解けないスターリンの呪い:ナゴルノカラバフ紛争

98年2月7日  田中 宇


 旧ソ連の小国、アルメニアの大統領、レウォン・テルペトロシャンは、人々の間での人気は高くないものの、旧ソ連各国の指導者の中では屈指の鋭い政治手腕を持った人物であると、これまでは思われていた。だから2月3日、大統領側近だった閣僚や政治家たちに次々と離反され、あっけなく大統領の座を追われてしまったとき、外国の関係者たちの驚きはかなりのものであった。

 テルペトロシャンは1991年にアルメニアがソ連から独立した直後から6年以上、大統領に就いていた権力者である。その彼が急速に政治家たち、そしてつまりはアルメニア国民からの支持を失ったのは、西隣のアゼルバイジャンとの間で続いている、ナゴルノカラバフ地方をめぐる領土紛争が原因だった。

●民族意識の高揚を恐れたスターリン

 ナゴルノカラバフは、アルメニアからアゼルバイジャン側に少し入ったところにある山岳地帯で、広さは山梨県ほど。人口20万人ほどの小さな地域である。この地域はソ連時代にアゼルバイジャンに編入されたが、それ以前はアルメニア人が統治する地域で、人口もアルメニア人が過半数を占めていた。中世にペルシャ人やトルコ人の帝国に支配されたころは、アルメニア人とアゼルバイジャン人が平和に混住する地域であった。

 ロシア革命の後、1920年代にアルメニアとアゼルバイジャンは次々とソ連邦傘下の共和国となったが、その後のスターリンの政策により、1923年にナゴルノカラバフはアゼルバイジャンに編入された。スターリンは当時、作られたばかりの多民族国家であるソ連の統一が、民族意識や宗教紛争によって弱体化してしまうことを恐れていた。

 ソ連領内の各民族はそれぞれ、古い歴史と別々の言語を持っている上、宗教もロシア正教、その他のキリスト教、イスラム教などに分かれている。民族間、宗教間の対立を放置すれば、せっかく統一されたソ連が再び解体しかねない。そこでスターリンが考えたのが、それまで各共和国ごとにかたまって住んでいた各民族を、強制移住や共和国間の境界線の引き直しなどによって混住状態にしてしまい、民族としての団結力を弱めるということだった。

 アルメニアの西端にあってアゼルバイジャンと国境を接していたナゴルノカラバフ地方も、この政策の対象とされた。アルメニア人が人口の大多数を占めていたため、アゼルバイジャンに編入された後も、アルメニア人の自治権は認められた。だがアルメニアとの国境沿いの地域は、自治州の範囲から外され、完全なアゼルバイジャン領となった。

 つまりナゴルノカラバフは、アゼルバイジャン領に囲まれた、離れ小島のような存在となった。こうすることで、スターリンとしては、ナゴルノカラバフの人々がアルメニア人と密接な関係を持てないようにして、アゼルバイジャン人と混住するように仕向けたのである。

 アルメニア人は「アルメニア正教」と呼ばれるキリスト教徒である。一方、アゼルバイジャン人はイスラム教徒。ソ連では、宗教はすべて迷信であり、信仰を捨てて社会主義を信奉することこそが人類の進歩であると考えられたため、キリスト教徒とイスラム教徒をわざと混住させることにより、脱宗教の政策を徹底させようとした、とも考えられる。

●わずかに開いただけで破裂した「蛇口」

 だが、こうしたスターリンの政策は、結局失敗した。1987年にペレストロイカが始まり、言論の自由が認められるようになると、宗教儀式の復活や民族意識を叫ぶ人々がソ連中に現れた。ソ連体制下で抑圧され続けた人々の信仰と民族意識は、ゴルバチョフが政治の自由化という「水道の蛇口」を少し開いただけで、猛烈な勢いで吹き出し、短期間でソ連という蛇口そのものを破裂させてしまったのであった。

 アルメニアでは1988年、政府がゴルバチョフ書記長に対し、ナゴルノカラバフを返してほしいと要求したが、断られた。民族的な怒りに燃えた人々は軍隊を組織してアゼルバイジャン側になだれ込み、アルメニアとナゴルノカラバフの間にあったアゼルバイジャン領を占領した上、ナゴルノカラバフをアルメニアに併合してしまった。

 その時から、アルメニアとアゼルバイジャンとの間で戦闘が始まった。1994年の停戦までに3万5000人が死亡し、双方で合計100万人が難民となった。アルメニアは侵略に対する国際的な非難を受けたため、戦闘さなかの1992年にナゴルノカラバフを独立させ、表面的にはナゴルノカラバフがアゼルバイジャンに対して独立戦争をしている、という形に変えた。

 アゼルバイジャンにはソ連屈指の大油田があり、アルメニアはエネルギー供給の多くを、この石油に頼っていた。戦争が始まると、アゼルバイジャンはアルメニアへの石油供給を停止した。またアルメニアの南隣にあるトルコも、アルメニアに対する経済封鎖を始めた。アゼルバイジャン人はトルコ系の人々で、トルコとは親密な関係にあったためである。一方アルメニア人は、1910年代にトルコとロシアが戦争した際、ロシアの手先とみなされてトルコ政府によって大量虐殺された(一説には100万人が死亡)という歴史もあり、もとからトルコとはあまり仲が良くなかった。

