大戦争になる中東(2)2006年8月1日 田中 宇中東では今、イスラエルがヒズボラとの戦争をめぐり、全く反対の方向性を持った2つの動きが同時に展開している。一つは、停戦を実現しようとする外交的な動きであり、もう一つは、レバノンだけでなくシリアも戦争に巻き込んで戦場を拡大しようとする、イスラエルの軍事的な動きである。 停戦を実現し、レバノン南部に国際軍を駐留させて、事態を安定化させようとする外交努力は、7月12日に今回の戦争が始まった直後から、国連やEU諸国などによって始まっていたが、アメリカが停戦勧告に反対し続け、このアメリカの態度がイスラエルの戦争継続を鼓舞したため、停戦は実現しなかった。 7月26日にはローマにアメリカ、EU、イスラエル、レバノン、アラブ諸国などの代表が集まり、和平会議が開かれたが、アメリカとイスラエルは即時停戦を拒否し、何も決まらなかった。(関連記事) アメリカは7月27日にライス国務長官を中東に派遣したが、進展はなかった。このときライスは、イスラエル政府に対し、イスラエルは1967年の中東戦争以来、レバノンから奪って占領しているゴラン高原北部の土地(シャバア農場)をレバノン政府に返還することを提案した。シャバア農場を返還すれば、ヒズボラはイスラエルへの攻撃停止と、捕虜にしているイスラエル軍兵士の解放を行うだろうから、これで停戦が実現でき、国際軍を南レバノンに派遣させて事態を安定化させられるというのがライスの構想だった。(関連記事) シャバア農場は、もともと南レバノンのシャバア村の農家が保有していた10平方キロの耕作地で、イスラエル側には以前から、ヒズボラがイスラエルへの攻撃をやめるなら農場を返還しても良いという考え方があった。農場の返還は、ヒズボラにとって攻撃停止と武装解除に応じる動機づけになり、イスラエルに対するレバノン国民の怒りを沈静化させる効果もある。(関連記事) イスラエル政府内では、オルメルト首相ら現実派(占領地撤退派)は、ライスの提案に賛意を示したが、政府内の右派はヒズボラを壊滅させるまで戦争を続けるべきだと主張し、右派はシャバア農場の返還にも反対だった。結局、イスラエルはライスの提案に乗らなかった。(関連記事) ▼1発の空爆で飛んだ和平交渉 ところが、その後の数日間で、イスラエル側の状況が変わった。ヒズボラが意外に手強いことが分かってきたため、停戦や国際軍の駐留を受け入れても良いという姿勢に傾き出した。 当初、イスラエル側は、空爆のみで短期間にヒズボラの攻撃能力を破壊し、ヒズボラ亡き後のレバノン南部の治安維持をレバノン政府軍にやらせる計画で、ヒズボラとの戦争に入った。だが実際には、地下豪を掘って巧みに武装するヒズボラと戦うには、レバノン南部に大規模な地上軍を侵攻させ、長期間の占領を行わねばならないことが分かった。当初は中立的な立場をとっていたレバノンの政府や国民は、一般市民に対する攻撃を拡大するイスラエルへの怒りを強め、今ではレバノン国民の87%がヒズボラを支持している。イスラエルがレバノンで勝てる確率は、日に日に低下している。(関連記事) イスラエル政府は、ライスが去った2日後、再びライスにイスラエル訪問を要請し、2日前に提案された和平案について前向きに対処する姿勢を見せた。 イスラエルが態度を軟化させ始めたのを受け、レバノン政府は、即時停戦、ヒズボラの武装解除、イスラエルによるシャバア農場の返還などを盛り込んだ停戦案を改めて発表し、ヒズボラ幹部もこの停戦案に賛成すると発表した。ヒズボラは、停戦が実現したら6時間以内に捕虜のイスラエル兵を解放すると発表した。(関連記事その1、その2) レバノンの和平提案と前後して、国連安保理ではフランスが、国際軍をレバノン南部に派遣する構想を提案した。