イスラエル右派を訪ねて(上)2003年11月7日 田中 宇エルサレム旧市街のダマスカス門から北に向かって歩いていくと、東エルサレムの市街地に入る。東西に二分されているエルサレムでは、東エルサレムはパレスチナ人の街である。市街地といっても商店街などはなく、住宅地が続くだけだが、そこを15分ほど歩き、道が上り坂になり始めるところに、イスラエルの国旗がはためいている軍の詰め所がある。 詰め所の建物は、西岸(ヨルダン川西岸地域)によくある検問所のようだが、道路の通行者を検問しているわけではない。イスラエル軍の兵士が2−3人詰めて、双眼鏡で周辺の様子をうかがっているだけだ。 この詰め所は、注意していないと見落とすような小さなものだが、実は東エルサレムの将来を左右するような重要な意味を持っている。 詰め所がある坂を上ったところは東西にのびる丘陵地になっており、東に行くとヘブライ大学のキャンパスがある。この大学はイスラエル最初の大学で、イスラエル建国以前の1920年代に開校した。こうした歴史があるため、オスロ合意によって東エルサレムがパレスチナ人の地域として指定された後も、ヘブライ大学の周辺はユダヤ人側に属する地域として、東エルサレムの中に島状に存在することになった。 1996年にネタニヤフ政権が発足して以来、イスラエル側は自分たちがいったん作り上げたオスロ合意を破棄する方向に動き出した。その流れの一環としてイスラエル側は、東エルサレムをパレスチナ人に引き渡すことを防ぐ方策を取り始めた。 西エルサレムとヘブライ大学、そしてその南にある聖地「オリーブ山」との間など、東エルサレムの内部を分断したり取り囲んだりするように新しいイスラエル人の入植地を作ることで、東エルサレムを西岸と分断して孤立させ、新生パレスチナ国家の首都にすることを不可能にする作戦だった。 パレスチナ側(PLO)は、建国後は東エルサレムを首都にすることを主張していた。ネタニヤフ政権以降のイスラエル側は、それを阻止しようとした。それは、エルサレムが東西に分断された状況が固定化されるのを嫌ったからだった。 エルサレムの旧市街は、イスラム教徒地区、ユダヤ教徒地区、キリスト教徒地区などに分かれており、新市街を含めたエルサレム全体が、東のイスラム教徒地区と西のユダヤ教徒地区に分かれることは、平和共存の一つのあり方として、それ自体が問題になるべきことでもなかった。しかしイスラエル側としては、1967年の中東戦争に勝って獲得した東エルサレムをパレスチナ人に渡してしまうことに抵抗感を持つ人も多かった。 こうして過去数年間に、イスラエル当局はヘブライ大学に連なる丘陵地のふもとに住むパレスチナ人に「不法建築」だとかいろいろ言いがかりをつけて強制立ち退きをさせ、そのあとにイスラエル人(ユダヤ教徒)を入植させ、入植者が近隣のパレスチナ人に対して攻撃を続けることで、さらに立ち退きを進めようとしている。 イスラエル軍は、パレスチナ人側が土地を奪還しようと襲ってくるのを防ぐために詰め所を作り、24時間体制で監視し始めた。詰め所の周辺は、イスラエル人とパレスチナ人の家が混在し、一触即発の状況が続いている。 ▼家賃の安さが包囲網を作る イスラエル側が作った入植地の「東エルサレム包囲網」は、北はカランディア検問所の近くから始まり、東にはマーレアドミンという大規模な入植地も作られている。南にはギロやハルホマといった入植地がある。いずれも、ユダヤ人地区である西エルサレムに通じる道路が用意されている。ギロとハルホマは、パレスチナ側の主要都市の一つであるベツレヘムと、東エルサレムとの間に位置し、この2つの町の間を遮断するかたちで存在している。 これらの入植地は、エルサレム郊外の「新興住宅地」と呼ぶ方がふさわしく、日本の公団住宅よりやや小さめの3−5階建ての集合住宅が並んでいる。洗濯物が干してあったり、子供が遊ぶ声が聞こえる静かな住宅地だ。集合住宅の多くは、白亜の大理石調の外観を持っており、エルサレム旧市街の城壁の色調を意識している。 入植地の住宅は家賃が一般の水準よりかなり安い上、居住者は所得税の減免措置なども受けられる。イスラエル政府は経済面の優遇策を行って「東エルサレム包囲網」を「人間の盾」として使っている。 