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チェチェン戦争が育んだプーチンの権力

2000年1月21日   田中 宇

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 1999年9月22日夜9時すぎ、ロシアの首都モスクワから200キロほど離れたリャザンという町で、バスの運転手をしているアレクセイさんが帰宅時、自分のマンション(公共住宅)の前に、自家用車が停まっているのに気づいた。ありふれた国産車「ジグリ」だったが、運転手という職業柄、ナンバープレートがおかしいのが気になった。

 プレートには、ナンバーの最後の2桁の部分に紙が貼ってあり、「62」と書かれていた。それはリャザンの地域番号だったが、紙の下にある、もともとの番号も透けて見えた。「77」。それは、そこから走って何時間もかかる、モスクワの番号だった。

 変だと思ったアレクセイさんは、警察に通報した。当時ロシアでは、モスクワなどで公共住宅の連続爆破事件が起きており、300人以上が犠牲になっていた。マスコミは無差別爆破の危険を大々的に報じ、「不審な人物や荷物を見たら、すぐに警察へ」といった広報を頻繁に流していたため、通報した方が良いと思ったのだった。

 しばらくして警察がやってきたが、もうその時には、不審な車は立ち去った後だった。警察がマンション(13階建て)を捜索すると、地下室に、白い粉を入れたいくつかの大きな袋が置いてあるのが見つかった。調べてみると、それは爆薬で、袋の近くには時限発火装置がセットされていた。

 その直後から、大変な騒動となった。時限発火装置はすぐに取り外されたが、ほかにも爆弾が仕掛けてあるかもしれないということで、マンション住民250人は、すぐに避難するように言われ、避難勧告が解除されたのは、翌朝7時だった。取り外された時限発火装置は、翌朝5時半にセットされており、大事を取って、それが過ぎるまで、警戒が続いたのだった。午前5時半という時刻は、何日か前にモスクワの公共住宅が爆破されたのと、同じ時刻だった。

 不審な車には男2人と女1人の計3人が乗っており、別の住民がこの3人を目撃していた。ロシアで続いていた連続爆破事件は、分離独立を狙うチェチェン人組織の仕業である可能性が高いと、マスコミでは報じられていた。リャザンのマンションに爆弾を仕掛けたのもチェチェン人ではないか、とも思われたが、不審な3人はチェチェン人ではなく、ロシア人のように見えた。

▼「防犯訓練」と言わざるを得なかった連邦保安局

 翌日の夜、テレビを見ていたリャザンの人々は驚いた。連邦保安局の長官が登場し、「爆弾は防犯訓練のために当局が仕掛けた。火薬のように見えた袋詰めの白い粉は砂糖だった」と発表したからだった。

 訓練にしては、おかしな点がいくつもあった。爆弾が見つかってから訓練だと発表するまでに、丸一日以上過ぎていたし、訓練なら多くの地点で実施すべきなのに、なぜリャザンだけで実施したのかも不明だった。

 だがその翌日、人々は合点がいった。ロシア軍が、チェチェンに対する空爆を開始したのである。爆弾騒ぎは、ロシア当局のチェチェン攻撃と関係がある、もっと言えば、マンションの連続爆破事件は、ソ連時代にはKGBと呼ばれていた連邦保安局が、ロシア人の反チェチェン感情を煽る目的で実行した可能性がある、と人々は考えた。

 当時、首相だったプーチンは、その1ヶ月前まで、連邦保安局の長官だった。彼が首相になった直後に始めたチェチェン攻撃は、ロシア人の愛国心を揺さぶった。プーチンへの支持率は急上昇し、1999年大晦日にエリツィン大統領が辞任し、プーチンはピンチヒッターながら、大統領にまで登りつめた。2000年3月の大統領選挙では、プーチンが当選すると予測されている。

 つまり、99年9月の連続爆破事件は、プーチンを権力の座に押し上げるためにあったようなもので、事件の背後には、プーチンの出身母体である連邦保安局の影が見え隠れしている。

 チェチェン人が爆弾を仕掛けたのなら、一般市民が住む公共住宅ではなく、軍や警察の施設を狙いそうなものだ。一般市民に被害を及ぼし、チェチェン人がやったことにして、もともと「チェチェン人はマフィア」というイメージを持っていたロシア人の反チェチェン感情を煽る目的があったとも勘ぐれる。

 爆破事件に対しては、どこからも犯行声明は出ておらず、チェチェン共和国政府は事件への関与を全否定している。そして、犯人に関する手がかりも、見つからないままである。

▼イスラムテロリストの爆弾工場は幻か?

 その後、プーチンの大統領就任を機に、再び連続爆破事件に対する疑念が、内外のマスコミから湧き出してきた。そのためロシア当局は1月中旬、チェチェン共和国内にある爆弾工場の映像をテレビで放映し、連続爆破の犯人はチェチェン人であることが判明した、と報じた。

 アメリカを狙うアラブ人オサマ・ビンラディン氏が率いるイスラム原理主義テロリスト組織が時限発火装置に使うことが多いカシオの腕時計が、そこでも使われていることを映し出すなど、含蓄に富んだ映像展開になっていた。(カシオの時計については「ミレニアムテロ:アメリカが育てたイスラム過激派」を参照)

 とはいえ、この工場が実在するのかどうか、確かめることはできない。ロシア政府は、チェチェン攻撃が始まって以来、内外マスコミがチェチェン周辺の現場で取材することを厳しく規制しているからだ。外国メディアのチェチェン訪問は全く許可されない。

