国際通貨になる人民元2010年8月30日 田中 宇中国政府が、人民元の国際利用を慎重に拡大している。中国政府は、6月に人民元の為替を自由化していく方針を表明した後、それまで上海などの企業だけに許されていた海外取引の人民元決済を、すべての国内企業に許可した。7月には、香港での人民元取引の規制を緩和した。8月には、中国との取引で人民元を貯め込んだ海外の企業や中央銀行に対し、中国国内市場で債券を売買することを認めた。また同月、非金融企業として初めて、米国のマクドナルドとウォルマートが、香港で人民元建て社債を発行することを認められた。 (China speeds up yuan's global ascent) (McDonald's Sets Benchmark for China With Yuan Bond Sale) 中国政府は、人民元の国際化を08年から3段階で本格化してきた。第1段階は、香港や東南アジアといった外国で、人民元の取引を認めたこと。第2段階は、海外での人民元備蓄の拡大を容認し、香港や東南アジアなどに人民元のオフショア市場を作ることで、これは現在進行形だ。香港では今年7月、これまで禁止されていた人民元建て口座間の送金が認められた。マクドナルドなどが香港で人民元建て社債を発行するのも、この範疇に入る。そして第3段階は、海外に備蓄された人民元が中国国内の金融市場に還流することを許すこと。8月に開始された国内債券市場の開放がこれにあたる。 (Beijing's multi-pronged experiment with currency liberalization plays out in Hong Kong) 中国政府は、人民元の国際化に対して異様に慎重だ。中国の経済規模は今夏に日本を抜き、いまや米国に次ぐ世界第二位なのに、これまで中国は国際的な貿易決済に自国通貨を使わず、ドルを使ってきた。世界の大国群の中で、貿易に自国通貨を使わないのは中国だけだ。中国政府は近年ようやく元の国際化を進めているが、そのやり方は段階的に事を進める慎重なもので、まず選ばれた地域や企業群にのみ新段階の取引を許し、問題がなければ少しずつ許可対象を広げている。しかも中国は、為替相場に対する強い管理を続け、元の国際利用を拡大しつつも、元の対ドル為替は固定したままにしている。 (China's currency Wiggle it. Just a little bit) こうした中国政府の慎重さの背景にあるのは、米英の中枢で、中国の経済台頭を誘発して儲けたい多極主義の勢力と、中国の台頭を妨害して米英覇権を維持しようとする米英中心主義の勢力(軍産英複合体)がいて、暗闘していることだ。中国は、多極主義勢力の誘いに乗って、東アジアの覇権国になる道を歩んでいるが、気をつけないと米英中心主義に付け入られ、天安門事件的な人権・民主化がらみの政治事件の再発や、アジア金融危機のような投機筋による為替破壊を起こされかねない。だから中国は、人民元の為替を自由化しないし、共産党独裁をゆるめたくない。(天安門事件に関するマスコミ報道に大きな誇張があったという指摘が、最近また出てきている) (Western media play along in the disinformation game By GREGORY CLARK) 中国政府は人民元の国際化を、なるべく目立たないように進めようとしている。たとえば、8月に入って、英国系のHSBC(香港上海銀行)やスタンダード・チャータード銀行、米国系のシティ、JPモルガン・チェースといった欧米の国際銀行が、取引先の欧米企業に対し、中国との取引をドルでなく人民元で決済するよう勧めている。HSBCなどは、企業が中国との取引をドルでなく人民元で決済した場合、手数料などを優遇して、企業が人民元を使うように仕向けている。 (Incentives to move from dollar and euro on China goods) これは、英米銀行が営業戦略の一環として考えついたことのように見えるが、中国政府の許可なしに、これらの戦略が行われているとは思えない。許可なくやれば、後で中国政府からしっぺ返しを食らう。むしろ、中国政府が英米銀行に声をかけ、貿易決済の人民元化を誘導していると考える方が自然だ。 中国政府の国際戦略は、目立たないように隠然と進められることが多い。しかし中国は、饒舌だが歪曲情報が多い米国のようにだましの構図が入った重構造の戦略は採らない(米国のように巧妙にやれないので)。