原油安で経済軟着陸?2006年10月3日 田中 宇原油の国際価格が下がっている。原油価格の主要な国際指標であるニューヨーク商品取引所の軽質油(Light Sweet)の価格は、7月14日に1バレル77ドル台、8月9日に76ドル台の高値をつけた後、下落傾向に転じ、9月末には62ドル台になった。(原油の価格推移表) 今回の下落に対しては、いくつもの説明が存在するが、私が最も重要だと思うのは、アメリカの中東戦略、特にイランとイスラエルが戦争するかどうか、ということとの関係である。今夏、石油価格が最高値をつけた7月14日は、イスラエルがレバノンのヒズボラとの戦争を開始した直後で、次に高値をつけて下落傾向への転換点となった8月9日は、アメリカが国連でイスラエルとヒズボラの停戦案を了承する2日前だった。(関連記事) 昨今の石油相場を動かしている最大の要因は、中東の緊張を材料にしたアメリカの投機筋の行動である。彼らは、おそらくブッシュ政権の中枢からの情報漏洩を受けて石油の先物を買い、現物市場の価格をつり上げてきた(チェイニーら隠れ多極主義者は、産油国を強化し、アメリカを衰退させる石油高騰を好む)。 6月18日のチェイニー副大統領とイスラエルのネタニヤフ元首相との会談以降、イスラエル政界や軍の右派は、イスラエルがヒズボラとの戦争に入ることを画策し、イランとも戦争になる可能性が強まった。石油投機筋は、イスラエルとヒズボラの戦争が近づくにつれて買いを入れ、停戦が決まることになったら売りに転じたと推測される。(関連記事) マスコミでは、昨今の石油相場下落を「アメリカによるイラン攻撃の可能性が減ったから」と考える向きもあるが、イランの核疑惑自体は、8月後半以降の原油安の説明にならない。国連はイラン政府からの回答期限を8月末にしていたので、8月後半にはそれに向かって緊張感が高まっていた。9月に入ってアメリカが様子見の態度をとっており、緊張がやや緩和したように見えるのは確かだが、先日、イラン制裁法が法制化されるなど、アメリカはイランと和解する方向に近づいておらず、緊張緩和は一時的なものであると考えられる。(関連記事) (とはいえ制裁法は、イランと取引する米企業を対象としているものの、米企業の海外子会社を対象から外している。これは、以前の法制化に至らなかった同種の法案にはあった条項だが、今回の法律からは除外された。除外された理由は、チェイニー副大統領系の企業ハリバートンの関係会社がイランと取引しているからであるとされるが、これによってイラン制裁法はザル法になった)(関連記事) 過去の原油価格の動向は、中東に対するアメリカの軍事・外交行動と密接に連携している。湾岸戦争が起きた1991年から、1998年までは下落傾向にあり、30ドル以下の水準で推移していた。しかしその後、米政府がイスラム教徒による国際的なテロ行為に対する警戒を強め「米本土に対するテロは不可避だ」といった記事が米マスコミに頻繁に載るようになったのに合わせて、原油価格の上昇が始まった。(関連記事) 2001年の911事件直前には25ドル程度だったが、その後、米軍のイラク侵攻の可能性が高まるのと並行して高騰した。イラク占領の泥沼化が明確になり、しかも米政府が次はイランに侵攻する姿勢を強めた2005年には50ドルを突破した。今年に入っても上昇傾向は続き、1−3月には60−65ドルだったのが、5−6月には70ドル前後で推移するようになった。(関連記事) ▼相場分析には諸説あるが 石油相場の分析について諸説あり、中東を絡めない見方もある。たとえば「供給余力」を使った説明である。石油価格の上昇理由には、1998年までの10年間の安値の時期、世界的に油田開発が低調となった影響で、供給量が増えにくい一方で、消費量が伸び続けた結果、供給余力が減って需給が逼迫した。今年に入って供給余力がやや増えてきたため、9月以降、それに市場が反応して原油価格が下落したのだという。(市場の需給のみで説明することは、経済専門の分析者にとって、政治動向を調べなくてすむので便利だ)(関連記事) 投機筋の「資金切れ」が原油安を招いたという分析もある。