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フジモリ大統領:孤独な独裁のゆくえ

2000年6月19日   田中 宇

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 昨年ペルーの首都リマを訪れたときに偶然、フジモリ大統領のお母さんである藤森ムツさんにお会いした。

 ペルーには、日本から移民した人々である日系人(日本人)が10万人ほどおり、南米ではブラジルに次いで日系人が多い国で、リマには立派な日系人協会の会館「日秘文化会館」がある。

 そこでは毎週、移民一世を招待して娯楽などを楽しんでもらう「敬老会」を開いており、私が行った日は、たまたま藤森ムツさんも参加していた。私は一世たちの人生について取材したいと考えており、日本人会館の方々の取り計らいで、藤森さんを含む何人かに話を聞くことができた。

 藤森ムツさんは、昭和9年に熊本県からペルーに移民し、ご主人とともに農業や、古タイヤの修理業、花屋さんの経営などをして生計を立てながら、大統領になったアルベルト(謙也)ら子供たちを育てた。

▼大統領になって発揮した「もっこす」精神

 大学の学長になっていた息子アルベルトが、1990年の大統領選挙に出馬すると言い出したとき、ムツさんは「政治に頭を突っ込むのはやめた方がいい」と止めたという。だがアルベルトは聞かなかった。「言い出したら、周りが反対しても聞かない性格だから。これは親譲りだといわれるけど」とムツさんは当時のことを話していた。

 フジモリ大統領の頑固さや強い信念が、ムツさんからの親譲りのものであるということは、ムツさん親子の人生について書かれた本「ペルー遥かな道」(千野境子、中公文庫)にも出ている。その頑固さは、熊本県人に特有の「肥後のもっこす」と呼ばれる気質である、と言われている。

 国家や大企業の運営には、トップによる「孤独の決断」が不可欠だ。側近や部下、官僚などは、自分たちに都合の良いことを進言したがる傾向があるし、議会や反対政党は「国民の意志」と称して、自らの利益にしかならない主張を展開したりする。トップに届く情報や意見には、いろいろな思惑によって歪められたものが多いため、トップの人には、周りの忠告に逆らっても、自分が「これが国民(会社)のために良い」と思った決断を下す強い信念が必要となる。

 アルベルト・フジモリが母親のムツさんから受け継いだ「もっこす」の頑固さは、彼が大統領になって「孤独の判断」をする際、本領を発揮したようだ。

 彼は、大統領候補として登場したときから孤独な存在で、既存の政党から支援を受けない単独候補だったし、大統領になってからは、「私の閣僚には、政治家は一人もいない。全員が専門家だ」と自ら述べているように、意志決定をする政治家は自分だけで十分で、他の政府首脳は大統領の意志に沿って動けばよいと考えていた。

 周りの意見によってではなく、手元のノートパソコン(東芝製)に入れた政府のデータを元に判断する彼の姿勢は「フジモリが最も信頼している部下は東芝(のパソコン)だ」と揶揄されたりした。

▼かつては不正選挙を非難していたのに・・・

 フジモリは、日系人社会からも縁遠い存在だった。ペルーの日系人社会は、調和を重んじる点で日本社会と似ているが、彼の気質はそうしたものから遠い。

 日系人社会はフジモリの出馬を迷惑がり、説得して立候補を思いとどまってもらおうとした。もし落選すれば、日系人は政府から目の敵にされる可能性があったからだ。その不安は今も、いずれ彼が大統領でなくなる日まで、先延ばしされているにすぎない。

 ペルーでは、1968年から80年まで続いた軍事政権が行った農地改革が失敗し、多くの貧しい農民が生活できなくなり、リマなどの都会に出てスラム街で苦しい生活を強いられた。

 80年から民政が始まったが、人々の期待に反してインフレがひどくなり、政府は腐敗し、極左のゲリラによるテロリズムが横行した。そのため、多くの人々はあらゆる政党に失望し、全く新しい政治家を求めていたところに登場したのがフジモリだった。

