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中国の傘下に入るミャンマー

2007年10月25日   田中 宇

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この記事は「イラク化しかねないミャンマー」の続きです。

 中国とミャンマーは、歴史的に微妙な関係にある。かつて中国は、ミャンマーで共産主義革命を起こそうと、反政府勢力の一つであるビルマ共産党を支援していた。中国で毛沢東が文化大革命を起こした1968年には、ミャンマーで反中国人暴動が起きたのを口実に、中国軍がミャンマー北部に侵攻し、ミャンマー軍と戦闘になった。(関連記事

 1976年に毛沢東が死去し、代わりに経済重視の現実派であるトウ小平が最高権力者になった後、中国はビルマ共産党に対する支援を打ち切り、ミャンマー政府との関係を好転させた。80年代以降、中国は、ミャンマーとの国境貿易を振興させ、ミャンマーの道路や発電所、石油ガス田、農業施設などの経済開発に対し、さかんに投融資した。中国からミャンマーへの武器輸出も急増した。

 ミャンマー軍事政権は、1988年の国民暴動を鎮めるために90年に選挙を行ったが、野党のアウン・サン・スー・チーが圧勝してしまったため、選挙結果を無視して独裁を続けた。この時、欧米や東南アジアなどの関係諸国はミャンマーを非難し、孤立させたが、中国はミャンマーを非難せず、親密な関係を続けたので、軍事政権は中国への依存を強めた。

 トウ小平は、自国で展開していた「政治は独裁のまま、経済だけ先に自由化する」という改革開放の戦略を、ミャンマーにもやるよう勧めた。しかしミャンマー政府が経済を少しずつ自由化したところ、中国から大勢の人々がビジネスをやりにミャンマーに移住し、中国に近い北部の大都市マンダレーなどで、もともと地元のミャンマー人が展開していた商売を横取りするかたちで事業拡大したり、地価のつり上げを狙って不動産を買い占めたりした。中国人の流入は圧倒的で、マンダレーでは、1994年の時点で、人口約100万人の市民のうち4分の1程度が、中国から移住してきて市民権を裏口申請した人々だった。(関連記事

 ミャンマーで政権を握る将軍たちは、かつて自国の内戦に中国が介入していたことを忘れていなかった。そこに、中国が「先に経済だけ自由化すると良いよ」と言いつつ入ってきて、気がついたらミャンマー経済は中国人に握られる展開になったので、中国に対するミャンマー政府の警戒感は根強く残った。

 中国では、1980年代から90年代前半まで、沿岸地域と内陸地域の経済格差の解消に役立てようと、周辺国との国境貿易(辺境貿易)を振興していた。ミャンマーとの経済関係の強化は、その一環だった。だが辺境貿易は、中央アジア諸国との間では成果があったものの、東南アジア諸国との間では、国境地帯に売春宿や賭博場がたくさんでき、中国の役人たちが公費旅行で押し掛ける現象を招いた程度(中国国内では取り締まりの対象だが、国境の向こう側の「外国」での乱痴気は大目に見られた)で、内陸経済の発展に大して役立たず、90年代後半にはあまり重視されなくなった。

▼勧められた形だけの中国式民主化

 中国とミャンマーの関係が再び動き出したのは、ブッシュ政権のアメリカが、2001年の911事件後に「単独覇権主義」や「政権転覆による独裁国の民主化」という、異様に強硬な世界戦略を打ち出してからである。ミャンマーの軍事政権に対するアメリカからの圧力も強まったが、同時にアメリカは、中国に対して「国際社会で、もっと責任ある態度をとれ」と要求し、北朝鮮の核開発疑惑を、6者協議という中国が主導する国際協議で解決させようと仕向けたりした。(関連記事

「中国が問題解決の主導権をとらない場合、アメリカが軍事攻撃して政権転覆するぞ」という脅しは、北朝鮮に関してだけでなく、ミャンマーに関しても適用された。そのため中国政府は、北朝鮮核問題の6者協議を開始した2003年に、ミャンマー問題でも動き出し、ミャンマーとアメリカの代表を北京に呼んで、初めての交渉を行った。

 中国は、ミャンマーに対し、憲法を改定したり、中国でやっているような、全国の町内会の役員会で自由選挙(政府の意志決定に影響を与えない範囲の、基層だけの民主化)を行ったり、スー・チーと交渉する姿勢を見せたり、辺境の少数民族に形だけの「自治」を与えたりして、これらを「民主化」として世界に発表してうまくやれ、と勧めた。(関連記事

