南米に夢を求めた日本人(2)ペルーの荒地に実ったみかん

1999年2月18日   田中 宇

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 この記事は「南米に夢を求めた日本人(1)ボリビアで商売の道を極める」の続編です。

 今81歳になった福田美代子さんが日本からペルーに渡ってきたのは、昭和10年(1935年)のこと。渡航のきっかけは、東京の近郊で農家をしていた姉の夫の家の農業経営が、うまくいかなくなったことだった。

 姉の夫の親戚の一人が庭師で、以前にペルーに渡航し、農業大臣の別荘の庭園を手入れする仕事をしていたことが、一族のペルー渡航の第一歩だった。その後、昭和5年には、姉の夫の弟がペルーに渡り、農業大臣が私有する果樹園で働いていた。その農場は、首都リマから80キロほど北に行ったエスペランサという村にあった。

 昭和10年に姉夫婦も義弟の呼び寄せというかたちでペルーに渡ったのだが、そのとき、女学校を卒業したばかりの美代子さんが、姉の夫の弟の妻となる話が両家でまとまり、美代子さんも姉夫婦と一緒にペルーへと渡った。2組の兄弟姉妹が、兄と姉、弟と妹という組み合わせで、2組の夫婦となった。

●船長に頼んで苗木を隠して渡航

 一家は、日本でも果樹園を経営したことがあり、ペルーの渡航先も果樹園だったため、美代子さんたちは渡航時に、ミカンやカキの苗木を船に積んで持って行った。毎日交代で水をやりながら、枯れないように注意して太平洋を渡ったのであったが、アメリカの港に寄港したところで検疫調査に引っかかり、没収されてしまうことになった。

 「それでも、何とかしてわずかでも苗木を残したかったので、船長に頼み込んで、船底の冷蔵庫の中に隠してもらって、何本かは没収されずにすみました。今ペルー国内にあるマンダリナ(ミカン)とカキは全部、そうやって私たちが運んできた苗木が元になって、増えていったんです。特にカキは今でもペルーでは、うちの農場にある1000本が全部です」

 ミカンの方は、福田さんの農場に植えてあった果樹の枝先を地元の人々が折り取って盗み、自分たちの農地にも植えていったため、今では一帯の各農場で作られている。

 福田さんたちは当初、農林大臣の農場で、ブドウやオレンジ、桃、梨などの果樹園の小作人をしていたが、やがて独立して、自分たちのミカン畑を持った。福田さんたちはペルー生まれではない外国人なので、土地を買うことができない。そこで知り合いになったペルー生まれの日系2世の名義を借りて、土地を買った。

 「エスペランサの砂地を15町歩(15ヘクタール)買ってミカンを植えました。砂漠のような砂の荒地でした。周りの人たちからは、どうせ失敗するだろう、と言われていたようですが、義兄は日本で農業大学を出ていたので、その技術を生かして砂を外に流しながら植えて、うまくいったんです。石にかじりついてでも成功させねば、という思いでした」

 福田さんたちは、ミカンだけでなく、アメリカからメロンの種子を買ってきて植えた。最初の年は枯れてしまったが、翌年は豊作で、実ったメロンを近くのワラルの街の市場に持って行ったところ、珍しがられてよく売れた。

 「そのころのペルーでは、農業といっても、ほとんど豆しか作ったことがなかったので、果物の作り方を知っている人はいませんでした。私たちが作っているのを見て、みんな真似をして同じことをやり始めたんです」 それで、福田さんたちが持ってきたミカンが、一帯に広がっていったのだった。

 エスペランサ周辺の農地は、15町歩ずつの区画に分けて農民に分譲されていたが、営農がうまくいかず、売りに出される区画があちこちに出てきた。福田さん一家はそうした農地を次々に買い取って農場を広げ、成功した。

●ミカンのおかげで戦争を乗り切る

 太平洋戦題取って盗み、自分たちの農地にも植えていったため、今では一帯の各農場で作られている。

 福田さんたちは当初、農林大臣の農場で、ブドウやオレンジ、桃、梨などの果樹園の小作人をしていたが、やがて独立して、自分たちのミカン畑を持った。福田さんたちはペルー生まれではない外国人なので、土地を買うことができない。そこで知り合いになったペルー生まれの日系2世の名義を借りて、土地を買った。

 「エスペランサの砂地を15町歩(15ヘクタール)買ってミカンを植えました。砂漠のような砂の荒地でした。周りの人たちからは、どうせ失敗するだろう、と言われていたようですが、義兄は日本で農業大学を出ていたので、その技術を生かして砂を外に流しながら植えて、うまくいったんです。石にかじりついてでも成功させねば、という思いでした」

