台湾の客家に学ぶ
1999年9月15日 田中 宇
この記事は「多言語社会、台湾」の続きです。前編からお読みください。
葉一族の故郷、横山郷は、緑の木々におおわれた山々と、少し深い谷との間の、やや急な斜面に、狭い畑が点在する場所だった。実家の葉家は、ウーロン茶や包種茶などのお茶を栽培、加工し、卸売りまでする農家で、山の斜面に建った家の入り口には「茶」と大きく書かれた看板が出ていた。私たちが葉家に着いた正午少し前には、すでに事務所兼自宅の中や庭には、葉家の人々が30人ほど詰めかけ、賑やかな会話が始まっていた。老若男女いろいろで、すぐに10人以上の人に紹介された。70歳前後以上の方々はみな、日本語を話す。若い人は英語ができ、日本に留学した人もいた。
間もなく、2階の屋根つきベランダのようなところで、円卓を囲んで宴会が始まった。部屋の隅にはお茶の乾燥機などが並び、普段は加工場に使われている広間だったが、そこに8卓、90人近くが集まった。私は、外国からのお客さんということで、葉家の当主である、葉浮河さんのとなりに座らせていただいた。私と卓を囲んだ人々の多くは長老で、日本語ができた。
85歳の葉浮河さんは、羅慶飛さんの妻である葉素芝さんの叔父。若いころ、日本統治時代に、この地域にできた農業試験場で、お茶の栽培、加工技術などを学んだという。
同じ卓にいた鍾廷フ(金へんに夫という字)さんは、葉素芝さんの義兄で、戦時中、日本の海軍からの動員を受けて、南太平洋のラバウル島で働き、そこで敗戦を迎えた経験を持っていた。毎年1回、かつての戦友たちと一緒に日本に行き、東京の靖国神社に参拝した後、静岡県の浜松市で、日本側の戦友たちと合流して、当時をしのぶ会合を開くのだという。鍾さんからいただいた名刺は、表側には「瑞ケイ(王へんに景)実業有限公司 董事会会長」と書かれていたが、裏側には「台湾海軍ラバウル方面会」という肩書きがスタンプで押されていた。
鍾さんのように、戦時の経験や人間関係を、今も大切に感じている台湾のお年寄りは、珍しい存在ではない。私は台湾に滞在中、靖国神社に対して、肯定的にとらえる発言や敬意の表明を、何人もの老人たちから聞いた。(このことは、改めて書きたい)
▼教育熱心で結束の固い一族
同じ卓にいた范光柱さんは、新竹と台北に事務所を持つ弁護士だった。范さんは「台湾の国家制度の中で、一番改革が遅れているのが、司法の部門です」と言う。今でも、裁判の当事者に賄賂を要求する裁判官や検事がいるのだという。葉一族には、范さんのような、社会的地位の高い職業についている人が多かった。同じ卓には、新竹県の県会議員を長く務めた人や、農協の理事長もいた。 また、羅慶飛さんの息子の羅吉昌さんは、台湾の国立中央大学で機械工学の助教授(副教授)をしているし、娘の羅瑞媛さんは、大手の投資信託会社のマーケティング部門で働いている。
客家は、長い中国の歴史の中で「よそもの」扱いされてきた経緯が長く、社会の中で少数派として不利益を蒙りやすい立場にあった。そのため古くから、子供たちに知的資産をつけることで、生きる力をつけさせようと、教育熱心な親が多かったといわれる。そうした伝統は、葉一族の中にも生かされていた。
羅慶飛さんの父親も、羅さんに少しでも良い教育を受けさせるため、羅さんが小学校に入る直前に、田舎の村から、竹東の町に、家族全部で引っ越した経験を持つ。
客家の教育熱心さは、歴史上、多くの重要人物を生み出す結果となった。中国のトウ小平や胡燿邦、また古くは孫文や、その妻ら「宋姉妹」、シンガポールのリークァンユーなどは、いずれも客家だ。台湾の李登輝総統も客家で、祖父の代までは、葉一族のふるさとである新竹県横山郷から近い、桃園県龍潭郷に住んでいた。
私が円卓の人々と話をしている間にも、他の卓から、次々と若い世代の人々が、ビールや清涼飲料の入ったコップを手にやってきて、私の卓の長老たちに挨拶をしていった。
3―4人で来て、その中の父親格の人が「私は誰それの3男の何某、こちらは妻の何々、そして息子の何々、息子の嫁の何々です。よろしくお願いいたします。皆様の健康を祝して乾杯」などと言って、みんなで乾杯する。年に一度しか会うことがないので、こうして互いに自己紹介をして、親睦を深めているのだろう。「客家の結束は固い」という言葉を象徴する光景だった。
▼台湾の乾杯は「総当たり戦」