 ミャンマーの軍事政権は、数人の有力な将軍を中心に「国家平和発展評議会」を作り、合議制で意志決定していた。その中で、首相で第1書記のキン・ニュン中将は、中国式の改革を進めたい親中国派だったのに対し、副議長のマウン・エイ大将は反中国派で、そのさらに上に立つ議長(最高権力者)のタン・シュエ上級大将が、親中派と反中派の対立する言い分を聞き、最終意志決定する仕掛けになっていた。

 2003年以降、アメリカの強硬姿勢に押された中国がミャンマー問題への介入を強める中で、ミャンマー上層部では、中国の勧めに従おうとするキン・ニュン派と、それに反対するマウン・エイ派の対立が強まった。一時はキン・ニュン派の方が優勢で、キン・ニュンは03年8月、中国に勧められた政治改革案を、7項目の「民主化ロードマップ」として発表した。(キン・ニュンは、ウォッチャーの間で「ミャンマーのトウ小平」と呼ばれていた)

▼キン・ニュン失脚で影響力を失った中国

「ロードマップ」は、アメリカが当時のパレスチナ和平案に使っていた名称であり、アメリカに自分たちの「民主化」を評価してほしいと考えるミャンマー政府の意志が感じられる。しかしアメリカは、表向きだけのミャンマーの民主化計画を全く評価せず、2004年7月には経済制裁の延長を決定した。

 ミャンマー政府は04年春「間もなくスー・チーを釈放する」という情報をさかんに流し、アメリカの反応を探ったが、これも不発に終わった。さらに04年9月、ブッシュ大統領は国連での演説で、スー・チーを絶賛し、ミャンマーの民主化を強く支援すると表明した。これは、アメリカがミャンマーを、イラク同様に政権転覆するつもりだという意志表明になった。(関連記事

 この後、最高権力者のタン・シュエは、中国式の改革を進めても意味がないという結論を下したようで、04年10月にキン・ニュンは突然、汚職容疑を着せられて逮捕され、失脚した。中国は、ミャンマー政府に対する影響力を一気に失った。

 この後、ミャンマー政府は、世界から自ら孤立していく路線を選んだ。自国と同様、中国・アメリカ両方からの圧力を受けつつ孤立戦略を突き進む北朝鮮に接近したり、北朝鮮を真似てロシアから実験用原子炉を買おうとしたり、タン・シュエお得意の国民洗脳戦略を強化しようと、首都を密林内のネピドーに移転したりした。

(首都移転は、中国にも事前に全く知らせなかった。その後、再び中国の影響力が増した後の今年5月、中国の在ミャンマー大使が、遷都の事前通知がなかったと批判する記事を、大使館のホームページに掲載した)(関連記事

▼アメリカの突き放しで結束した中国とASEAN

 ミャンマー政府は孤立化路線を模索したが、本気で米中の両方と敵対してやっていく決心はなかったようだ。2005年1月、アメリカが「悪の枢軸」の「バージョン2」ともいうべき「圧政国家」の6カ国を「アメリカが今後政権転覆したい国々」として発表し、その中にミャンマーが入っていることが確認された後、ミャンマー政府は再び中国に接近する態度をとった。

 05年夏には、反中国派だったはずのマウン・エイ大将が中国を訪問し、中国共産党の首脳陣と親交を深めた。06年2月には、キン・ニュンの後任首相となったソー・ウィンが北京を訪問した。ミャンマー政府代表団は07年にも中国を訪問した。これらの訪問の際、中国はミャンマーに、以前にキン・ニュンが進めていた中国式の政治「改革」を再開するよう勧め、ミャンマー側はそれに従って、スー・チーとの交渉再開や、憲法改定のための国民会議召集を行うそぶりをし始めた。(関連記事

 この間、アメリカは、ミャンマーを敵視する姿勢を続けると同時に、2005年夏には、中国に対し「責任ある大国」(responsible stakeholder)として振る舞うことを公式に求め、北朝鮮やミャンマーの問題を中国主導で解決することを要求する姿勢を強めた。北朝鮮やミャンマーは以前からアメリカやEUから経済制裁を受けており、すでに欧米との経済関係はほとんど切れていた。これ以上アメリカが制裁を強めても、北朝鮮やミャンマーに与える効果は少なかった。アメリカはイラク占領で軍事的に疲弊し、北朝鮮やミャンマーを侵攻して政権転覆することもできなくなっていた。アメリカは、中国に頼るしかなかった。

