IMFが誘導するドルの軟着陸2006年5月2日 田中 宇4月下旬の10日間ほどの間に、世界の景色は大きく変わった。 それまで、アメリカはイラクとか双子の赤字とかいろいろな難問を抱えて「いずれ、やばくなる」とは予想されても、とりあえず今のところはアメリカが世界の中心だ、という状況が続いていた。 だが、4月22−23日に相次いで開かれたIMFの会議と、G7の財務相・中央銀行総裁会議の両方が「アメリカが膨大な経常赤字を抱え、中国などアジア諸国や産油国が巨額の経常黒字を抱えるという不均衡現状が放置されると、いずれドルの暴落や世界不況が起きる」という趣旨の表明をした。これによって「アメリカは危機に瀕している」という認識は「一部の人が主張する極論」から、多くの人々が認める「事実」へと変化していく過程に入った。 「アメリカは、双子の赤字の拡大によってドルが下落して経済覇権を減らし、イラク占領の泥沼化などで軍事と外交の覇権も衰退する。アメリカの覇権が減退する分だけEU、中国、ロシア、インドなどの覇権が拡大し、世界は多極化するだろう」という分析は、私にとって、2004年春に光文社新書で「アメリカ以後」を発刊したころからのものだ。 これまで、アメリカの覇権衰退は、予測の分野における話だった。だが今、世界は「アメリカ以後」を準備することが実際に必要な段階に入った。IMFは「アメリカ以後」の世界体制を準備するための国際機関になろうとしている。 ▼IMFが懸念するドル急落、米金利高騰、世界不況 変貌の皮切りは4月19日、IMFが半年ごとの報告書「世界経済見通し」(World Economic Outlook)を発表し、その中で「アメリカの経常赤字による国際収支の不均衡が今後是正されていくとしたら、その影響で、中期的にドル相場は大幅に下落せざるを得ない」と指摘したことである。(関連記事) 国際収支の不均衡がドルを大幅下落させそうだという問題は、IMFが報告書を発表した後、各国の財務相らが出席して4月21日に開かれたIMF会議でも、中心的な議題としてとり上げられた。会議では「アメリカの住宅バブルの崩壊で消費の減退が起こり、米経済が減速し、ドルが下落するのではないか」「ドル急落は、アメリカの金利高騰を招き、米経済とひいては世界経済の崩壊につながりかねない」という認識で一致したと報じられている。アジア諸国の各代表も、米国債などドル建ての資産を増やすことは、しだいに危険なことになっていることを認識していたという。(関連記事) アメリカの住宅バブルの崩壊が世界不況に結びつきかねないという危険性は、私が今年1月に書いた記事で詳しく説明したとおりだ。 もう一つIMFで議論されたのは、原油価格の高騰によって、サウジアラビアなど産油国が保有するドル建て資産(オイルダラー)が急増していることが、国際収支の不均衡を悪化させている点についてだった。1970年代にオイルショックで原油が高騰した時には、産油国の多くはまだ貧しかったので、産油国は増えた収入の大半を、国家建設のため、もしくは王族の放蕩の結果、欧米の製品を買って消費した。その後、1990年代に石油価格は1バレル20ドル前後に下がり、浪費癖がついた多くの産油国は収入減で大打撃を受けた。 その教訓から、今回の原油高騰の局面では、サウジなどの産油国は消費に慎重になり、石油収入の増加分を貯蓄(資金運用)に回している。この現象は世界的な資金の過剰を生み、911後にアラブ諸国からの直接の資金流入が急減したとはいえ、全体としてみると、アメリカへの潤沢な資金流入を生んでいる。アメリカは不健全な双子の赤字を増大させているため、本来なら金利高になって米政府を困らせるところだが、国際的なカネ余りの結果、赤字が増えても金利が上がらず、アメリカの不健全さが拡大し、最終的な暴落の破壊力はその分大きいものになるという危険な状態を生んでいる。IMFは産油国に「国家インフラ整備とか教育費の増加とか、もっと金を使え」と奨励している。(関連記事) ▼「大プラザ合意」の構想 IMFの会議では、ドル暴落や、米経済の急な落ち込みを回避するために、世界的な対策が打たれる必要があるという認識で一致した。また、ドルの切り下げを人為的に誘導する場合、ドルに対して切り上がる通貨を中国人民元など一部の通貨に限定するのではなく、円やユーロなどを含む、アメリカの主要な貿易相手国のすべての通貨が切り上がる必要がある、という認識でも一致した。