他の記事を読む

アメリカは破産する?

2006年8月15日  田中 宇

 記事の無料メール配信

 7月中旬、アメリカの中央銀行にあたる連邦準備銀行の専門家が「このままだとアメリカは破産する」と指摘する論文「Is the United States Bankrupt?」を書いた。

 論文は、セントルイス連邦準備銀行のエコノミストであるローレンス・コトリコフ(Laurence J. Kotlikoff、ボストン大学教授を兼務)が書いたものだ。それによると、アメリカでは、高齢者向け(メディケア)と、低所得者向け(メディケイド)の2つの官制健康保険と、公務員年金の制度改定を、ブッシュ政権が行った結果、今後これらの社会保障費の政府予算支出が急増していくことが確実になっている。

 ブッシュ政権はその一方で、大規模な減税政策を行い、それを恒久化しようとしている。今後、政府支出の増加と、税収の減少によって、財政赤字が急拡大することが予測され、アメリカの財政赤字は66兆ドルに達すると論文は指摘している。現在のアメリカの財政赤字は約8兆ドルなので、赤字は今の8倍にふくらむことになる。(関連記事

 66兆ドルという赤字額は、アメリカの国家経済の規模の5倍であり、アメリカ政府は赤字を返済できないので破産状態になるというのがコトリコフの予測だ(日本の財政赤字は9兆ドルで、国家経済規模の2倍)。破産を防ぐには、ブッシュの減税政策をやめて所得税と法人税を倍増させ、消費税も導入するか、社会保障支出を削って3分の1にするか、連邦政府予算のうち使い道に自由裁量がある部分を大幅に削るか、といった方策を採る必要があるという。(関連記事

 66兆ドルという赤字額は、コトリコフの同僚の学者が昨年発表した数字だが、米財務省が決めた方式に従って計算したもので、信憑性の高い数字だという。コトリコフによるとこの数字は、政府の緊急支出を勘案していない上、楽観的な経済予測を使って計算しており、実際の財政赤字はもっと増える可能性がある。

▼危険な大減税の恒久化

 ブッシュ政権の大減税政策は「大規模な減税をすると、人々は税金を払わなくてすむ分のお金を消費に回すので、経済が活性化し、やがて税収が増える。減税は、税収増加につながる」という「レーガノミクス」(レーガン主義)の理論に基づいている。(関連記事

 ブッシュ政権は2001年の就任直後から、この理論に基づく大減税をやろうとしたが、アメリカの経済専門家の中には「レーガノミクスはまやかしだ」「レーガン時代の減税は成功していない」という反論が多く、結局ブッシュ政権は10年間(2010年まで)の期限を切って大減税を実験的に開始した。

 大減税の中身は、法人税や相続税、高所得者向けの所得税、キャピタルゲイン課税などの減税であり、貧困層への恩恵が少なく、年収100万ドル(1億円)以上の大金持ち層が大きな恩恵を受けるようになっている。

 減税の効果はあまり出ておらず、ブッシュ政権は「2008年ごろから効果が表れる」と釈明しているが、議会では、減税を好む財界からの圧力を受け、効果があるかどうか判定が出る前に、大減税の政策を時限立法から恒久化へと格上げしてしまおうとする動きが起こり、08年を待たずに大減税の恒久化が進行しつつある。(関連記事

 レーガノミクスがまやかしだと考える財政の専門家の中には、大減税を恒久化すると、アメリカの財政は破綻すると危機感を持つ人が多く、コトリコフ教授も、そうした危機感を抱く一人として論文を書いたのだと思われる。

▼タカ派・ネオコンは赤字拡大派

 アメリカの財政赤字が、本当に返済不能な状況にまで拡大するとしたら大変なことである。一介のアナリストが薄い根拠で発言しているのなら無視できるが、中央銀行のメンバーが財務省の計算式を使って分析し、主張しているのだから、信憑性が高い。しかし、アメリカのマスコミでは、コトリコフの論文はほとんど報じられていない。私がこの論文に気づいたのは、イギリスの新聞テレグラフ紙に記事が出ていたからである。