 ミャンマーに対してはASEAN(東南アジア諸国連合)も影響力を持っていた。ASEANはもともとアメリカが冷戦中に「反共産連合」として東南アジア諸国に作らせた組織で、最初からアメリカの傘下にあった。しかしアメリカはASEANに対して「ミャンマーに圧力をかけて政治改革させろ」と求める一方で、ライス国務長官が2005年の重要な節目のASEAN外相会談を欠席するなど、ASEANを突き放すような態度を、折に触れてとり続けた(ライスの欠席は「ミャンマー代表に会いたくないので」という理由だった)。(関連記事

 アメリカは、中国とASEANに「ミャンマーは君たちの問題だから、アメリカに頼らず解決してくれ」という態度をとった。ASEANは、冷戦中は反中国(反共産党)の組織だったが、冷戦後は中国と親密になり、特に華人中心の国であるシンガポールなどは、中国の国際戦略の片棒担ぎ(露払い)をして儲けようとする傾向を強めた。ASEANと中国は、協調してミャンマーに接するようになった。

▼反欧米で結束する中露を極悪に描く報道

 従来は世界の主導役として信頼できたアメリカが、911後、国際政治の場で「政権転覆」など無茶苦茶な言動を急に強め、5年以上経っても元に戻らないため、それまで「覇権(国際影響力)を強めるにはまだ早い」と考えていた中国政府は、覇権獲得を前倒しすることにした。06年から07年にかけて、ロシアと合同でユーラシアでの影響力を拡大する「上海協力機構」をさらに強化し、イランやインド、パキスタンを取り込むことにしたのは、その一例である。

 中国は同時期に、ミャンマーについても、自国の影響圏なのだから欧米は介入するなという姿勢を強めた。その象徴は、国連安全保障理事会でミャンマー非難決議を出すことに、中国が強く反対し始めたことである。

 国連安保理では、05年後半からミャンマー非難決議が討議されたが、中国は「安保理は、国際社会の安全が侵害されたときだけ非難決議を出すべきだ。ミャンマーの問題は国内問題であり、周辺国に難民流出などの問題を与えているものの、それはASEANなど地域諸国で話し合うべきであり、安保理で非難決議する問題ではない。人権侵害について話し合うのは、国連では安保理事会ではなく人権理事会である」と主張して反対した。(安保理には国連軍派遣を決める権限があるが、人権理事会にはその権限はない)(関連記事

 結局、07年1月、安保理でこの問題についての決議が行われ、中国とロシアは常任理事国として拒否権を発動した。中露が一緒に拒否権を発動したのは初めてで、この動きは、欧米が「人権問題」を口実に、覇権と利権を維持拡大してきたのを、中国とロシアが初めて国連の場で阻止したという意味で、画期的だった。(この事件については以前に記事を書いた

 中国やロシアも、欧米に負けず、利権の維持拡大に関心がある。ミャンマー政府は、中露による拒否権発動の2日後、中国企業に石油ガス田の開発権を与える決定をしている。その後ミャンマー政府は、インド企業に与えてあった石油ガス田の開発権を剥奪し、代わりに中国とロシアの合弁会社に与える政治決定もしている。ロシアは、ミャンマーに実験用原子炉を売る商談を再び進めている。(関連記事その1その2

 変化のポイントは、覇権と利権の争奪戦において、これまでの「人権外交」を駆使して勝っていたアメリカ(とその傘下にいる西欧や日本)の優位が崩れ、中国やロシアが台頭してきたことである。ミャンマーにおける中国の影響力拡大は、その象徴である。

 対米従属が国是の日本のマスコミでは、中国やロシアは「極悪」で、欧米は「絶対善」という白黒二元論的な善悪の描き方になっており、それを軽信して中国やロシアを極度に嫌う日本人が多いが、実際の国際社会は、善悪を超越した覇権と利権の争奪戦である。中露より欧米の方が、マスコミ操作がはるかに上手いというだけの話である。報道による善悪観の操作に、多くの人がいとも簡単に騙されている。

▼反政府運動の背景にアメリカ内部の暗闘?

 今夏にミャンマーで起きた反政府運動は、中国がミャンマーを中国式に安定させようと本腰を入れ、アメリカもミャンマーが中国の傘下に入ることを、表向きは非難しつつも現実的には黙認する態勢ができかけていた矢先に発生した。今年6月末には、中国が仲裁し、アメリカとミャンマーの政府担当者が北京で会う会合が、2003年以来4年ぶりに開かれた。ミャンマーで反政府運動が勃発したのは、その2カ月後だった。(関連記事

 前回の記事に書いたように、反政府運動が起きた原因は、アメリカの傘下にある国際組織IMFが、ミャンマー政府に圧力をかけて燃料補助金を突然に廃止させたことにあったと推察される。

