南米に夢を求めた日本人(1)ボリビアで商売の道を極める
1999年2月2日 田中 宇
今から100年前の1899年(明治32年)4月3日、790人の日本人が、ペルーの首都、リマ市郊外にあるカヤオ港に上陸した。彼らは日本からペルーへの、初めての出稼ぎ労働者たちで、「森岡商会」という渡航代理店が企画した国策の出稼ぎ事業に募集し、ペルーのサトウキビ農場で4年間働けば金を稼げる契約をペルー側と結び、やってきた人々だった。だが、彼らを待っていた農場の仕事は予想以上に厳しく、酷使された。彼らは約10ヵ所の農場に分散配置されたが、多くの場合、契約通りの満足な宿舎や食事が与えられなかった。いくつかの農場ではマラリヤが発生し、毎日のように死亡者が出る事態となったが、農場主は治療のために手を尽くさないどころか、病気で寝ている人を仮病だと決めつけ、傭兵に銃で脅させて働かせたため、日本人たちの怒りをかうことになった。
農場主と交渉しようにも、出稼ぎ者の中にスペイン語ができる人はおらず、事態は好転しなかった。農場に着いて2-3ヶ月もすると、集団で夜中に農場を逃げ出す人々が相次ぎ、結局半分近くは農場を離れることになった。その多くは森岡商会の出先機関があるカヤオ港まで歩いて戻り、担当者に帰国させるよう要求した。
だが出稼ぎ者との契約では、帰国費用は最初の2年間の労賃によってまかなうことになっており、早々と職場放棄した人には、帰国費用を出せない、と商会側は断った。その代わり、商会の担当者は、農場主と交渉して労働者の待遇を改善させ、彼らを元の農場に戻らせようとしたが、スペイン語の能力が不充分で、成功しなかった。
出稼ぎ者たちは仕方なく、リマ市内で工事現場の労働や庭師、炊事人などの仕事につき、細々と生活を始めた。4年間の出稼ぎ労働の予定だったものが、ペルーで定住していく移民の人生に変わっていった。この惨状は、日本社会にはあまり伝えられなかったため、同様の契約出稼ぎ募集はその後も進められた。
こうしたいきさつを皮切りに、ペルー在住の日本人は増え続け、100年目の現在では、2世、3世など子孫を含めると、合計で約10万人がペルーに住んでいる。
一方、ペルーのサトウキビ農場を脱出してカヤオ港に集まってきた日本人たちに対して、森岡商会では、雇ってくれる別の農場を探し、商会側の担当者(監督者)をつけ、改めて集団で送り出すことを何度か行った。そのうちの一つが、その年(1899年)の9月、ペルーの隣国であるボリビアのゴム農園に向かった。
そこには出稼ぎ者91人が行ったが、ここも労働条件が悪すぎたため、このうちの72人は3ヶ月後に農園を抜け出し、その後間もなく警察に捕らえられた。彼らは結局、翌年(1900年)にはペルーに引き上げたが、これが日本人のボリビア移民の最初となった。そのため、日本人のボリビア移民も、今年で100周年を迎えたことになる。ボリビアには現在、1万4千人の日本人・日系人が住んでいる。
ペルーとボリビアに日本人が移民してから100周年にあたる今年は、両国の日本人・日系人が集まって記念事業を実施している。筆者は1月下旬、ある雑誌から依頼された取材でブラジルを訪れる機会があったため、その帰途にボリビアとペルーに寄り、1月25日から30日にかけて、両国に住んでいる日本人(1世)と日系人(2世)、合計20人近くに話を聞いた。以下はその取材を元に書いたものだ。
●15歳で太平洋を渡り、商店の小僧さんに
ボリビア第2の都市、サンタクルスは、首都のラパスやいくつもの鉱山があるアンデス山脈地帯から、東に山を降りたところにある平原の町である。かつて密林だった周辺地域は、ここ数十年間の農業開発によって、今では大豆やトウモロコシ、コメ、小麦などをみのらせ、牧畜も行われる広大な農業地帯に変身している。それにともなって、サンタクルスの人口も、30年ほど前までは5万人ほどだったものが、今や100万人に迫る勢いだ。
このサンタクルスの中心街から1キロほど離れた閑静な住宅街に、末松健佑さんが住んでいる。88歳の末松さんは1926年(大正15年)、15歳のときにボリビアの首都ラパスに来て以来、約60年間にわたり、ボリビアに住み続けている。ボリビア在住日本人の中でも、最古参の一人である。
末松さんは、岐阜県の農家に生まれた。尋常小学校を1番の成績で卒業したが、家に経済的な余裕がないため、中学校に行けず、代わりに父親が息子に命じたのが、ラパスで商店を開いている父の友人のところに働きに行くことだった。
当時は第一次世界大戦が終わって数年過ぎたころで、それまで南米経済を支配していたヨーロッパ諸国が戦争によって疲弊し、南米に向けて十分に物資を供給できない状態が続いていた。
そのため、当時すでにペルーに移民を開始して20年近くがすぎていた日本人の中で商才のある人は、日本から太平洋を船で物資を運搬し、チリやボリビアなどで売るビジネスを手がけ、成功していた。末松さんが小僧さんとして入社することになった小森商店もそういった商売で成功をおさめ、ラパス市内では屈指の大きな店となりつつあった。