 この件がアメリカで報じられないのは、赤字を増やすような政策を強行しているのがチェイニー副大統領らタカ派・ネオコン系の人々であり、彼らはマスコミや学界にもネットワークを張りめぐらし、赤字を縮小しようとする勢力の主張をつぶす動きをしているからである。タカ派・ネオコンの政敵潰しのやり方は、イラク侵攻の前後に「イラクに侵攻すると泥沼化する」「イラクは大量破壊兵器を持っていないのではないか」といったアドバイスをした人々がつぶされ、米マスコミがイラク侵攻支持一色になったのと同じ構図である。

 タカ派・ネオコンの「赤字拡大派」と、経済専門家の「赤字縮小派」との決定的な戦いがあったのは2002年後半のことだ。コトリコフの論文によると、当時のブッシュ政権内には、メディケアの支出拡大と大減税の両方を同時に行うと財政危機になると主張する経済専門家が何人かおり、当時のオニール財務長官は彼らの主張に耳を貸し、2003年2月に発表される03年度予算案に、赤字縮小派の主張を盛り込もうとした。しかし、このような動きが起きた矢先の2002年12月、オニールは財務長官を罷免されてしまい、メディケアの支出拡大と大減税の政策は予定通り実施され、財政赤字が拡大していく方向性が確定されてしまった。(関連記事

 コトリコフの論文では、誰がオニールを罷免したかは書いていない。しかしワシントンでは、オニールを罷免したのはチェイニー副大統領であるというのが通説となっている。コトリコフは、当時オニールの側近として財政赤字の拡大を防ごうとした経済専門家たちの一派に属していることが、論文からうかがえる。(関連記事

▼ブッシュ政権の頑固さの真意

 コトリコフ教授は、再増税や社会福祉の削減によって財政赤字の拡大を止めるべきだと主張しているが、増税や福祉削減は国民の受けが悪いことを考えると、この主張はほとんど現実味がない。しかも、ブッシュ政権の「財政赤字拡大戦略」は「中東民主化戦略」と同様の、異様な頑固さをもって進められており、たとえ戦略が間違っていることが証明されたとしても、ブッシュ政権が政策を変更しないことは、ほぼ確実である。

 ブッシュ政権は、イラク侵攻やイラン敵視、ヒズボラ敵視などの中東民主化戦略が、中東の人々の反米感情とイスラム過激派支持を強めるだけの逆効果の戦略であることが誰の目にも明らかになっても、その現実から目をそむけ、むしろ「この戦略は失敗する」と進言する政府幹部を罷免して反論を封殺し、間違った戦略でもかまわないから続けるんだ、といわんばかりの姿勢を貫いている。同様にブッシュ政権は、オニール財務長官の罷免劇に象徴されるように、大減税政策に反対する政府幹部を罷免し、これ以降、米政府幹部で大減税政策に表立って反対する人は皆無になっている。

 中東民主化は軍事的・外交的なアメリカの自滅、大減税とメディケアなどの大盤振る舞いは財政的なアメリカの自滅につながりかねないが、これらの「双子の自滅」を推進している中心的な存在は、チェイニー副大統領であり、私は、彼が「隠れ多極主義者」の頭目だろうと疑っている(彼は連邦議員としての経験が長く、議会を操作する方法についても熟知している)。

 チェイニーら多極主義者は、すでに2002年12月のオニール罷免と、03年3月のイラク侵攻を機に、アメリカを自滅させる戦略を不可逆的な領域まで進めることに成功している。アメリカの衰退は、時間の問題になっている。

 最近公表されたチェイニーの資産運用の内容は、インフレ率と金利の上昇、ドル安ユーロ高を予測する方向に賭ける投資となっていた。「双子の自滅」は、金利の上昇やドル安を招く方向の動きであり、チェイニーが個人資産の運用においても多極化の方向に賭けていることが判明した。(関連記事

 日本も財政赤字は危機的だが、私がアメリカの方がはるかに危いと思うのは、チェイニーのように財政赤字を故意に急増させたがる多極主義的な勢力が政権中枢におり、多くの人は彼らの戦略に気づいてすらいないからである。

▼財政赤字は発表額の2倍

 コトリコフの論文は、アメリカがいずれ破産することを指摘したが、これとは別に、未来の話ではなく現在までの話として、アメリカの財政赤字は発表されている額よりもかなり多い、という指摘もなされている。