エルサレムから南に向かう国道60号線を行くと、エルサレムから市外に出るあたりの右手の丘陵の上に、「ベルリンの壁」のような、延々と続くコンクリートの壁が見えてくる。ギロの入植地のはずれに作られた銃弾防御壁である。 ギロは、ベツレヘムやその郊外のベイトジャラ村などのパレスチナ人地域と谷をはさんで向かい合っている。夜になるとパレスチナ側からギロの住宅地に向けて銃撃してくることがあり、その弾を避けるために壁が作られている。 一方、ギロを遠望できる場所にあるベイトジャラ村の家々は、イスラエル側からの報復攻撃を受け、廃墟になっている。国道60号線は、ギロとベイトジャラの間の谷を抜けており、道路脇にも銃撃を避けるためコンクリートの壁が作られている。 西岸南部の町ヘブロンにつながっている国道60号線は、ギロに向かう道が右から分岐した後、左手の丘の上に、ハルホマの入植地建設現場が見えてくる。ハルホマは、東エルサレムとベツレヘムというパレスチナ人の2つの町の間に立ちはだかるように作られている。1997年にハルホマの住宅建設が始まったとき、パレスチナ側は建設に強く反対し、欧米がこれを支持してイスラエルを批判した。建設工事は一時止まったものの、再び再開されている。 さらに行くと、左手にベツレヘムに向かう道が分岐する。ベツレヘムは、ラマラ、ヘブロンなどと並ぶ、主要な西岸のパレスチナ人の町で、キリストの生誕地として、キリスト教の聖地にもなっている。 2000年秋にアルアクサ・インティファーダが始まって以来、国道から分岐してベツレヘムへ向かう道は、車両通行止めになっており、自爆テロに対する制裁が行われるときは、歩行者の通行もイスラエル軍によって止められ、ベツレヘムは閉鎖されてしまう。この道沿いには、旧約聖書の登場人物の一人であるラケルの墓があり、イスラエル軍はそこを守るという名目で、ベツレヘムに向かう道をふさいでいる。 ▼パレスチナ国家創設を難しくする混在戦略 ベツレヘムに向かう分岐を通り過ぎ、2つのトンネルを抜けると、両側は、オリーブの林や荒れ地などの間に、パレスチナ人の村とユダヤ人の入植地とが、碁盤に置かれた白黒の碁石のように混在する状態になる。 入植地の建設は、オスロ合意に基づくパレスチナ国家の建設を難しくすることを目的として、オスロ合意締結後に加速された。今のような混在状態になってしまうと、もはや今後再びイスラエル政府がパレスチナ人に国家建設を認めたとしても、入植地に住んでいるイスラエル人に対する大規模な強制排除作業を行わない限り、安定したパレスチナ国家を作ることは無理だろう。 右派の力が強い昨今のイスラエルでは、入植地の住民を強制退去させることは政治的に非常に難しい。イスラエルの右派政権は、たとえ次の選挙で平和主義の左派が政権をとったとしても、パレスチナ国家を作ることはできない状態を作っている。 イスラエルによる幹線道路の整備は、イスラエルがオスロ合意を拒否する姿勢を強めた1990年代後半に進んでおり、パレスチナ人のためではなく、イスラエル人の入植地の交通のために道路建設が進められたことがうかがえる。 2002年8月にこの道路を通ったときは、幹線道路からパレスチナ人の村に通じる道の入り口の多くが、土盛りで封鎖されていた。イスラエル軍が、自爆テロに対する「制裁」として、車で村に出入りできないようにしてしまっていた。 ▼弾よけとしての「TV」 エルサレムから40キロ離れたヘブロンまでの間に、数カ所の検問があった。パレスチナ側の乗り合いタクシーでヘブロンに行ったときは、すべての検問所で止められ、イスラエル兵が乗客全員の身分証明書をチェックしていた。 半面、イスラエル人と一緒に自家用車でヘブロン方面に出かけたときは、各検問所とも、運転してくれた知人のイスラエル人がヘブライ語で兵士に行き先を告げるだけで、簡単に通行できた。検問はパレスチナ人だけを規制するシステムになっていた。 イスラエルでは、西岸など占領地で登録した自動車と、その他のイスラエル本土で登録した自動車のナンバープレートの色が違う。しかし、パレスチナ人でも東エルサレムに住んでいる人は、イスラエル本土のナンバープレートで、プレートを見ただけでは、乗っているのがユダヤ人かパレスチナ人か、見分けがつかない。 こういう場合、どうやって見分けるのか、知人のイスラエル人に尋ねたところ「顔」だという。