これらの事項は、IMFの直後に開かれたG7の財務相・中央銀行総裁会議でも確認された。(関連記事) 1985年の「プラザ合意」では、円とマルクの対ドル相場を切り上げたが、今回は、円とユーロ、人民元、韓国ウォン、サウジアラビア・リヤルなど、広範囲な諸通貨のすべてが切り上がることになりそうで「大プラザ合意」とも呼ぶべき新構想が提案されたことになる。人民元やサウジリヤルは、ドルとの固定相場制(ペッグ)を維持している通貨で、他の通貨の多くも、中央銀行の市場介入によって実質的にドルとの半固定相場になっている。切り上げには、国際的な政治合意が不可欠となる。 プラザ合意は、G7の内部で行ったものだ。米日独という当時の関係国は、すべてG7に加盟していた。プラザ合意以降、世界経済の成長率や、各国通貨間の目標為替水準を決め、その達成に向けて各国に努力させるという世界の経済運営は、G7が取り仕切ってきた。G7は世界政府的な役割を果たしているとも言える。だが今後の「大プラザ合意」は、中国やサウジといったG7以外の国の参加が不可欠であり、G7だけでは手に負えない。 それで、G7からIMFに機能の一部を移転しようという話になっている。為替水準の決定だけでなく、世界の主要国の経済政策を監督して報告書を発表し、不均衡が是正されるような方向に誘導する機能も、G7からIMFに移そうとしている。(関連記事) ▼G7からIMFへの移転は世界の多極化 IMFは加盟国が180カ国以上あり、全体の合意をとりつけるには多すぎるので、G7(アメリカ、日本、イギリス、フランス、ドイツ、カナダ、イタリア)と、新興大国である中国、ロシア、インド、ブラジルを合わせた11カ国を世界の主要な国々とみなし、そこに産油国のOPECなどを加えてIMFの中心として機能させようという構想がある。 これは表向き「IMFにおける発展途上国の発言権を拡大する」という構想だが、すべての途上国に平等に発言権を与えるわけではなく、中国やインド、ブラジル、南アフリカといった、途上国の中でも周辺地域を代表できそうな国を選んで発言権を増大させようとする「世界の多極化」である。(関連記事) 世界の運営は、G7による「先進国中心主義」「欧米(米英)中心主義」の体制から、新興大国や産油国を加えたIMFの「多極主義」の体制へと移行しようとしている。IMFもG7も、アメリカ(米英)の指導力が強い組織である。米英の中枢に、世界の多極化を誘導している勢力がいそうだということが、ここからもうかがえる。(関連記事) そもそも、米政府が事前に了承しない限り、合議制のG7やIMFで、ドル暴落の懸念について議論がなされることはあり得ない。ドル暴落懸念の議論がなされたことにより、ドルはその後全面安となり、この記事を執筆している間も下がっている。米政府が自らドルの基軸性を手放して世界を多極化したいと思っていない限り、このような展開になるはずがない。 ブッシュ政権が多極化を推進するのは、おそらく「資本の理論」に基づいている。欧米や日本といった先進国は、すでに経済的にかなり成熟しているため、この先あまり経済成長が望めない。今後も欧米中心の世界体制が続くことは、世界経済の全体としての成長を鈍化させる。これは、世界の大資本家たちに不満を抱かせる。欧米中心主義を捨て、中国やインド、ブラジルなどの大きな途上国を経済発展させる多極主義に移行することは、大資本家たちの儲け心を満たす。 産業革命以来の資本の動きを見ていると、資本とは、非常に国際的な存在であることが分かる。イギリスで始まった産業革命を、欧州大陸諸国やアメリカ、そしてロシアやアジアへと拡大、飛び火させていったのは、資本家の動きである。資本家が愛国主義を最重視したとしたら、産業革命で得られた技術をイギリスから出さなかっただろうが、歴史はそうなっていない。資本家は、産業革命が一段落したらイギリスを見捨て、まだ産業革命が始まっていない他の国に投資し、その国で産業革命を起こしてもっと儲ける道を選んだ。第一次世界大戦後、世界の覇権と経済の中心がイギリスからアメリカに移動したことにも、資本家の意志が感じられる。欲得が愛国心などのイデオロギーを上回っているのが資本の論理である。(関連記事) IMFに付与された「大プラザ合意」を推進する機能は、IMFが50年前に果たしていた機能を取り戻すことを意味する。