40ドル以上の水準の石油価格には、投機筋の資金が入っていると考えられ、相場が70ドルになったら、7分の3の資金は投機筋が入れたものだという。(関連記事) 相場をつり上げるため、投機筋は必要に応じて現物の原油を持つが、その量はすでに1500万バレルにのぼり、貯め込みすぎて備蓄コストが上がっている。資金繰りがつかなくなった投機筋が貯め込んだ原油を放出したため、原油価格は下がり出し、それがさらなる放出を招く結果、原油価格は今後半年間で40−50ドルまで下がるという予測がある。(関連記事) 原油安は、アメリカの庶民を苦しめていたガソリン高騰を緩和した。アメリカでは11月に連邦議会の中間選挙があるが、ブッシュ大統領の共和党は負けそうになっている。そのため、石油利権に強いブッシュ政権は、相場を動かす投機筋に働きかけて原油安からガソリン安を誘発し、人々の不満を取り除くことで、中間選挙で共和党を有利にしようとした、という分析もある。(関連記事) 9月に入って「メキシコ湾で新たな油田が見つかりそうだ」というニュースが流れた。親米国サウジアラビアの国営石油会社アラムコの首脳が「世界には、石油はまだたくさんある。あと140年間は枯渇のおそれはない」と発言し、リベラルや左翼を中心に根強く信仰されている「石油はもうすぐ枯渇する」と信じる「ピークオイル説」を否定してみせた。いずれも、石油価格を下げようとする政治的な動きであると考えられる。(関連記事その1、その2) ▼石油安で利下げできる連銀 いずれの分析が正しいか、最終判断は確定できないものの、石油安が生み出す影響については、はっきりしたものがある。今、アメリカで起きているインフレは、石油価格が5年間で3倍になったことが最大の原因である。過去1年間に起きた工業製品価格の上昇要因の3分の1以上が、原油高騰に起因している。石油価格の下落は、アメリカのインフレが下火になることにつながる。(関連記事その1、その2) インフレが下火になれば、連邦準備銀行は、金利を下げることができる。アメリカではここ数カ月、住宅バブルの崩壊によって不況に陥りそうになっているが、石油高に起因するインフレも同時にひどくなっているため、むしろ連銀は金利を上げざるを得なかった。 8月以降、これ以上金利を上げると経済が不況へとクラッシュしてしまう懸念がいっそう強まり、連銀は金利を上げることもできなくなって据え置いているが、すでに金利は5・25%であり、据え置いても不況に陥る可能性が高い。石油が安くなり、インフレ懸念が遠のくことで、連銀は不況対策としての利下げができる。(関連記事) 9月末に発表された最新のインフレの数字は年率2・5%で、11年ぶりの高水準であるが、連銀の幹部は、インフレは今がピークで、今後は下がるのではないかと予測している。これは石油価格がインフレにつながるまでの遅効性を考えると、妥当である。(関連記事) インフレは、消費者物価指数などの指標で計るが、毎月の変動が非常に大きく、3カ月は経過を見ないとインフレが減退したかどうか判断できない。連銀は9月分から11月分までの数字を見た上で、その次の来年1月の金利決定の会議(FOMC)で、利下げするのではないかと予測されている。(関連記事) 連銀が利下げすれば、連銀が決める短期金利と、市場が決める長期金利との金利差が逆転している現象も解消される傾向が強まる。前回の記事に書いた「不況の予兆」が消えることになる。(関連記事) ▼不況対策は手遅れかも アメリカでは、すでに住宅の売れ行きが大きく減少している。製造業も不振で、人々の所得は実質マイナスとなり、消費が減り始めている。連銀が今から3カ月後に利下げしても、そのころには米経済は明らかな不況に陥っており、手遅れになるのではないかと予測される。(関連記事) また、よくある循環型の不況なら、金利を下げることで、製造業の設備投資が回復し、それがしだいに人々の所得を回復させ、消費が再び増え、不況から脱するという景気浮上の流れを誘発できるが、昨今の米経済を支えているのは製造業ではなく、住宅を担保に人々が借金して消費する信用創造行為である。