フランスの提案内容は、開戦直後から国連事務局が構想し、アメリカに働きかけていた案とほぼ同じもので、国連が構想した国際軍をフランスが率いる構えを見せたことを意味していた。フランスはそれまで「停戦が実現しない限り、派兵しない」という姿勢を見せていたが、イスラエル政府の軟化で停戦が実現しそうなため、動き出したのだった。(関連記事) このように、苦戦したイスラエルが態度を軟化させたことで、シャバア農場返還を盛り込んだ停戦と武装解除の案、フランスが率いる国際軍駐留の案などが改めて準備され、7月30日には、ライスのイスラエル再訪で、和平が一気に進むかもしれないという状況になった。 だが、この期待感は1日も持たなかった。ライスがイスラエルに着いた直後、イスラエル軍がレバノン南部のカーナ村の民家(アパート)を空爆し、民家の地下室に避難していた34人の子供と12人の女性を含む56人の市民が、生き埋めになって殺された。これは開戦以来、1発の爆撃による死者数として最大のものとなり、子供の遺体が次々と廃墟から掘り出されて搬出される様子が、テレビで世界に放映された。(関連記事) イスラエル政府は、大勢の民間人を殺したことを陳謝したが、この事件で事態は一気に悪化し、和平交渉は滞った。レバノン政府は「即時停戦が実現しない限り、これ以上外交交渉しても意味がない」と発表し、ライスのイスラエル訪問の後に予定されていたベイルート訪問はキャンセルされた。レバノンでは、市民殺害に対する復讐を誓うヒズボラへの支持が強まった。(関連記事) ▼シリアと戦争しようとするイスラエル 和平に向けた外交努力がうまくいかないのは、アメリカがイスラエルの戦争遂行に賛成し続けているからだ。アメリカが停戦勧告に反対している限り、国連決議は中途半端な内容のものにしかならないし、EUなどが単独で介入することもない。もしEUが単独で介入しても、イスラエルに敵視されて撃たれるだけで、停戦は実現できない。 アメリカがイスラエル戦争遂行を徹底支持していることは、イスラエル内の強硬派(右派)を力づけている。イスラエルの政界内や軍内にいる右派は、停戦に反対で、むしろ逆にレバノン南部への大規模な地上軍の侵攻を主張したり、戦火をシリアに拡大する方向性を模索したりしている。 7月26日のローマ和平会議の直前に、レバノン南部の国連監視施設を空爆することで、国際軍のレバノン南部への派遣構想を潰そうとしたり、ここ数日、シリア・レバノン国境近くのレバノン側を何度も空爆し、シリア側と一触即発の緊張状態を醸し出したりしているのは、いずれもイスラエル軍内の右派による「暴走」的な作戦展開であると思われる。イスラエル内でも、占領地からの撤退を目指すオルメルト首相ら現実派は、シリアへの戦争拡大を避けたがっているが、右派の暴走を止められないでいる。(関連記事) 7月29日には、シリアとレバノンの国境地帯でイスラエルが飛ばした無人偵察機が、国境ぎりぎりのレバノン側の領空で、シリア軍から撃墜され、この事件を機にイスラエルがシリアを侵攻するのではないかと報じられたが、レバノン軍が、偵察機を撃墜したのは自分たちであると発表したため、イスラエルは侵攻の口実を失い、開戦は危機一髪で避けられた。(関連記事その1、その2) イスラエル軍は、停戦の気運が高まる中でも、まだあとしばらくはレバノンに対する攻撃をやめないと宣言しているので、この間にシリアとの戦争に入る口実を作って開戦する可能性は残っている。アメリカは即時停戦を求めず、根本的な和平策を時間をかけて進める姿勢をとっているが、アメリカがゆっくりと外交をやっている間に、戦火はシリアに拡大しそうな勢いだ。シリアが戦争に巻き込まれたら、シリアを守ってやると約束していたイランも参戦してくる可能性が大きい。(関連記事) イスラエル側の報道では「ヒズボラがシリアを戦争に巻き込みたがっている」といった書き方をしているが、実はシリアを巻き込みたがっているのはイスラエルの方である。