多くは、実は国民の過半数の反対を押し切って実施されたものだという本音をもらしたことがある。

 西ドイツ政府が国民の意に反する決定をできた一因は、基本法(憲法)で国民投票の実施が禁止されているからだ。これはかつて民心を集めたナチスが、国民投票をよく実施し、政敵を倒す論拠として使ったことへの反省に基づいている。戦後のドイツでは、指導者が国民の意識を疑っていた部分があった。

 最近では、ナチスの時代からドイツ国民は十分に変わったので、国民投票を復活すべきだという世論が広がっている。だが一方で、政府が受け入れたユダヤ人移民のための教会(シナゴーグ)が、東西統一10周年の祝日の前日に、ネオナチ組織の青年たちに放火されるという事件も起きた。

 極右組織は、イギリスやフランスにもある。「ドイツは強くなると狂気に走る」という懸念を持つ周辺国の人々は、ドイツの事件にだけ過敏に反応する傾向があることは押さえる必要がある。とはいえ、ドイツ在住の読者から送られてくるメールには「ドイツでは外国人に対する差別感情が増している」という実感を綴ったものがけっこうある。

▼全速力の統合が生んだ歪み

 統合後のドイツでは、EUに国家主権を明け渡す作業が進む一方で、経済や社会面の東西統合を進めて国家としての単一性を強化するという、正反対の方向の変化が同時に進むことになった。二つの力が綱引きをする状況のもとで、EUへの統合とドイツ国内の統合が、いずれも全速力で進められた。

 ベルリンの壁の崩壊前、東西とも通貨は「マルク」だったが、東の1マルクは西の1マルクに比べて公定レートで9分の1、ブラックマーケットでは20分の1の価値しかなかった。ところが東のマルクは、西のマルクに吸収されるとき、1対1の比率で西のマルクと交換された。

 これは東西の人々を平等に扱うという、コール政権の政治的な配慮から生まれた政策だった。経済の市場原則に従うなら、東西のマルクは20対1の比率で交換された上で、東の人々が貧しくなった分は、後から東ドイツが経済成長することで取り返すのが筋だったが、東西の人々の格差を広げないことが重視された。東ドイツの人々は突然20倍の金持ちになり、こぞって西ドイツに買い物ツアーに出かけた。

 同様の政策は、賃金に対しても取られた。東ドイツの生産性は西ドイツの半分以下だったが、東西で同一賃金とすることが政策として掲げられた。コール首相は好意を持たれ、統一後の東ドイツで実施された選挙では、彼の政党(CDU)が勝利した。

 ところがコールの政策は結局、東ドイツの人々を幸せにしなかった。たとえば製鉄所の熟練技術者の場合、ドイツでの賃金は時給2000円以上だが、近くのハンガリーやチェコでは200−300円で、これらの国々の生産性は東ドイツと大差ない。工場を作ろうとする経営者の側から見ると、東ドイツはハンガリーなどより人件費が10倍も割高な国となり、投資のこない地域になってしまった。

 統合前の東ドイツ企業は、他の東欧諸国に製品をけっこう輸出していたが、マルクの切り替えと労賃の改訂により、東ドイツの製品は急に割高となって売れなくなり、多くの企業が倒産し、失業率は2割を超えた。そんな状態が3年続いた後、ドイツの労使は東西同一賃金の原則を放棄することで合意するに至った。

▼西の人は話し上手、東の人は聞き上手

 また急いで実施したため、東ドイツでは、従来の社会主義的な制度を完全に消滅させ、代わりに西のシステムを導入するという手法が取られた。これは「社会主義より資本主義の方があらゆる面で良い」という前提に基づいていたが、社会主義を45年も続けた東ドイツの人々は、そう考えていなかった。

 教育や育児、福祉制度などの面では、東ドイツに学ぶべき点があったかもしれないのに、それを無視して西の制度が押し寄せてきた。その結果、東ドイツの人々の間には敗北感が広がってしまった。東西ドイツは平等に統一したのではなく、東が西に負けたのだ、という敗戦感情である。

