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石油の国際政治

2007年3月13日  田中 宇

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 私がここ10年間ほど国際情勢をウォッチし続けて感じていることの一つに「国際石油価格は、市場原理ではなく、政治的思惑によって動いているのではないか」というのがある。

 アメリカのWTI(West Texas Intermediate)など、国際指標とされる石油価格の相場を決める材料として報じられているものは、暖冬だと需要が少ないので下がるとか、中国の経済成長が盛んで需要が増えたので上がるとか、ナイジェリアやイラクなど産油国の情勢不安による供給減で上がるとか、アメリカの備蓄量が少ないので上がりやすいといった「需給」の話が中心である。(関連記事

 しかし私は、実は石油相場を決定している最大の要因は、実需の需給ではなく、投機筋の動きであり、その背後にはアメリカ政府などの政治的な思惑があるのではないかと疑っている。OPECの元幹部は、石油価格が実需によって上がるのは1バレル40ドルぐらいまでで、それ以上の水準は、投機筋によるつり上げであると示唆している。(関連記事

 石油価格を大きく動かせる勢力は、世界の中でも限られている。何カ月にもわたって石油価格を極端な水準にとどめておくことができるのは、おそらく、アメリカの政府(もしくは共和党)と、サウジアラビアの王室、それから最近のロシア政府ぐらいである。

 このことと、これまでに私が何回か書いている「アメリカの上層部はイスラエルの味方のようなふりをして、実はイスラエルを潰したいのではないか」ということとを結びつけて考察すると、石油と中東情勢についての、いろいろなことが仮説として見えてくる。(関連記事

 考察の一つは「1973年の石油危機など、70年代から80年代初頭にかけての石油高騰は、中東で台頭したイスラエルを再び弱体化させるため、サウジアラビアなどOPECの産油国の高騰作戦をアメリカが黙認した結果、起きたのではないか」ということである。「アメリカは、石油危機を防ぎたかったのだができなかった」というのが通説だが、世界中の国々に強い影響力を持っているアメリカは、産油国どうしを対立させて石油の供給を増やして石油価格を下げることが可能である。何年も異様な高値が続くのは奇妙だ。

▼米中枢は石油危機を黙認した?

 イスラエルは、1967年の第3次中東戦争でアラブ連合軍(エジプト、シリア、ヨルダン)を破り、エジプトからガザを、シリアからゴラン高原を、ヨルダンからヨルダン川西岸地域を奪って占領地にしたことで、強い力を持つようになった。

 中東の覇権を持っていたアメリカとイギリスは、アラブ諸国とイスラエルのどちらかが強くなりすぎないことでバランスさせる「均衡戦略」をとっていたため、イスラエルに占領地を返還させてアラブ側と和解させようとした。イスラエルは、均衡戦略を打ち破るため、親イスラエル(シオニスト)のユダヤ系アメリカ人の政治勢力を使って米政界での影響力を拡大する動きを開始した。

 彼らは「ホロコースト」や「ユダヤ人差別」の問題を武器として使い、米政界におけるイスラエル系勢力の拡大に対抗してくる政治家らに「ユダヤ人差別」のレッテルを貼って退治し、強くなった。これ以来30年以上、米政界では、シオニストの勢力と、表向きは親イスラエルだが実は反イスラエルという隠れ反イスラエルの勢力が延々と暗闘を続け、今日に至っている。(関連記事

 こうした流れの中で、隠れ反イスラエルの勢力が放ったイスラエル弱体化(アラブ強化)の作戦の一つが、1973年の石油危機だったのではないかと私はみている。73年の石油危機は、アラブ側(OPECなど)が、第4次中東戦争を開始すると同時にアメリカやオランダなど親イスラエルの国々に対して石油の輸出を禁止したことで起こり、短期間に石油価格を4倍につり上げた。

 アメリカは1971年まで石油を自給できたので輸入量は少なく、石油価格は「Texas Railroad Commission」というテキサス州の公的機関が決定しており、変動相場ではなかった。自動車の普及で石油の需要が増えて輸入が必要になったため、71年3月に石油価格が自由化され、価格は相場で決まるようになった。(関連記事その1その2

▼石油危機を黙認した後、中東和平を推進

 アメリカの石油価格の自由化された後、アラブ側(エジプトとサウジアラビア)が「石油価格を武器にしてイスラエルを封じ込める」という秘密合意を1973年8月に結び、同年10月にエジプトとシリアがイスラエルに戦争を仕掛けて第4次中東戦争を起こすとともに、サウジなど中東の6つの産油国が値上げと禁輸を発表し、石油危機を起こした。(関連記事

