暗い過去からの脱皮を目指すドイツ

1999年7月5日  田中 宇


 ドイツとフランスは、ヨーロッパ大陸の2つの最有力国として、いわばライバル関係にある。そして最近、フランスの人々が、ドイツに対してライバル意識を感じていることの一つは、ドイツが今年、首都をボンからベルリンに移転することだ。

 ベルリンへの首都移転は、今年4月に議会がボンから引っ越してきたころから始まり、9月ごろまでに、主要官庁や議会の多くが、ベルリンの中心部に移ってくる。これにあわせ、ベルリンでは大規模な都市計画が進んでいる。

 これまで、ヨーロッパ大陸を代表する都市といえば、まずはパリであった。パリはロンドン、ニューヨーク、東京などと並ぶ、世界的な大都市ということができる。一方ドイツにはこれまで、そのような世界的に著名な大都市がなかった。

 第二次大戦に敗れるまで、ドイツの首都だったベルリンは、中部ヨーロッパを代表する都市だったが、敗戦後のドイツ分割とともに、ベルリンも分割され、米ソ冷戦の「戦場」と化してしまった。

 ベルリンという町のイメージは「壁」「分断」「抑圧」などといった暗いもので、「おしゃれ」「芸術」「恋人」など、パリが持っているきらびやかなイメージとは、対照的だった。

 だが、そんな状況は、1990年に東ドイツが消滅し、西ドイツに併合されてから、変わり始めた。東西に分断されていたベルリンは、50数年ぶりに再び一つになり、抑圧の象徴だった東ドイツ国家もなくなった。

 統一から10年ほどかけて、東ドイツの経済再建を何とか軌道に乗せたドイツが、次にねらっているのが、ベルリンに首都を戻し、再び中部ヨーロッパの輝かしい中心地にしよう、という計画である。

 ヨーロッパの人々は、1990年までの冷戦時代、自分たちの集団のうち、東半分の人々がロシアの支配下におり、いわば囚われの身になっている状態だった。90年のソ連崩壊とともに、東欧の人々は解放され、東西ヨーロッパを再び融合させる努力が始まった。

 それは、EUやNATOの東への拡大というかたちで進行しているのだが、拡大したヨーロッパの中心がパリだと、西側に寄りすぎているという問題がある。

 そこでドイツの人々は、ベルリンをかつてのような活気ある都市として復活させ、東西ヨーロッパの真ん中にある、ヨーロッパの新しい中心として、位置づけようとしている。こうした動きが、パリの地位を低下させてしまうのではないか、とフランスの人々は懸念している。

●「普通の国」に戻りたいドイツ

 ベルリンへの首都移転はまた、ドイツ人自身にとって、戦後の「懺悔の時代」を終え、「普通の国」に戻るということも意味している。

 ユダヤ人を大量に殺したホロコーストに代表される、ナチス政権時代の「国家的犯罪」に対して、ドイツ人(特に旧西ドイツの人々)は戦後、自責の念という「刑罰」を自らに課し続けてきた。

 だが、敗戦から50年以上がすぎ、いつまでこの「受刑状態」が続くのか、という苛立ちが、ドイツでは高まっている。

 たとえば昨年10月、ドイツでは有名なマルチン・ワルサー(Martin Walser)という作家が、「アウシュビッツは、いつでも(ドイツ人を)強制的に謝罪させることができる、脅迫の道具になっている」と発言した。

 彼は、アウシュビッツの強制収容所で多くのユダヤ人が殺された事実は否定しないものの、「糾弾が無期限に続く、という状態が望ましいとは思えない。マスコミが毎日のように(アウシュビッツについて)報じるので、そのこと自体に抵抗感を持たざるを得なくなっている」と述べた。

 また、戦争中のドイツの政府や企業が行ったユダヤ人に対する弾圧や強制労働などへの補償を求め、ユダヤ人団体などがいくつもの訴訟を提起していることに対して「われわれが過去を恥ずかしいと思っていることを利用して、別の目的を達成しようとしている」と批判した。

 この発言に対しては、ユダヤ人の団体から、強い非難が出されたが、この問題を取り上げたドイツのマスコミには、「ワルサーよ、言いにくいことを、よくぞ言ってくれた」という趣旨の、読者からの多くの投書が届いたという。

 昨年9月の選挙でドイツの首相になったシュレーダーも「ドイツの若者は、ナチス時代にドイツがやったことを、自分自身の責任問題としてとらえる必要はない、もっと上の世代がやったことなのだから」という趣旨の発言している。首相自身、55歳で、ドイツでは初めての、戦後世代の首相である。

 いつまでも過去だけにこだわるより、未来を作るための努力をした方が良い、というのがドイツ新政権のスタンスだ。そして、その象徴が、かつてナチスの「帝都」だったベルリンに再び首都を戻し、暗い過去を乗り越える、という構想であった。

 (NATO軍のユーゴ空爆に参加したドイツ軍が、戦後初めて他国の領土を爆撃した、ということも、軍隊をタブー視しないドイツを作るという意味で、同じ流れの中にあるように見える)

 ベルリンには、今もナチス時代からの官庁街の建物群がある。首都移転とともに、ドイツ連邦議会は、かつてドイツ帝国議会が入っていた議事堂に入る。外務省が使う建物の一つは、ナチス時代にユダヤ人から没収した財産が保管されていた中央銀行だった。(戦後は、東ドイツの党政治局が置かれていた) 大蔵省が入るのは、ナチス時代の航空省、労働省は旧宣伝省だったビルに入る。

