ロシアとアメリカ:「冷戦後」の終わり1999年9月8日 田中 宇 | |
「労働者は働くふりをする。政府は給料を払うふりをする」・・・。これは、かつてのソ連の社会主義システムが、機能不全に陥っていたことを象徴する「格言」として知られた言葉だ。社会主義が終わり、こうした嘘の世界は、もうなくなったと思われていた。 だが、そうではないらしい。どうやらロシアは冷戦後、別の嘘の世界に置き換わっていただけのようだ。うまいことを書くものだ、と思ったのは、8月28日の英エコノミストの記事。「ロシア人は、市場経済の法治国家を作るふりをする。欧米人は、それを信じるふりをして金を貸す」というのを、冷戦後のロシアを象徴する格言として、紹介している。 とはいえ、冷戦後のそんな偽装状態もまた、終わろうとしている。その終焉を象徴するできごとが、アメリカのニューヨーク銀行を舞台としたマネーロンダリング(資金洗浄)のスキャンダルである。 この疑惑は、アメリカからロシアに、経済援助や銀行融資として流れた巨額の金が、ロシアの政治家や財界人によって着服された上、ロシア通貨危機を回避するために、アメリカの銀行に逆流し、不正な金だと分からないように、操作をほどこされていた、というものだ。 その額は、今のところ分かっているだけで100億ドル(1兆円強)で、ロシアの国家予算の半分にあたる。その巨額さから、この事件は、アメリカ金融史上最大のマネーロンダリングだと言われている。マネーロンダリングとは、違法に作った資金を、いくつかの金融機関の口座間を移動させることによって、金が結局どこに行ったか、捜査当局が把握できないようにすることだ。 ●ロシア実業家の妻たちが疑惑の人 疑惑の舞台となったニューヨーク銀行は、アメリカに古くからある、信頼すべき「老舗銀行」とされていた。。この銀行は、ロシアでの取引拡大に力を入れていたが、銀行や石油会社を経営するロシアの実業家2人の妻を行員として雇い入れ、夫の会社の金が、カリブ海などにあるタックスヘイブンにうまく移転されるよう、マネーロンダリングを助けた疑いを持たれている。この2人の行員はすでに解雇され、その上司である東欧担当部長も、嫌疑をかけられている。 (タックスヘイブンとは、企業から法人税や取引税を取らない国のこと。企業と政府の間に税金の関係がないので、企業は経営実態を政府に知られることがなく、マネーロンダリングに使いやすい) 解雇された2人の行員の夫である実業家2人のうちの一人、カガロフスキー氏(Konstantin Kagalovsky)は、銀行、石油会社などを持つ「メナテプ」(Menatep)という企業グループの実権を握っている実業家。1992年から95年まで、 IMFのロシア代表をつとめた。FBIの調べでは、マネーロンダリングされた資金のうち、少なくとも2億ドルは、IMFがロシアに貸した金だったが、カガロフスキー氏は、違法行為はなかったと主張している。 もう一人の実業家、ベルリン氏(Peter Berlin)が役員をつとめる会社「ベネックス」(Benex International)は、今回の疑惑資金のうちの4割にあたる42億ドルをニューヨーク銀行経由で、タックスヘイブンに送った。 ベネックスは、ロシアでは有名な犯罪組織を支配するサムヨン・モギレビッチ氏(Semion Mogilevitch)の資金を運用している会社といわれる、とロサンゼルスタイムスは、9月3日の記事で指摘している。 ニューヨーク銀行の、ロシア関係の取引の多くは、スイスの金融機関と連携して行っていた。事件はニューヨーク、ジュネーブ、モスクワ、それからニューヨーク銀行の東欧担当支店があるロンドンの、4点を結ぶ国際犯罪の様相を呈している。 ●かつての威厳を失い、捜査に積極的なスイス スイスは伝統的に、ヨーロッパ中から怪しい資金が流入する場所である。つい2―3年前まで、スイスは自国の銀行に出入りする資金についての情報を公開することに、消極的だった。