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台湾・第2の光復(1)親日の謎を解く紀念館

2000年3月30日   田中 宇

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 台湾の総統選挙の投票日である3月18日朝、台北市内のホテルから外に出たとき、街を歩く人々の雰囲気が、晴れやかでさっぱりしているように感じた。

 その後、市内の投票所の一つに行った際も、同じことを感じた。訪れたのは台北市北部の北投区で、投票所は儒教の廟に付属している事務所内に設けられていた。そこでも人々は、晴れやかな表情で談笑していた。その選挙区の住民の大半は、民進党(民主進歩党)の支持者だと聞いた。(台湾の街にはあちこちに廟があり、町内会と区役所出張所のような機能を兼ねている)

 台湾には、今回の総統選挙を自らの人生の重大事としてとらえている人が多かった。自分の支持候補が当選できるか心配で、投票日まで数日間、一睡もできず、病院に行った人が多いという記事が、新聞に出ていた。そういった人々が重責に感じていた投票を終え、とりあえず安堵した様子が、この日の街の雰囲気に現れているような気がした。

(当選した陳水扁と次点の宋楚瑜が僅差だったため、宋楚瑜を支持していたのに義理で第3の候補・連戦に入れてしまった農民が、僅差で負けたのは自分の責任だと感じ、後悔した挙げ句に農薬を飲んで自殺を図ったという記事も出ていた)

▼「一つの中国」史観を否定する228紀念館

 この日の午後、まだ投票が続いている間の時間を利用して、台北の中心街にある「台北228紀念館」を訪れた。以前の記事「台湾の客家に学ぶ」で紹介した羅慶飛さんが、連れて行ってくださった。

 228事件とは1947年2月28日、台湾を支配して間もない国民党政府の抑圧的政策や腐敗に対して抗議行動を起こした人々に向けて当局が発砲し、多くの死者を出した弾圧事件である。

 この事件を皮切りに、国民党政府はその後30年以上、反政府系の人々に対する処刑や投獄を続けた。紀念館は、野党だった民進党から当選した陳水扁氏(次期総統)が台北市長だった時に音頭をとり、1997年に完成したもので、国民党の圧政を批判する意味が込められている。

 内部の展示や説明文を読んで分かったのは、この紀念館の特色は、単に弾圧を批判するだけではなく、台湾の歴史について「台湾は中国の一部である」という、国民党と中国共産党が共有する歴史観を否定し、台湾の独自性を強調した歴史観を提供する目的で作られたということだった。

▼日本に支配されたのが台湾人と中国人の違い

 台湾にはもともと、マレー・ポリネシア系の先住民だけが住んでいたが、17世紀ごろから対岸の中国大陸・福建省からの移民が増え、中国化が始まった。

 だが、228紀念館の資料によると、台湾では移民によって中国化が進む一方で、オランダによる台湾南部の支配(1624-61年)や、海賊出身の鄭成功による政権(1661-83年)が存在したほか、大陸から海を隔てているという地理的要因もあり、大陸的な中国の文化とは異なる、海洋的な台湾独自の文化が作られていった。

 中国大陸と台湾の違いは、1895年に清朝が日清戦争に負け、台湾を日本に割譲したことにより、さらに強まった。紀念館の別の資料によると、日本による植民地支配は、本質的には収奪を目的とした圧政だったが、「鶏卵を得るために、まずは鶏を育てる」という例えに象徴される戦略で、日本は台湾の交通網を建設し、衛生状態を改善するなど、近代化政策を行った。

 日本が台湾で近代化を進めている間も、中国大陸では戦乱が続き、日本が戦争に負けるまでの50年間で、台湾と中国の文化的な違いが大きくなった。第二次世界大戦が始まると、台湾では強制的な皇民化教育によって「日本人化」が進められ、中国大陸の人々との違いがさらに広がった。

▼台湾人を「日本に洗脳された」と軽視した国民党

 日本の敗戦後、台湾の人々は「祖国」と思った中国に再統一されることを喜んだが、その一方で、台湾を統治するために戦後、大陸からやってきた国民党の人々と台湾の人々との摩擦も始まった。

 台湾の人々は、自らを近代化した存在と自負し、日本時代に作られた議会を発展させて自治政府を作りたいと考えた有力者もいた。だが、大陸からきた人々(外省人)は、「台湾人が受けた日本の教育は奴隷化教育であり、日本に洗脳された台湾人の文化や自治意識など、尊重するに値しない」と考えた。しかも中国からきた国民党政権は腐敗しており、日本から接収した財産を私物化する傾向が強かった。

 こうした摩擦の上に、日本時代に政府の専売品だったタバコ、酒、石油製品などの販売が、国民党政権になっても自由化されなかったことが、台湾人の反感を強めた。ヤミでタバコを売り続ける市民に対し、国民党政府は専売局の武装した取締官を巡回させ、摘発に抵抗する市民を力で弾圧する政策を展開した。

 1947年2月27日、台北市内の市場で専売局の取締官が、ヤミタバコを売っていた女性を見つけ、制裁のため暴力をふるったことから、周りにいた市民が取締官に詰め寄り、恐怖を感じた取締官が発砲し、市民一人を殺害して逃げた。

