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アウンサンスーチーと中国

2016年9月14日   田中 宇

 東南アジアのミャンマーで昨秋の選挙に圧勝して政権をとったアウンサンスーチーが今夏、国家運営を開始するとともに、国際舞台で活躍し始めている。山岳地帯が多いミャンマーには、多数派のビルマ族(人口の7割)のほかに多くの少数民族がいる。「建国の父」だったスーチーの父アウンサンが1947年2月に少数民族を集めて「パンロン会議」を開き、国家統合と48年の独立につなげた。だがアウンサンは独立前の47年7月に暗殺され、ミャンマーは独立したものの、少数民族との内戦が70年間続いている。スーチーは今年3月に政権をとった後、内戦を終わらせるため、少数民族と交渉し、父のあとを継いで「21世紀のパンロン会議」を8月31日から開いた。 (Panglong Conference - Wikipedia) (Myanmar's Foreign Policy Rebalance

 少数民族のいくつかは隣国の中国から支援を受けてきたため、スーチーは8月中旬に中国を訪問し、協力をとりつけた(米国より先に中国を訪問した)。いくつかの少数民族が中国の圧力を受け、パンロン会議に参加した。会議は、各民族がそれぞれの要求を中央政府に対して表明しただけで終わり、これから半年ごとに会議を開くことを決めただけだが、停戦や敵対の緩和に役立っている。会議が終わった後、スーチーは、軍事政権を標的にした経済制裁の緩和などを求めるため米国を訪問し、9月14日にオバマ大統領と会談した。 (Panglong and the art of compromise) (China Rolls Out Red Carpet for Myanmar's Suu Kyi in Beijing

 スーチーは、1988年にミャンマーで軍事政権に対して民主化・経済改革を求める激しい反政府運動が起き、長期独裁者だったネウィンが引責辞任して混乱に拍車がかかった時期に、たまたま母の看病をするために英国から戻ってきて、傍観していられずに民主化運動に参加したところ、50万人の聴衆を集めて民主化運動の象徴・指導者となった、とされている。88年当時、ソ連でペレストロイカ、中国でも中国之春から天安門事件につながる民主化要求運動が続き、ミャンマーの運動もそれらの影響を受けていた。88年の民主化要求は90年の総選挙につながり、スーチーらが率いたNLD(民主国民連盟)が選挙で圧勝したが軍政は選挙結果を無効とし、スーチーを自宅軟禁にした。 (8888 Uprising From Wikipedia

 それ以来、スーチーは断続的に2010年までヤンゴンの自宅に軟禁されていた。だが、10年の選挙をNLDがボイコットし、選挙に勝った軍事政権側は、スーチーの軟禁を解き、一転してスーチーに意見を求めるようになった。11年にはNLDが再結成を認められ、政治犯の釈放が始まり、労働組合の結成も認められるようになった。12年には米国からオバマ大統領がミャンマーを訪問し、米国が経済制裁を緩和する動きが始まった。15年秋の総選挙でNLDが圧勝したが、憲法の規定により議会の上下院の議席のうち25%は軍政側が握っており、今年2月からの新政権は、NLDと軍政が連立政権を組むかたちになっている。 (Aung San Suu Kyi From Wikipedia) (In Historic Burma Visit, President Obama Offers Praise and Criticism

 軍政は、選挙で負けることを想定し、08年の新憲法で、配偶者や子供が外国人である者は大統領になれない規定を新設し、スーチーの大統領就任を阻止した。NLDは下院議席の3分の2以上をとったため、憲法の新規定がなければスーチーが大統領になれたところだが、新規定があるためスーチーは外相・国家顧問という地位にとどまり「事実上の国家元首」となった。 (Assembly of the Union - Wikipedia

▼政権転覆を防ぐため軍政がスーチーに接近

 このように軍事政権は、各種の制限をつけながらも、スーチーやNLDが権力の座に入ってくることを数年がかりで容認してきた。スーチーやNLDに権力を完全に握られると、憲法改定などをやられて軍部が政権から追い出されてしまうので、それを防ぐため、軍部が議席の25%を保持し、スーチーでなくカリスマがないNLDのスーチー側近が大統領になるようにした上で議会民主主義を実現した。これは、軍政にとってかなりリスクがある行為だ。なぜ軍政はスーチーを政権内に取り込む必要があったのか。

 私なりの分析は、ミャンマー軍政が、米国が03年のイラク侵攻とともに掲げるようになった「独裁政権の転覆策」の犠牲になることを防ぐため、ミャンマー国内で唯一、米欧から強い支持を受けている政治家であるスーチーを味方に引き入れ、連立政権を組むことにしたのでないか、というものだ。米ブッシュ政権はイラク侵攻前に、イラク・イラン・北朝鮮の「悪の枢軸」を制定し、イラクの政権を転覆した後、05年に、イラン、北朝鮮、ミャンマー、ベラルーシ、キューバ、ジンバブエの6カ国を、政権転覆すべき「圧政国家」に指定した。 (ミャンマーの開放

