真の囚人:負けないチェチェン人2000年1月13日 田中 宇ロシアの作家、ソルジェニーツィンの有名な著作「収容所群島」は、ロシア革命(1917年)からスターリン批判(1956年)までの、ソ連の強制収容所での人々の様子を、自らの収監体験と他の人々からの聞き取りなどによってまとめた、ノンフィクションの大作である。 その、日本語版(新潮社)で全6巻のうちの最後の巻に「諸民族の強制移住」という章がある。ロシアでは1937年以降、ソ連国家に反感を持ちそうな民族を丸ごと、中央アジアのカザフスタンなど遠隔地に強制移住させる政策がスターリンによって行われた。本国が日本の植民地なので、日本の味方をしそうだ、と疑われた極東・沿海州の朝鮮人や、ナチスのスパイになる懸念を持たれたカスピ海北部のドイツ人などの移民が、カザフスタンに送られた。この章では、その人々のことを描いている。 この時代、強制移住地に送られた人々の多くは、服従の中で生きる心理が身につき、移住当初の最も厳しい状況がその後わずかに改善されると、服従する状態に慣れる傾向が強まった。そうした状態は、強制収容所に送られた人々や、その他一般の、ソ連で抑圧された人々に共通しており、ソルジェニーツィンは「またしても同じことの繰り返しではないか?」と、従順になってしまう人々の姿に対する苛立ちを書き連ねている。 (「服従」どころか、ことさら一生懸命に働いたのは、朝鮮人やドイツ人、それから敗戦とともに満州からシベリアに抑留された日本兵の集団など、その後、高度成長を遂げた国を故郷とする人々だった) とはいえ、そんな服従の精神をまったく受け入れなかった民族が、一つだけあった。それは、チェチェン人であった。彼らは個人としてではなく、民族全体として、「当局に取り入るとか、気に入るようなことはいっさいやらず、いつも胸を張って歩き、その敵意をかくそうともしなかった」。「あえて言えば、特別移住者の中で、チェチェン人たちだけが精神的に正真正銘の囚人だったのだ」と、ソルジェニーツィンは書いている。 このチェチェン人こそが、ロシア軍をてこずらせ、世界の注目を集めている、あのチェチェン人である。 ▼非服従の背景にイスラム神秘主義 チェチェン人の特異性は、彼らが住んでいる地域の地理的な状況に由来する部分が大きい。チェチェン共和国は、モスクワから1500キロほど南に行った、黒海とカスピ海の間、コーカサス山脈の北側にある。 この地域は北にロシア、南西にトルコ、南東にペルシャ(イラン)という、昔から強大だった3つの帝国の境界にあたり、いくつもの勢力が、この地を支配しようと攻めてきては去る、という歴史が繰り返されてきた。 だが、そこには5000メートル級の高峰が連なる険しい山脈があり、古代からここに住む人々は、強国が攻めてくると山に篭もり、難を逃れたり抵抗運動を展開したりしてきた。 チェチェンの人々は、イスラム教徒である。この地域にイスラム教が入ってきたのは18世紀ごろだったが、入ってきたのは、それまで信仰されていた地元の宗教儀式と混じり合うことを容認する「イスラム神秘主義(スーフィズム)」だった。 イスラム教では本来、生きている人を崇拝の対象にすることを禁止しているが、スーフィズムでは修行を続ける聖者たちを崇拝し、聖者は「奇跡」を起こすとされ、厳格なイスラムでは禁止されている宗教儀式の踊りや音楽などもあり、人々を恍惚とさせることで宗教意識を高める。 スーフィズムは8世紀ごろから存在し、現在までイスラム世界の周辺部を中心に広く信仰されているが、旅をする行者たちによってチェチェンにもたらされたスーフィズムは、14世紀に中央アジアに起こった流れを組んでいた。 チェチェンでは、シャイフ(shaykh)と呼ばれる聖人を中心に、その弟子たちが各地の村々の指導者となり、宗教的な強いつながりが、チェチェンの氏族社会を覆うようになった。この同族的なつながりに加え、山の民としての自尊心の強さが、非服従の姿勢のベースとなった。 ▼200年前に始まった「聖戦」 18世紀、チェチェンの南のオスマントルコ帝国が衰退し始めると、北方のロシア帝国が南下政策を展開した。