難航する中国のWTO加盟2000年2月28日 田中 宇・・・傷心の彼女が、ホテルをチェックアウトして空港に向かおうとしたその時、彼がホテルに現れ、もう終わりかと思われた二人の関係は、一瞬のうちに熱く再燃した・・・。 恋愛ドラマ仕立てにすると、こんな感じになる出来事が、決裂しそうになっていた中国とアメリカの関係を、土壇場で好転させることになった。昨年の11月15日、北京での出来事である。 この日、バーシェフスキ通商代表らアメリカ政府の代表団は、中国のWTO加盟を前提とした貿易交渉がまとまらず、朱鎔基首相ら中国側の代表が突然ホテルに現れ、交渉の再開を提案したのだった。中国側は、いくつかの点で譲歩し、決裂すると思われていた交渉は、数時間で合意に達し、その日のうちに調印式まですることができた。 中米交渉を恋愛にたとえたのは、バーシェフスキ代表が女性だからというだけではない。最近の米中関係は、恋愛ドラマのように、土壇場の大逆転、憎悪と親近感の交錯などの連続だからである。その一つの象徴が、中国のWTO加盟をめぐる交渉だ。 ▼改革の難航で破れた蜜月 WTOは世界の自由貿易体制を維持・発展させるための国際機関で、中国は改革開放政策によって貿易を奨励し始めて間もない1986年ごろから、加盟を希望するようになった。 だが加盟に向け、中国が欧米など世界の主要国と交渉を続けていた1989年、天安門事件が起き、それに対する経済制裁の一環として、欧米は中国のWTO加盟申請を棚上げしてしまった。 その後、再び加盟に向けて動き出したのは、1998年3月、経済改革に積極的な朱鎔基氏が首相に就任し、それをアメリカが好感し、クリントン大統領が同年6月に訪中したあたりからだった。この年、中米関係は天安門事件後初めての蜜月状態であった。 だがその後半年もしないうちに、朱鎔基の改革は国内の強い反対に出会い、暗礁に乗り上げた。改革の中心である国有企業の民営化によって失業した無数の人々が怒り、それをみた中国政府内の李鵬氏(元首相)ら「保守派」と呼ばれる人々は、朱鎔基氏ら「改革派」を攻撃し始めた。 中国の改革が滞り出したことは、WTO加盟に際して発言力を持つアメリカの中国に対する姿勢も変化させた。 WTOへの加盟を希望する国は、加盟の前に、すでに加盟しているすべての国々との間で、2国間の貿易協約を結ばねばならない。中国はまず、天安門事件後の経済制裁を推進したアメリカとの間で、貿易協約を結ぼうとした。 アメリカは、政府が民主党のクリントン政権で親中国派だが、議会では反共産主義の共和党が強い。彼らが中米の貿易関係の強化に賛成しないと、中国は事実上、WTOに加盟できない。 中国の改革は、経済面は資本主義化するが、政治面は変えない、という政策である。共和党の人々は当初「経済が自由化されれば、その影響で人々の権利意識が強くなり、いずれ政治も民主化される」と考え、中国の経済改革を歓迎した。だがその後、経済が改革されても政治改革につながらない中国の現実を見て「経済改革は、共産党の独裁政権を強化しているだけだ」と主張し始めた。 ▼反中国に傾くアメリカの労組 この危機を乗り越えるため、朱鎔基首相は1999年4月にアメリカを訪問し、中米間の貿易協約の中身について大幅に譲歩した。アメリカ企業が進出を強く希望している通信や金融の分野で譲歩したのだが、クリントン大統領は、この譲歩を「不十分だ」として協約の調印に応じず、朱鎔基は傷心のうちに帰国した。 この時クリントンが協約に署名しなかったのは、彼を取り巻く国内政治が理由だった。クリントンと民主党を支援する勢力として、財界(大企業)と労働組合という2つの大勢力が存在する。 そもそもクリントン政権が中国に接近したのは、独占に近い状態で世界の旅客飛行機を作っているボーイング社や、自動車メーカー、金融機関、電信電話会社など、中国に製品やサービスを売り込めそうなアメリカの大企業が、強いロビー活動を展開してきたことが一因だった。 だが、もう一方の支持母体である労組は「中国政府が民主化を弾圧している」「中国製品が輸入されるとアメリカの労働者が失業する」といった理由で、米中間の貿易振興に反対していた。