世界の金持ちの「金庫番」としての信用を守るためだった。 だが2年ほど前から、スイスの銀行が戦争中、ナチスによるユダヤ人の資産没収に協力していたことが国際的な問題とされ、スイスの国自体が悪者扱いされて以降、スイスはかつての威厳を失い、「国際社会」の要請に積極的に従うようになった。(私は、スイスの銀行界が持つ、怪しげな巨額口座の情報を公開させるために、アメリカがスイスの、ナチス時代の罪を暴露させたのではないかとみている) その結果、スイスの捜査当局は、ニューヨーク銀行をめぐる疑惑の捜査に協力するばかりでなく、ロシアの捜査当局から依頼された、エリツィン大統領がからむ別の事件の捜査もすすめ、事件に関連しそうなスイス国内の59の銀行口座を、捜査終結まで凍結することを命じた。こうした大規模な口座凍結は、かつてのスイスでは考えられなかったことだ。 この第2の事件は、エリツィン大統領とその2人の娘たちが、クレムリンの修繕工事を請け負ったスイスの建設会社「マベテクス」(Mabetex)から、自由に使って良いクレジットカードを渡されたり、100万ドルの入った銀行口座をハンガリーで作ってもらったという疑惑だ。 この金は、クレムリンの工事を請け負わせてもらったお礼としてのキックバックではないか、と疑われている。ロシアでは従来から、高官がキックバックを要求するとの指摘が多い。エリツィンは側近を通じ、スイス旅行の際、マベテクスから旅費を出してもらったことは認めたが、マベテクス社員がロシアを訪問する際はロシア側が金を出すという相互契約であり、違法ではないと主張している。 この捜査はもともと、今春、ロシアの検察トップだったスクラトフ(Yuri I. Skuratov)が、スイス当局に依頼したものだった。その後、スクラトフはエリツィンによって罷免されたが、反エリツィン勢力が多い議会が、この罷免を承認せず、スクラトフの地位は宙に浮いている。 今回、スイス当局の捜査で、エリツィン本人の名前が出てきたことから、スクラトフ罷免は自分への疑惑追求を恐れてのことだったのではないかと、議会ではエリツィン批判が強まっている。ニューヨーク銀行の疑惑と、エリツィンのスイス疑惑には、今のところ接点はないものの、アメリカやロシアの新聞では、関連ニュースとして報じられている。 ●米ロ両国の大統領選挙の争点に この時期に、こうした疑惑が噴出した背景には、来年、アメリカとロシアの両方で大統領選挙が予定されていることがある。アメリカでは、クリントン大統領の後継者として民主党候補になりそうなゴア副大統領が、対ロシア政策を担ってきた。そのため、共和党がゴアを潰すために疑惑を掘り返したという見方である。 とはいえ、対立候補であるブッシュジュニアは、父親が大統領だった時に、今につながるアメリカの対ロシア政策が決定されているだけに、今のところ、ロシア問題でゴアのことを強く批判せず、慎重な態度をとっている。 一方、来年6月に大統領選挙が予定されているロシアでは、エリツィン大統領の息がかかった次期大統領の選出を阻止するために、反エリツィンの立場をとる旧共産党左派勢力が、疑惑の追及に熱心だ。左派系の新聞は、好んでこの話題を載せている。もともと、アメリカの共和党は反共傾向が強く、ロシア共産党とは犬猿の仲だっただけに、選挙を控えた両者の「共闘」は、冷戦後の国際政治情勢の変化を象徴するものともいえる。 アメリカでは、さらに進んで、冷戦後の対ロシア政策そのものに、誤りがあったのではないか、という議論が、議会や経済専門家たちの間でなされている。 冷戦後のアメリカの、対ロシア政策の根幹には、新生ロシアが、2度と社会主義に逆戻りしないよう、経済システムを一気に市場経済化する狙いがあった。 その移行期に必要な資金は、アメリカの息がかかっている国際機関であるIMFと、欧米の民間金融機関が貸し出すという戦略だった。 冷戦時代の核兵器開発競争に使った金に比べれば、その金は安いものになるはずだったし、多少金がかかっても、核大国であるロシアを反米陣営に戻すことは避けたかった。 ●冷戦後も変わらないロシアの国のかたち ところがロシアでは、共産党の一党独裁が終わり、自由選挙が行われるようになっても、政治家や主要な財界人の多くは、かつての共産党幹部ばかりだった。ロシアは社会主義時代から、ボスになる人が絶対的な権力を持つ家父長型の社会で、上に立つ人の政治思想が共産主義であろうが、資本主義であろうが、大した違いはなかった。 ゴルバチョフはそのあたりを見越して、ロシアを支配する人々の顔ぶれは変えず、資本主義化することを目論んだのではないか、とも考えられる。 そして、冷戦後のロシアで進んだ国有企業の「民営化」とは、かつて共産党を支配していた人々が、そのまま大企業の大株主になり、ワンマン経営者となることを意味していた。欧米から流れ込んだ資金は、抜け目ない元共産党幹部たちが、大企業の経営権を握るのに使われた。ロシアの有力政治家の多くは、エネルギーや銀行など、有力企業の事実上のオーナーでもある。 このように、ロシア社会の実際の仕組みは、欧米とは大きく違うままだったが、そこに資金を投入することで、欧米型の社会に変えようとしたところに、冒頭で紹介した「改革するふり、信じるふり」という、冷戦後の茶番劇の発端があった。 エリツィン大統領が親米改革派の中心と目され、1996年の大統領選挙の前には、エリツィンを勝たせるため、IMFが35億ドルを貸し出した。当時、ロシアでは公務員や国有企業の従業員に対する給料の支払いが大幅に遅れており、有権者の間で不満が高まっていたが、IMFの金を使って政府は給料の支払いを行い、エリツィンは再選を果たした。 また98年夏には、アジアから感染した通貨危機で、ルーブルの下落が始まった時、IMFは48億ドルの融資をした。だが、この金で中央銀行がルーブルを買い支えても下落は止まらなかった。IMFの金を使って中央銀行がルーブル相場を維持している間に、ロシア国内の金持ちたちは、ルーブルの資産をドルに変え、海外に持ち出してしまった。 ●まだ見えてこない今後の関係 この後、IMFはロシアへの追加支援を渋ったが、アメリカ財務省はIMFに圧力をかけ、融資を続けさせた。CIAがロシア高官の腐敗ぶりを報告書にまとめたこともあったが、クリントン政権はこれを無視した。まさに、アメリカはロシアの改革を信じるふりをしたのである。 その一方で、ロシアから海外への資金逃避やマネーロンダリングをする人には、ニューヨーク銀行だけでなく、欧米金融機関がこぞってアドバイスし、ロシアからの資金流出が続いた。 もうIMFが金を貸しても、ロシアが欧米型社会になる改革は進まないことが明白になり、クリントン政権も残すところ1年あまりで、アメリカではロシア政策の転換をすべき時期だ。そこにちょうどよく噴出したのが、ニューヨーク銀行の疑惑だった。 最近ではまた、ロシアの中央銀行が1996年に、IMFに対して状況をわざと悪く見せるため、手持ち資金の一部を、タックスヘイブンであるチャネル諸島に移して隠していたことが発覚した。これらのことをきっかけに、アメリカ議会では共和党を中心に、IMFの対ロシア融資を凍結すべきだとの主張が出ている。 とはいえ、アメリカでロシア問題が出てきたのは、大統領選挙という政治の闘いがきっかけであるだけに、アメリカでロシア政策が今後、どの程度本格的に議論されるかは疑問だ。ロシアの一般の人々の生活には、アメリカのロシア政策がどのようなものであっても、大して違いはないのだろうが、日本にとっては、大きな影響を受けることになるかもしれない。
参考になった英文記事●Swiss Investigate Possible Laundering of Russian Money ●Bank Called Long Unaware of Big, Suspicious Transfers
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