 当時はちょうどソ連が崩壊し、東欧など世界各地で民主化と選挙が始まっていた時で、フジモリはこの流れに乗って、アメリカや日本などから、新しいタイプの南米の指導者として支持された。

 大統領に当選し、南北アメリカ諸国が参加する国際機関「OAS」(米州機構)の会議に出席したフジモリは「指導者が不正に選出された国とは外交を断絶すべきだ」と提案したのは、このような時代の流れに沿ったものだった。

 今年の選挙で、彼自身がまさに「不正に選出された指導者」としてOASから厳しく批判されるとは、この時点では予測もしていなかったに違いない。

▼独裁を支持したペルーの人々

 権力者が民主主義の手続きをあまりに無視して「孤独の判断」を押し通すと「独裁」になる。だがフジモリ大統領が1992年に、議会と最高裁判所を武力で閉鎖するという「独裁」的な行動に出たとき、ペルー国民の多くは、それを悪いものとして受け取らなかった。

 ある日系二世ペルー人の実業家は、当時のことを「議会の政治家たちは、自分たちの権益だけを追い求めて対立し、むしろ混乱のもとになっていた。国民は、議会や既存政党に愛想を尽かしていた。だから、フジモリが戦車で議会を制圧したとき、多くの国民がそれを支持したんです」と語っていた。

 議会の中には麻薬栽培やテロリズムによって利益を得ている政治家がおり、取り締まりに邪魔になるから議会を制圧した、とフジモリは主張したが、実際に議会制圧後の犯罪取り締まりによって、ペルーの麻薬栽培は半分以下となり、テロも大幅に減った。

 フジモリによる92年の議会閉鎖に対して、欧米諸国の多くは「独裁」であると非難し、当時のアメリカのブッシュ政権はペルーに対するすべての援助を凍結した。だが、ペルーの人々はこれを独裁とは考えず、しかもフジモリはアメリカが切望する麻薬取り締まりを積極的に続けたため、アメリカ政府は一ヶ月ほどで凍結を解除した。

 「孤独の判断」と「独裁」との境目がどこにあるか、それは国によって異なる。92年のフジモリの議会弾圧は、欧米では「独裁」と判断されたが、ペルーではそうではなかったのである。95年の大統領選挙では、フジモリは圧勝して再選された。

▼対立候補にかつての自分の勢いを見た

 とはいえ、周囲の言葉を信用できず、自分自身の判断だけに頼らざるを得ない大組織のトップのポストに長く居ると、世界観が世の中の実際とかけ離れたものになり、間違った判断を下すようになりがちだ。

 たとえば、インドネシアのスハルト大統領が政権末期、親族や側近が公共事業を私物化するのを黙認し、最後は失脚してしまったが、あれなどは権力の座に長くいすぎたことからくる「権力ボケ」の好例である。そして、フジモリ大統領が今年4月から5月にかけての大統領選挙で不正を重ねたのも「権力ボケ」 であったといえる。

 選挙では、経済学者であるアレハンドロ・トレド氏が強力な対立候補となった。トレドに敗れることを防ぐため、フジモリは選挙不正に走ったのだが、おそらくフジモリは、4月の投票直前になってトレドの人気が急上昇したのを見て、90年の大統領選挙で自らが勝った時のような、異変が起きかねない勢いを感じたのではないか。

 90年の選挙では、それまで学会以外ではほとんど無名のフジモリ自身が、投票直前になって急速に人気を獲得し、当選した。今回はトレドが、かつての自分の役回りを果たすかもしれなかった。

 4月9日の一回目の投票前の世論調査では、ややフジモリの方が有利だったのだが、トレドの勢いに対する不安に耐えきれず、フジモリは不正に手を染めたのだろう。一昨年の世界的な経済危機の影響で、ペルーを含む南米全体の経済は、ここ1年ほど悪化しており、失業も増えてフジモリの人気は低下していた。そんな中の接戦であるだけに、選挙の結果はどうなるか、予測できなかった。