財界に引っ張られ、中国びいきになっているクリントンを見て、労組勢力は「俺たちの反中国の主張も聞け」と迫った。その余波で、政治生命を賭けてワシントンに飛んだ朱鎔基の思いが踏みにじられたのだった。 朱鎔基首相は中国に帰国後、保守派から「アメリカに譲歩しすぎだ」と攻撃され、その後の半年間に2回、辞職勧告を受けた。99年5月には、NATOがベオグラードの中国大使館を「誤爆」する事件が起き、これが中国の保守派によって「反米愛国」運動の道具に使われた。北京のアメリカ大使館が投石され、中米関係は天安門事件後の冷えた状態に逆戻りした。 ▼ハッピーエンドを壊したシアトル会議 だが、中国の保守派は、経済建て直しの政策を持っていなかった。クリントン政権が「朱鎔基首相の訪米時の譲歩提案を拒否したのは間違いだった」と認め、「誤爆」の被害者にも賠償する姿勢を見せたため、中米関係は再び融解に向かい、中国では改革派が力を盛り返した。99年9月には、ニュージーランドで開かれた国際会議の機会をとらえ、クリントンと江沢民が会談し、仲直りのパフォーマンスも行われた。 アメリカ側はこのとき「来年は米大統領選挙があるので、その前にWTO加盟を決めた方が良い。選挙の季節に中国のことが政治テーマになると、共和党の反対が強化され、民主党は分裂の危機に襲われる。そうなるとWTO加盟は実現しない」と説明し、中国側も納得したとされる。 両国は、99年11月末にシアトルで行われるWTO会議までに、中国WTO加盟の前提となる貿易協約を締結できる状態にすることになった。 この後の中米交渉は、再び難航し、シアトルWTO会議10日前の11月中旬に北京で行われた交渉でも、決着がつきそうもなかった。だが、決裂かと思われた土壇場で、朱鎔基首相が保守派を出し抜いて交渉現場に現れ、話をまとめた。この記事の冒頭で紹介した出来事は、そのときのことである。 ところが、これでハッピーエンドではなかった。その後シアトルで開かれたWTO会議は「加盟国は環境問題や労働者の人権に配慮しなければならないという決まりを作るべきだ」と外野から主張する多数の市民グループによる騒乱をきっかけに、環境・人権重視の先進国と、それに反対する発展途上国の間の亀裂が深まり、ほとんど何も合意できないまま、閉会に追い込まれた。 このときの反対運動の中心は、大手の労働組合連合である「AFL−CIO」などだった。その半年前、朱鎔基訪米の際、米中協約の合意を阻んだのと、同じ勢力である。彼らは、シアトルWTO会議に反対する名目として世界的な環境保護・人権擁護を掲げていたが、最大のねらいは、中国のWTO加盟阻止であった。 (シアトル会議については「シアトルWTO会議をめぐる奇妙な混乱」と「世界を支配するNGOネットワーク」を参照) ▼まだまだ続く難しさ その後、アメリカの政局は選挙モードに入り、政府が結んだ中国との貿易協約は、議会が批准しないまま、棚上げ状態が続いている。共和党は批准に反対だし、民主党は党分裂が怖くて手を出せない。民主党から大統領選挙に出馬するゴア副大統領などは、労組の歓心を買おうと、AFL−CIOの会合で、中国のWTO加盟に反対する姿勢を表明し、政府の通商担当者を困惑させている。 さらにもう一つ、台湾で3月18日に行われる総統(大統領)選挙を前に、中国が台湾を威嚇する態度を表明していることも、WTO加盟の障害となっている。2月下旬、中国はEUとの間で、WTO加盟の前提となる貿易協約を結ぶ交渉に入ったが、交渉4日目で決裂してしまった。中国側は「もう少しで歩み寄れるのに」とコメントしたが、ヨーロッパ側の態度は硬い。これには、台湾の選挙を力の威嚇で邪魔しようとする中国に対する抗議の意味があると思われる。 次々と起こる内外の出来事や、各種勢力の思惑に、いちいち影響されてきたのが、中国のWTO加盟問題であり、この傾向が今後も続くことは間違いない。
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