 8月3日の「USAトゥデイ」の記事によると、アメリカの財政赤字には2種類の数字があり、米政府はその中の最も少ない数値を「財政赤字」として発表している。だが、少ない方の数値には、公務員年金や、メディケアなどの官制健康保険の政府負担分が計上されていない。一般の企業会計では、多い方の数値を使わないと不正経理とみなされるが、米政府の「不正経理」は放置されている。

 2005年の財政赤字は、少ない方(政府発表)が3180億ドルで、多い方(会計基準として正しい方)は7600億ドルだった。米政府は、財政赤字を実際の半分しか発表していないことになる。

 USAトゥデイによると、この悪弊はクリントン政権時代からのものだ。クリントンは2期目の4年間で米財政を5590億ドル黒字化したことになっているが、これは年金と健康保険の負担を除去した数字で、これらの負担を加算すると、4840億ドルの赤字を出していた。7290億ドルと発表されている、米政府の1997年からの累積財政赤字も、実際には2兆9000億ドルの赤字だという。この記事の指摘と、コトリコフ論文の指摘は、同じ話の過去と未来について述べているものである。

▼アメリカが不況に陥る可能性は70%

 ここまで財政の話を書いてきたが、アメリカは景気についても、最近急にかげりが見え始めており、多極主義者好みの展開になっている。象徴的なのは8月9日のフィナンシャルタイムス(FT)の記事である。「世界はアメリカの不況に備えるべきだ」(The world must prepare for America's recession)と題するこの記事によると、アメリカが不況に陥る可能性は先月は50%だったが、今では70%に上がった。しかも、経済はソフトランディングするのではなく、一気に悪化しそうだという。来年には、アメリカ発の世界不況が起きそうである。

 アメリカの連邦準備銀行が8月8日に利上げを見送ったが、石油価格の高騰が誘発するインフレが激しくなっているので、本来は利上げが必要だった。しかし、これまで5−6%台だった米経済の成長率は、景気を支える不動産市況の悪化の結果、2%台に急減速した。経済成長が止まりそうなので連銀は利上げがしにくく、インフレと景気悪化の板挟みになっている。(関連記事

 FTの記事によると、アメリカの不況の元凶となる要因は3つある。住宅の売れ行き不振、石油価格の高騰、金利の上昇である。そして、これらの3つの要因は、いずれももはや悪化を止めることができない。

 住宅バブル崩壊の懸念については、今年1月の記事「アメリカ発の世界不況が起きる」に書いたとおりだ。あの記事を書いてから7カ月が過ぎたが、事態はほぼ記事に書いたとおりの展開になっている。1月の私の記事と先日のFTの記事は、いずれも「アメリカの不況は世界経済全体に悪影響を与える」「ドルが急落しかねない」と分析している点で一致している。FTだけでなく、最近は欧米の新聞の多くが、アメリカは来年にかけて不況になりそうだと警告を発し始めている。(関連記事

 石油価格との関係でも、アメリカの景気減速は非常に間の悪いときに始まっている。7月12日に始まったイスラエルのレバノン侵攻で中東情勢は一気に悪い方向に流動化した。イランとの敵対もひどくなっている。イランが、自国の前にある、世界の石油の4分の1がタンカーに載って通過するペルシャ湾入り口のホルムズ海峡を封鎖する懸念も増しており、石油価格はもっと上がりそうである。石油価格が上がるほど、アメリカが不況に陥る可能性は高くなると指摘されている。(関連記事

▼パイプライン閉鎖は石油価格つり上げ策?

 石油価格に関し、石油会社が値段をつり上げている疑いもある。イスラエルがレバノンに侵攻して中東情勢が悪化し、石油価格がいっそう高騰する最中の8月6日、アメリカの国内石油生産量の8%を占める、アラスカ州にあるアメリカ最大のプルドホーベイ油田(Prudhoe Bay)で、パイプラインの一部が腐食によって危険な状態になっていることが発見され、石油生産が激減する事態が起きた。パイプラインの修理には数カ月かかると予測され、国際原油価格はこの事件を受けて2ドル上昇した。