 ここで湧く疑問は、アメリカはミャンマーをイラクのように政権転覆するつもりなのか、それとも中国の傘下に入るのを黙認するのか、どちらなのかということである。アメリカからは、両方のメッセージが同時に発せられている。これは、米政界の内部に、中国やロシアの台頭を黙認する勢力(隠れ多極主義者)と、従来のアメリカ(米英)中心の世界体制を守りたいと考える勢力(米英中心主義者)がいて暗闘しており、米英中心主義の勢力がIMFを動かし、ミャンマーが中国の傘下に入るのを防ごうとしたとも考えられる。

(北朝鮮をめぐっても、アメリカの国務省は北朝鮮宥和策に熱心なのに対し、ネオコンのボルトン前国連大使などは、北朝鮮敵視策を復活させようと、共和党議員を説得して回っている)(関連記事

 アメリカ内部の権力構造はどうあれ、実際には今夏以降、ミャンマーの事態は、再び中国主導の流れに戻っている。ミャンマー政府は9月25日に戒厳令(夜間外出禁止令)を、2カ月間の予定でヤンゴンとマンダレーという2大都市に敷いたが、それは予定より1カ月早い10月20日に解除された。情勢は政権転覆に近づかず、安定してきている。(関連記事

▼再び中国式の流れに

 ミャンマー政府は、スー・チーと交渉する姿勢(ふり)を再び強め、国連の人権調査員のミャンマー訪問も受け入れるとも表明した。背後で中国が動いているという確たる証拠はないものの、流れとしては中国式のシナリオどおりという感じである。(関連記事

 9月6日には、オーストラリアで開かれた国際会議のかたわらで行われた米中首脳会談で、ブッシュ大統領が胡錦涛主席に対し、中国の影響力を使ってミャンマーの人権問題を解決してほしいと要請した。(関連記事

 10月9日には、国連安保理でアメリカのカリルザド国連大使が「ビルマの軍部は、今後の(民主化への)移行期やその後の時期において、一つの役割を果たすことになるだろう」と述べ、初めてミャンマーの軍部を容認する姿勢を見せた。これはアメリカが、軍事政権を転覆しようとする従来の姿勢から転換していることを示している。(関連記事

 現実の流れとしては、今回も、アメリカがミャンマーの政権転覆を狙った言動をして失敗した後、中国の影響力が拡大するという展開になっている。これは、2001年の911後にアメリカが強硬姿勢になった後と、2005年に米政府がミャンマーを「圧政国家」に名指しした後に、結局は中国の影響力が拡大したという展開の繰り返しである。

 同じパターンは、アメリカが北朝鮮に政権転覆の圧力をかけた後、結局は中国主導で6者協議が進められていることにも表れている。これほどの失策の繰り返しは、アメリカの当局者が無能だから同じ過ちを繰り返すのではなく、意図的に失敗して中国を台頭させているように見える。

▼日本政府の反中国・孤立化路線

 ミャンマーをめぐるここ数年の流れの中で、日本も大きな転換をした。以前の日本は「ミャンマー問題はアジアの問題で、ASEANや日本や中国などのアジア諸国が協力して解決すべきであり、国連安保理で非難決議をすべき問題ではない」と主張していた。日本は、長らくミャンマーに対する最大の経済援助国で、欧米の「人権外交」の圧力を受け、ミャンマー支援を減らす方向をとったものの「アジアで解決すべき問題」という姿勢は貫いていた。(関連記事

 日本の姿勢が変わったのは、06年9月の国連安保理での議論からである。安保理では、アメリカが欧州の賛成を受けてミャンマー制裁を提案していたのに対し、中国やロシアなどは国連での制裁に反対していた。日本は従来、制裁反対の立場だったが、06年9月から一転してアメリカに同調し、ミャンマー制裁を支持し始めた。この転換が起きたのはちょうど、日本が小泉政権から安倍政権に代わった時期であり、対米従属(日米同盟)の強化を最重要課題に掲げた安倍首相が、方針転換を決めた可能性がある。(関連記事

 とはいうものの、日本がミャンマー問題でアメリカ支持に回った時期は、アメリカがミャンマー問題を中国に任せる姿勢を強めた時期でもあった。アメリカがミャンマーや北朝鮮の問題解決を中国に任せるにつれ、日本の戦略は、対米従属の強化ではなく、中国に協力しない孤立化戦略として機能するようになっている。