パレスチナ人とユダヤ人では、顔つきが違うので分かるのだという。しかし、ユダヤ人の中にもアラブ地域出身の「ミズラヒ」の人々もおり、彼らはパレスチナ人と見分けがつかない。結局、検問所の兵士がユダヤ人とパレスチナ人を見分けているのか、よく分からなかった。 イスラエル人は検問所を通るのは簡単だが、パレスチナ人が抱かない別の恐怖がある。パレスチナ人が撃ってきたり、石を投げてきたりするからである。私がイスラエル人の車で西岸を移動したとき、運転をしてくれた知人は全速力で走っていた。 ボンネットにビニールテープを使って「TV」という文字を張り付けている乗用車もよく見かけた。最初は、ずいぶんマスコミ関係の車が多いんだと思っていたが、実はそうではなくて、マスコミ関係車両のふりをすれば撃たれなくてすむだろう、という思惑に基づいたものだった。「TV」のサインは、銃撃が多い戦後のイラクでもよく見かける。 ▼「エルサレムの人は冷たいが、入植地の人は親切」 エルサレムから60号線を、パレスチナ人に狙撃されないよう全速力で20分ほど走った国道の脇に、アロンシャブートという入植地がある。入植地の周縁は有刺鉄線で囲まれているが、入植地の中に入ると、木々に囲まれて白亜の2階建て集合住宅が並ぶ、静かな住宅街となっている。私は、そこに住むビテルボさんという一家の自宅を取材に訪れた。 夫のアリエル・ビテルボさんはベネチアに近いイタリア北部の町パドバの生まれで、父親はパドバのシナゴーグ(ユダヤ寺院)のラビ(宗教指導者)だった。イタリアのユダヤ人のアイデンティティは、半分イタリア人、半分ユダヤ人という状態だが、イスラエルに来れば完全なユダヤ人として生活できる。 アリエルさんはその点に惹かれ、20歳だった1985年にイスラエルに移住してきた。パドバに住んでいるユダヤ人は約200人で、そのうち1割ほどが建国後のイスラエルに移住したという。パドバのユダヤ人は、商人や医者、弁護士などの仕事に就く裕福層が多いという。 一方、妻のシルビア・ビテルボさんはアルゼンチン出身で、高校時代にエルサレムを旅行したことがきっかけで、イスラエルに移住してきた。両親は反対したが、シルビアさんは3日間断食して意志表示し、希望を通した。 イスラエルに移住できてうれしかったが、バスに乗るときに並ばないなど、アルゼンチンに比べて人々のマナーが欠如している点は閉口したという。シルビアさんの家系は、1900年ごろまでモロッコに住んでいたが、その後ヨーロッパから中南米への移民が急増した時代に、新天地を求めてアルゼンチンに移住した。 2人とも、学生時代からヘブライ語を勉強するなどユダヤ人としてのアイデンティティを強く持つ環境で育ち、若者のイスラエルへの移住をすすめるユダヤ人団体にも入っていた。一家は、以前はエルサレム市内に住んでいたが、長女の小学校入学を機に、アロンシャブートの入植地に引っ越してきた。 引っ越しの前に入植地のラビ(ユダヤ教の尊師)と面接し、信仰心が十分にあると確認されて受け入れられた。「エルサレムに住む人々は冷たいが、入植地の人々は親切で信仰心にもあつく、とても住みやすい」と夫妻は言う。入植地には商店が一軒しかなく、値段が高いので、毎週一回、エルサレムまで買い出しに行っているのだそうだ。 ▼「今さら世界から嫌われても、困ることはない」 オスロ合意についてどう思うか尋ねたところ、シルビアさんは「私は前から、アラブ人(パレスチナ人)に(パレスチナ警察の創設のために)銃を渡したら、必ず私たちに向けて発砲してくるに違いないから(オスロ合意を)締結するのは良くないと言っていたが、私の懸念した通りの結果になっている」と答えた。 また彼女は「私たちが強いということを、あの人たち(パスレチナ人)に分からせないと、あの人たちは私たちの存在を認めようとしないでしょう」「イスラエルは世界から嫌われているというが、私たちが世界から嫌われないようにしても、世界(国際社会)が私たちを助けてくれないということは(ホロコーストなどの)歴史をみれば明らかです。今さら世界から嫌われたところで、何も困ることはない。自分たちの安全は、自分たちで守るしかないんです」とも言っていた。
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