 こうした「汚れた」歴史を持つ建物に入ることに反対する声もあり、当初は、ベルリンの郊外に新しい官庁街を作り、ボンの各役所をそこに移転させる案もあった。だが、統一後の旧東ドイツで、道路などの社会設備を整えることに巨額の資金が必要だったことなどから、結局、以前の官庁街をそのまま使うことになった。

 筆者は、あえてナチス時代の官庁街へと政府の所在地を戻すことで、ナチスは完全に過去のものである、と言える状態を作ろうとしているのではないか、とも感じる。

●首都の中心に作られる巨大な「墓場」

 こうした「過去の清算」には、ユダヤ人団体と、ドイツ人の中からも、反対の声があった。それに対してドイツ政府は「もちろん、過去の犯罪を忘れることはできない」という立場を取り、それを形に表すものとして計画されたのが、ベルリンの真ん中に、巨大なホロコースト慰霊碑を作る、ということだった。

 この計画はもともと1990年に、コール前首相が発案した。そして、デザイン審査の結果、サッカー場4つ分という広大な都心の土地に、墓石のような石柱2700本を乱立させる案が採用された。

 都心に広くて大きな「墓場」を出現させ、その異様さによって、人々に過去を忘れさせないようにしよう、という意図だった。日本に当てはめると「戦前戦中にアジアの人々を苦しめたことを忘れないため、皇居前広場を墓石で埋め尽す」という感じだ。

 これに対して、ベルリン市長(Eberhard Diepgen)が「記念碑は、墓のイメージが強すぎる。これではベルリンが、過去しか見えない墓場の町になってしまう」と反対した。

 また、ナチスによる迫害を受けたのはユダヤ人だけではなく、ジプシー(ロマ人)、障害者、同性愛者なども抹殺されたにもかかわらず、記念碑がユダヤ人の犠牲者だけを対象としているのはおかしい、という声も上がった。

 この問題は昨年9月の総選挙の争点の一つとなり、「過去を忘れない」ということに力点を置いたコールではなく、「過去より未来を重視する」というスローガンを掲げたシュレーダーが勝った。

 シュレーダー政権は、石柱の数を2000本に減らすとともに、空いた場所に国際人権擁護のためのNGOや研究施設を入れたり、ホロコーストに関する記録ビデオなどを見ることができる展示館などを併設し、単なる記念碑ではないようにする、という新案を出した。

 この新案にも、いろいろな批判があったが、結局、ドイツ連邦議会は6月下旬、ホロコースト記念碑の建設を決議し、論争に終止符を打った。

 「なぜユダヤ人だけ?」という批判に対しては、国会議長が「記念碑は、ユダヤ人やその他の犠牲者のために作るのではなく、ドイツが尊厳を取り戻すため、自分たちのために作るのだ」という声明を発表した。

●置いてきぼりになる旧東ドイツの人々

 こうして、ベルリンへの首都移転は、統一後の新しいドイツの誕生を象徴する出来事になりつつある。だが、ホロコーストに対する自責の念を乗り越えて、新しいベルリンを建設するという一連の動きは、ドイツ人といっても、西半分の人々には重大な問題だが、東半分の人々の多くは、違う立場にいる。

 東半分、旧東ドイツの人々は戦後ずっと、ロシアの支配下に置かれ、ナチス時代の「国家犯罪」を自分のこととして自責するより、現在の自分たちの境遇を呪わざるを得ない状況に置かれていた。

 ドイツ統一後、当初は解放感があった東ドイツの人々だが、その後、社会主義時代には問題でなかった失業が、人々を苦しめるようになった。失業率は、ドイツ全体では10%程度で推移しているが、旧東ドイツだけをみると、その2倍近い水準となっている。

 しかも、若い時代を社会主義体制下に生きた、現在の40-50代以上の人々は、資本主義体制への適応が難しく、今後ほとんど再就職できる可能性がない、と言われている。

 そうした絶望感に加え、東西ドイツが統一してから、旧東ドイツにも、低賃金で働く外国人労働者が引っ越してくるようになった。冷戦終結後、ロシアなどに住んでいたドイツ系の人々が、ドイツに戻ってきたこともあり、東ドイツの人々は、単純労働でさえ、得ることが難しくなった。

 東ベルリンなどをはじめとする都市部では、社会主義時代に安かったアパートの家賃が急騰し、多くの住人が家賃を払えずに追い出された。

 旧西ドイツの人々にとっては輝かしいベルリン再建も、旧東ドイツの人々にとっては、西側の金持ちが喜んでいるだけの事業にしか見えない。旧東ドイツの人々は、欧州の中心として自信を強めるドイツの中で取り残された、2流市民のような意識を持たざるを得ない状況にある。

 八方塞がりの情勢下で、民主主義の経験が浅いこともあり、旧東ドイツでは、極端な政治選択をする人が増えている。

 社会主義時代の方が良かった、というノスタルジアが、東ドイツ時代に全権を握っていた社会主義統一党が改名した「民主社会党」(PDS)への支持を増やした一方で、外国人労働者に仕事を取られた、という被害者意識が、外国人排斥を主張する極右政党「ドイツ国民連合」(DVU)への支持につながっている。

 東西ドイツの統一から10年、政治経済の統合は進んだが、社会的な面での融合には、まだ時間がかかりそうだ。

 


●参考にした英文記事

A new Germany; A new Berlin (July 2,1999)

Swing Vote in East Worries Germans

Berlin Struggles to Pick A Memorial to Holocaust

Arafat and the Holocaust museum again

 アラブ人からホロコーストを見ると、全く別の視点になる。

Berlin homosexuals call for Holocaust memorial

Martin Walser (写真)





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