 福田さんたちは、ミカンだけでなく、アメリカからメロンの種子を買ってきて植えた。最初の年は枯れてしまったが、翌年は豊作で、実ったメロンを近くのワラルの街の市場に持って行ったところ、珍しがられてよく売れた。

 「そのころのペルーでは、農業といっても、ほとんど豆しか作ったことがなかったので、果物の作り方を知っている人はいませんでした。私たちが作っているのを見て、みんな真似をして同じことをやり始めたんです」 それで、福田さんたちが持ってきたミカンが、一帯に広がっていったのだった。

 エスペランサ周辺の農地は、15町歩ずつの区画に分けて農民に分譲されていたが、営農がうまくいかず、売りに出される区画があちこちに出てきた。福田さん一家はそうした農地を次々に買い取って農場を広げ、成功した。

●ミカンのおかげで戦争を乗り切る

 太平洋戦草lは涙を流して悔しがっていました。でもそれで、土地を取られずにすんだんです」と、美代子さんは回想する。

 この前後、福田さん一家は、ペルーの日系人社会の中でも有数の裕福な家族だった。ペルーの日系人社会や日本大使館にとって大切なお客さんが日本からやってくると、リマから自動車で2時間ほどの福田さんの自宅か、リマにあった天野芳太郎氏の自宅に泊まってもらうのが常だった。天野芳太郎氏は、農業と貿易で成功をおさめた後、その資金を使ってペルー国内のインカ文明などの遺跡を発掘し、リマ市内に博物館を建設して展示した著名人である。

 「リマの日本大使館から電話がかかってきて、お客さんが夜中の11時にこちら(福田さん宅)に着くから、と言ったような連絡が入るんです。それで、あわてて鶏を絞めて、料理の準備を始めたりしてました」

●不幸に襲われた90年代

 だが、1990年代に入るころから、次々と大きな不幸が福田さん一家を襲った。1991年には、長男が農場内を移動中に居眠り運転をしていたトラクターに衝突され、大怪我をした。

 「肋骨が12本も折れて、もう助からんと言われました。でもその後1ヵ月間の特別看護で、命だけは何とか助かって・・・。頭も大怪我していたので、体が治っても頭が回復しなくて、その後3年間は、ボーっと海だけ見ているような生活をしていましたが、4年目にようやく頭も治りました」

 長男が手がけていた農場の経営は、農科大学時代の友人に任せることにした。だがちょうど当時は、ペルー全体でテロリスト活動が盛んだったころで、農場周辺の地域でも、テロリスト活動が活発だった。近くのワラルの街は、「山の中から降りてくるテロリスタたちの根城になっていました。夜、街の中をテロリスタの部隊が銃を担いで行進して行くのが聞こえるんです。お金持ちと思われる家を一軒ずつ訪ねて、食料をよこせと言って回るんです」

 ワラルでは、比較的裕福な人々といえば日系人が多かったので、日系人協会が大使館を通じて、ペルー政府に軍の派遣を要請したこともあった。そんな具合なので、近くの農場に行くにも、途中でテロリストに誘拐されるかもしれないため、厳重な警戒が必要だった。農場経営を他人に頼んでいたため、鶏舎の管理人から、鶏の間で病気が発生していると連絡があっても、獣医が危険を冒して鶏舎まで診察に行くということがなかったという。

 「10人の獣医にお願いしても、誰も怖がって行こうとせず、電話で対策を命じて終わりです。満足な経営になっていませんでした」 農場のトラクターを夜中に盗まれるといった事件も続き、「今から6-7年ぐらい前に、とうとう借金を返せなくなり、農場は倒産しました。借金のカタに、何もかも銀行に取られてしまいました」

 しかも1992年には、次男がテロリスト組織MRTAに誘拐されてしまった。朝、農場に行く途中のことだった。「テロリスタは毎日こっそり、次男が何時に自宅から農場に向かうか調べ、ある日、待ち伏せして車を襲ったんです。銃撃戦になって、車の運転手は殺され、次男も腕を撃たれ、連れて行かれました。でも、彼らの目的は身代金ですから、次男を死なせては仕事になりません。腕に入った弾を取り出して、生かしてました」

 誘拐者からは、身代金要求のほかに、「貧乏人に対して(養鶏用の)ひよこを配れ、コメを配れ、といった要求が入り、言われた通りにしました」 MRTAは貧しい人々の味方を標榜しているので、このような要求を出したのだろう。交渉は3週間続けられたが、結局次男は開放され、戻ってきた。