 この油田は、イギリス系の石油会社BPが採掘しているが、今回の事件は突発的に起きたものではなく、10年以上前からアラスカのBP社内では、パイプラインの腐食を指摘する社員が何人もいた。しかし、BP社は腐食を放置し続けた。腐食が進んで石油が漏れ出すと環境破壊になると心配し、BPが動かないなら政治家に警鐘を鳴らしてもらおうと地元の議員に電話した社員は、会社から自宅の電話を盗聴された上、ささいな別件のミスを咎められ、会社を辞めさせられてしまった。パイプラインの腐食を指摘してクビにされたBP社員は何人もおり、地元の環境保護団体は、以前からBPの腐食隠しを批判していた。(関連記事

 アラスカのBPでは今年3月にも、環境保全担当の社員が腐食したパイプラインからの石油の漏れ出しを発見したが、会社側は抜本的な対応をとらず、漏れた箇所をふさいだだけだった。

 ここで湧く疑問は、なぜBPは、10年前から分かっていた腐食を放置し、今年3月にも応急処置しかしなかったのに、今回、中東で戦争が激化して石油がさらに高騰しそうなタイミングを狙って、パイプラインを総取り替えする数カ月の大工事を始めたのか、ということである。アラスカのBPの油田で採掘した石油は、主にカリフォルニアに送られるが、カリフォルニア州で最大のガソリン小売業者はBPの子会社である。このことから、BPは石油価格の釣り上げで儲けようとして、パイプラインをこのタイミングで閉鎖したのではないか、と分析する専門家もいる。(関連記事

 BPは世界中にパイプラインを持っているが、その中には、今年3月に開通した、カスピ海からトルコに日産100万バレルの石油を運ぶ「バクー・ジェイハン・パイプライン」もある。そして、このパイプラインも、建設中から腐食が問題にされているが、十分な腐食対策がとられていない。BPにとっては、まだ儲けを増やす道具は残っているというわけだ。(関連記事

 BPが今回のタイミングでアラスカのパイプラインを止めて石油価格をつり上げることは、米経済の悪化を誘発する。チェイニー副大統領ら、ブッシュ政権中枢でアメリカを自滅させようとしている多極主義者は、この動きを歓迎しているはずだ。

 ブッシュ政権は、石油、軍事、製薬、農業など、政治献金してくれる業界に非常に甘い政策を展開している。BPが長年パイプラインの腐食を放置しても政府から咎められなかったのは、その象徴であるが、ブッシュ政権が政治献金してくれる業界に甘いのは、単に政権が不合理に腐敗しているからではなく、彼らが多極主義者であり、業界に勝手なことをさせて経済を破壊しようとする合理的な戦略なのかもしれない。

 ブッシュ政権が農業団体の主張を聞き入れ、WTOにおける譲歩を拒否して協議をつぶすことで、WTOの体制そのものを崩壊させかけていることも、そのことを感じさせる。

▼ソフトランディングに失敗する世界

 今後、アメリカの大不況、財政赤字の大増加、ドルの大幅下落、アメリカの外交力のさらなる低下などが起こる確率が、しだいに高まっている。アメリカが消費できなくなり、ドルが基軸通貨でなくなったら、その後の世界はしばらくの混乱を経た後、世界経済にとって重要な消費地は、東アジア(中国、日本、韓国など)、EU、インド、ロシア、ペルシャ湾岸、中南米などに多極化せざるを得ず、基軸通貨も多極化を余儀なくされる。

 アメリカの不況や財政破綻が引き起こす世界的な衝撃を予防的に緩和するため、アメリカは今春、IMFやアジア開発銀行を通じて、国際的な通貨の多極化を誘発しようとした。アメリカは、多極化に向けて世界をソフトランディングさせようとしたのである。(関連記事

 しかし、世界の多くの国々の指導者は、アメリカが推進する多極化や自滅戦略に気づいておらず「今後もずっとアメリカの単独覇権体制が続くのだろうから、通貨の多極化など進める必要はない」と考えたようで、その後、世界の通貨体制をめぐっては、ほとんど何の動きも起きていない。

 これは、今後起きる可能性が高いアメリカの不況と財政破綻に対し、世界が何の準備もしていないことを意味し、アメリカの崩壊によって世界が受ける衝撃が、それだけ大きくなることが懸念される。世界は、多極化に向けてソフトランディングすることに失敗しつつある。



●関連記事



田中宇の国際ニュース解説・メインページへ