 こっそり行ったとしても、たとえばアメリカの大手新聞「クリスチャンサイエンス・モニター」の記事によると、同紙の記者は、チェチェンの隣にある北オセチア共和国に入って30分後に、連邦保安局によって身柄を拘束されてしまった。

 このようにロシア政府が、必死で報道管制しているのは、前回1994-96年にロシア軍がチェチェンを攻めた際、マスコミが反戦報道を展開した結果、撤退せざるを得なくなり、チェチェンに自治を許してしまったという、苦い経験があるからだ。

 その後ロシアは、アメリカ政府の、湾岸戦争以降の戦争での報道管制の巧妙さ(狡猾さ)に学び、今回は攻撃開始前から、マスコミの手綱を引き締めた。その結果、ロシアのメディアは、9月のチェチェンへ攻撃開始から一貫して、当局寄りの姿勢をとっている。(ロシアのマスコミの多くは、大物政治家・財界人が支配している)

▼「敵に塩を送る」ロシア軍

 ロシアのチェチェン攻撃をめぐっては、もう一つ疑惑が湧き出している。ロシア軍が、チェチェン周辺のイスラム原理主義軍に武器を渡しているという疑惑である。

 1月上旬、チェチェンの南にあるグルジア共和国の当局は、首都トビリシの郊外にあるロシア軍の基地から、チェチェンの南隣にある南オセチア自治州に向かおうとする民間のトラックを検問し、機関銃の弾5万発や、迫撃砲などの武器を押収した。(位置関係が分かる地図はこちら

 トラックの運転手はグルジア人で、その前日にも雇われて、ロシア軍基地から南オセチアまで荷物を運んだが、積荷が武器であることを知り、当局に通報したのだった。

 武器押収の様子は、グルジアとロシアのテレビで放映された。ロシアを非難するグルジア政府に対して、ロシア政府は「映像は、グルジア内部の権力闘争を背景とした政治的な目的で、でっち上げられたものだ」と反発した。

 南オセチアは、グルジア共和国内にあるが、イスラム原理主義勢力が支配しており、グルジアからの分離独立を求め、武装している。ロシア軍は、南オセチアの独立派を支援することで、ロシア離れを強めるグルジア国内を混乱させようとしている可能性が強い。

 だが、南オセチアとチェチェンのイスラム原理主義勢力はつながっている。ロシア軍が流した武器は早晩、チェチェン人の手に渡ることは見えている。それを考えると、9月の公共住宅の連続爆破事件の延長として、チェチェンでの戦闘が長引き、チェチェン人に対するロシア人の憎しみが強まるほど、プーチンの人気が高まる、という目論見から、武器を流出させた可能性もある。

▼プーチンは強い改革者?、それとも・・・

 このように、戦争を起こすことで自らの権力を広げてきたと考えられるプーチン大統領だが、アメリカをはじめとする欧米諸国の、彼に対する評価は高い。というのは、彼は今のところ、エリツィン前大統領と同様、欧米と協調する政策を貫きそうであるからだ。

 エリツィン前大統領の歴史上の役目と功績は、共産党勢力など、ロシアに残る冷戦時代の遺構を破壊することに尽力したことだった。エリツィンは古い社会主義の代わりに欧米型の経済システムを導入し、それを起動させるため、欧米からの資金援助が流れ込んだ。

 だが、古い社会主義システムを壊すことは大変で、共産党の復権を防ぎたいあまり、国営企業の民営化などを性急に進めた結果、現在のロシアはあちこちにひずみが生じる状態になっている。

 民営化を急いだため、一部の大物財界人だけが、エネルギーや鉱山などの基幹産業を牛耳るようになり、彼らはその資金力を使って、エリツィン自身をも操るようになった。石油会社やマスコミを支配している財界人ベレゾフスキー氏らが、ロシア政府の黒幕として存在し、エリツィンからプーチンへの大統領交代も、彼らの差し金によるものだという指摘もある。

 彼らが国を牛耳るようになった結果、彼らの傘下にある大企業は税金を払わず、税収が少なくて国庫は財政難が続いている。汚職も多い。プーチンが担おうとしている役割は、こうしたエリツィン時代のひずみを修正し、経済を立て直し、ロシアを再び強大な中央集権国家にすることであるようだ。プーチンは、汚職を強く取り締まることを公言しており、それも欧米諸国にとって好感材料となっている。

 ロシアが強大な国になるために、チェチェン人がたくさん殺されるとしても、再びロシアが欧米と敵対する国に戻ってしまうよりは良いし、ロシアが弱くて混乱している状態が続くよりは良い、と欧米諸国は考えているように見える。

 プーチンは、若いときに10数年間、KGBに勤務し、旧東ドイツなどで諜報活動に携わっていた。そのため大統領就任直後、アメリカの新聞などは、彼がKGB出身であることを批判的に強調する記事を出していた。

 だがその後1週間もしないうちに、「KGB時代、東ドイツに滞在して西側経済をウォッチしていた経験が、彼の自由主義経済に対する理解力の源泉になっている」といったような分析記事が出回るようになり、親プーチンの流れができてしまった。

 おそらく、アメリカ当局のマスコミに対する隠然たる指導によるものだろうが、そういった偏りのベールを取った下に、どんなプーチン像があるのかは、まだ見えてこないのが現状だ。


参考になった英文記事

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