小森商店を設立した小森良助という人は、末松さんと同郷、岐阜県の出身で、1908年(明治41年)に、日本からペルーへの第6回の移民団が向かった際、渡航監督係としてペルーに渡った。その後、馬の商隊を率いてラパスに入り、日本から陶器、玩具、布類などを輸入して売る商売を始めた。
末松さんがラパスに着いたころは、小森氏が商売を始めてから15年ほど過ぎたころで、商売が軌道に乗って拡大し始め、日本から店員を雇って呼び寄せるようになってからしばらくたった時期だった。
当時はまた、日本の大陸進出が本格化していくとともに、太平洋航路など国際船舶運行が盛んになり、まだ貧しかった日本では、多くの人々が海外に雄飛して事業を起こし、成功したいと考えるようになった時代でもあった。小森氏も、そのような夢を持ってペルーに渡った人であり、末松さんの父親も、息子をラパスの友人の店に就職させることで、スケールの大きな人生を歩ませようとしたのだった。
小森商店に入った末松さんの最初の仕事は、倉庫番と炊事係だった。当時、小森商店には5人の日本人店員がいたが、いずれも単身男性のため、食事を準備する人がいなかった。そこで末松さんは、午後まで倉庫で商品の出し入れを管理した後、市場に買い物に行き、店員たちの食事を作った。
●スペイン語より先に先住民族の言葉を覚えた
早くスペイン語を覚えて店頭に立ちたかったが、倉庫で荷物運搬の仕事にあたっているのは、スペイン語を話さない地元の先住民族、アイマラ人だった。そのため末松さんは、スペイン語より先に、アイマラ語を覚えてしまったという。(アイマラ人はチチカカ湖周辺に住み、いったんは高度なティアワナコ文化を築いたが、やがてインカ帝国に併合され、その後はスペイン人に征服された)
「そのころ、日本から送られてくるちりめんや木綿が、よく売れていました。生地の色が全部で30色あったのですが、私は倉庫で人夫をしていたアイマラ人と過ごしていので、その30種類の色の名前を、スペイン語より先にアイマラ語で覚えてしまったくらいで・・・。スペイン語は、後で西電三郎さんに教えてもらうまで、あまり話せなかったんです」
西電三郎さんは、東京外事専門学校(現在の東京外国語大学)のスペイン語学科を卒業し、1926年にラパスに来て、その後商売を広げた人である。末松さんは、ラパスにきて3-4年たったころ、西さんが開いていた在留邦人向けの夜学のスペイン語教室で学ぶようになった。
そのころ、店の主人である小森さんの息子が妻を連れて日本からラパスにやってきたため、炊事は奥さんとお手伝いさんがやってくれるようになり、末松さんは店頭の仕事をするようになったという。
その後、ラパスにきて6年たった1932年ごろから、成人した末松さんは、幹部店員として重用されるようになり、商業科の夜学にも通わせてもらうようになった。今度は邦人向けではなく、ボリビアの一般の公立学校だったので、授業はすべてスペイン語だった。
「最初は先生の言っていることを聞き取ってスペイン語でノートを取るのが追いつかず、大変でした。3-4ヵ月するとだいぶ楽になりました。でも、一緒に入学していた日本人の若者が5-6人いたのですが、そのころには私のほかには、スペイン人と日本人の混血の人が一人しか残っていませんでした」
「商業簿記、商業算術などの科目をとっていたのですが、算数は得意だったので、言葉の問題がなくなったら、ボリビア人の同級生を抜いて、よくできるようになりました。3年半通って卒業するときに、(ボリビアの)文部省の商業簿記試験を受けたら、1番の成績でパスして、ラパスの日本人会から表彰されました」
末松さんは、88歳の今でも、昔の出来事に関する年号などをよく覚えており、秀才ぶりをしのばせるものがある。末松さんだけでなく、日本人やその子供である日系人は、南米中で一般に数学など理科系の科目に強く、多くの人が大学や高校を優秀な成績で卒業している。ペルーで大学の農学部を1番の成績で卒業した、日系2世のアルベルト藤森大統領がその好例だ。
ラパスに来て10年目、1936年に25歳で商業学校を卒業した末松さんは、店から独立して事業を始めることを小森商店の主人から了解してもらった。そして、日本人があまり商売を手がけていないエクアドル(ペルーの北隣の国)に行って店を開こうとしたが、政情が安定していなかったためうまくいかず、半年後に再びラパスに戻った。
その後は、当時発展し始めていたボリビア内のコチャバンバに、新しい店を出すことを決め、翌年2人の商売仲間とともに引っ越した。コチャバンバは、ラパスとサンタクルスの中間、アンデス山脈中腹の盆地にあり、鉱山が多い山岳地域への食料供給基地として発展し始めていた。
戦前、一攫千金を夢見て単身で南米に渡った日本人男性の多くは、現在より少しでも実入りの良い仕事があれば、南米の国から国へ、山岳地帯からアマゾンの密林へ、海岸から内陸へと移動することを厭わなかった。末松さんもまた、そんな若者の一人だったようだ。南米大陸のあちこちを移動した日本人の中には、行方知れずになったまま忘れられたり、地元の人と結婚して現地に同化してしまった人も多い。
