南米に夢を求めた日本人(3)原生林を拓いて「日本」を作る

1999年4月30日   田中 宇

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 「日系人」というと、顔は日本人だが、日本語はあまり話さず、メンタリティは日本人ではなく移住先の国の人、というイメージではないだろうか。特に、移住先で生まれ育った2世、3世は、こうした傾向が強いといえそうだ。

 だが、筆者が訪れた南米ボリビアにある、二つの「日本人村」の人々は、そうではなかった。日本から遠く離れた地球の裏側の、アンデス山脈のふもとの亜熱帯平原の真っ只中に、ぽっかりと二つの小さな「日本」が存在していた。

 そこではまるで日本の農村のように、日本式公共事業で作られたような「役場」の建物があった畑のわき道を、腰の曲がった老人が孫を連れてゆっくりと歩き、道で近所の人に会うと、笑顔で会釈をして立ち話をする、という光景もみられた。家の中では、食卓で朝食の目玉焼きと味噌汁を前に、母親が子供たちに、学校の勉強の進み具合を尋ねていた。もちろん、会話はすべて日本語だ。

 見知らぬ訪問者である筆者に対する子供たちのはにかみぶりも、日本人そのものだった。台所のシステムキッチンや戸棚も、日本の標準的な家庭と同じ雰囲気をかもし出していた。ただ違うのは、そこがボリビアであるというだけだった。

 筆者が訪れた二つの「日本人村」は、ボリビア第2の都市サンタクルスから、乗合タクシーで北西と北東へ、それぞれ3時間ほど乗ったところにある、「サンファン」と「オキナワ」という、2つの地域だ。いずれも1950年代から、日本側の政策として移住が始まり、その後人の出入りがかなりあったが、現在ではそれぞれ800人前後の日本人(日系人)が住んでいる。「オキナワ」の方は、その名の通り、沖縄県からの移住者で構成されている。

 今年は、ボリビアとペルーに最初の日本人が移民してきてから、ちょうど100周年になる。筆者は今年1月、ブラジルに行く用事があったが、その帰りにボリビアとペルーに寄って、100周年の足跡をわずかでもたどろうと、2つの村を訪れたのだった。

●日本の敗戦が生んだ政策移民

 この記事の冒頭で紹介した、朝にお邪魔して朝食をご馳走になったのは、サンファン移住地の事実上の「村長」である、池田篤雄さんのお宅での光景だ。池田さんは、「サンファン日ボ協会」の会長である。

 「日ボ」というのは「日本・ボリビア」の略で、日本からの援助資金の受け入れ組織という意味もあって、このような名前になっている。日ボ協会は、日本人学校や病院などを含む、行政事務を取り扱っている。

 サンファンは、ボリビアの行政区分では「サンタクルス州イチロ郡サンカルロス村」の一部なのだが、日本からの援助資金を活用した大規模農業が、地域全体の経済基盤の向上につながっているため、日本人が自治を行うことを許されている。

 一方オキナワは昨年、ボリビア政府から「オキナワ村」として独立した行政区となることを認められた。サンファンの人の中には、「オキナワは国会議員に金を配って村のタイトルを買ったんだ」などと言う人もいて、両村のライバル意識の一端を感じた。

 池田篤雄さんは、1959年に第7次移民として入植し、最初はブルドーザーの運転など、移住地内の道路を建設するための技師として働いた。その後は稲作など、移住地全体の農業の方針の変遷にともなって作物を変えながら農業を続け、今では養鶏を中心に手がけている。

 サンファンでは、他にも養鶏を手がけ、卵を出荷している農家が多く、そのほとんどは首都のラパスに運ばれ、ここ20年ほどの間に、卵をよく食べるようになった都会の中産階級の食卓に乗っている。サンファンだけで、人口150万人のラパスで消費される鶏卵の75%を出荷している。

 池田さん一家に代表される、サンファンとオキナワの2つの移住地の人々の「日本人」としての集団生活は、海外の日本人の生き方として、他にあまり例がないだろう。

 彼らは、日系企業の駐在員に代表される在外日本人とは、全く違う種類の存在といえる。むしろ、戦前の「満蒙開拓団」などにも似て、日本が政策として、海外に日本の飛び地のような入植地を作る計画の一環として、移住してきた。

 日本は1950-60年代に、ボリビアのほか、パラグアイ、ブラジル、アルゼンチンなどの中南米諸国と移住協定を結び、移民事業を始めた。その背景には、日本の敗戦とともに、それまでアジア各地の植民地や占領地に進出していた、数百万人の民間人や軍人が、一気に「内地」へと戻ってきたことがあった。日本は戦争で産業が破壊され、仕事も家もない人々が、国内にあふれていた。

 一方、中南米には、戦前から日本人移民が数多く住んでおり、勤勉さや農業の技術力などで、一般的に、地元の社会から高く評価される存在だった。中南米には、まだ農業開発の手が及んでいない土地が多くあり、各国政府は開拓者を必要としていた。こうした、日本と中南米諸国との間の利益の合致が、政策移民として実現したのだった。