 アメリカは石油価格を自由化してからまだ2年しか経っておらず、CIAはアラブ側の動きを事前に察知していただろうから、石油危機を未然に防ぐか、もしくは危機を短期間に収束するための石油価格の管理強化などを行うことができたはずだ。しかし、アメリカ側はあまりに無防備に混乱し、石油価格はその後10年間、高い水準を続けた。

(シオニストに負けなかったイギリスは、第3次中東戦争後、イスラエルに占領地の返還を求め、アラブ側を支持していたため、石油危機の禁輸対象にされなかった。一方、日本は石油危機に直面してあわててアラブ側についた)

 その一方でアメリカは、イスラエルを説得してアラブ側と和解させる方向に動かし、1978年にはエジプトとイスラエルに国交を正常化させるキャンプデービッド合意を仲裁した。石油危機によってイスラエルは国際社会からの圧力を多く受けるようになり、譲歩せざるを得なくなった。

 石油危機は、アメリカを中心とする先進国経済に大打撃を与えた。アメリカの上層部が石油危機とその後の高騰の長期化を黙認したいうのは、あまりに自滅的であり、多くの人にとって「あり得ない話」かもしれない。しかし、ブッシュ政権のアメリカはこの6年間、財政・外交・軍事という国家戦略の根幹の部分で、いくつもの自滅的な行為を行い、周囲の人々が「そんな自滅的なことは止めた方がいい」といくら忠告しても聞かず、自滅路線をとり続けている。

 同様に歴史を振り返ると、ベトナム戦争は自滅的だったし、レーガンの財政赤字(レーガノミクス)も自滅的だった。アメリカの政治を動かしている人々が、アメリカ自身のことを非常にないがしろにしているのは以前からのことである。アメリカを分析する際には「自滅的だからあり得ない」と日常的な直観で判断しない方が良い。

▼イスラエルの作戦としての「反石油」

 石油危機の後、イスラエルとアラブ諸国の間を往復する「シャトル外交」を行って中東和平を成功させたのは、ニクソン・フォード両政権で国務長官などの要職にいたキッシンジャーだった。昨年アメリカで機密公開された外交文書によると、キッシンジャーは1975年にイラクの外相と会談した際「アメリカは、アラブ諸国がイスラエルを潰そうとしているのには賛成できないが、イスラエルを小さくて周辺アラブ諸国の脅威にならないぐらいの弱さの国として存続させることには賛成だ。アメリカは、イスラエルを、歴史的にふさわしい小ささまで縮小すべく外交努力をするので、イラクも協力してほしい」という主旨の提案をしている。(関連記事

 キッシンジャーの発言からは、第3次中東戦争後に拡大したイスラエルを再び縮小し、アラブとイスラエルとの均衡戦略を維持しようとしたアメリカの姿勢がうかがえる。

 こうしたアメリカの圧力に対し、イスラエル側は、最近になって「ネオコン」と呼ばれるようになった勢力を米政界内に放ち、彼らは米政界内で強い力を持つ軍事産業(軍産複合体)に取り入り、シオニストと軍事産業(とキリスト教右派)の連合体が米政界内で「右派」を形成する新状況を生んだ。レーガン政権と、今のブッシュ政権は、この右派系の政権である。

 イスラエル支持の在米勢力はマスコミやハリウッド、広告業界などに多いが、彼らは「石油」と「アラブ」を悪者にするイメージ戦略も展開した。80年代に環境保護運動がさかんになると、それは「反石油」の色彩を帯び、石油会社はことさら悪者にされた。地球温暖化問題や「ピークオイル」の説を布教する環境運動も強度の「反石油」であるが、これらは運動に関与する人々の意志に関係なく、シオニストのイメージ戦略に乗るかたちになっている。

 イスラエル側が米中枢に入り込んで展開した「反石油」の長期プロパガンダ戦略に対抗して、イスラエルを弱体化させたい勢力が80年代から展開したのが「イスラエルが占領地でパレスチナ人を虐待している」という「パレスチナ問題」の人権問題化だった。これも「反石油」に負けず、世界的な市民運動の動員に成功している。(関連記事