 ドイツ人に聞いた話では、統合から10年がすぎた今も、ドイツでは西東の人々の性格の違いが残っており、東西両方の人々が集まる会合などでは、誰が東で誰が西か、当てることができるという。西の人々は自己主張が上手で自信家が多い反面、東の人々は正直で礼儀正しく、純朴で無口な人が多い。西の人は「話し上手」、東の人は「聞き上手」だと指摘する新聞記事もあった。(韓国と北朝鮮の人を比べても同じ傾向がありそうだ)

 こうした差から、西ドイツには東の人々を「社会主義に染まっていたので受け身的、消極的」だとして見下げる傾向があるそうだ。だが、実際に統合後の東ドイツに投資したアメリカ企業の経営者などは「東ドイツの人々は、以前は全く知らなかった資本主義のやり方を何とか覚えようと、非常にまじめに努力している」と評価しており、あと何年かたてば、失業率の高さなど、今抱えている問題を克服できるとの予測もある。

▼自主外交を展開し始めたドイツ

 ソ連東欧諸国が社会主義をやめてから10年が過ぎた。当初は10年もすれば資本主義が根づき、東ドイツやソ連東欧のあちこちで盛んな経済成長が起きているだろうと予測されていた。西ドイツの人々はその予測を信じて、東ドイツを統合した直後、東を支援するための5%の大幅増税を承認した。だが予測通りにはならず、東西両方のドイツ人が不満を抱く結果となっている。

 ソ連東欧全域の教訓からは、崩壊した社会主義国を建て直すのは簡単ではないということが分かった。このため朝鮮半島では、北朝鮮を崩壊させず、むしろ金正日体制を支えながら改革をしてもらおうという新戦略で、アメリカと韓国、日本の政府が合意するに至っている。

 一方、ドイツの再統一は日本にとっても参考になるものだ。今年7月、アメリカのクリントン大統領がドイツを訪問した際、ドイツのシュレーダー首相はクリントンとの共同記者会見の席上で、アメリカのミサイル防衛構想は世界の軍拡を再燃させかねないとして非難した。ドイツの首相がアメリカ大統領を面前で批判することなど、以前は考えられなかった。

 かつてのドイツの外交政策は、日本と同様、なるべく世界の出来事には口をはさまないようにして、アメリカ、イギリス、フランスが合意決定した方向に従っていくというものだった。

 だがシュレーダーでドイツ外交の戦後は終わった。アメリカのミサイル防衛構想はフランスも批判しており、シュレーダーの批判は、フランスの指導者から賞賛を受けた。ドイツの外交は、西欧諸国を率いる存在へと変質している。外部からはドイツの外交に対する批判も出始めているが、ドイツ人自身にとっては、統合によって外交的な自信を回復でき「暗い戦後」を抜け出せたというプラス面があった。

▼周辺国との関係改善がドイツより難しい日本

 日本を取り巻く状況と大きく異なるのは、ドイツでは周辺諸国との関係が戦後はずっと良好だった点である。東アジアでは戦後「反日」を国内の民族主義を鼓舞するために使う国が多く、日本と周辺諸国との関係改善が難しかったという問題がある。

 韓国の1950−80年代の各政権や、李登輝総統以前の台湾の国民党政権、中国の共産党政権などは、いずれも国内の反政府意識を消すために、独立前に民族共通の敵であった日本を攻撃するキャンペーンを展開してきた。これらの国々では、日本との関係が悪化することはむしろ、国内の政権安定化のために好都合だった時代がある。日本とドイツの政府を比べると、日本政府の方が戦争責任の自己追求に消極的であることは確かだが、そうなった原因のすべてが日本側にあるわけではない。

 中国の江沢民主席が、以前の訪日時の講演などで日本の戦争責任を厳しく批判したことも、日本国民に向けたメッセージというより、日本に行って日本を攻撃することで、中国国内での共産党への支持を回復したい意図があるように思える。中国では共産党も国民党(台湾)も「抗日戦争」に勝ったことが存在基盤なので「反日」の伝統が貫かれている。

 東アジアの場合、西欧よりも各国の近代国家の歴史が短い点も重要だ。西欧ではフランス革命以来200年以上、近代的な国家と外交の歴史があるが、東アジアでは辛亥革命(中国で清朝が倒れて中華民国ができた革命)や明治維新から数えて100年前後、第2次大戦から数えたら55年しかない。東アジアで成熟した国家と相互の外交関係ができるまで、まだ時間がかかるのは当然ともいえる。



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