他の記事を読む

イスラエル市民運動のラディカルさ

2002年10月7日   田中 宇

 記事の無料メール配信

 1997年9月4日、イスラエルの西エルサレムにある繁華街ベンヤフダ通りでパレスチナ人青年が自爆攻撃(自爆テロ)を起こし、通行人ら5人が死亡する事件があった。この5人の死者の中に、スマダル・エルハナン(Smadar Elchanan)という14歳の少女がいた。

 スマダルの死が注目されたのは、彼女の祖父が、1967年の第3次中東戦争で功績をあげたマティ・ペレド(Matti Peled)という有名な将軍だったからだ。第3次中東戦争は、イスラエルがエジプト・シリア・ヨルダンの連合軍を破り、それまでヨルダン領だった西岸と、エジプト領だったガザという2つのパレスチナ人地域を占領し、今にいたるパレスチナ問題を生み出した戦争である。ペレド将軍は、パレスチナ問題を自ら作り出すことに貢献する戦績を挙げたものの、彼自身はこの戦争後「パレスチナ問題を解決してアラブ諸国と平和な関係を持つには、イスラエルとパレスチナが別々の国として平和裏に共存する方法しかない」と主張する「左派」であった。

 スマダル・エルハナンは、祖父以来の左派の家系の中で育った。彼女は2歳だった1984年には、父母が参加している平和運動のポスターのモデルとなった。そのポスターには「この子が15歳になるとき、イスラエルはどんな国になっているだろう」といった題字がつけられ、子供たちが平和な人生を送れるよう、パレスチナ人(アラブ人)と和平を結ぼう、と提起していた。

 スマダルは、ポスターの題字にうたわれている15歳になる前年に、パレスチナ人のテロで殺されてしまったわけで、このことは悲劇としてイスラエルのマスコミで報じられた。スマダルは、平和運動をしていた祖父や父母の影響を受け、アラビア語を熱心に勉強する女の子であった。彼女の葬儀には、PLOのアラファト議長の使者も参列した。スマダルの祖父ペレド将軍が、イスラエルの政府関係者として史上初めてPLOと会って交渉した人で、アラファトはペレド将軍を尊敬すると表明していたからだった。

 スマダルが殺されたとき、イスラエル中を驚かすニュースになった背景には、もう一つエピソードがあった。娘が殺されたことについて、マスコミからコメントを求められた彼女の父母が「娘が死んだことに対して、テロリストよりもイスラエル政府に大きな責任がある」と答えたからだった。

 常識的に考えると、テロリストに子供を殺された両親のコメントは、テロリストに対する憎しみの発露となりがちだ。ところがスマダルの両親は、当時の自国のリクード政権に対して「パレスチナ人と和平を結ばず、逆に弾圧を強めて屈辱を味あわせることによって、わが国の政府は、パレスチナ人のテロリストを養成してしまっている。テロは、イスラエル政府の政策によって生み出されたものだ」と主張した。娘の死の直後、当時イスラエルの首相だったベンヤミン・ネタニヤフから、父親のラミ・エルハナン(Rami Elchanan)に向けてお悔やみの電話がかかってきたが、父親は電話に出ることも拒否したという。

▼「イスラエルの現状は間違っている」

 私は2002年8月の取材で、そのラミ・エルハナンにお会いした。彼は工業製品などのデザイナーをしており、友人とデザイン事務所を共同経営している。2歳だった娘の写真を使った平和運動のポスターを1983年にデザインしたのも、彼自身だった。彼の事務所は、西エルサレムの古びた低層アパートのような雑居ビルの中にあった。外見は古いが、事務所の中はデザイナーのオフィスという感じで、モダンなセンスが感じられた。

 スマダルの死について、エルハナン氏は「私の父は、家族のうちの何人かを、ナチスのアウシュビッツ収容所で失っています。私の父のようなたくさんのユダヤ人が、ホロコーストのような攻撃を二度と受けずにすむよう、イスラエルに移住してきました。しかし父は、アウシュビッツで家族を失ってから60年たって、今度はテロの攻撃で孫娘という家族を失ってしまった。父は、2回も家族を失う経験をするとこになった。イスラエルは、ユダヤ人が安心して暮らせる国になるはずだったのに、全くそうなっていないのです」と語り、イスラエルの現状は間違っていると主張した。