 投票直後、数時間にわたり大量の票の行方が分からなくなったり、開票の最後の方になってトレドの得票総数が減ったり、選挙管理委員会が発表した投票総数が全有権者数より9%も多くなるなど、不正が行われた形跡が各所にあらわれた。テレビなどマスコミもフジモリの言いなりなので、2回目の決選投票の前に欧米諸国が不正を指摘するまで、トレドに関するニュースはほとんど報じられなかった。

 また、選挙管理委員会もフジモリ派で固められていたので、開票用のコンピューターシステムに不正がほどこされているのではないかとの疑いが持たれ、疑いが晴れるまで決選投票を延ばすよう、トレド陣営や欧米からの選挙監視団が指摘されたが、選管は拒否した。

▼アメリカとのコネクションを使ったトレド候補

 トレドはインディオであるという点で、日系のフジモリよりも「ペルー民主化のシンボル」になりやすかった。日系人の多くは、ペルー社会で一定の成功を収めて中・上流階級の人々となっている上、ペルーの人口の1%にも満たない少数派である。一方、インディオは人口の54%を占める多数派であるにもかかわらず、ほとんどが貧困で、政治の世界からも疎外されがちだった。

 ペルーでは、地方の農村で生活できなくなって都会の貧民街に引っ越してきたインディオたちを「チョロ」と呼ぶが、トレドはその息子である。海辺の港町で育ち、靴磨きなどをして親の家計を助けていたトレド少年の人生が劇的に上向いたのは、1975年にアメリカの大学に入る留学生に選ばれてからだった。さらにスタンフォード大学の大学院で学んだ後、世界銀行などで働き、ペルー国内だけでなくアメリカでも評価される存在となっていた。

 トレドは立候補に際して、それまでのアメリカとのコネクションを最大限に活用し、アメリカの新聞も、彼の選挙活動を賞賛するトーンで記事を書いた。たとえば5月17日付けのニューヨークタイムスの記事「An Outsider in Peru, but at Home in the Inca World」は、トレドの妻である文化人類学者のエリアン・カープ(Eliane Karp)が、ユダヤ人としての政治的な自覚を持ちつつ、夫の選挙活動を支援している様子を書いている。この記事には、マスコミ界を含むアメリカの上流を占めるユダヤ系の有力者たちに「トレドは私たちの仲間ですよ」と宣伝する意図がうかがえる。

 (カープ女史はベルギー生まれのアメリカ国籍で、イスラエルのヘブライ大学でアンデス地方の先住民族の文化について学んだ。ニューヨークタイムスは「私にとってのユダヤ教は、独裁者を受け入れることを拒否する正義の精神です」という、彼女のフジモリ批判の言葉を紹介している)

▼麻薬問題が不安でフジモリ攻撃を後退させたアメリカ

 このようにトレドは、ペルーとアメリカの両方から賞賛される戦略をとり、フジモリと拮抗するところまで支持を拡大した。だが、4月9日の一回目の投票で決着がつかず、5月28日の決選投票が近づいたとき、選挙不正を止めなかったフジモリに対して、トレドもまた、正面から戦いを挑まない戦略に切り替えた。

 彼はアメリカが「今回のペルーの選挙を無効だ」と宣言してくれると予測し、投票の2週間前になって、自ら「不正がある選挙には参加しない」と降りる宣言を行い、有権者には「不正反対」と書いた無効票を投じるとともに、フジモリの不正に反対するデモ行進に参加するよう呼び掛けた。

 アメリカが選挙を無効だと宣言すれば、フジモリが勝っても経済支援を受けられずにペルーは混乱し、その中でトレドの支持者たちのフジモリ反対デモへの参加者が増え、混乱の中でフジモリは退陣か再選挙を余儀なくされ、トレドの勝利につながる、という戦略だったのだろう。クリントン政権と米議会も「決選投票で不正が発覚したら、ペルーを経済制裁する」という宣言を出していた。トレドにとっては準備万端のはずだった。