ロシアの軍隊は、チェチェンなどカフカス地方の無数の小さな民族を征服していったが、その際に大きな抵抗をしたのがチェチェン人だった。 チェチェンでは、シャイフ・マンスールという聖人指導者がロシアに対する「聖戦」を宣言し、チェチェン周辺の北カフカス地方の人々全体を束ね、抵抗戦争を始めた。1785年にはロシア軍を打ち破ったが、その6年後にはロシア軍に捕らえられて殺された。 その後もチェチェン人はロシア軍に抵抗したが、1859年、ついにロシアの支配下となった。この抵抗戦争によってチェチェン人の3分の2が死んだといわれるが、その武勇は有名になり、マンスールは今もチェチェン人にとって英雄である。 ロシアの支配下となった後、チェチェン人はオスマン帝国のスパイという疑いをかけられ、モスクの破壊などの宗教弾圧が行われた。だが、チェチェンのスーフィズム信仰は、モスクが礼拝に不可欠な中東のイスラムと異なり、モスクが破壊されても、村の家々で礼拝や儀式が続けることができた。信仰には差し支えなく、支配者の目の届きにくいところで、信仰と同族の団結が維持された。 この時期、ロシアの圧政を逃れ、南のオスマントルコ領内に移住したチェチェン人も多かった。当時のオスマン帝は現在のシリア、ヨルダン、レバノンなどを含んでおり、これらの国々には今も多くのチェチェン人がいる。 ロシアのエリツィン大統領が99年大晦日に辞任し、代わりにチェチェン弾圧推進派のプチン首相が大統領に昇格することになった直後、レバノンの首都ベイルートでロシア大使館が攻撃された。レバノンはロシアからずいぶん遠いが、歴史を振り返ると、ロシアとレバノンとの間のチェチェン・コネクションが見えてくる。 ▼人口の半分が強制移住 チェチェンがロシア領となってから60年後の1917年にロシア革命が起きた。この機に乗じて、チェチェンとその周辺のイスラム教徒たちは「北カフカス首長国」の建国を目指し、ロシア皇帝の軍隊や共産軍などと戦った。 その最中、チェチェンにやってきたロシア共産党の代表は、大幅な自治権を認めてやるから、自分たちに味方するよう求めた。当時ロシアでは、皇帝の勢力と共産勢力との間で全面的な内戦になる可能性があり、共産党はイスラム教徒を味方につけておきたかったのだった。 結局、北カフカスはソ連邦の中に組み込まれることになり、約束は守られて1922年にチェチェンは自治州となった。だが、それは形だけのことだった。ソ連の統治が始まると、スーフィズム信仰は「迷信」から「反革命」となり、それに反発する多くの宗教者たちは、犯罪人として逮捕、処刑された。 チェチェン人の結束の固さが、村々をつなぐ宗教のネットワークにあると知ったソ連当局は、村を解体して集団農場にすることで、結束を崩そうとした。だが、どこに連れて行かれても、氏族とスーフィズム、血縁と信仰が絡み合ったチェチェン人どうしの強いきずなは保たれ、ロシアに対する組織的な憎悪も止まなかった。 ソ連の他のイスラム地域でも、信仰は事実上禁止され、ほとんどの人は非宗教化されてしまったが、広いソ連の中でほとんど唯一、イスラム信仰が生き残ったのがチェチェンであった。それは内々の信仰で、外から察知されにくい地下的なものだったが、ソ連の公安警察は状況を細かく把握していた。 チェチェン人が崩れないのをみて、警戒したスターリンがとった次の手が、この文章の冒頭で紹介した、民族ぐるみのカザフスタンへの強制移住だった。1944年2月、当時のチェチェンでは人口の半分近くを占める25万人、北カフカス全体では100万人が、突然の命令で、家族ごと強制移住させられた。 ▼恐怖政治の共産主義者も怖じ気づいた「血の復讐」 ところが、この民族の苦難もまた、チェチェン社会を解体することはできなかった。強制移住先のキャンプでの生活が始まると、間もなく氏族とスーフィズムのネットワークが復活した。むしろ人々の受難は、信仰心を強化することにつながった。 チェチェン人が、強制移住先でも伝統を維持していたことは、「収容所群島」の中にも描かれている。ソルジェニーツィンが教師をしていたコク=テレクの村である時、酔っ払って喧嘩をしていたチェチェン青年が、喧嘩を止めようとしたチェチェン人の老婆を、刺し殺してしまった。