話が少しそれるが、一つ面白いと思ったのは、台湾での乾杯のしかただった。日本では、乾杯は必ず参加者全員でするものだが、台湾では、最初の一回は、卓を囲む全員でやるが、その後は、相手の杯が進んでいない時などを見計らって、1対1の乾杯を、いろいろな組み合わせで何回もやる。乾杯の「総当たり戦」である。この1対1の乾杯は、まず相手に声をかけ、目を合わせて杯を持ち上げ、コップの中身をある程度飲んだ後、再び杯を持ち上げ、目を合わせて終わる、というものだった。「乾杯」という言葉は、コップの中のものをすべて飲み干すことを意味しているので、はっきりと「乾杯しましょう」と言われたら、互いに全部飲まねばならないが、そうでない普通の時は、自分に負担をかけない程度に飲めば良かった。
私が知る限り、日本には存在しない、この1対1の目礼乾杯は、中国人の血を引く台湾人の「中国的」な個人主義を表しているように感じた。集団主義ともいうべき日本では、こんな「1対1」は存在しない。乾杯は全員合唱、そして「一気飲み」は、一人が全員の前で披露するものであり、「1対1」はない。
さらに考えれば、台湾を含む中華世界では、「集団」というものは、無数の「1対1」の集合体なのではないか。私は台湾滞在中、2社ほど、企業の経営者の方々とお会いし、重役室から見た職場の雰囲気を垣間見ることができたのだが、その経験からは、台湾では企業も、経営者と各社員が無数の1対1でつながっているという感じがした。
これに対して従来の日本では、「みんな」と自分との関係が重要であり、「みんな」とうまく仕事ができるかどうかによって、社員に対する評価が大きく変わってくる。
「1対1」を社会のベースにしている台湾の老人たちが、「みんな」を重視する日本のかつての象徴だった「靖国神社」に敬意を払いつづけているというのも、興味深かった。日本では、「みんな」に縛られている自分を窮屈だと感じている人が多いと思うが、台湾の人々は、その「みんな」システムこそが、日本人の規律正しさや、我を張らないことの根源にあるものであり、我の強い台湾社会にはない特性として、敬意を払ってくれているように感じた。
そして戦後、国民党と外省人が持ち込んだ大陸式の社会風土は、それまでの台湾の気風より、さらに我の強いものだったので、うんざりした当時の台湾の人々は、日本時代の思い出を自分たちの中で昇華、美化していったのではないかと思う。
▼「一番絞り」に日本語演歌のカラオケ
どんな経緯だったにせよ、現在の台湾社会は、総じて親日的だ。葉家の円卓には「キリン一番絞り」の大きなアルミ缶のビールが並び、弁護士の范さんは「台湾の人はね、日本の製品だというだけで、おいしいと思うのですよ」と言って笑った。壁際に置かれたテレビはカラオケマシンと化し、若い人たちが北京語の歌を歌っていたが、やがて日本語の歌が混じるようになった。けっこう上手な人が、何人もいる。老人たちは、演歌を歌おうとするが、カラオケの音楽のテンポが速すぎて、ついていけない。カラオケを無視して歌い続ける姿に、一座は爆笑である。
宴たけなわになると、客家民謡のカラオケも始まり、合唱になっていた。台湾のカラオケの冊子には大体、北京語、台湾語、客家語、広東語、日本語、英語の歌が分類されて載っている。台湾について最初は、その言語の多さが奇怪だったが、ようやく納得できた。
葉家の宴会は、賑やかなものだったが、宗教色が全くなかった。ただ時期的には、この宴会が開かれた8月29日の直前は「中元」と呼ばれる節句で、亡霊を鎮めるための行事が、台湾全島で行われていた。
各企業では、会社の入り口の前に机を出し、果物やお菓子などのお供え物を置き、社員が総出で順番に線香を捧げ、お祈りしていた。うまいこと成仏できず、現世の人々に悪影響を与えそうな亡霊に成仏してもらい、会社と社員に悪いことがないようにする、というお祈りだとのことだ。
葉家の宴会も、このような時期に合わせ、日本の家族がお盆に田舎に帰るように、横山郷の本家に集まったのだった。
▼客家の政治戦略の歴史を象徴する「義民廟」
2時間ほどで宴会が終わった後、羅慶飛さんが「帰り道に、客家の靖国神社に行きましょう」と私を誘った。聞けば、客家全体のために戦って死んだ戦士をまつった廟が、近くにあるという。葉家に別れの挨拶を告げ、途中で観光しながら車に乗って山を降りていき、横山郷から新竹県新埔鎮にある「義民廟」に着いた。ちょうど、翌日の8月30日に、年に一度の大祭が開かれるところだった。この日は前夜祭で、廟の内外は、ネオンや提灯で飾り付けられていた。すでに夕方で、多くの人々が、夕涼みがてら、参拝に来ていた。
