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中国人民元と「アメリカ以後」

2004年2月17日   田中 宇

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 昨年夏にイラク戦争が泥沼化し始めたころから、アメリカが世界と自国で行っている多くの事柄の中に、アメリカ政府がわざと自国による世界支配の状態を壊したがっているのではないかと思える行動が目立つようになった。アメリカが単独覇権主義を唱えて世界支配をますます強化しているように見えるのは表向きだけで、実は自殺的な行為に走っているのではないか、ということだ。

 こうした分析は常識からかけ離れているので、私自身「勘違いではないか」という自問自答を繰り返してきたのだが、毎日ウォッチしている現実の国際情勢の流れの中には「アメリカの自殺的な覇権縮小」と思える動きが多い。これまでに書いた記事の中では、

などが、その動きの中にある。

 私は、これらの動きをまとめて「アメリカ以後」という本(光文社新書)を書いた。今日から書店に並んでいる。

▼「スーパーパワーをやめよう」と呼びかけたクリントン

 最近見つけた「アメリカの故意の覇権縮小」の呼びかけは、クリントン前大統領によるものだ。自ら「アメリカは覇権を拡大しすぎている」と主張しているイェール大学のポール・ケネディ教授によると、数カ月前にイェール大学で講演したクリントンは「アメリカがこの世界の軍事的・政治的・経済的なスーパーパワーでなくなってもアメリカの安全が確保されている状態を保つため、条約や国家間の協調関係によって成り立つ世界を作ることが、アメリカの指導者にとって最も大事なことだ」と述べた。(関連記事)

 ケネディ教授は、このクリントンの言葉は、ブッシュ政権による先制攻撃政策(アメリカに対抗するあらゆる国を先制的に軍事攻撃するという政策)の対極にあり、ブッシュが「ずっと一番でいよう派(staying-on-top school)」で、クリントンは「自国の凋落に備えよう派(let's-prepare-for-our-demise school)」だとしている。私のこれまでの分類だと、ブッシュは「タカ派」(単独覇権主義)でクリントンは「中道派」(国際協調主義)である。(クリントンも、アジア通貨危機が起きるまで、経済戦略は「ドル単独覇権主義」だった)

 ケネディ教授は「すでにアメリカの民間資金はアジア諸国に流入し、アメリカの経済政策はそれを止めていないが、その結果、経済面でアジア諸国はアメリカより強くなり始めている。今後、インドや中国がアメリカに対抗する大国になるだろう。アメリカが一番であり続けるためには、今のうちにインドや中国を先制攻撃して置かねばならない(アメリカからアジアへの投資を止めねばならない)。それをやらないなら、すでにアメリカは一番であり続けることを放棄していることになる」と指摘している。

 同教授の指摘でもう一つ興味深いのは、タカ派対中道派の対立が大英帝国が世界を支配していた19世紀後半のイギリスに、すでに存在していたという点だ。当時の歴代英首相のうち、ディズレイリは単独覇権主義で、インドをイギリスが直接統治する植民地にした。

 これに対してグラッドストーンは「大英帝国の覇権はいずれアメリカに取って代わられる」と予測し、イギリスが一番でなくなったとき、どのような世界体制がイギリスにとって望ましいかを考えて、諸国間の外交や協調で決まる「均衡主義」の世界体制を希求した。(イギリスが世界各国に民族意識を植え付けた源流には、グラッドストーン的な考え方があったと思われる)

 この見方を私なりに広げると、強い者に対抗しようとするライバルは常にいるものなので、単独覇権主義は巨額の軍事費を必要とし、戦争が絶えない状態を生む。政府に金を貸す資本家(当時はロスチャイルドなど)は、政治家にどんどん軍事費を使わせようと、ディズレイリ首相(D'Israeli、ユダヤ系)のような単独覇権主義者を支持しただろう。その後、大英帝国の覇権はアメリカに移転したが、同時にこんどはアメリカが単独覇権主義にとりつかれ「軍産複合体」が歴代政権を振り回して今に至っている。

▼ドル安と人民元上昇を求めるアメリカ

 アメリカが意図的に覇権力を縮小しようとしていると考えた場合、これまで理由がよく分からなかったアメリカのいくつかの行為が納得できるものになる。その一つは、アメリカがドル安と中国人民元の上昇を希求していることである。

 中国人民元は、これまで1ドル=8・3元前後で固定相場を維持してきた。相場が動きそうになると、中国人民銀行(中央銀行)が市場介入して止めてきた。だが、先日フロリダで開かれたG7の蔵相・中央銀行総裁会議では、明らかに中国人民元を変動相場制に移行させようと圧力をかける意図を持った声明が発表された。(関連記事)