 だが、決選投票でフジモリが一人勝ちした後、アメリカ政府はいったん「選挙は無効だ」というメッセージを発した後、間もなく「不正はあったが無効ではない」という見解に変更してしまった。その理由の一つは、アメリカの無効宣言によってペルーが混乱することが長引くと、フジモリの時代に減らした麻薬栽培が再び増加し、アメリカへのコカイン流入に拍車がかかるかもしれないことを恐れたことだった。

 アメリカは、たとえばペルーの近くのコロンビアに対して巨額の麻薬撲滅資金を援助しているが、逆にコロンビアからの麻薬流入は増える傾向にある。アメリカ政府にとって、麻薬撲滅は難しい事業であり、せっかく栽培が減ったペルーを混乱させたくないという思惑が働いたのであろう。

▼アメリカの干渉を嫌ってフジモリの肩を持った南米諸国

 もう一つの理由は、近隣の南米諸国がペルーに対して厳しい態度をとるのを拒否したことだった。6月上旬、ペルーの選挙への対応を決めるOASの会議が開かれ、アメリカはペルーに対する制裁を含む厳しい対応を提案したが、中南米諸国は、これまでフジモリを最も批判してきたアルゼンチンでさえ「制裁はペルーのナショナリズムに火をつけるだけだ」として反対した。

 中南米諸国の対応の裏には、アメリカが中南米諸国の内政に干渉することに反対する意志にくわえ、中南米の指導者たちの間に、自分がいつフジモリのような対応をせざるを得なくなるか分からないので、批判は止めておこうという考えがある。

 7月にはメキシコとベネズエラで総選挙がある。メキシコでは70年ぶりに与党が負ける可能性が大で、不透明なことが起きても不思議ではないし、ベネズエラでは現職のチャベス大統領が選挙不正をしていると疑われ、投票日を延期した経緯がある。

 中南米諸国の多くは、かつては独裁や軍事政権だった政府が、冷戦後の90年代に入ってキューバ以外のすべての国で独裁政権が終わり、民主主義の時代に入っている。

 だが、たとえばボリビアでは、1970年代の軍事政権の独裁者だったバンセル将軍が、1997年の選挙で勝って大統領に就任しているし、ベネズエラのチャベス大統領も、7年前に失敗したクーデターを起こした張本人ながら、その後の選挙で民主的に選出されている。

▼独裁容認の裏に南米独自の事情あり

 中南米では、かつて無数のインディオを殺して植民地支配したスペイン人などヨーロッパ人の末裔と、殺された側であるインディオや奴隷として連れてこられたアフリカ系の人々が入り交じって住んでいる。そこに日本など各地から移民してきた人々が加わった上、貧富の格差も大きいままである。

 当然、政治的な意見の対立も、日本などよりはるかに大きいわけで、それを乗り越えて国を動かそうとすれば、独裁的な手法を取らざるを得ないケースが増える。

 人々もそれを理解しているから、以前の軍事政権のトップを、改めて選挙で支持したりするのだと思われる。そして中南米の人々には、自分たちを支配してきた側である北半球の欧米諸国から、それを批判されるのを嫌う傾向が強い。

 こうした流れの中で、アメリカはフジモリに対して厳しい態度をとることを見合わせざるを得ず、トレドの戦略は誤算に終わる可能性が大きくなっている。

 ペルーの人々は、フジモリの不正を嫌いつつも、トレドがわざわざペルーを混乱させ、アメリカの介入を誘って大統領の座につこうとしていることにも賛成しなかった。おそらくフジモリは、選挙前のある時点でトレドの戦略に気づき、そしてアメリカは制裁をしないと予測したときに、自らの勝利を確信することができただろう。

 とはいえフジモリもまた、不正を行って当選したという重荷を背負うことになった。もう2−3年前までのような、全能の権力者に戻ることはできない。 無理をすれば、やがて失脚して犯罪者として扱われることになりかねない。来日しても、以前のように賛美を込めた歓迎を受けることも難しいだろう。

 「肥後のもっこす」として、日本からも尊敬されるフジモリであり続けるにはどうしたらいいか、彼は考えている、と私はまだ期待しているのだが、どうだろうか。


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