米連銀の危険な量的緩和再開2010年8月13日 田中 宇8月10日、米国の連銀(FRB)が定例の理事会(FOMC、公開市場委員会)で「量的緩和」政策の再開を決定し、市場関係者の多くを驚かせた。量的緩和策は、08年秋のリーマンショック後、金融界の不良債権を減らして金融界の資金難を緩和するため、連銀が米国の国債や社債(不動産担保債券)を民間銀行から買い上げ、市中に大量のドルを注入する政策だ。米国の投資銀行を中心に談合的にやっている債券金融の再拡大(影の銀行システムの再生、レバレッジ復活)が軌道に乗ってきたため、連銀は今年3月末で量的緩和をいったん終了した。 しかしその後、米国の景気がうまく回復しないので再び量的緩和が必要になるかもしれないと、連銀のバーナンキ議長が7月21日の議会証言で示唆した。そして8月6日に発表された雇用統計で、米国の失業者数が意外に改善していないことがわかり、連銀が金融緩和の方向に動く可能性が高まった。その流れの中で量的緩和の復活が決まった。 (US economy sheds 131,000 jobs in July - Job losses put pressure on Fed to act) (Fed Mulls Symbolic Shift as Economy Wavers: Report) 連銀が再開する量的緩和策の内容は、3月末までの前回の量的緩和策として銀行から買い取った不良債権(不動産担保債券、ジャンク債)の満期が来て現金に償還された時に、その資金で新たに長期米国債を買うものだ。その総額は1・3兆ドルで、毎年1000億-1500億ドル程度の不動産担保債券が連銀に償還され、その資金が米国債の購入に再投入される。連銀内では、量的緩和策によって連銀自体の資産が急増しすぎ、連銀が不健全な状態になったとする批判が強いため、新たな資金で量的緩和を行うのではなく、これまでの資金内で、償還金を使って量的緩和を再開することにした。 (Fed takes fresh steps to support fragile recovery) 償還金を使って買い支える対象が、不動産担保債券ではなく米国債である理由は、不動産担保債券の再購入だと銀行界だけを救済しているイメージが強くなり、公平性に欠けるからだと説明されている。その一方で連銀は、長期米国債を購入することにより、長期金利の上昇を防ぐことができ、米国債の金利に連動している住宅ローン金利や、ローンを束ねた不動産担保債券の金利の上昇も防げるので、間接的に一般国民(ローン債務者)や金融界を守る効果があるとも説明している。玉虫色の政策にするため、不動産担保債券ではなく長期米国債を買うということだ。 (Agency Mortgages Fall On FOMC Statement) ▼影の銀行システムから切り離され貧困化する米中産階級 連銀内や金融界では、量的緩和を復活しても、実体経済への効果が薄いと言って反対する声も強い。リーマンショック後の米金融の問題は、資金難ではなく、金融バブル崩壊で巨額の不良債権を抱えた銀行界が融資業に消極的になり、連銀からの注入や影の銀行システムによって資金調達しても、それを融資として市中に貸さない「貸し渋り」にある。日本は90年代のバブル崩壊後、日銀が超低金利策を続けて資金を銀行に流しても、不良債権を抱えた銀行界が金を貸さないため景気が回復せず、10年以上のデフレ状態を経験したが、それと同じデフレスパイラルが米国でも起きていると懸念されている。こんな状況で米連銀が量的緩和を復活して銀行界にドルを注入しても、それは市中に回らず、実体経済を改善しない。反対論は当を得ている。 (US recovery doubts move centre stage) 今の米経済の最大の問題は、影の銀行システムで資金を調達できるのが銀行や大企業だけであり、貸し渋りを続ける伝統的な銀行システムにしか頼れない一般の米国人の家計や中小企業に資金が回らないことだ。ローン破綻増に失業増が加わって一般の人々の困窮はひどくなり、米国の中産階級が階級ごと崩壊し、貧困層に転落する事態が起きている。米国では貧困層向けの食糧配給(生活保護)を受給する人数が1年で19%も増え、米国民の8人に1人にあたる4080万人に達し、来年は4330万人になると予測されている。 (The U.S. Middle Class Is Being Wiped Out: Here's the Stats to Prove It) (Economists Herald New Great Depression) リーマンショック前の米経済は、影のシステムが調達した資金が、貧困層向けサブプライムなどの住宅ローンや、株や住宅の値上がりというかたちで中産階級や貧困層のふところにも入り、その金が全米に旺盛な消費をさせ、経済を回していた。