 米国のCIAや国務省、ジョージ・ソロス系の団体などは、88-90年にミャンマーで民主化運動が弾圧された後、隣国タイに逃げ込んだ学生運動家らのために拠点を作り、軍事政権転覆のための訓練をほどこす事業をしていたが、05年ごろからそれを強化した。07年にはIMFがミャンマー軍政に強制した補助金削減から燃料費が高騰し、市民の不満が反政府運動の再燃(サフラン革命)につながった。98年には、IMFに補助金の削減を強制され、インドネシアのスハルト独裁政権が市民革命で転覆している。スハルトと同じ運命をたどることを回避するため、ミャンマー軍政はその後、スーチーを許して取り込むことを検討したと考えられる。軍政とスーチー・NLDとの和解は5年かけて進み、その間に米欧がミャンマーへの敵視を解いていき、15年のNLDの選挙圧勝を経て、今年のNLD政権の誕生、内戦終結交渉の開始につながっている。 (Saffron Revolution - Wikipedia) (イラク化しかねないミャンマー

 ミャンマー軍政とスーチーの和解には、もうひとつ立役者がいる。それは中国だ。88年の民主化運動で軍政がスーチーら市民運動を弾圧し、米欧日などが軍政を経済制裁した後、軍政が唯一頼りにできる外国は中国だけになった。中国は88年8月8日に反政府運動が決起する3日前に、軍政と新たな経済貿易協定を結んでいる。中国は、軍政が民主化運動を弾圧し、欧米に経済制裁された軍政が孤立することを予見していたようだ。その後、ミャンマーと中国の経済関係が拡大している。 (China–Myanmar relations From Wikipedia

 中国は、インド洋からマラッカ海峡を通らずに自国に石油ガスを送るパイプラインの通り道や、インド洋の島を租借して中国海軍の拠点とするためにミャンマーを重視するようになり、04年にパイプライン敷設の計画を立てた。その後、米国がミャンマーへの敵視を強めて軍事政権の転覆を狙い始めたので、中国はミャンマー軍政に、スーチーと和解して転覆されるのを防げと勧めるようになった。パイプラインや軍港租借で、中国にとってミャンマー軍政は転覆されては困る存在になった。12年に中国の政権が胡錦涛から習近平に代わり、覇権の多極化を意識して「一帯一路(シルクロード開発)」などミャンマーを通るユーラシアのルートの開発を進めるようになり、中国がミャンマーを地政学的に重視する傾向がさらに強まった。 (アウンサンスーチー釈放の意味

 米国がミャンマー軍政を敵視してきた分、軍政は中国に頼らざるを得なくなり、ミャンマーは中国の属国であるような感じになっているが、実のところミャンマーは民族自決の意識が強く、中国の支配を嫌う傾向が強い。ミャンマーの指導者に民族自決の意識が強いのは、かつてアウンサンが戦時中、一度は日本の傘下で英国からの独立を目指したのに、日本が戦争に負けそうだと見るや英国側に転じ、英国から独立を認めてもらう見返りに抗日運動を開始した時からのことだ。ウーヌやネウィンなど、その後の政権の何人かはアウンサンの学友、盟友であり、民族自決の意識が強い。

 ネウィンは62年のクーデターで政権を取り、88年の民主化運動で引責辞任(黒幕化)するまで独裁者だったが、彼は自分自身が華人なのに、独自の社会主義と称し、経済を国有化して華人の財閥から容赦なく資産を没収した。ミャンマー人が華人を嫌っていることを利用して、自分の政権の人気取りのために、華人の中国語学校を潰したり、国籍条項を強化した。文革時の中国がミャンマーを敵視した報復として華人弾圧の暴動を扇動し、華人の多くがミャンマーから出て行くよう仕向けた。しかし華人を追放した結果、ミャンマー経済は停滞がひどくなり、市民生活が苦しくなって88年の反政府運動を招いた。皮肉なことに88年以降、軍政は国際制裁され、中国以外に頼る国がなくなった。 (Ne Win - Wikipedia

 軍政は中国の勧め(圧力)に従い、07年以降、スーチーとの和解に動いていったが、国民が軍政を中国の傀儡と批判することを嫌がり、国民に対する人気取り策として、11年に、中国がミャンマーで建設していたイラワジ川のミッソンダムの工事を唐突に中止させ、計画を棚上げしてしまった。中国はイラワジ川に7つのダムを計画していたが、これらは川の流れを変えてしまい、ミャンマーの農業や環境に悪影響を与えるとして人々に不評だった。野党として再結成して活動を強化していたNLDやスーチーは、中国のダム建設に反対していた。中国側は、ダムで発電した電力の1割をミャンマーに無償供与すると言っていたが、ダムの発電所はミャンマーの送電網に接続する予定がなく、全量が雲南省に送られる形になっていた。 (Myitsone Dam From Wikipedia