 マスコミなどでは、米政府がドル安を希求するのは、米企業の輸出力を増加させ、経済立て直しに役立てようとしているからだという説明が一般的である。実際、欧州向けのアパレル輸出などは伸びている。だがアメリカ経済全体をみると好影響は乏しく、むしろアメリカでは今年に入って雇用が思ったほど伸びず、景気回復に陰りが見えている。(関連記事)

 アパレルなども世界的にみれば、中南米諸国やバングラディシュなど軽工業に力を入れている途上国と比べるとアメリカの人件費ははるかに高く、ドルの価値が下がったところで好影響は短期的なものにとどまる。半面、自動車やハイテクなどの産業では、大手企業はすでに生産拠点を国際化しており、為替変動による影響はプラスにもマイナスにも、あまり受けない体制ができている。日本でも、大手メーカーは生産拠点の国際化で、円高ドル安の悪影響を受けにくくなっている。

 米政府がドル安を求める意図は、輸出振興でないとしたら何なのか。そこで出てくるのが「ドル一極支配からの意図的な撤退」の考え方である。クリントンはイェール大学の講演で、アメリカが覇権を手放す分野として、軍事・政治と並んで「経済」も挙げている。

▼ドル離れしたがらないアジア

 911後、ドル安ユーロ高が進み、世界の基軸通貨はすでにドルのみからドル・ユーロに二元体制に変わってきている。だが、アジアはいまだに、ほとんどドル一本槍である。

 アジアには日本の円もあるが、東欧やアラブ圏がユーロを重視する方向に動いているのに対し、アジア諸国は円との関係よりドルとの関係をずっと強く重視している。アジアは「円圏」ではなく「ドル圏」である。円はドルやユーロと異なり、国際基軸通貨といえない。

 アジア諸国は1997年のアジア通貨危機以来、ドルの外貨準備をため込むことによって危機の再来を防ごうとしてきた。通貨危機以来、アジア諸国は、ドルと自国通貨の間の為替が変動することを非常に恐れている。この傾向は、アメリカの覇権縮小派にとっては、通貨の均衡戦略を妨害するものとなっている。

 アメリカは外交的に、911事件後、中国をアジアの中心的存在として強化しようとしてきた。この動きは、これまでの記事「人民元切り上げ問題にみる米中新時代」「消えた単独覇権主義」などで見てきたとおりだ。アメリカが中国をアジアの「地域覇権国」にしたいなら、中国の人民元がアジアの基軸通貨となることがその中に含まれてもおかしくない。

 だが、中国はまだ経済改革の途中にあり、社会主義時代の残滓である国有企業の民営化も終わっていない。国有企業に運営資金を貸し込んでいる中国の四大銀行は不良債権が肥大化しており、脆弱な状態にある。今すぐ中国の通貨システムを国際的に開放すると、金融危機に陥り、中国経済全体が破綻して政治不安を招き、アジアの覇権をとるどころではなくなる。

 アメリカ政府は最近まで長らく中国を敵視する傾向が強く、アメリカ側が「反中国なのはタカ派の奴らで、われわれ中道派は昔から親中国でした」などと説明したところで、中国共産党の懐疑心旺盛な人々は納得しない。だから中国政府としては「覇権をいただくのはありがたいが、ゆっくり進めねばなりません」とアメリカに対して返答しているのではないかと思われる。

▼人民元の変更を通じてアジアの通貨制度を変える

 昨年2月、タイのチェンマイで開かれたアセアン+3の会議で、アジア諸国の通貨を加重平均した「アジア通貨バスケット」(ACB)を指数として作り、ACB建てのアジア共通債券を発行して、アジア諸国は外貨準備としてドルをため込む代わりに、ACB建て債券を買う構想が決議された。(関連記事)

 だが、5年前の通貨危機でアメリカからひどい仕打ちを受けたアジア諸国は、ACBによってドル離れを指向すると「ドル単独覇権主義」のアメリカからどんな仕返しを受けるか分からないと思ったのか慎重な態度を続け、今のところACBは構想だけに終わっている。

 中国当局は、これまでドルだけに対してペッグ(固定化)されてきた人民元の相場を、ドル・ユーロ・円などの複数通貨に対するペッグに切り替えていくことを検討している。この構想は2002年にIMFが中国に勧めたもので、昨年9月には、中国人民銀行の周小川総裁が、この構想に対する検討を行っていることを明らかにした。(関連記事)

 その後、昨年末には政府系の新聞である「China Business Post」が「中国当局は10種類の外貨を加重平均した指数に対して人民元をペッグすることを検討している」と報じた。10種類の通貨とは、ドル、円、ユーロ、香港ドル、インドネシアルピア、マレーシアリンギ、シンガポールドル、韓国ウォン、タイバーツと台湾元ではないかと推測されている。この構想は、アジア通貨バスケットの構想にかなり近い。(関連記事)

 2月16日には、アメリカのスノー財務長官が議会証言で「中国当局は、人民元の限定的な為替自由化か、もしくは(ペッグ先を)複数通貨のバスケット制に変えることを検討している」と述べている。(関連記事)

▼アジアが米国債を買わなくなってもかまわない?