 経済封鎖を受けて苦しくなったアルメニアでは、テルペトロシャン大統領がアゼルバイジャンとの和平交渉に応じる姿勢をとった。アゼルバイジャンでも、1991年にソ連から独立した後、共産党系の親ロシア派と、イスラム民族主義者との対立が続き、ナゴルノカラバフを奪還するだけの余裕がなかった。そのため両国は、アメリカ、フランス、ロシアの調停により、1994年に停戦した。

 だが、その後の和平プロセスの進め方については合意できなかった。アゼルバイジャンは、アルメニアとナゴルノカラバフとの間に横たわる、アルメニア側に占領された自国領を、国連が派遣する平和維持軍に引き渡し、その後でナゴルノカラバフの帰属について話し合うことを主張した。一方アルメニア側は、占領地の引き渡しと帰属問題の交渉はセットにして話し合うべきだと主張し、交渉は暗礁に乗り上げた。アルメニアにとって、自国とナゴルノカラバフをつなぐ占領地域を手放せば、再びナゴルノカラバフは孤立してしまうことが問題であった。

●浮かび上がる大油田の利権

 こうした成り行きにしびれを切らしたのが、調停者となった3カ国であった。3カ国、中でもアメリカとフランスがこの紛争を終わらせたいと強く思うのには、理由があった。

 アゼルバイジャンの首都バクーにある油田は、ソ連時代に途中で開発が止まっていたが、欧米の石油会社はその開発を続けることで、巨額の利益を得られると考えていたのである。

 バクー油田は19世紀から開発され、20世紀初頭には、世界最大の油田であった。「世界の金融を支配する」ともいわれるヨーロッパのロスチャイルド家の繁栄の一因は、ロシア革命以前のバクー油田の利権を独占したことにある、というほどの存在だった。ソ連崩壊後、バクー油田のばく大な埋蔵量が再び欧米から注目されるようになった。

 だが、油田開発を進めるにはアゼルバイジャン政府の協力が必要だ。アゼルバイジャンとしては当然、ナゴルノカラバフ紛争を自国に有利に終結してもらうことを欧米に求めた。

 アゼルバイジャンは、紛争解決のカギがアメリカの調停力にあるとみていた。というのは、アメリカにはアルメニア系の国民が多数おり、彼らがアメリカ政府に対して強力なロビー活動を展開していたためである。アルメニア人はソ連成立前後、トルコやロシアから抑圧を受けていたため、多くの人が祖国を離れてアメリカに移住した。その子孫が結束し、祖国の戦争を支援してきた。

 そのためアルメニアは、アメリカから受ける援助の一人当たりの金額が、世界で最も多い国の一つとなっている。この援助によって、アルメニアはアゼルバイジャンやトルコから経済封鎖されても、何とかやってこれたのである。

 また、キリスト教世界であるヨーロッパは、オスマントルコが東ローマ帝国を滅ぼしたことなどに端を発して、歴史的にイスラム教徒を敵視してきた。キリスト教徒であるアルメニア人と、イスラム教徒であるアゼルバイジャン人の戦いでは、アルメニア人の方を支援するメンタリティがある。しかもアルメニアは紀元300年、ローマ帝国より早く、世界で最初にキリスト教を国教とした国だということも、欧米人は忘れてはいない。

●札束に踊らされた大統領のあえない最後

 アゼルバイジャンとしては、自国の地下に眠る石油の力を使って、こうしたアルメニアの優位性に対抗しようと考えた。アゼルバイジャンとアメリカ、ロシアなどの話し合いによって、バクーからトルコに至るパイプラインの計画がまとまり、それがアルメニアを経由することになったため、昨年に入って紛争解決の必要性がいっそう高まった。

 アメリカは、アルメニアが和平交渉で譲歩すれば、大量の援助資金を供給し、独自の産業を育成して、ソ連時代に作られたロシア依存型の経済から脱却できるようにすることを、テルペトロシャン大統領に約束した。そして昨年10月、アメリカの上院議員でクリントン後の次期大統領候補といわれるボブ・ドールがアルメニアを訪問し、アメリカが1億ドルの資金援助をする予定であることを、アルメニアの有力者たちに説いて回った。この資金は、ラスベガスで成功したアルメニア系アメリカ人実業家が中心に集めた民間基金であった。

 先日失脚したテルペトロシャン大統領の態度が変わったのは、このころからである。大統領は、戦争のためにアルメニア経済が疲弊しており、和平交渉で譲歩する必要がある、と言い出した。

 ところがこの豹変は、国民の支持を得られなかった。アルメニアの首相、ロバート・コサルヤンは、昨年までナゴルノカラバフの大統領をしていたが、彼が大統領を激しく非難し、他の政治家の多くも同調した。今年の年頭演説では、大統領と首相らの路線対立がますます鮮明になり、その1ヶ月後、ついに大統領の退陣となった。

 アルメニアでは今後、戦闘が再び勃発する可能性が強くなっている。こんな状況になるとは、っい最近まで、アメリカ政府関係者だけでなく、テルペトロシャン大統領自身も思っていなかったに違いない。おそらく大統領や欧米政府は、小さな領土を守るために戦争を続行するより、アメリカから援助をもらって経済発展した方がいい、とアルメニア国民が皮算用すると思ったのであろう。

 だが彼らの民族意識は、ソ連を崩壊させるほどに強かったのだから、欧米の札束外交が成功する相手ではなかったのである。

 
田中 宇

 


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FACT SHEET: NAGORNO-KARABAGH

 ナゴルノ・カラバフ紛争についての背景を詳しく解説している。アルメニア側に立って書いた文献。英語。





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