中国関連の情報を詳細に長く見ていると、断片的な情報をつなぎ合わせた全体像として、中国の戦略が見えてくる。 ▼ドルはまだ延命する? 今夏、中国政府が人民元の国際化を進めている裏には、米ドルへの信頼が世界的に揺らいでいる現状がある。特に8月10日に米連銀が量的緩和策の再開を決め、連銀が米国債を買い支える政策を復活したことが、ドルと米国債に対する国際的な信頼を失わせた。日本では、この流れが円高として表れている。中国は、ドルの自滅傾向に反比例するかたちで、人民元の国際化を加速している。ドルに対する信頼が失われていないなら、英米の銀行が、取引先企業に対して、中国との貿易にドルでなく人民元を使った方が良いと勧めたりはしない。 ドルは崩壊過程を進んでいる。米連銀が量的緩和の復活を発表して以来、多くの分析者が「ドル崩壊が近い」と言い出し、米軍司令官までが警告を発している。これまで米国債を買っていた中国が買い控えに入り(いつ米国が財政破綻するかわからないので、長期米国債を避けて、短期債しか買わなくなって)、米国債が売れ残る懸念が増したので、連銀が長期米国債を買い支える量的緩和の再開が必要になったと考える分析者が多い。また、バーナンキ連銀議長が米国債を守るため、不況がぶり返しそうだとあえて発言し、投資家が資金を株式市場から米国債市場に移すよう仕向けたという見方も出ている。 (National Debt Poses Security Threat, Mullen Says) ('US financial elite destroy the dollar') (And Now We're Headed For The GREATEST Depression, Says Gerald Celente) 分析者たちの騒々しさから考えると、今秋にもドルと米国債の崩壊が起きても不思議ではない。私自身、米国がドル崩壊に向かっていることは、この数年、何度も書いてきた。しかし今、私は「影の銀行システム」の堅調さから見て、米国の金融崩壊がまだしばらく起きそうもないという感じも受けている。 (影の銀行システムの行方) 今春以来、米国債からジャンク債までの米国のすべての債券の相場が上がり、金利が低下している。ジャンク債の売れ行きが非常に好調で、8月中旬の1週間に143億ドル売れて、史上最高の記録を作った(それまでの最高記録は今年3月に作られた140億ドル)。この主因は、連銀の量的緩和の影響だとよく言われるが、私はむしろ、JPモルガンなどが、リーマンショック後に崩壊していた「影の銀行システム」(債券金融システム)を立て直すことに成功した結果だと考える。 (Sales of junk bonds set to reach new high) 政府の規制外で自走して企業の資金調達を容易にし、倒産を減らす影の銀行システムがうまく機能している限り、そこで作られた巨額資金が米国債を買い上げるので、中国などの外国勢が米国債を買い控えても、それだけで米国は崩壊しない。今のように米国の不動産市況の下落が続くと、不動産担保債券の発行による影の銀行システムは、いずれ崩壊する。だが短期的には、新たに発行された債券で、以前に発行されて担保割れした債券の損失を穴埋めできるので、不動産市況の下落局面でも、影のシステムは崩壊しない。 (Ultra-Low Bond Yields a `Double-Edged Sword,' Wells Fargo Says) 私はこのような理由で、ジャンク債の発行が堅調な限り、米国債やドルの崩壊は起こりにくいと考えている。しかし連銀は、影のシステムに任せておけば良いはずの米国債の買い支えを、連銀が量的緩和策として大々的に発表して実施するという余計なことをしているので、むしろこれが投資家の米国債に対する敬遠を招き、米国債は意外と早く今年中に自滅するかもしれない。米国の覇権を延命させる影のシステムの再生と、覇権を自滅させる隠れ多極主義的な連銀の量的緩和再開が、暗闘的に拮抗している。どちらが強いかは、10月までに見えてくるだろう。 (米連銀の危険な量的緩和再開) (今春、オバマの顧問のポール・ボルカー元連銀議長が、金融改革の新法によって、影の銀行システムを破壊しようとしたが、米銀行界は議会に対する圧力を行使して法案に抜け穴を作り、新法を骨抜きにした。米国では、政府より銀行界の方が政治力が強いので、連銀の自滅策が勝るとは限らない。だが、すでに崩れかけている金融システムを立て直すのと破壊するのでは、破壊する方が容易なので、自滅策の連銀が勝つ可能性もある) ▼米国の巨額な隠れ赤字 影の銀行システムは、短期的には堅調だ。