 アメリカは、中国に対して「覇権国にしてあげるから」という交換条件をつけて、アジア諸国が躊躇した通貨バスケットの構想を、中国に推進させようとしているのかもしれない。中国がACBに似たものを自国通貨の相場の決定に使うようになれば、東南アジア諸国にも同様の傾向が広まり、自然とACBが実現し、アジアの基軸通貨はドルからACBに変わっていく。日本もドルとの間の為替のみに固執する必要はなくなり、ACBとの為替が重視されるようになる。

 この場合、日本をはじめとするアジア諸国は、為替安定のためにドル(米国債)を買う必要がなくなる。今は、アメリカの財政赤字(国債)の半分前後がアジア諸国によって買われているため、ブッシュはイラク戦争の戦費を調達できている。しかし、今後アジアが米国債を買わなくなったら、国債金利が上昇し、市中金利が上がってアメリカ経済の首をしめる可能性が大きくなる。ふつうに考えると、アメリカがACBの実現を容認するのは自殺行為だ。

 だが、そもそも中国政府に対して「ペッグの対象を多様化しなさい」と忠告したのはアメリカの息がかかっているIMFである。しかも、現状のペッグ制を変えなくても、人民元の対ドル為替を切り上げただけで、中国は米国債を買う必要性が減るわけで、米国債を買ってくれる人が減るのだから、アメリカにとっては自殺的な行為である。

 むしろアメリカは、米国債を買ってくれる人が減ってもかまわないので、アジアの基軸通貨をドルではないものにして、アメリカの経済覇権を縮小したいのではないかと思われる。アメリカは、自国をわざと弱体化させて世界を多極均衡状態に近づけたいのかもしれない。

 アメリカが人民元の制度変更を通じて「ドル離れ」させたいのだとしたら、日本銀行が膨大なドル買い円売りをやっていることに対しても、新たな見方が成り立つ。アジアがドル離れしてACBのようなものを基軸とする独自体制に移行することが決まるまで、ドル買い円売りを続けて円相場を安定させ、円が人民元など他のアジア通貨に対して高すぎる状態でアジア共通通貨がスタートすることにならないようにしているのではないか、ということだ。

 中国当局は、人民元の為替制度見直しの第一弾を3月中に行う見通しが強くなっている。中国の政府系新聞がそうした予測記事を出している。(関連記事)

 この見直しで、人民元のペッグ先が多様化する方向性が示されたとしたら、それは日本円を含むアジアの通貨システム全体が変動していく可能性が出てくることになる。日本人はこれまで円ドル関係のみを重視してきたが、それが変わるということである。

▼なぜ日本ではなく中国がアジアの中心なのか

 読者の中には「日本は今のところ中国よりはるかに経済力があるのに、なぜアメリカはアジアの経済的中心を中国に置こうとするのか」という疑問を持つ人もいるかもしれない。日本は1970−80年代には、アメリカから「日欧米三極委員会」などのかたちで「アジアの覇権になりませんか」と持ちかけられた。だが戦後の日本は、第二次大戦の敗戦に懲りて、国際的な覇権をとることに対して非常に慎重になっていた。大蔵省には「円の国際化」を目指す動きもあったが、結実しなかった。

 そのため、アメリカは日本を中心にアジアを自立させる構想をあきらめ、1979年の米中国交正常化を機に、中国のトウ小平に「改革開放路線」「社会主義市場経済」をスタートしてもらい、中国経済が急成長するのを待つ路線に切り替えたのではないかと思われる。

 中国がアジアの覇権を握ることで、日本が孤立するかというと、そうではなさそうだ。中国の政府系シンクタンクは昨年後半から、日本とどうやって親密になるかを考察するレポートを相次いで出しており、むしろアジアの覇権の一部を日本にも背負ってもらいたいのではないかとも思える。日中合同の「大東亜共栄圏」である。(関連記事)

 そこでネックになるのは、中国の一般市民の間に根強い反日感情かもしれない。中国当局は最近、南京にある「南京大虐殺記念館」を「国際平和センター」に改称しようとしたが、南京市民に猛反対され、改称計画を棚上げせざるを得なかった。

 中国共産党は「抗日闘争」とともに発展し、政権をとった後は50年以上にわたって中国人民に反日教育を施してきたのだから、急に「アメリカから許されてわが国はアジアの覇権国になる。ついては日本にも協力を求めたいので、人民の皆さんは反日意識を消してください」と求めたところで、すぐに対応してもらえるものではない。だが、中共の上層部が「反日感情の抹消」を必要としていると思われる以上、今後意外に短期間のうちに、中国から反日意識が消える可能性もある。

 また、中国の台湾に対する戦略も変化するだろう。これについては改めて書きたい。



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