▼アメリカを仲裁者から当事者に転落させる

 米中枢の人々が、石油危機の発生を容認して中東のイスラム産油国を強化し、相対的にイスラエルを弱体化させる均衡戦略を採ったのに対し、イスラエルの側が対抗策として採った戦略は「反石油」以外にもある。それは、イランやイラク、サウジアラビアなどの中東の産油国をアメリカの敵になるように仕向け、均衡戦略を破壊することだった。

 均衡戦略では、アメリカはイスラエルとイスラム諸国との対立を仲裁する役目だったが、1970年代末から現在にかけて、アメリカは仲裁者から転落し、アメリカを敵視する中東の反米イスラム諸国と対立する紛争当事者になってしまった。仲裁者としてのアメリカは、イスラエルをアメとムチで制御する役目だが、紛争当事者にされてしまうことで、アメリカは、同じくイスラム過激派と対峙しているイスラエルの協力を得なければならなくなった。アメリカがイスラエルを制御する状況から、イスラエルがアメリカを助ける状況に変わったことで、イスラエルの立場が強化された。

(敵を仕立てるイスラエルの戦略は、かつて日本やドイツを敵に仕立て、アメリカを巻き込んで世界大戦を起こしたことに象徴されるイギリスの外交戦略から学んだものだ)

 中東産油国をアメリカの敵に仕立てるイスラエルの戦略の最初のものは、1979年のイランのイスラム革命である。この革命によってイランは中東随一の親米国から、中東最大の反米国に転換したが、これにはイスラエルの諜報機関が関与していたのではないかと私は疑っている。

 イスラム革命直後、イランの首都テヘランのアメリカ大使館がイラン人の学生らに占拠され、大使館員が400日人質にされる事件が起き、これを機にイランとアメリカは決定的な敵対関係になった。この事件に対するアメリカの人質解放作戦は、ちょうど反イスラエルのカーター政権から、親イスラエルのレーガン政権に代わるときに展開された。カーター政権の人質解放作戦はみじめに失敗した一方、レーガンはイスラエルの助力を受け、80年1月の大統領就任の当日に人質が解放されるという、謀略の結果としか考えられない事態が起きた。この報償として、レーガン政権にはネオコンら親イスラエル勢力が多く役職をもらっている。イスラム革命まで、イランは中東最大のユダヤ人の人口を抱えており、イスラエルの諜報機関にとって、イランは裏庭だった。 (関連記事

(イスラム革命で政権をとったホメイニ師は、イラン国内に多かった親米の穏健派・リベラル政治勢力を駆逐するため、人質事件を機にイラン国内の反米意識を扇動したという側面もある。そもそもホメイニは、911後のオサマ・ビンラディンの役割と同様、反米思想をイラン側に吹き込む存在として、イスラエル側に好都合だった)

 イラン・イラク戦争でも、イスラエルはイランに武器を支援していたことが、1986年に発覚したイラン・コントラ事件で判明している。(同時に、当時はフセインのイラクが親米国家だったので、アメリカはイラクに武器を売っていた)

 1989年のホメイニの死後、2005年に反米のアハマディネジャド大統領が就任するまで、イランはアメリカとの関係改善を望み続けていた。イスラエルに批判的だったクリントン前大統領はイランとの関係改善の道を模索したが、米マスコミはイラン敵視の世論を展開し続け、関係改善はできなかった。

▼アラブ発展のモデルだったサダム・フセインの富国強兵策

 アメリカの味方から敵へと転換させられた2番目の例は、サダム・フセインのイラクである。1973年の石油危機を皮切りとした石油価格の高騰によって短期間にばく大な資金を手にしたアラブ産油国の多くは、王室が贅沢な暮らしをするなど、せっかくの儲けを浪費してしまう傾向が強かったが、例外もあった。その一つがフセインのイラクだった。

 イラクでは石油危機前年の1972年に、それまで石油産業を支配していた外資系企業を追い出して石油を国有化した。それを実行したのは、副大統領だったサダム・フセインだった。フセインは1968年のバース党クーデターの黒幕で、副大統領として実権を握ったが、党内の内紛が激しかったため、大統領には名士で党内各派に顔が利くが狡猾でない老人のアーマドハッサン・バクルになってもらっていた。