 属国だと思っていたミャンマーに、相談もなくダム工事を中止させられた中国は「違約金を払え」などと脅したが、これが人気取りになってミャンマー軍政が延命できるなら仕方がないし、遅延してもいずれダムができるなら長期的に中国の利得になるし、インド洋から中国へのパイプラインなど他の事業のことも考えるとミャンマー側とあまり対立しない方が良いと考えたのか、そのままになっていた。今夏のスーチーの訪中時に、中国側はミッソンダムの工事再開を要望した。スーチーは、自分の一存でダム工事の再開を決めると「スーチーは政権をとって中国の傀儡に成り下がった」と中国嫌いのミャンマー国民に言われかねないので、国内各界の有力者を集めて20人委員会を作り、彼らに決めてもらうことにした。 (China's Dam Problem With Myanmar) (Myanmar Leader to Discuss Contested Dam Project on China Visit

 ミッソンダムをめぐってミャンマーと中国が突然に対立したので、中国を敵視する米欧軍産系のマスコミなどは喜んで「中国ざまあみろ」的な見方をした。しかし、この時期にミャンマーで起きていたことの全体像は「軍政が中国の勧めにしたがい、政権が生き残って中国の影響圏であり続けるために、スーチーと和解したり、国民に不人気な(中国による)大規模工事を中止したりする流れ」であり、ミッソンダムの棚上げを見て「ミャンマーが中国の影響圏から離脱しつつある」と喜んだのは、木を見て森を見ずだった。 (ミャンマーの和解

▼中国は密貿易より地政学利得が重要に

 今回、スーチーが政権をとった後、米国より先に8月中旬に中国を訪問せねばならなかった最大の理由は、スーチーが8月末に開催した「父の遺志を継ぐ」、少数民族と和解して70年ぶりに内戦を終わらせる「21世紀のパンロン会議」に、中国の影響下にある、ワ(佤)族、コーカン(果敢)族、タアン(徳昂)族といった、少数民族の武装勢力を参加させるためだった。これらの民族は、中国とミャンマーにまたがって住んでおり、中国軍から供与された高性能の兵器を持っている。昨年秋、軍政と少数民族の間で停戦合意が結ばれているが、これらの民族は停戦にも参加していない。スーチーの訪中後、中国政府の特使が国境沿いの少数民族地域を回り、圧力をかけた結果、これらの民族はパンロン会議に参加した。 (Chinese Envoy Encourages UWSA, Mongla Group to Participate in Peace Conference

 中国政府の、ミャンマー国境の少数民族に対する政策は、歴史的な紆余曲折がある。独立の父アウンサンは、ビルマ共産党の設立会議に参加した人でもある。しかしアウンサンが暗殺された後、ミャンマー政府は共産党を弾圧し始め、ビルマ共産党は中国共産党を頼り、中国国境地帯の少数民族地域に移動し、ワ族やコーカン族の少数民族軍と一体化した。 (China's key role in helping Aung San Suu Kyi reconcile Myanmar's decades-long ethnic conflicts

 毛沢東時代の中国はソ連寄りになったネウィン政権を敵視し、少数民族軍を積極支援したが、70年代末から経済優先のトウ小平の時代になると、中国は軍事支援を減らす代わりに、ミャンマーの宝石類や鉱物資源、材木などを中国に密輸出するルートとして国境の少数民族地域を使うようになり、少数民族側は密輸で儲けた資金で中国軍から武器を買うようになった。中国国内では違法な賭博や売春の拠点を「国外」のミャンマー側に作り、中国から団体客を呼び込んで儲ける商売も拡大した。麻薬栽培も行われている。国境の少数民族は資金力も武力もあるため、密貿易が困難になり武装解除も迫られるミャンマー軍政との和解を嫌がった。 (China Helps Aung San Suu Kyi With Peace Talks in Myanmar

 しかし00年代になり、中国政府がインド洋に出るルートなどミャンマーの地政学的な利点を重視するようになると、ミャンマーの内政的な安定が中国にとっても重要になり、中国側がミャンマーの少数民族を儲けさせ武装させて軍政との内戦を維持・扇動し、ミャンマーを不安定なままにしておく従来の構図が、好ましくないことに変質した。この変質の上に、中国政府はミャンマー軍政とスーチーの和解を後押しするようになり、軍政よりも少数民族に信頼されているスーチーが軍政と連立政権を組み、少数民族と和解する父譲りのパンロン会議を開き、中国政府が少数民族に圧力をかけてパンロン会議に出席させる流れが出てきた。 (Panglong talks carry significance beyond Myanmar) (After Suu Kyi's visit, Chinese state media focuses on Myanmar-India ties

 8月末のパンロン会議は、何の結論も出せず失敗だったと評されている。だが、少数民族側に対して大きな影響力を持っている中国が、地政学的な理由から、スーチーに味方しているのだから、長期的にみてパンロン会議は成功し、ミャンマー内政は安定に向かう可能性が高い。 (The Problem With the 21st Century Panglong Conference) (中国の台頭を誘発する包囲網

 米国では「中国包囲網」を強化したいはずのオバマ政権が、スーチーと和解した軍政を評価するようになり、軍政に対する経済制裁を解除していっている。オバマのミャンマーびいきは、中国を包囲・弱体化するどころか、逆に中国の地政学的な野望を助けてしまっている。米国内でも、真に中国を敵視したい軍産系の勢力は、制裁解除に反対しているが「中国を敵視するふりをして強化する」オバマのやり方に押し切られている。 (中国の傘下に入るミャンマー



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