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フジモリ大統領の光と陰

1996年12月24日   田中 宇

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 ペルーのフジモリ大統領は、シンガポールのリー・クアンユー元首相や、マレーシアのマハティール首相のような存在になることを目指しているといわれる。

 つまり、ワンマン権力者と批判されながらも、外資導入などの積極的な経済政策により、社会を貧しさから解放し、国民の豊かな生活を実現する「アジア型」指導者を目指してきた。それには、アジアの両首相がとった政策と同様、ゲリラや反体制の人々をせん滅して治安を維持するとともに、麻薬の生産販売などの腐敗や汚職をなくす必要があった。

 そしてこれまで、その試みは成功を遂げてきた。フジモリ大統領が就任した1990年当時は激しいインフレと失業、経済の低迷や爆破テロに悩まされていたペルーは、94−95年には年率13%と、世界最高の経済成長を遂げるに至った。

 だが、その成果は最近、かげりを見せはじめている。経済成長率は今年、2%を割り込むと予想され、一時は減った失業率も、経済自由化が進むにつれて増えるきざしが見えてきた。昨年は80%近かった大統領の支持率は、今や40%台に下がっている。

▼「日系」だからマハティールになれない

 フジモリ氏がマハティールやリークァンユーになれない理由はいくつかある。その一つは、フジモリ氏がペルーの人々の大多数を占めるインディオ系の人ではないということだ。それは彼の責任ではなく、ペルーを含む中南米社会が、スペインの侵略以来抱えてきた構造的な問題である。

 その意味では、「ペルーのマハティール」は、トゥパク・アマルの末裔の中から出てこなければならない。といっても、大使公邸に押し入ったゲリラ本人たちのことではない。ゲリラ組織が名前をあやかった歴史的な人物のことである。

 トゥパク・アマルは歴史上、2人いた。最初のアマルは16世紀のインカ帝国最後の王様で、彼はスペイン侵略軍のピサロの陰謀に引っ掛かって帝国の滅亡を許しつつも、最後にはスペインに対して叛旗をひるがえし、捕らえられて殺されてしまった。

 次のアマル2世は18世紀、中南米各国が次々とスペインから独立する中で、ペルーでスペインに敵対する反乱を組織したインディオである。本名は別にあるのだが、最初のアマルにあやかってトゥパク・アマルを名乗った。

 だが彼もまた、アマル1世と同様、スペインに鎮圧され、処刑されてしまう。ペルーの独立はその後、アルゼンチンとコロンビアからやってきた軍隊に助けられて達成された。

▼ペルー社会の柔軟性を証明したフジモリ

 歴史的にみると、ペルーのネイティブの人々は、自分ではなかなか思った通りのことを組織的に実現できないのかもしれない。独立後も、ペルーの支配層はスペイン系の人々が中心だった。

 中南米は貧乏人の子供でも努力と運によって社会的にのし上がっていくことが可能な社会である。日本ではなかなか豊かになれないため、新天地ペルーを求めていった日系人集団の子供であるフジモリ氏が大統領になれたこと自体、のし上がり可能なシステムが機能していることを表している。

 だが、ペルー国民の54%を占めるインディオと、32%を占めるインディオとスペイン系の混血(メスチソと呼ばれる人々)のほとんどは、今も貧しい生活をしている。この合計86%の中から大統領が出てこないと、ペルーはマレーシアにはなれないのではないか。

 フジモリ氏は最近まで、大統領補佐官をつとめるハイメ・ヨシヤマ氏を、自分の後継者として考えていたとされる。ヨシヤマ氏も日系人であることからすると、フジモリ氏はスペイン系の旧支配層から権力を奪った後、日系人が支配する国を作ろうとしているのかも知れない。とはいえ、ヨシヤマ氏はフジモリ氏の強権的な手法に批判的な態度をとり始めたため、今年に入って解任されてしまった。

 それと前後して、大統領スタッフの一人だったフジモリ氏の兄弟のサンチアゴ・フジモリ氏も、同じ理由で解任された。さらには、夫の権威主義を批判した大統領の妻のスサーナ・ヒグチさんも、夫から離婚されてしまった。

 フジモリ氏はテレビ映りはソフトだが、実はかなり独善的な権力者になっているようである。こうしたことが、ゲリラのシンパだとして誤認逮捕された人々がたくさんいることとあわせ、国民の支持率を下げる原因となっている。

▼大臣よりパソコンを信頼?

 また、彼は大臣をころころ入れ替えることでも知られており、たとえばペルーの文部大臣はこの5年間に8人も交代している。彼は国家の重要な情報を詰め込んだ東芝のラップトップパソコン「T4400」を持ち歩き、それを参考にしながら一人で政策決定をしているという。「大統領は大臣よりパソコンを信頼している」というのが、リマの辛口評論家の声だそうだ。

 そもそも、ペルーを含む中南米と、東アジア(東南アジア含む)にかけての地域には、社会の成り立ちに大きな違いがある。東アジアでは今やどの国も国民の大多数がある程度の一体感を持ちはじめており、華僑とネイティブの相克などはありつつも、「国民国家」に近いものができつつある。

 半面、中南米では依然として、大多数のネイティブ系の人々は国家の動きからほとんど阻害されており、それらの人々は政権にとってはほとんど透明人間であるということだ。中南米では、スペインが攻めてきてから500年近く、社会構造が変化していないともいえる。(こうした見方はアジアへの幻想と、中南米への偏見が強すぎるかも知れないが)

 この社会的な厳しい上下格差をなくそうと、左翼ゲリラが跋扈していたのだが、彼らもまた、事態を良い方向にもっていくことはできなかった。



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