IMFは第二次大戦の終結直前に、世界の総合的な通貨運営のための機関として設立され、各通貨間の固定された為替レート(平価)を決めて、それを維持することを主要な役割としていた。「ブレトンウッズ体制」と呼ばれるこの制度は、ベトナム戦争で覇権(経済力と軍事力と外交的権威)を浪費したアメリカが1971年のニクソンショックで金本位制をやめ、為替が変動相場制に移行したことで事実上廃止された。 その後IMFの役目の中心は、財政破綻した発展途上国に再建策をやらせることへと変わったが、それも90年代末には、国家再建とは逆方向の「借金取り」的な厳格さが批判されるようになった。最近の世界的なカネ余りの中で、途上国はIMFに借りた金を返す傾向が強まり、昨年あたりから「IMFは歴史的役割を終えつつある」と指摘されていた。 ▼IMFによる軟着陸は成功しそうもない IMFは今後、ドル暴落や世界不況を回避しつつ、世界を多極化の方向に軟着陸させるべく動き出すのだろうが、この予防的な試みは、成功しない可能性が大きい。IMFは、米政府に対しては財政赤字の削減、米国民に対しては消費を減らして貯蓄を増やすよう求めている。反面、日本やEU、中国、産油国などに対しては、国内消費をもっと増やすことを要求し、アメリカの消費に頼らなくても経済を回していけるような世界体制を作ろうとしている。しかし、これは無理な試みである。 ブッシュ政権は昨年から財政赤字の削減を約束しているが、全く実現できていないどころか、イラク戦費の増大などで、赤字は増え続けている。しかも米経済は、旺盛な国内消費のみが成長の支えであり、消費を減らすことは米経済の減速につながる。日本や独仏は1980年代以降、内需拡大の圧力をアメリカから断続的に受け続けており、これ以上の急な内需拡大は望めない。日本も独仏も、従来の安定した雇用慣行が崩れ、年金制度も財政的な危機に瀕しているため、人々は防衛的な貯蓄に励んでいる。 結局、国際収支の不均衡は、為替市場でドルがすべての通貨に対して売られ、下落していくことによってしか、解決されそうもない。ドルの下落が続けば、世界の国々はいずれ解決策を合議したくなる。その時にIMFの新体制が生きてくる。IMFはドルの急落を防げないが、逆にドル急落の結果、IMFの出番が来そうである。 アメリカは、G7やIMFを通じて多極化を軟着陸させる試みを行う一方で、その試みに対してアメリカ自身は協力しないという状況になっている。これは、矛盾しているように見えるが、多極化とはアメリカの覇権がはげ落ちていく「非米化」であることを考えると、ブッシュ政権が、裏では多極化を扇動しつつ、表では頑固に「単独覇権主義」を貫いて協調的な行動を拒否する必要があることが理解できる。 原油の高騰をめぐる話も、裏表がありそうだ。原油高騰の根本的な原因は需給の逼迫であるが、日々の原油相場の動きは、主にニューヨークの石油投機筋によって引き起こされている。ブッシュ政権が本気で原油高騰を止めたいなら、サウジやロシアなど外国勢と交渉するより、自国内の石油投機筋に話をつけるのが先である。しかし、それがなされたふしはなく、投機筋は放置され、原油は高騰を続けている。 ▼米中関係の裏表 もう一つ、アメリカにとって裏表のある話として、中国の人民元をめぐる問題がある。 G7は、国際収支の不均衡問題を議論した会議の後「不均衡は、中国の責任である」という趣旨の声明を出した。G7が声明で個別の国を名指しで批判することは非常に珍しいため「欧米日と中国の対立激化だ」と議論を呼んだ。 報道によって会議の中身を詳細に分析すると、実は話のポイントは人民元の問題ではない。「中国を含むアジアの輸出立国と、世界の主要産油国の諸通貨の全体が、ドルに対して切り上がる必要がある」というのが、IMFとG7に話し合われたことである。それなのに、中国が諸悪の根元であるかのような声明が発表されたのは、アメリカ国内の議会やマスコミのタカ派的な主張の中に、このドル切り下げの話を紛れ込ませてしまおうというスピン(話のすり替え)作戦が目論まれているからだろう。 G7が「アメリカの双子の赤字が問題なので、ドルを切り下げる」という本音の声明を出したら、米国内で「冗談じゃない。ドルは強い方が良い」という反発が出るだろうが「中国の輸出攻勢をくじくため、人民元(などの諸通貨)を切り上げさせる」と言えば、タカ派も「それは良い」という話になる。 