●日本の経済成長で過去の存在に

 日本人村があるサンタクルス州の平原地帯も、最近の40年間ほどの間に、急速に農業開発された地域だ。ボリビアにもともと住んでいた先住民(インディオ)の人々は、アンデス山中に人口が集中し、山脈の東側にあるブラジルにつながる平原には、ほとんど人が住んでいなかった。

 平原地域の開発が重視され出したのは、ボリビアとブラジル、アルゼンチンを結ぶ鉄道の建設がこの地域で始まり、農産物の積み出しが可能になった1940-50年代になってからだった。

 政府は山間部から平原部への移住を奨励し、移住した人には50ヘクタールの土地を無償提供するという政策を始めた。この政策は、1952年に誕生した左翼政権が進めた農地改革の一環でもあった。

 だが、平原地域には、直径20メートルもある大木がうっそうと繁る原生林が延々と続いていた。年間を通じて春のような季節が続く山岳地帯の生活に、何百年も前から慣れ親しんでいるボリビアの人々の多くは、熱帯の樹海の中に降りて行きたいとは思わなかった。

 そんな中で決まったのが、日本からの移民受け入れだった。ボリビア政府は、日本人に対しても、一世帯に50ヘクタールずつを供与する政策をとった。狭い日本では、50ヘクタールはとても広い土地だ。そのため、日本では希望者が殺到することになった。

 移住を希望した人々の中には、敗戦前に、満州などで開拓を経験した「引き揚げ組」も多かった。戦前に農業技術を学んだ若者たちは、教師や先輩から「海外に雄飛して農業開拓をする」という夢を吹き込まれていた。日本が植民地を失った戦後は、広大な未開拓地が残っていた南米が、そうした若者たちの夢の目的地となった。

 (最近の価値観でいうと、戦前の「植民地主義」に染められた若者が、「開拓」という名の「環境破壊」に出かけて行った、などということになるのかもしれないが、筆者には、そういった言い方も歴史的な経緯を見ようとしない、一面的なものに思える)

 戦争で破壊尽くされた上、戦後はアメリカ軍に土地を収用されて、人々が苦労した沖縄では、移民の応募倍率は10倍以上になった。1954年の第一次募集では、定員400人のところを、沖縄全島から4000人以上の応募があった。

 沖縄からの移民に対しては、アメリカ政府が資金援助した。基地に土地を奪われた島民の怒りをなだめるための、軍政のひとつだった。アメリカ政府は、スタンフォード大学のティグナー博士という教授に頼んで、沖縄の人々の移住先としてふさわしい場所を、南米大陸で探してもらうほどの熱の入れ方で、その結果、決定したのが、ボリビアのサンタクルス郊外だった。

 このように政策的な移住だったため、計画は長期的で、大規模なものが予定されていた。沖縄の場合、1954年から10年間で1万2000人を送り出す計画だった。

 日本政府が計画したサンファンへの移住では、1956年から5年間に最大6000人が移住する予定だった。

 だが、実際に移住したのは、その数分の一にとどまった。政府側の事前調査が不十分だったため、移住者たちに大変な苦労がかかり、後続の人々が安心して移住できる状況にならなかったことが一因だった。

 また移住計画は、日本が戦後、まだ貧しかったころに開始されたが、その後、日本が工業生産の拡大によって大きく経済発展し、苦労して入植地を開拓し、人々を送り込む必要がなくなったこともある。1960年代後半からは、農業で国を富ませる時代から、工業で豊かになる時代へと変わり、計画自体が過去のものとなっていった。

 だが、日本が経済的に豊かになるにつれて、日本政府からの援助資金も手厚くなった。村人たちは資金を注ぎ込んだ大規模農業を展開し、綿作に挑戦して大失敗するといったこともあったが、今ではおおむね豊かな暮らしができるようになった。

 (続く)


 

「南米に夢を求めた日本人」シリーズ

(1)ボリビアで商売の道を極める

 (2月2日) 181999年に最初の出稼ぎ者たちが渡航して以来、ペルーとボリビアの日本人の歴史は、今年で100周年を迎える。彼らは、どんな100年間を過ごしたのだろうか。1月下旬にボリビアとペルーを取材し、話を聞いた。第一回目は、1926年に15歳でボリビアへ渡って以来、商売に生き続けた末松健佑さん(88歳)の人生談を紹介する。

(注)・この記事で紹介した末松健佑さんは先日、永眠されました。ボリビアでは間もなく、日本人移民100周年記念祭が催されます。

(2)ペルーの荒地に実ったみかん

 (2月18日) 福田美代子さん一家は、1935年に日本からペルーに渡航した際、ミカンやカキの苗木を船に積んで持参した。ところがアメリカに寄港中、検疫検査で没収されてしまった。「船長に頼み込んで船底の冷蔵庫に隠してもらい、何本かは没収されずにすみました。今ペルー国内にあるマンダリナ(みかん)とカキは全部、私たちが運んできた苗木が元になって、増えていったんです。特にカキは今でもペルーでは、うちの農場にある1000本が全てです」



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