 娘の死をめぐる話を英語でひととおり聞いた後、私は「なぜ、スマダルの死の後、政府を批判する怒りのコメントを発したのか」と改めて尋ねた。すると「テロや戦争で人が死んだとき、残された遺族が発するコメントは、イスラエルでは非常に人々の胸に響きます。ふだんは、パレスチナ人との和平を説いても全く聞いてくれない人々でも、テロの犠牲者の父母が発する言葉としてなら、きちんと聞いてくれる。娘が死んだとき、私たち夫婦は、打ちひしがれるのではなく、今こそイスラエルを良い方向に変えるための任務を果たさなければならない、と思いました」と、ラミ・エルハナン氏は答えた。

 この言葉に、私は大きな感銘を受けた。娘がテロで殺されるという、非常にショッキングな出来事に直面しているときに、こんな風に自分が置かれた立場を客観的にとらえ、戦略的な思考ができる人がいるということに驚いた。

 エルハナン氏はこの事件がきっかけで、イスラエル側でテロの犠牲になった人の遺族200家族と、パレスチナ側でイスラエル軍に殺された人の遺族150家族とをつなぎ、パレスチナ問題の平和的な解決を提案する組織「遺族の会」(Bereaved Families)を作った。イスラエル・パレスチナ双方の犠牲者の遺族が一緒に平和を求めることで、右派的な主張に流される傾向が強い昨今の状況に歯止めをかけようとしている。

▼ラディカルに考える民族性

 こうした考え方をしているのは、エルハナン氏らだけではない。2002年3月末、イスラエル北部の大都市ハイファで、パレスチナ人青年がレストランの中で自爆攻撃(自爆テロ)を起こし、多数の死傷者を出す事件があった。このときに怪我をして病院に運ばれた27歳のシンジャナ・ワキド(Sinjana Wakid)というアラブ系イスラエル人女性が、病院のベッドサイドでのテレビのインタビューに答え、エルハナン氏と同じ思いを込めた発言をしている。

 報道によると、ワキドさんはインタビューに答えて「私の祖母はユダヤ教徒、祖父はイスラム教徒、そして母はキリスト教徒です。だから私はユダヤ教徒の気持ちもイスラム教徒の気持ちも、キリスト教徒の気持ちも分かる。今日自爆した青年を狂っていると言う人がいるが、それは違う。彼が抱えていた苦しみは、私にも理解できる」と述べている。この事件の犯人は西岸の町ジェニン郊外の難民キャンプに住むパレスチナ人だったが、母親がイスラエル在住(つまりアラブ系イスラエル人)で、そのため青年自身もイスラエルの身分証明書を持っており、そのため西岸からハイファに自由にやってくることができた。犯人自身、パレスチナ人だがイスラエル人でもあるという二重の状態にあった。(関連記事

 ここ数年、イスラエルではテロが絶えることがなく、平和運動の声はかき消されがちで、エルハナン氏やワキドさんが発する主張は、なかなか聞き入れられない。エルハナン氏が展開する遺族の会の運動も、なかなか支持を広げられない状況にある。だが私は、運動が広がっているかどうかということよりも、テロの犠牲になった人々が感情に流されずに戦略的な発言をするという、イスラエル人が持つラディカルさや意志の強さ自体に感銘を受けた。

 私がイスラエルの左翼系市民運動を取材して感じたラディカルさは、左翼に限らず、イスラエル人(ユダヤ人)全体の民族的な特質かもしれない。そう思うのは、ユダヤ人の歴史を見ると、ラディカル(根本的)に考える歴史的な人物を多く輩出してきたからである。

 たとえば、精神分析学という新しい学問分野を作ったフロイトは、ウィーンで育ったユダヤ人だし、イギリスの帝国主義を研究する中から科学的社会主義理論を打ち立てたマルクスも、ドイツ生まれのユダヤ人だった。

 アイザック・ドイッチャーというドイツ人が書いた「非ユダヤ的ユダヤ人」(日本語訳は岩波新書)という本には「マルクス、ルクセンブルグ、トロツキー(いずれも社会主義者)、スピノザ(哲学者)、ハイネ(詩人)、フロイトはいずれもユダヤ人で、ユダヤ人社会の限界を超えていたが、一方でユダヤ人的知性と生活の本質が彼らの中に宿っていた」という趣旨のことを書いている。

 ユダヤ人の長い歴史をひもとくと、古代にはメソポタミアなどの帝国の「書記」のような職業につく人々であったことが分かる。旧約聖書はユダヤ民族の教典として作られたが、こうした「本」が民族のシンボルとなっている点が、ユダヤ人が古くから「書記」や「編集者」「研究者」であったことを物語っている。ユダヤ人は現代社会においても、ジャーナリストや出版界、映画産業などの分野、それから自然科学などの学界で、傑出した人材を無数に生み出している。ここから、理論で深く考えることがユダヤ人の民族的な特質ではないか、と考えられる。




田中宇の国際ニュース解説・メインページへ