●戦時中の北米抑留を免れる
末松さんがコチャバンバに引っ越したころから、日本を取り巻く世界情勢の雲行きが怪しくなってきた。日本の中国大陸進出に対して、米英などからの圧力が強まった結果、外交上アメリカの傘下に入っていたボリビアでは、政治的に反日の機運が高まった。
1936年にブエノスアイレスで開かれたパンアメリカン平和会議では、ペルー代表が日本人の帰化制限を強化することを南米諸国に呼びかけ、ブラジル代表も賛成するなど、南米全体で反日感情が高くなっていた。
こうした動きに懸念を覚えた末松さんは、日米開戦が近づいた1941年、ボリビアへの帰化申請を行った。だが、書類も整い、まもなく帰化が認められるだろうという段階の12月7日、日本軍が真珠湾を攻撃し、日米戦争が始まってしまった。開戦のニュースを知った末松さんは、帰化申請の代行を頼んであったラパスの弁護士に急いで電報を打って頼んだところ、開戦直前の12月5日に帰化が認められたという形にしてもらえたという。
末松さんの帰化は、コチャバンバの日本人たちから「愛国心がない」と批難されたが、帰化したことで、後に災難を免れることができた。1943年、太平洋戦争が激しくなると、アメリカは連合国側だったボリビアとペルーから、日本人とドイツ人を、アメリカの収容所に連行することを決めた。
ボリビアの鉱物物資などを日本に輸出してきた日本人商店の経営者や幹部を収容所に入れることで、日本の戦力を少しでも削ごうという目的で実施されることになった。だがこの作戦は、ボリビア政府関係者を通じて、自然に主要な日本人に伝わってしまったので、彼らの多くは捕まえられる前に雲隠れして、危機をやりすごした。ボリビア在住のドイツ人の場合にも、同じようなことが起きた。
そのため、当初ボリビア政府が米軍に引き渡す予定だった日本人やドイツ人は多くの所在が分からず拘束できない、という事態になってしまい、ボリビア政府は人数合わせのため、日本人商店の若手社員を手当たりしだいに拘束し、米軍に引き渡した。ボリビアからは29人がアメリカの収容所に送られ、コチャバンバでも末松さんと親しかった日本人が何人も引っ張られたが、末松さん自身は帰化していたため、連行されなかった。
アメリカに強制連行された人々は民間人であったため、それほど過酷な抑留生活を送らずにすんだが、日本の敗戦後は29人の抑留者のうち、22人が自らの意思で日本に帰り、ボリビアに戻ってきたのは7人だけだった。
アメリカ抑留を免れた末松さんであったが、アメリカが要注意人物として指定していたブラックリストに載せられたため、太平洋戦争中と戦後の3-4年間は、取引の多くが停止されて商売にならず、それまでの蓄えをほとんどつかってしまった。北米抑留されなかった日本人の多くは、ブラックリストに載せられたり、店にボリビア人の監視人を置くことを義務づけられたりして、仕事にならない状態が続いた。
戦後は、商売の規模はかなり小さくなり、1981年までは店を継続していたが、この年に家賃を大幅に値上げされたことをきっかけに、店をたたんだ。1992年には奥さんが亡くなり、その後はサンタクルスに住む妻の姪の家に引越し、現在に至っている。
末松さんの人生は、最後まで大成功というものではなかった。だがボリビアに渡ってきた日本人の中には、もっと悲惨な状態での生活を長く強いられた人が多い。末松さんはコチャバンバに流れてきた貧しい日本人たちに、住居や仕事を探してあげるといった手助けを長く行い、その功績を日本政府から感謝され、1981年に勲章を贈られている。
なお、この記事を書く際、サンタクルス在住の佐藤信寿さんが作成した資料を参考にしました。またサンタクルスでは、三浦孝さんに案内をしていただきました。
田中宇の「南米に夢を求めた日本人」シリーズ
●(2)ペルーの荒地に実ったみかん(2月18日) 福田美代子さん一家は、1935年に日本からペルーに渡航した際、ミカンやカキの苗木を船に積んで持参した。ところがアメリカに寄港中、検疫検査で没収されてしまった。「船長に頼み込んで船底の冷蔵庫に隠してもらい、何本かは没収されずにすみました。今ペルー国内にあるマンダリナ(みかん)とカキは全部、私たちが運んできた苗木が元になって、増えていったんです。特にカキは今でもペルーでは、うちの農場にある1000本が全てです」
(4月30日)アンデス山脈のふもと、ボリビアの亜熱帯平原の真っ只中に、2つの小さな「日本」が存在している。「サンファン」と「オキナワ」の2つの日本人移住地は、戦前の「開拓団」にも似て、日本が政策として、海外に日本の飛び地のような入植地を作る計画の一環として作られた。大規模な計画だったが、日本が農業より工業が重視される時代に入り、計画自体が過去のものとなっていった。
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