どうやら、このレトリックは中国政府も理解しているようで、G7の表明に対し、中国政府はとおりいっぺんの反論しかしていない。中国としては、自国通貨のみが切り上げさせられることには抵抗があるが、他の主要通貨も切り上がり、ドルだけが下落するなら良いということなのだろう。この動きの中で世界が多極化し、中国の国際影響力(覇権)が強まることも、中国にとって歓迎できるはずである。 ▼多極化に抵抗する日本 アメリカと対立しているように見えて、実は談合が成立している中国とは反対に、アメリカと親密な関係が維持されているように見えて、実ははしごを外されかけているのではないかと懸念される国がある。それは、わが日本である。 谷垣財務相はIMF会議で行った演説で「IMFは、世界の主要な為替相場を監督するという新設の機能をあまり重視すべきではない」という趣旨の発言を行い「大プラザ合意」の構想に対して冷淡な態度を見せた。財務省の渡辺財務官は「G7の声明は、ドルの切り下げが必要だとは言っていない」という趣旨の発言を行い、円高ドル安を止めようとした。(関連記事) 日本政府は、アメリカが従来の「人民元を切り上げろ」と主張から「人民元を含むアジアと産油諸国の通貨を切り上げろ」という主張へと拡大し、人民元切り上げの巻き添えで、円の政治的な切り上げに応じねばならなくなることに抵抗している。 アメリカは、今回のIMFの構想を通じて、世界の諸大国に対し「通貨切り上げに応じるなら、貴国の覇権を拡大させてやる」という交換条件を提案しており、独仏や産油国、中露印などの国々は、それぞれ程度の差はあれ、この交換提案に応じる構えを見せている。しかし、日本だけは例外だ。1945年の敗戦とともに帝国的な行動、つまり覇権を求める国家的態度を一切やめてしまい、それなりにうまくいった戦後の「平和主義」の日本では「覇権なんかほしくない。輸出産業を危うくする円の切り上げは勘弁してほしい」という考えが強い。 ここ数年の流れから考えると、多極化が進んだ後の世界で、東アジアの中心的な国が中国になることは、すでにほぼ確定した観がある。アメリカの多極主義者から見ると、今後の東アジアの問題はむしろ、日本が中国と協調してどこまで東アジアで指導力を発揮してくれるか、ということであろう。 ところが日本から見ると、最も安定的な国際秩序は、アメリカだけが覇権を持ち、欧日などの諸国がアメリカを補助するという従来(911まで)の国際協調体制(欧米中心主義)である。中国が東アジアの中心になる多極的な新世界秩序は、日本にはリスクの方が大きい。日本が中国や韓国と戦略的な関係を築き始めたら最後、隠れ多極主義のブッシュ政権は、何らかの独特の理屈をつけて日本を含む東アジアへの介入を大幅に弱めかねない。 こうした日本にとって悪夢のシナリオを実現させないためには、日本が中国や韓国と仲違いしたままの状態であり続ければよい。その意味で、竹島、尖閣諸島、東シナ海油田、歴史教科書などの問題が扇動され続けることは、日本政府にとっては好ましいことである。 しかし、日本以外の世界では、多極化する地域がしだいに拡大している。日本が多極化に抵抗し続けても、アメリカが勝手に自滅して日本の商品を買えなくなれば、対米従属はあきらめざるを得なくなる。もはや、アメリカが以前の国際協調主義に戻る可能性は、ほぼゼロである。今の国際情勢の流れの速さから考えると、多極化という景色の大変化が多くの日本人に見えてくるまで、最短であと数カ月しかかからないと予測される。 「アメリカ以後」の日本は、中国、韓国、ロシアなどの近隣諸国との関係を強化するしかない。これまで日本人が「中国も韓国もロシアも大嫌いだ」と言ってすませていられたのは、その前提として強いアメリカが守ってくれているということがあったが、もはや状況は根本的に変わりつつある。 近隣諸国と本気で対峙する気なら、相手国の研究をしなければならない。たとえば、アラブ人のことを最も深く理解しているのはイスラエル人である。今の日本人の近隣諸国に対する理解は、戦前に比べてかなりお粗末であり、嫌いだと言うばかりで不勉強である。今の日本では、中国や韓国の本質を理解しようとする人々を売国奴扱いする傾向が強いが、こうした態度は、外交のすべてをアメリカに頼っていた従来は大して問題なかったが、今後は自国を弱める危険な、それこそ売国奴的な行為となる。
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