しかしリーマンショック後、影のシステムは何とか立ち直ったものの、サブプライム危機の教訓から、金融界は中産階級や貧困層に金を貸したがらなくなり、中産階級が資金的に見捨てられ、失業も増え、貧富格差が拡大し、社会的な断層線が顕著になっている。いくら住宅ローン金利が下がっても、銀行は失業者や貧困層に金を貸さない。貧富格差の断層線は、米国を政治的、経済的に破壊しかねない。 (Unemployment Drives More US Home Sellers to Cut Price) (Martin Wolf: Three years and new fault lines threaten) 米経済は90年代から影のシステムに頼っていた。貧富格差の激化や、雇用なき景気回復は、以前からのことだ。無数の貧乏人が困窮しても、それ自体は銀行家を困らせない。だが、中産階級の資金力が低下して住宅が売れず、影のシステムの担保となっている住宅相場の下落に歯止めがかからないと、そのうち影のシステムも再崩壊する。07年夏の金融崩壊は、住宅相場の下落が原因だった。消費が落ち込んだままだと商業地の地価も下がり、不動産担保債券の全体が下落する。 (Fannie Mae: Home Prices To Decline Into Next Year) ▼ドルを敬遠し金を買う中国とインド 米国の財政赤字は史上最悪を更新し続けている。日本もバブル崩壊後、財政赤字が巨額になったが、日本の赤字は国内金融機関が義務的に消化しており、国債の買い手がつかず長期金利が高騰する事態にならない。これと対照的に米国債は、中国など外国勢による購入が不可欠で、中国などが買わなくなると、買い手がつかず長期金利の高騰があり得る。米国債全体の約半分は、外国勢の購入だ。 (しかも日本はバブル崩壊後、ノンバンクによる不動産投融資という「影の銀行システム」を全廃し、すべて伝統的銀行部門に吸収させたが、米国は金融危機後、むしろ逆に影の銀行システムを延命再生することで危機を乗り切ろうとしている。米国は「失われた10年」を経験した日本より、さらに不健全なやり方をしており、失敗した場合、日本よりもっとひどいことになる。「日本並みの被害ですめば、米国はまだ幸運だ」と指摘する分析者もいる) (Peter Schiff: "We're in the Early Stages of a Depression") (The "Road to Serfdom") 外国勢はすでに米国債を買いたがらなくなっており、最新データである今年5月の時点で、米国債購入者の外国勢と米国内勢の内訳は、3年ぶりに国内勢が50・2%と過半数に戻った(米国内勢の米国債買い増しの要因は、米国での貯蓄率の上昇も関係している)。 (U.S. Investors Regain Majority Holding of Treasuries) 連銀が新たな量的緩和策を長期米国債の買い取りというかたちで再開することは、外国勢に対する米国債の信用問題として大きな危険をはらんでいる。連銀が長期金利の上昇を防ぐため米国債を買い支えることは、逆に言うと、連銀が米国債を買い支えなければ、米国債の買い手が足りず長期金利の上昇が起きかねないということだ。連銀は、米国債がすでに危険な「紙くず一歩手前」の状態にあると認めたことになる。連銀が量的緩和の再開を発表したことは、中国やアラブ産油国など、米国債を買い支えてきた外国勢を、米国債買い控えの方向に誘導しかねない。連銀は余計なことをしている。 すでに中国政府は、米政府が意図的に財政破綻やドル崩壊を誘発し、ドルを人為的に下落させて米国債の総価値を急減させる「赤字減らし」を画策していると疑っている。中国政府は最近、国内銀行が金地金を一般市民に対して売れるようにする規制緩和を行い、国民がドル建て債券など今後「紙切れ」と化す可能性が高い金融商品ではなく、金地金を買うよう誘導し始めている。 (China Goes for the Gold) (China moves to further liberalise Gold market) 中国に続き、インドも国民が金地金を買いやすい状況を作っている。中国人とインド人という人類の半分が金地金を買い始めたことは、ドル崩壊が近いことを感じさせる。そのような中で発表された連銀の米国債買い支え策の再開は、中国やインドの政府や人々に「やっぱり米国債はもうダメなんだ」と思わせかねない。 (China pushes for Gold; India follows suit) 米国債の利回り(価格)は、他のすべての債券の基本となる指標だ。米国債は債券の王様である。米国債の買い手がつかず、利回りの高騰(価格の急落)が起きたら、他のすべての債券も急落する。これは、影の金融システムの崩壊を意味する。07年夏からリーマンショックまでの金融危機は、ジャンク債(サブプライム住宅ローン債券)の崩壊という「下からの金融崩壊」だったが、これから起きる危機の第2弾は、米国債の崩落という「上からの金融崩壊」になる。下からの崩壊は、連銀や大手銀行がジャンク債を買い支えて塩漬けにして、下部の支えを作り直すことで修繕できたが、上からの崩壊は、再起不能な全破壊になりかねない。 ▼自走する影のシステムをつぶす グリーンスパン連銀元議長は8月1日のテレビ出演で「金融システムが壊れている時には、インフレではなくデフレになる」と、銀行の貸し渋りによって超低金利なのに資金流通量が減る現状について指摘した後「しかし財政赤字が増え続けているので、インフレにならないまま長期金利が高騰するかもしれない」と、米国債が崩壊する可能性について述べた。中国などが米国債を買わなくなると、デフレ下の金利高騰という前代未聞の事態が起こる。 (Greenspan Says Decline in U.S. Home Prices Might Bring Return of Recession) 米国債の崩壊(長期金利の高騰)は、すべての債券の崩壊となり、影の銀行システムが壊れる。以前の記事に書いたように、影の銀行システムの資産規模は、伝統的銀行システムの規模より大きい。影のシステムの崩壊は、米国の富の半減、世界(特に欧米)の富の半減を意味する。影のシステムの資金で上昇してきた米国などの株価は大幅に下落するが、金地金相場は売り先物を使った抑制策から解放されて大幅に上昇するだろう(だから中国やインドの政府が自国民に金地金を買わせている?)。 (影の銀行システムの行方) 今年3月末に連銀が量的緩和をやめた後、影の銀行システムは、自走して再生する過程に入っていた。連銀が今回、量的緩和を再開するということは、影のシステムの自走戦略がうまくいかなかったからなのだろうか。もしそうだとすれば、今回の連銀の措置は、やむを得ず発動した政策となる。しかし、米国の大企業の資金調達の状況は、この数カ月で急速に好転している。倒産して政府管理下に置かれていた自動車メーカーのGMも、再上場を申請する見通しだ。大企業の資金繰りが良いことは、影のシステムが機能して債券を低リスクで発行できていることを示している。影のシステムはうまく自走している観がある。 (Revival of the fittest) (General Motors Said to Aim for Up to $16 Billion in Stock Sale) 影のシステムが自走できているとしたら、連銀が量的緩和を再開するのは全く余計なこと、やらない方が良い愚策、自滅策である。影のシステムが再生すれば、米金融界は債券を発行した資金で米国債を裏から買い支え、米国債の高値(低利回り)が、他の債券の高値につながって自走状態が好循環になる。好循環が続けば、いずれ一般国民に流れる資金も復活し、実体経済の好転につながる可能性もある。少なくとも1990年代から2007年までの米経済は、何度か不況が起きても、影のシステムの再生によって復活してきた。 連銀の米国債購入は、世界中の米国債保有者の不安を煽り、米国債の崩壊につながる。影のシステムが自走しているなら、連銀が明示的に米国債を買い支えるのは害悪である。イラクやアフガンの無茶苦茶な戦争によって米国が軍事・政治的な影響力を自ら喪失していることと同質の、経済面での隠れ多極主義の戦略に見える。米国の単独覇権体制を解体し、中国など新興諸国が先進国と並び立つ多極型の世界体制に転換し、新興諸国の経済発展が世界経済を牽引していく新世界秩序を作ることをめざすのが、私が推測する米国の隠れ多極主義戦略だが、その戦略に立って見ると、米経済が不況や危機になってもいつの間にか立ち直らせる自走式の影の銀行システムこそ、不可逆的に崩壊させねばならない対象となる。米政権の上層部には、ボルカーやスティグリッツといった、影のシステムを壊すことが金融改革だと主張する経済政策立案者たちがいる。彼らは、政治軍事面での自滅を担当する「ネオコン」と並び、米国の覇権をぶち壊す作業を続けている。
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