廟の裏側の山に、戦士の集団墓が2つあった。清朝時代の1786年に起きた「林爽文の乱」という戦いで、反乱軍と戦って戦死した、周辺の14か村の住民だった客家たちをまつってあるのだが、英語と中国語で書かれた廟のパンフレットを読んでも、どのような経緯で、誰と戦って死んだ英雄なのか、今一つ分からなかった。
羅さんにいろいろ尋ねて、ようやく「真相」が理解できた。清の時代の台湾では、清朝の統治に反発し、清を台湾から追い出して独立しようとする反乱が、何回か起きた。その中の1回が「林爽文の乱」だったが、この時、この地域の14の村は、清朝との関係を強化するために、清の側に立って反乱軍と戦い、多くの戦死者を出しつつも勝った。
客家は、台湾でも少数派であるため、多数派であるビン南系の人々との土地争いなどに、なかなか勝てない。だが、朝廷の後ろ盾があれば、客家の立場は強化される。 台湾は北京から遠く、清朝は台湾に十分な軍隊を置いていなかったので、客家の支援はありがたい。そんな両者の利益が合致し、林爽文の乱の戦死者を弔うために、客家が大きな「義民廟」を建て、朝廷とのつながりを誇示することを、清は許した。義民廟は、朝廷からのご褒美として建てた、という意味を込め、別名「褒忠亭」ともいう。
清朝からみれば「反乱軍」でも、ビン南人からみれば、外来勢力である清の支配に反発した林爽文は、現在の台湾独立にもつながる「英雄」だ。ビン南人の視点では、客家の「義勇軍」は、清朝の傀儡になった裏切り者となってしまう。パンフレットに、客家の人々の当時の意図を書いてしまうと、現状の社会でも、要らぬ反発を生むかもしれない。台湾では、200年以上前の政治状況が、今もあまり変わっていないのである。
私が廟の受付でもらったパンフレットには「反乱軍」についての詳しい記述どころか、客家の廟であることも、はっきりとは書いていない。私も、羅さんの案内がなければ、ここが客家の廟であることさえ、気づかなかったに違いない。この義民廟の存在のしかた自体に、少数派として生きる、客家の政治戦略を感じることができる。
▼中国革命の立役者だった客家
政治戦略に長けていた客家は、もっと大きな中国大陸全体の歴史にも、大きな影響を残している。漢民族の王朝と、北方から攻めてくる騎馬民族の王朝とが、代わる代わる政権を取るという、中国の歴史の中で、客家は、騎馬民族に追われて南下した漢民族の王朝高官たちの末裔である、と言い伝えられている。そのため客家は、異民族の支配に屈しない人々としての誇りを持ち、客家語は古い時代の正統的な漢民族の言葉であると自負している。
19世紀前半、清朝が弱体化したとき、広東省の客家だった洪秀全が、清朝打倒をうたう「太平天国の乱」を起こした背景には、こうした客家としての自負があったとされる。太平天国は失敗したが、その精神は、同じく広東省の客家だった孫文に受け継がれ、上海に住む裕福な客家だった「宋姉妹」の宋一族の資金援助を得て、中華民国の建国に結びついた。
孫文の死後、中華民国の実権を握った蒋介石は、共産党を弾圧したため、中国共産党は、本拠地を山西省の山岳地帯に移したが、山西省から福建省にかけての山岳地帯には、客家が多く住んでいた。そのため、共産党の初期の党員には客家が多くなった。 客家の多くは、山間部の貧しい農村に住んでおり、共産党を支持した人が多いのは、当然ともいえる。さらに、客家の中には商人として、中国各地に住んでいる人々もいたから、共産党が全国的な地下組織を作る際の貢献も大きかった。
こうした歴史から、客家は「漢民族復興の旗頭」とも言われているが、一方で新竹の義民廟の故事からはむしろ、ある時は「漢民族復興」を掲げ、別の時には「清朝の義勇軍」になるという、政治戦略の柔軟性が感じられる。
これは、客家であるトウ小平の「黒い猫でも白い猫でも、ネズミを取る猫は良い猫だ」という合理論にも共通する、したたかな考え方ではないか、などと思いながら、羅さん一家に連れられて、義民廟を後にした。
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