イスラム法を維持していたチェチェン社会では、殺された老婆の一家は、殺した青年一家の誰かを殺し、あだ討ちを果たさねばならなかった。 青年自身は、殺されたくないので警察(内務省)に逃げ込んで自首し、監獄に入った。知らせを聞いた青年の一家は、食料をかき集め、窓とドアをくぎ付けして閉じこもったが、間もなく老婆の一族が、武器を持って青年の家を取り囲んだ。 この事態に対し、人々に恐れられていた共産党地区委員会や内務省は、怖じ気づいて何の介入もしなかった。「野蛮な古い掟が息づくと、コク=テレクのソビエト政権は一ぺんにふっとんでしまったのである」。結局、チェチェン人の尊敬を集めている長老たちがやってきて、殺人者の青年に呪いをかけることで、復讐の行為をしないよう命じることで、事件は解決した。 ソルジェニーツィンは、「血の復讐というこの風習は、それほど多くの犠牲者を出さないが、周囲の人々にはたいへんな恐怖感をいだかせる。風習をわきまえている山岳民族の人びとは、私たち(ヨーロッパ人)のように、酒酔いや放蕩のため、何の理由もなく他人を侮辱するような真似はしないだろう」と、このイスラム法を評価して書いている。 そして彼は、チェチェン人はこの風習によって、他の民族から復讐を恐れて敬遠される状態を作り出し、自分たちの立場を強化している、と書いている。「他人を恐れさせるために、仲間を殺せ! これが、山岳民族の祖先が大昔に見つけた、民族を結束させる最良の方法なのである」 ▼今のロシアは「最も弱い敵」 強制移住が終わり、人々がチェチェンに戻る許可をもらったのは、1957年のことだった。だが人々が10数年前に自宅だった場所に帰ってみると、そこには見知らぬロシア人たちが住んでいた。チェチェン人が去った後、彼らの土地は、当局によって所有者不在とされ、政策によって移民してきたロシア人に割り当てられてしまっていた。 今もチェチェンの人口の2割を占めるロシア人の多くはこの末裔で、1994年と99年にロシア軍がチェチェンに侵攻した際は、彼らロシア人を守るという名目もあった。 ここまでされたチェチェン人が、ソ連崩壊の後もロシア人の支配下にとどまり続けようと思うはずがないだろう。ソ連が崩壊した1991年、チェチェンは独立を宣言し、翌92年には、新しいロシア連邦を結成する条約への調印を拒否した。調印しなかったのは、ロシア内の21の共和国(少数民族地域)のうち、チェチェンとタタルスタンだけである。(タタルスタンはロシア憲法裁判所で係争中) この反抗に対して、ロシア政府は2年間、チェチェン人代表と交渉したが、チェチェンの独立意思は固いため、1994年9月、手段を再び暴力に切り替えて、ロシア軍がチェチェンに侵攻した。ロシア軍の戦車部隊は、やすやすと首都グロズヌイに進軍し、勝利したかのように見えたのだが、その直後、市内各所でのゲリラ軍の待ち伏せ攻撃が始まり、ロシア軍は壊滅した。 チェチェン共和国の公式サイトとおぼしき「Chechen Republic Online」に「The Religious Roots of Conflict」という記事があるが、その文の締めくくりには「ロシアとチェチェンのイスラム教徒との、長い戦いの歴史の中では、エリツィンのロシア連邦など、敵として最も弱い相手なのである」と書いてある。 ロシア軍はこの年、3回にわたってグロズヌイを攻めたが、いずれも似たようなやられ方をしてしまい、勝てなかった。1996年にロシア軍は撤退し、チェチェン共和国は事実上の独立を勝ち取ったが、1999年8月、今度はチェチェン人の軍隊が西隣のダゲスタン共和国に侵入したことをきっかけに、ロシア軍が再び侵攻した。 99年の侵攻にいたった経緯については、ソ連崩壊後、チェチェンの宗教界に、伝統的なスーフィズムとは別の、原理主義的な「ワッハビズム」が、サウジアラビア方面から入ってきたことが、ロシア側の事情としてある。そのあたりのことは、改めて解説する。
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