金利を下げても、借金しすぎた人々の破産をしばらく延期するだけで、根本的な不況脱出にはならない。不動産に代わって米経済を牽引できるような産業は見あたらない。 加えて、石油価格の下落傾向も、どこまで続くか不透明だ。石油業界には1バレル40ドルまで下がると言う人もいるが、その一方で、イランとアメリカもしくはイスラエルが戦争に突入する懸念は依然として強い。ブッシュは10月1日のラジオ演説で「世界中の敵と戦うのだ」と、相変わらず好戦的な大風呂敷を広げた。11月の米中間選挙後、再びイランをめぐる緊張が高まるかもしれない。戦争になって中東での石油の流れに支障が出れば、石油は急騰する。(関連記事) とはいえ、8月まで、米中枢からは、石油価格の高騰に歯止めをかけようとする実質的な動きが何もなかったことを考えると、ここにきて石油価格を下げ、米経済の不況突入を避けようとする、ある程度の動きが出てきたことは、注目すべきである。不況は避けられないだろうが、ソフトランディングはできるかもしれない。 ▼国際協調派の作戦かも ソフトランディングといえば、外交・軍事の面では、以前の記事に書いたように、ベーカー元国務長官ら「国際協調派」が最近やっていることである。ブッシュ政権の就任以来、米政府は、イラク侵攻やテロ戦争といった軍事的な無茶苦茶だけでなく、共和党内の財政緊縮派の警告を無視した野放図な財政赤字の急増、米経済の底力を失わせる移民の制限や、テロ対策を口実にした投資制限など、経済面でも潜在的に自滅的な政策を繰り返している。(関連記事) 国際協調派が、アメリカの覇権衰退を止められないにせよ軟着陸させようとすれば、外交軍事面だけでなく、経済面でも対策が打たれる必要がある。そう考えると、9月以来の原油価格の下落も、国際協調派による戦略なのかもしれないと感じられる。ベーカー元国務長官は、パパブッシュ元大統領らと同様、石油利権の人である(タカ派のチェイニー副大統領も、石油利権の人ではあるが)。 国際協調派とタカ派は、世界を多極化する作戦を行う「ぼけとつっこみ」の役割分担であると以前の記事に書いたが、だとしたら、協調派が米経済の不況突入を救うのに、もはや手遅れの状況になってから動き出すことは、辻褄が合う。アメリカの消費力が強いままだと、アジア諸国など世界中がアメリカの消費力に頼り続け、世界中がドルの覇権維持を望むという従来の構造から脱することはできない。かといって、米経済が不況やドル暴落へとクラッシュしていくことは、世界中の経済成長を急落させ、投資効率を極度に悪化させる。多極主義の背後にいる国際資本家勢力にとって、投資効率の悪化は避けたいことだ。だから、手遅れになったぐらいでソフトランディングへの手が打たれることがちょうど良いということになる。 9月以来の石油安が国際協調派の戦略の結果であるとするなら、石油安には、OPECの盟主であるサウジアラビアもおそらく協力している。サウジやエジプトといった親米のアラブ諸国は、政権延命のため、米軍が成功裏にイラクから撤退して中東でのアメリカの威信失墜が避けられること(さもないと親米政権が反米イスラム主義勢力に倒される)と、中東の人々の反米感情を煽ってきたパレスチナ問題が平和理に解決されることを望んでいる。これらの行為は、アメリカの協調派によってしか成し遂げられない(パレスチナ問題にはEUも絡んでいるが、発言力は弱い)。 サウジなど産油国としては、原油が高すぎてアメリカなど世界経済の減速を招き、石油の消費量が減るのは困る。原油価格が50−60ドルぐらいの水準なら、産油国も儲かり、世界経済にもさほどの悪影響はない。サウジだけでなく、イランやベネズエラの当局も最近、そのぐらいの水準の石油価格で満足であると表明した。逆に言えば、40ドル台に落ち込んだら、産油国の側で減産などの価格つり上げ行為が行われるかもしれないということである。(関連記事その1、その2)
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