 石油を国有化した翌年に石油危機が起こり、世界有数の産油量を持つイラク政府は、一気に金持ちになった。サダム・フセインはこの金を使い、それまでシーア派・スンニ派・クルド人がバラバラに争い、地縁血縁もひどく分裂気味だったイラクを、バース党の傘下に統合していった。全国の道路や発電所を作り、農村の近代化や農地の土壌改良などを進めるとともに、全国の医療や教育を無償化した。これにより、イラク国内の多くの勢力が、フセインのバース党政権を支持するようになった。

 社会主義のバース党は、男女平等も推進し、それまでの男尊女卑を乗り越え、女性の職場進出が進んだ。石油以外の産業育成も行い、イラクは石油危機から数年間で、中東で最も社会制度の整った先進的な国となった。同時にフセインは、軍とは別の治安部隊を作り、反政府的な態度をとる勢力を弾圧するとともに、軍内や党内の分裂行動を取り締まるという強権的な政治も併用し、急速にイラクを統一させ、富国強兵した。(関連記事

 石油収入を使った開発独裁政策を展開して成功したフセインのやり方は、他の中東諸国のモデルとなりうるものだった。石油を使ってアラブを強くしようとするイラクのフセインの戦略は、イスラエルにとって大きな脅威だった。

▼引っかかって凋落させられたサダム・フセイン

 フセインのイラクは1970年代には成功していたが、80年に開始されたイラン・イラク戦争がその後の8年も続いてイラクは疲弊した。その後は90年のクウェート侵攻と湾岸戦争、その後のアメリカ主導の13年間の経済制裁を経て、2003年の米軍による侵攻時には、すでにイラクはボロボロで貧しい崩壊寸前の国になっていた。

 イラクが凋落していった25年間の過程には、イスラエルの戦略が見え隠れしている。まず、2003年のイラク侵攻はチェイニー副大統領とネオコンらが強く推進して挙行したものだ。湾岸戦争の原因となった90年のイラクのクウェート侵攻は、アメリカ側からの誘発にフセインが引っかかった結果であると考えられるが、アメリカ側でそれを考えたのも、当時国防長官だったチェイニーと、その部下だったウォルフォウィッツらネオコンだった可能性が高い。

 それから、1980年にイラク軍がイランに侵攻してイラン・イラク戦争が始まった背景には、フセインが「イラン軍はイスラム革命によって弱体化し、簡単に撃破できる」という間違った状況分析を信用したことがあるが、誰がこの間違った分析をフセインに与えたのかということもある。当時のイラクは親米で、フセインはアメリカ(の親イスラエル勢力)に、間違った情報をつかまされた可能性がある。

 3番目に敵に仕立てられかけたのは911以後のサウジアラビアである。イスラエル政府やブッシュ政権の上層部は、事前に911事件の発生を感知しながら無視していた。サウジアラビアの王室は巧妙で、アメリカの敵に仕立てられないように慎重に対応した結果、親米国の座から落とされずにすんだ。

▼勝ったように見えて負けているイスラエル

 中東産油国をアメリカの敵に仕立て、アメリカを中東の戦争の仲裁者から当事者に転落させ、イスラエルに頼らざるを得なくするというイスラエルの戦略は、2003年の米軍のイラク侵攻によって成功裏に完了したかに見えた。米中枢の親イスラエル派と反イスラエル派の暗闘は、親イスラエル派の勝利で決したかに見えた。

 しかし、その後の展開は、反イスラエル派が親イスラエル派のふりをして、敵を仕立てる戦略を過激にやりすぎることを続け、イラン、イラクの反米ゲリラ、レバノンのヒズボラ、パレスチナのハマス、エジプトのイスラム同胞団など、中東全域の反米勢力が人々の支持を増大させ、相互に結束するという「親イスラエルをやりすぎることで反イスラエル的な現実を引き起こす」という結果になっている。

 米軍のイラク侵攻のしばらく後から、1980年代以来下がっていた石油価格も再び上昇し始め、サウジアラビア、ロシア、イラン、ベネズエラといった反米の産油国が強化される結果を生んでいる。ロシアやイランは、ヒズボラなど中東の反米・反イスラエルのゲリラ勢力に武器支援などを行っている。その一方でアメリカは「中東の石油に依存しなくてすむようにする」というブッシュ政権の目標とは裏腹に、以前より強くサウジアラビアの石油に頼らざるを得ない状況に陥っている。(関連記事

「石油」と「イスラム原理主義」という武器を使った、アメリカ中枢での親イスラエル派と反イスラエル派の暗闘は、今もまだ続いている。この視点で今後のアメリカの世界戦略の動きを見ていく必要がある。



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