だが中長期的には、米不動産市況の悪化がこの先もずっと続きそうで、不動産担保債の好調がいずれ終わりそうなこと、米国の実体経済の悪化が続いて増税ができないこと(しかもブッシュがやった金持ち減税は延長されそう)、米国は地方の州や市が財政破綻し、その穴埋めを連邦政府がやらざるを得ないこと、メディケアなど社会保障の「隠れ赤字」が巨額になっていることなどから考えて、米国全体の赤字が増え続ける。 (やはり世界は多極化する) 米政府は、社会保障費や防衛費の分野で、歳入と支出に実体からかけ離れた名目をつける「ラベルの貼り替え」の手法で、後世のために残しておくべき歳入を先に使ったり、支出を過少に計上したりする赤字隠しを、かなり前からやっている。この件を指摘してきたボストン大学のコトリコフ教授は、隠された赤字を含む米政府の赤字総額について、07年には「公表されている財政赤字の6倍にあたる66兆ドル」と計算していたが、最近では「公表された赤字の15倍にあたる202兆ドル」という計算を発表している。 (U.S. Is Bankrupt and We Don't Even Know It: Laurence Kotlikoff) (アメリカは破産する?) こうした想像を絶する巨額の負債を抱える米国は、いずれ財政破綻する。影の銀行システムも、不動産担保債券という負債のかたまり(総額20兆ドル)であり、借金によって米国を延命させる策だ。米国債やドルの破綻は、今年中に起きないとしても、来年、再来年と起きる確率が高まっていく。 (Who's buying all that debt?) 8月10日に連銀が米国債の買い支えの再開を決めたことは、米政府が自滅的な傾向を持つことの象徴である。これを見て中国政府が、貿易決済でドルの代わりに人民元を使う傾向を強めた。中国は6月以来、米国債を買い控え、代わりに日本や韓国の国債を買い増している(比率的には、まだ米国債が圧倒的に多いが)。 (China Doubles Korea Bond Holdings as Asia Switches From dollar) ▼交通網の整備で強くなる中国経済 米国では、ノーベル受賞した経済学者のポール・クルーグマンらが、人民元を切り上げれば米中間の経済不均衡が改善されると主張してきた。だが最近のFT紙の記事は「中国が高度成長は、為替操作によるものではなく、まさにクルーグマンが30年前に打ち立ててノーベル賞を与えられた発展理論(新経済地理学)を、中国が実行したからである」と、クルーグマンを皮肉りつつ書いている。 (Watch China's coasts, not its currency) FTによると、中国が経済発展できたのは、トウ小平が「3つのD」の政策をやったからだ。最初は、工業生産を沿岸部のいくつかの地域に集中(density)させ、これによって産業の効率が上がった。その後、第2段階として、高速道路や新幹線といった交通網を整備し、沿岸の産業が遠く離れた(distance)内陸部に移転しやすい環境を作り、沿岸部の経済発展を全国に広げ、沿岸部と内陸部の格差(divisions)を縮めるという第3の段階に、中国は向かいつつある。人民元の為替水準は、中国の驚異的な発展とほとんど関係ない、とFTは書いている。 中国はここ10年間ほど、猛烈な速度で高速道路や新幹線を全国に張りめぐらせている。中国のGDPの3分の2は、これらのインフラ整備によって生み出されてきた。日本などでは、中国のインフラ整備は過剰であり、遊休施設が資金のムダとなり、いずれバブル崩壊するという見方が多い。しかし、クルーグマンが理論構築し、トウ小平から胡錦涛までの中国政府が実践してきた地理経済学の理論に基づけば、大胆なインフラ整備をすることによって、企業は沿岸部から内陸部に工場を移転しやすくなり、国土の均衡ある発展と貧富格差の是正につながる。インフラ整備の過剰さでは、地方に空港や道路を作りすぎて遊休化している日本も、中国と大差ない。日本でも、たとえば今では快適な名古屋市の広々とした道路網は、50年前には過剰なインフラ整備と批判されていた。 今春、沿岸部を中心とする中国各地の工場で賃上げ要求の労働争議が起こり、中国政府がそれを黙認する姿勢を見せたが、これも上記の地理経済学に当てはめると、沿岸部の賃金を引き上げることで企業の工場を内陸部に誘致するとともに、人々の収入を増やして国内消費を喚起し、経済を輸出主導から内需主導に転換する方策に見える。 (◆中国を内需型経済に転換する労働争議) 中国経済が輸出主導型から内需主導型に転換することは、中国が覇権国になるために必要な転換だという指摘もある。