 その前後、美代子さん自身も誘拐されそうになったことがある。「ある日、うちから車で外出するために玄関を出ようとしたところ、家の前を人が何人か通りかかったんです。その人たちの雰囲気がどうも変なので、これは怪しいと思い、とっさに引き返して玄関の扉を閉めました。その直後、その人たちは、車の中で待っていた運転手を連れて行ってしまいました」 運転手はその後、無傷で戻ってきたという。

 そんなことがあったものの、福田さん一家は、農場の雇用者たちを大切にしたり、農場周辺の貧しい人々にコメを配ったり、地域の小学校で行われた催し物に資金を出したりといった社会貢献を続けた。そのため、ワラルの日系人たちの中には、テロリストを恐れてリマ市内に引っ越す人が多くなっても、福田さんたちは例外だった。

 「私たちは、使用人たちから、ウステ(あなた)はここにいても大丈夫だから、と言われていたんです。きっと、テロリスタが使用人たちに、お前の主人はどんな奴か、と探りを入れるんでしょう。そのときに良い返事をしておいたので大丈夫だ、ということだったようです」

 今では仕事の関係で、子供たちは皆、リマ市内に引っ越したが、美代子さんは長年過ごして愛着を持っているワラルの町に住み続けている。

 1996年12月、リマの日本大使館がMRTAに襲われたとき、大使館内には福田さんの長男と三男がいた。占拠が始まって間もなく、第一陣の人質開放があった。「最初、うちの子供たちは誰も出てこなかった。でも、諦めていたら、20分ぐらいたってから、うちの長男がたった一人でノコノコと出てきたんです」

 「最初は、ワラルの福田は大きな仕事をやっていた(つまり金持ちと思われた)から出さない、とテロリスタに思われたらしいんですが、長男はそのころちょうど、心臓の手術をしたばかりで、胸にペースメーカーを入れていたんです。それで長男が、そのことをテロリスタに言って、胸の手術の跡を見せたそうです。すると、人質に死なれては困ると思ったのでしょう、出て行って良い、と言われたそうです」 三男は最後まで残されて、軍の強行突入の後、生還したという。

●この記事について

 筆者は1999年1月27日にリマのペルー日系人協会(日秘文化会館)を訪ねた際、たまたま訪れていた福田美代子さんを協会事務局の方から紹介していただき、お話をうかがった。この記事は、そのときの聞き取りをもとに書いたものだ。

 福田さんはこの日、文化会館内にある「神内先駆者センター」で開かれていた日系人協会の敬老会の催し物に参加するために来ていた。敬老会は毎日数十人の日系1世たちを招待して、開かれており、曜日ごとに違う地域の居住者を対象にしている。

 福田さんは大体毎週、敬老会に参加し、他の1世とお喋りをしたり、コーラスを学んだり、時代劇の映画を見たりしているという。この日の敬老会には、フジモリ大統領のお母さん、藤森ムツエさんも来ていた。

 神内先駆者センターはペルー渡航以来、日系人の先駆者として苦労を続けた日系移民1世たちのための敬老施設で、消費者金融会社「プロミス」の創立者(会長)である神内良一氏からの寄付などによって建てられた。


田中宇の「南米に夢を求めた日本人」シリーズ

(1)ボリビアで商売の道を極める

 (2月2日) 181999年に最初の出稼ぎ者たちが渡航して以来、ペルーとボリビアの日本人の歴史は、今年で100周年を迎える。彼らは、どんな100年間を過ごしたのだろうか。1月下旬にボリビアとペルーを取材し、話を聞いた。第一回目は、1926年に15歳でボリビアへ渡って以来、商売に生き続けた末松健佑さん(88歳)の人生談を紹介する。

(注)・この記事で紹介した末松健佑さんは先日、永眠されました。ボリビアでは間もなく、日本人移民100周年記念祭が催されます。

(3)原生林を拓いて「日本」を作る

 (4月30日)アンデス山脈のふもと、ボリビアの亜熱帯平原の真っ只中に、2つの小さな「日本」が存在している。「サンファン」と「オキナワ」の2つの日本人移住地は、戦前の「開拓団」にも似て、日本が政策として、海外に日本の飛び地のような入植地を作る計画の一環として作られた。大規模な計画だったが、日本が農業より工業が重視される時代に入り、計画自体が過去のものとなっていった。



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