シリアは、軍事的にイスラエルにかなわないので戦争したくない。ヒズボラはシリアの影響下にあるので、シリアが嫌がることをするはずがない。(関連記事) イスラエルが1967年の中東戦争でシリアから奪い、その後ずっと占領している土地として、イスラエルとシリアの間の山岳地域であるゴラン高原がある。イスラエル軍は、2000年にレバノンから撤退すると同時に、ゴラン高原での軍事行動も縮小していたが、7月12日のレバノン侵攻開始後、ゴラン高原で10年以上使っていなかった陣地に再び武器を運び込み、戦闘できる態勢を強めている。(ゴラン高原には約千人の国連監視団が駐屯し、そのうちの約40人は日本の自衛隊)(関連記事) ゴラン高原からシリアの首都ダマスカスまでは、40キロしか離れていない。シリア側では、イスラエルが、レバノンやゴラン高原から攻めてくるのは時間の問題と考え、自国軍に最高度の警戒態勢をとらせている。(関連記事) ▼チェイニーがイスラエルに戦争をけしかけた? アメリカ政府は、表向きは、停戦に向けてライスが外交努力を続けているように見せているが、これはアメリカの外交力に期待する国際社会の目を欺くための見せかけであり、実はイスラエルが戦火をシリアやイランに拡大することを誘発しているのではないかと私には思える。そして、この戦略を主導しているのは、おそらくチェイニー副大統領である。 チェイニーは、ブッシュ政権内で最大の実権を握っている。世界情勢の判断がつかないブッシュ大統領はチェイニーの言いなりだし、ライス国務長官もチェイニーの命令で動いている。チェイニーの推薦で国防長官になったラムズフェルドも、チェイニー傘下の人である。ボルトン国連代表らネオコン集団も、20年来のチェイニーの部下である。 大量破壊兵器を持っていないイラクを侵攻したり、核兵器開発をしていない可能性が高いイランに核開発の嫌疑をなすりつける敵視策を展開したりして「政権転覆による中東諸国の強制民主化」を推進してきた中心人物はチェイニーである。 イラクの次に狙われていたのはイランだったが、イラク占領の泥沼化がひどくなった後、アメリカの政界では、イラクからの撤退や、先制攻撃戦略の放棄に向けた動きが強くなっている。このままでは、アメリカはイラクだけで懲りて、イランとの戦争には至らないという見通しが強まっている。 私の推測は、米政界が中東占領の戦略を放棄することを食い止めるため、チェイニーはイスラエルの右派をけしかけ、今回のレバノン侵攻を引き起こしたのではないかというものである。今回の開戦から1カ月前の6月17-18日に、イスラエル右派代表のネタニヤフ元首相(リクード党首)らが訪米し、チェイニーと会っている。ネタニヤフは、シャロン前首相が占領地撤退という現実路線への転換に成功したため、イスラエル政界で野党に転じさせられ、窮していた。(関連記事) イスラエルの右派は、今回のレバノン侵攻によって、シャロンからオルメルトに引き継がれていた現実路線をみごとに破壊し、イスラエル政界の主流を現実路線から強硬路線に引き戻すことに成功した。今後、イスラエルがシリアとの戦争に入り、イランも参戦するとしたら、イスラエル単独では苦戦を強いられて負けかねないので、どこかの時点でアメリカは参戦して派兵せざるを得なくなる。その時点で、イラクの次はイランと戦争したいと考えていたチェイニーの政権転覆計画が推進されることになる。 イランに関しては7月31日、民間利用を含むすべての原子力開発を8月末までに停止せよという決議が、国連安保理で採択された。この決議は、イランが拒否した場合の制裁について具体的に定めていないため、中国とロシアも賛成した。イランは即日、決議内容を拒否した。