20世紀前半に、覇権が英国から米国に移転したが、それを引き起こした要因の一つは、米国が19世紀後半以来、全土に鉄道や道路など当時の最新鋭のインフラを整備し、国民の所得増大を誘発して強い国内市場を作り、国内の消費力によって米経済が自転する構造を作って、欧州諸国より強固な経済基盤が構築されたことだった。そして今、中国は、米国が19世紀末にやったのと同じようなインフラと国内消費市場の強化を進めている。今後の多極型の世界の中で、中国が欧米と並ぶ(地域)覇権国になるのなら、人民元が国際基軸通貨の一つになるのは当然だ。 (China up, U.S. down, that's all you need to know) ▼日本の円高対策は失敗した方がよい ドルは自滅しつつあり、人民元は台頭しつつある。そんな中で、わが日本はどうしているかというと、政府が日銀に圧力をかけて、連銀と同様の量的緩和をもっと大胆にやらせようとしている。日本経済の生命線は輸出産業であり、円安ドル高は日本にとって必須だから、連銀の自滅的な量的緩和策によってドル安円高が起きているのなら、日銀も自滅的な量的緩和策をやらねばならないというわけだ。しかし連銀の自滅策が、いずれドルと米国債の崩壊につながるとしたら、日銀が同様の自滅策をすることは、日本を米国と無理心中させる破綻に導きかねない。日銀は、無理心中したくないので、政府から圧力をかけられても抵抗している。 (Getting Ready For A dollar Collapse?) (日本で支配的な官僚機構が円安を望む真の理由は、輸出産業の保護ではない。日本の製造業大手の多くは生産を国際化しており、円高は大してマイナスにならない。円安を求める真の目的は、円をドルよりできるだけ弱い立場に置くことで、官僚機構の支配を維持できる対米従属の国是を続けることである) 実際には、日本国債の9割近くが金融機関を中心とする日本国内の機関投資家の保有で、国民の預金や保険料で国債が買われている。政府の行政権力を使えば、国内金融機関は日本国債を売らず、米国債が崩壊しても日本国債が連鎖崩壊することはない。しかし、日本より米国の国益を優先する対米従属派は、ドル崩壊の過程で、日本を自滅させても米国を救おうとしかねない。何をするかわからないので、警戒が必要だ。 1970年代に秘密裏にG5が結成されてから最近まで、欧州など世界の先進諸国は対米従属を好み、米国が自滅的な政策をやってもドルを買い支え、ドル崩壊を防いできた。しかし最近、英国やEUは、もはやドル崩壊が不可避と考えているらしく、量的緩和策を再開する米国をしり目に、逆方向の財政金融の引き締めをやって、自国の財政崩壊を防ごうとしている。いまだに米国との無理心中するつもりでいる先進国は、日本だけになりつつある。 (Austerity vs. Stimulus: Damned Either Way?) 以前は日本円と中国人民元を並列的に扱って「アジア共通通貨」を提案していたアジア開発銀行(ADB)は最近、アジア共通通貨の構想は現実的でないと言い出し、代わりに、人民元が急速に国際化してアジアにおいてドルに代わる基軸通貨となり、世界的にもユーロと並ぶ国際通貨になるという予測を打ち出した。ADBは伝統的に日本が主導してきた組織なのに、ADBが描くアジア通貨の未来像の最新版には、国際通貨としての日本円の姿がない。いつまでも対米従属一本槍の日本は、国際的に期待されなくなっている。多極化の流れの中で、対米従属策は、明らかに日本の国益を損なっている。 (Yuan can become alternative reserve currency to US dollar-ADB) 8月30日、日銀は円高対策として追加の量的緩和策を発表したが、市場の好感は得られず、これを書いている間、円高が進んでいる。民主党の中に意外と多く入り込んでいた対米従属派が日銀に圧力をかけても、今のところ効率的な自滅策になっていない。その一方で、外国人投資家の間には、中国に近い日本を、まだ投資流入を自由化していない中国の代用品と見なし、ドル崩壊期の逃避的な投資先として好む傾向があり、そのことが円高傾向に拍車をかけている。 (Downside of a yen haven) マスコミは、円高を止められない日銀や菅政権を批判する記事を出すだろうが、マスコミも対米従属の宣伝機関である。実際には、日銀や政府が自滅的な円安策に失敗して円高が進んだ方が、日本の将来にとって良いことである。
田中宇の国際ニュース解説・メインページへ |