 翌2月28日、この事件に抗議する市民のデモ行進が企画され、台北市内を専売局に向かって行進しはじめたが、国民党当局はデモ隊に向かって発砲し、多数の死者が出た。事件当時の台北の政府当局は、南京の中央政府に向けて「台湾人は国家に叛旗を翻し、独立を企てている」という報告書を送り、この事件は反逆罪なので厳しい鎮圧が必要だと要請した。

 台北の当局は大陸からの応援軍を待って、台湾人に対する弾圧を強化して戒厳令を敷いた。40年後の1987年まで、戒厳令は解除されなかった。

▼日本支配に対する意外な肯定

 私が意外に感じたのは、228紀念館の「台湾独自史観」が、日本の植民地支配を部分的に肯定していることだった。私は、日本が台湾や朝鮮を植民地支配したことは、悪いことだったと思っている。

 結果的に、台湾や韓国の近代化の基礎を作ったとしても、植民地支配というものは、日本の台湾支配であれ、イギリスのシンガポール支配であれ、フランスのベトナム支配であれ、犯罪行為であり、支配された側に苦しみを与えたと考えられる。(欧州の人々が自らの犯罪性を認めているか疑問だが)

 台湾人だけが、植民地として支配されることを楽しめたわけではないだろう。それなのになぜ、台湾の人々は、わざわざ日本時代を肯定するのか。

 私の考察の結論は、「台湾の人々は、中国が台湾とは別の存在であると主張するために、日本支配を肯定的にとらえ、台湾の歴史上、日本時代が重要だった、と言う必要がある」ということだった。つまり「反国民党」「反中国」の道具として、日本時代を肯定していると思われた。

 もし、日本による支配が、台湾人に苦しみと喪失しかもたらさなかったと認定したら、国民党政府の「台湾人は日本人に奴隷化教育を受けた」という認識や、「国民党と外省人が台湾人を再教育し、近代化する必要がある」という、かつての外省人の理屈を認めることになる。台湾人は、そんな傲慢な認識を受け入れたくないし、腐敗した国民党政権に再教育されてはたまらないと考えてきた。

 国民党だけでなく中国共産党も、組織的な決定として、同じような「啓蒙」あるいは「見下した」態度に基づいた政策を取りかねない。日本人も、台湾人を見下す傾向が強い人々ではあるが、戦争に負けた後の日本政府は、台湾を再支配する意志を見せず、逆に故意に台湾の存在を無視しており、無害な存在だ。だから、過ぎ去った日本時代を肯定し「自分たちはあの時代に、大陸の人々より一足先に近代化したのだ」と主張することで、大陸系の勢力による介入を固辞しよう・・・と台湾人は考えたのではないか、と思った。

 総統選挙で国民党を破った民進党は、戒厳令が解除される直前の1986年に結成されたが、そのころの彼らは街頭宣伝車から日本の軍歌を流しながら「支那の豚は出て行け」と拡声器でがなり立てていたという。奇しくも日本の右翼と同じスタイルだが、その目的は根本的なところで違っている。

 昨年8月に台北で会った台湾人のお年寄りは「石原慎太郎さんが中国を支那と呼んだことについて、快挙だと思う、と日本人の青年に言ったら、支那というのは差別表現だからいけません、と叱られましたよ」と言っていた。

 この件で滑稽なのは、日本の右翼を隠然と支援してきた自民党が、台湾とは国民党とのつき合いに偏重し、陳水扁が勝って初めて民進党とのパイプが細いことに気づいて慌てたということだ。北京政府への気兼ねがある自民党としては、民進党の「軍歌」はありがたいが「台湾独立」は困ります、ということだったのだろう。

▼「日本熱愛」の謎を解く

 私はこれまで、台湾に行くたびに、老人を中心とする台湾の人々の、日本文化に対する異様なまでの愛着ぶりや、老人は日本の軍歌や演歌、若者は日本のポップ音楽をカラオケで合唱する姿などを見て、驚いたり感謝したりしながらも、「なぜなんだ?」という気持ちが残っていた。それが、228紀念館への訪問によって、自分なりに少し推測できるようになった。

 特にお年寄りは、国民党や外省人、北京政府を毛嫌いし、台湾の独立を切望する本省人(台湾人)ほど、日本の伝統や文物、日本語などを熱愛しているように感じる。

もちろん、こうした観念が強いのは、228事件とその後の弾圧時代を、身を持って体験した50-60歳以上の人であり、10-30代の若い人々が「ハローキティ」など日本文化を愛するのは、228事件とは関係が薄いだろう。

 中国や韓国と同様、台湾でも、日本の敗戦は「圧政が終わり、社会が輝きを取り戻した」という意味で「光復」と呼ばれる。228紀念館に向かう時に乗ったタクシーの運転手は、「今日は、第2の光復、本物の光復の日ですよ」と言っていた。民進党支持者で本省人の彼は、この日、数時間後に開票結果が出る総統選挙で、陳水扁が勝ち、国民党の時代が終わることを確信していた。

 彼の確信は当たり、10万人以上を集めた陳水扁の当選祝賀会が開かれた。その会場では、普段は仕事中に市民とほとんどおしゃべりしない警備の警察官が、異例にもくつろいだ明るい表情で、近隣の人と冗談を言い合っていた。この晴れやかさは確かに「光復」の名に値する、と思った。

(続く)



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