 北朝鮮に対しては、日本政府は「拉致問題が解決しない限り、日本は北朝鮮を支援しない」という孤立化戦略をとっているが、ミャンマー問題でこれと同じ機能を果たしたのが、今夏ミャンマーの反政府運動を取材していた日本人カメラマンが撃たれて死亡した事件である。「日本人を殺したミャンマー軍事政権を許さない」という世論を日本で拡大しようとした政府(外務省)の意を受けて、日本のマスコミは、この事件をことさら大きく報じた。同時に「ミャンマーの軍事政権は、中国からの支援を頼りに、圧政を続けている」という点も報道で強調された。

 これらの報道によって日本人は、中国主導でミャンマー問題を解決する動きが本格化しても「憎きミャンマー軍事政権と、極悪の中国に協力することはできない」という世論を持つように仕向けられた。アメリカが、北朝鮮やミャンマーの問題解決の主導権を中国に移譲する中で、日本政府はそれに協力しない態勢を、世論の誘導によって作り出している。

 もし今後、ブッシュの次のアメリカの政権が、米英中心の世界体制の復活に努力するのだとしたら、ここ1、2年の日本政府の孤立化戦略は一時的なもので、ブッシュが中国に渡したアジアでの覇権を、米次期政権が取り戻そうとする際に、日本はアメリカに協力するつもりなのかもしれない。

 しかし、米次期政権も現政権のような失策を繰り返したり、次期政権が頑張っても覇権の回復に至らなかった場合、アジアの覇権は完全に中国に移転する。その場合、日本の孤立は一時的ではなく、恒久的なものになっていく。

▼日本の孤立は自然な伝統

 日本の特徴は、日本人自身に覇権(国際影響力)を持とうとする意欲が全くないことである。日本人は、覇権(国際影響力、国際貢献)について、大きな勘違いをしている。覇権とは利権(金権)であり、国家や国民を金持ちにするための対外影響力なのだが、日本では政府にも言論界にも「日本が世界で尊敬されるよう、国際貢献しよう」といった漠然とした概念があるだけで、利権と結びつけた発想が全くない。

 世界を見ると、米英仏中露など明白に覇権を気にする国々以外にも、ドイツや韓国、オーストラリアなど、覇権に対してひそやかな野心を抱く国が多い中で、日本は例外的に、覇権を希求する動きが全く存在しない。戦前の日本は野心的だったが、覇権を捨てた後の戦後の日本人は、覇権について理解する知力も失い、自分たちが覇権を求めないことの異例さも感じていない。覇権を知覚できないので、日本人は国際政治を理解できない。(これが「敗戦」の最大の意味かもしれない)

 日本人に覇権を忘れさせたのは、第二次大戦終結時の英米の戦略だったのかもしれないが、日本人は、その戦略にうまく適合しすぎて、覇権のことを忘れたまま、高度経済成長とその後の先進国としての生活を楽しみ、もはや覇権なしの国家体制の方が性に合っている。

 日本が覇権を求めないのは「平和主義」の具現化であり「悪い」ことではない。だが同時に日本は、アメリカがアジアの覇権を日本に渡したくても、それを拒否して、受動的な対米従属の状態だけを甘受したがっている。日本政府は、アメリカが中国に覇権を譲渡し(押しつけ)ているのを見て、対米従属が続けられなくなるので困ると思っているだろうが「その覇権、中国にやらず、俺たちによこせ」とは決して言わない。アメリカは、日本が固辞するので、仕方なく中国に覇権を委譲している。

 アメリカは、北朝鮮やミャンマーの問題で、日本政府に国際指導力を発揮してほしいはずだ。日本が中国と覇を競い、日中の良きライバル関係がアジアの国際政治ダイナミズムになれば、アメリカは安心してアジアの覇権を日中に譲渡できる。しかし、日本の決定的な野心の欠如(平和主義)が原因で、それは実現していない。どこかの国が覇権を担当しないと、世界は安定せず、平和も維持されない。今後のアジアの覇権は、中国が持つことになる。

 日本は、アジアが中国中心の覇権体制(冊封体制)にあった19世紀まで、冊封体制にほとんど入らず、おおむね孤立に近い状態にあった。元寇を例外として、中国は特に日本を自分の覇権下に置こうとはせず、各時代の日本の政権は、都合の良いときだけ中国に接近し、それ以外の時は中国と疎遠にして、孤立状態を享受していた。

 このような伝統的な日本の状態を考えると、アメリカがアジアから撤退し、新冊封体制とも言うべき中国の覇権体制が復活していく中で、日本が中国の覇権下に入らず、自ら孤立状態へと移行していくのは、自然なことであるとも思える。日本とは対照的に、朝鮮やミャンマーは、伝統的に冊封体制下の国であり、中国の覇権下に入るのが伝統的に自然である。



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