今後、期限をすぎた9月になったら、アメリカはイラン制裁を提案し、中国とロシアはそれに反対する展開になると予測され、イラク侵攻の時と同様、アメリカが単独でイランを攻撃する可能性が高まる。(関連記事) ▼破局に近づくイスラエル アメリカとイスラエルが、戦争でイランとシリアの現政権を倒したら、それでイランとシリアが「民主化(リベラル化)」されるかといえば、そんなことはあり得ない。イランとシリアも、イラクのように大混乱が続く状態になり、米軍が占領の泥沼にはまる地域がイラク1カ国から、イラン、シリア、レバノンを加えた4カ国に拡大されるだけである。従来はイスラム原理主義が弱かったシリアとレバノンでは、戦争と占領によって反米のイスラム原理主義が強まることは必至だ。 アメリカとイスラエルは、中東に敵を増やすばかりとなり、最終的には、占領を続けることができなったアメリカは、中東から撤兵していかざるを得なくなる。その後の中東では、残されたイスラエルが、周囲のすべてが敵である状態に置かれ、国家として危機的な状況に陥る。最終的に、イスラエル国家は破滅し、パレスチナ問題はイスラエルの消滅で「解決」されかねない。 チェイニーやその傘下のネオコンは、表向きは「極度の親イスラエル」ということになっている。しかし、イスラエルの国家存続を考えるなら、今すべきことはレバノンやシリアとの戦争で周囲に敵を増やすことではなく、逆に、イスラエルはパレスチナ占領地から撤退し、それをテコに周囲との和解を促進する縮小均衡の安定化策である。開戦までのオルメルト政権は、それを推進していた。 ネタニヤフら右派をけしかけて開戦させ、オルメルトの安定化策を潰したと考えられるチェイニーやネオコンは、実は親イスラエルではなく、イスラエルを破滅に追い込んでいる。 ▼中東も多極化の対象に? 私が見るところ、チェイニーとネオコンの本質は、親イスラエルの強硬派のふりをした多極主義者である。それを裏付けるかのように、アメリカの外交政策決定の「奥の院」と考えられるシンクタンク「外交問題評議会」のハース会長(Richard Haass)は最近「中東は、外部勢力の影響力が減り、中東諸国や民兵組織などの地元勢力の影響力が大きくなるという新時代を迎えている」と述べている。(関連記事) これはつまり「中東では、アメリカやEUなどの発言力が弱まり、イランやエジプト、サウジアラビア、ヒズボラ、ハマス、マフディ軍などの発言力が強まり、中東のことを中東の人々が決定する国際政治の多極化が進行している」という指摘である。 ブッシュ大統領自身、7月18日に、ロシアでのG8サミット会場で「(国連は)シリアからヒズボラに圧力をかけさせて、この糞みたいな事態を終わらせるようにすればいいんだ」とブレア首相に向かって述べている。(これはブッシュとブレアの間の私的な会話だったが「間違って」スイッチが入っていたマイクを通じて世界に流れた)(関連記事) この発言の後ブッシュは、シリアとの直接交渉はやりたくないので、親米政権であるサウジアラビアとエジプトに頼み、シリアに圧力をかけてもらう作戦を始めていた。(関連記事) ネオコン・タカ派の巣窟の一つであるウォールストリート・ジャーナルや、イスラエルの新聞ハアレツも、シリアに紛争解決をやらせようとする主張を載せている。(関連記事その1、その2、その3) ヒズボラの問題をシリアやイランに処理させたがるのは、北朝鮮の問題を中国に処理させたがるのと同様、多極主義的なやり方である。ブッシュ政権が、中東の紛争に関与したがらない多極主義の傾向を強めているのだとしたら、今後イスラエルがシリアやイランと戦争しても、アメリカは参戦しない可能性が強くなる。その場合、イスラエルが敗北や滅亡に瀕する危険性が、より高くなる。 事態は毎日のように激変しているので、このあたりのことは、今後の推移を見ながら分析していく。
●関連記事
田中宇の国際ニュース解説・メインページへ |