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パキスタンの裏側

2008年1月8日  田中 宇

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 以前から気づいていながら、書きそびれていたテーマのひとつに「2001年の911テロ事件の黒幕の一人は、イギリスの諜報機関MI6のエージェント(雇われスパイ)だったらしい」という話がある。問題になっている人物は、アーメド・オマル・サイード・シェイク(Ahmed Omar Saeed Sheikh)という、パキスタン系のイギリス人である。

 911の実行犯グループのリーダーだったとされるモハメド・アッタは、事件の1年ほど前から、アラブ首長国連邦(UAE)の口座から送金を受け、これがグループの活動費になったとされるが、アッタに金を送ったのが、サイード・シェイクだったと報じられている。

 サイード・シェイクは、イギリス生まれの頭の良い青年で、1992年にイギリスの一流経済大学であるロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)に入学し、数学を勉強していたが、在学中にイスラム主義思想に興味を持ち、イスラム主義の活動家になって、MI6に勧誘され、旧ユーゴスラビアのボスニアに送り込まれた。

 ボスニアでは、セルビア人の勢力とボスニア人(名目的イスラム教徒)の勢力が内戦をしており、ボスニア人を名目的なイスラム教徒から、過激なイスラム主義勢力へと扇動し、ロシアとつながるスラブ系のセルビア人との内戦を助長する作戦がMI6などによって展開されていた。

 サイード・シェイクはその後、パキスタンから1994年にインドに移り、そこでイギリス人を誘拐したため、捕まって服役していた。ところが、1999年にパキスタンのイスラム主義勢力が起こしたインド航空機ハイジャック事件で、犯人たちがサイード・シェイクらの釈放をインド政府に要求したため、超法規的措置として釈放され、パキスタンに移った。(関連記事

▼ビンラディンに協力してアルカイダを養成したMI6

 サイード・シェイクは、99年から01年の911事件まで、パキスタンに住んでいたが、その間、パキスタン軍の諜報機関ISI(統合情報局)と親交を深め、ISIが用意した家に住んでいた。00年と01年初めにはイギリスの親元に帰省したが、その際にはイギリス当局にも捕まらなかった。94年にサイード・シェイクに誘拐されたイギリス人被害者らは、英当局がサイード・シェイクを放任していることについて怒りの表明をしたが、英当局は無視した。(関連記事

 サイード・シェイクは911まで、パキスタンとアフガニスタンを往復し、アフガニスタンに住んでいたオサマ・ビンラディンにも会い「アルカイダ」のテロリスト育成に協力したと報じられている。サイード・シェイクはこっそり生活していたのではなく、堂々とパキスタンの当局者と交流しながらテロ支援しており、英MI6も米CIAもそれを知りつつ、何もしなかった。

 911後、サイード・シェイクがモハメド・アッタに送金していたことが報じられたが、この後、サイード・シェイクはMI6ではなく、パキスタン当局(ISI)のエージェントとして米英のマスコミで描かれるようになり「911はISIが起こした」と糾弾されるようになった。米英のマスコミでは、サイード・シェイクがMI6だったことは出てこなかった。

 その後、ISIばかりが悪者扱いされていることへの抵抗として、パキスタンのムシャラフ大統領は06年9月に「サイード・シェイクはもともとMI6のエージェントだった」と暴露した。(関連記事

 ISIは、パキスタンを植民地から独立させた英当局の肝いりで作られ、80年代にソ連がアフガニスタンを占領していた際には、CIAとMI6がISIをテコ入れし、パキスタンやアフガニスタンのイスラム主義者を動員してゲリラ戦をやらせていた。MI6は長兄、CIAは次男、ISIは三男という関係である。「一度CIAに入ったら、一生CIA(Once CIA, always CIA)」という格言もある。暴力団や警察官の世界と同じで、一度入ったら、完全に抜けることはできず、死ぬまで関係者である。サイード・シェイクはMI6からISIに転向したのではなく、MI6を長兄とする諜報の世界で生きていた。

(ほかに兄弟機関としてイスラエルのモサドもあり、MI6とCIAは、イスラム主義のISIと、イスラム主義の敵であるモサドの両方を弟分として持っているところが、国際諜報の世界の複雑さであるとともに、ダイナミズムである)

 その後サイード・シェイクは2002年に、ウォールストリート・ジャーナル(WSJ)のパキスタン駐在記者を誘拐・殺害した容疑で逮捕され、死刑判決を受け、勾留されている。

(WSJがネオコン系の新聞である。ネオコンは、国防総省を支配し、アメリカの諜報機能をCIAから奪って国防総省に集中させようとしたり、イギリスの巧妙な外交戦略に協力するふりをして軍事偏重にして失敗させたり、欧米協調を破壊した「単独覇権主義」を振り回したりした「隠れ多極主義」である。MI6の財産だったサイード・シェイクが、WSJ記者殺害の罪で消された背景には、アメリカの隠れ多極主義勢力が、イギリスによる諜報を使った巧妙な世界支配をぶち壊そうとしている動きがあると感じられる。確証はないが)

▼世界的な諜報独裁体制を作る

 911事件は、米当局がテロ発生を黙認しない限り、起きなかった事件である。当日の防空体制は、ハイジャック機が貿易センタービルに突っ込む直前まで、なぜか機能していなかった。事件後は、真相をうやむやにする小細工的な措置が、米政府によっていろいろと採られている。そのことと、モハメド・アッタに送金していたり、テロリスト養成を手伝ったりしていたサイード・シェイクがMI6のエージェントだったことを合わせて考えると、911事件は、米英の諜報機関が画策し、発生を誘導した事件だったと考えられる(パキスタン当局も協力した)。(関連記事

 911事件後「テロ戦争は40年続く」「100年続いても不思議ではない」といった言説が、米英当局の関係者から発せられていることから考えて、911事件から始まった「テロ戦争」は、米英の諜報機関が「アルカイダ」という実体不明のテロ組織を動かし、テロ組織と、テロと戦う当局という敵味方の両方を、米英諜報機関が操り、冷戦をしのぐような、長期的な世界支配を試みる企画だったのではないかと考えられる。

 米英諜報機関は、ある程度以上の人数のイスラム教徒が住んでいる国で、イスラム社会にアルカイダの思想を吹き込んでテロ組織を作る。そして、その国の政府に「貴国にはアルカイダがいるので対策が必要だ」と言って、その国の諜報部門に介入し、国家機密などにアクセスしてしまう。その国の政治家が抵抗したら、アルカイダにテロを起こさせる。世界中の国々の諜報機関をおさえることで、米英は「諜報独裁」ともいうべき長期的な世界支配が可能になる。

 テロ戦争を戦略として考えると、以上のようなものになるが、実際には、テロ戦争は成功していない。それはアメリカ政府が911以降、テロ戦争とは似て非なる、奇妙な自滅的な言動を繰り返したからである。ブッシュ政権は、テロ戦争を「軍事力による民主化」とすり替え、世界のイスラム教徒を反米で団結させ、アフガンでもイラクでもパキスタンでも失敗し、テロ戦争を米英の敗北へと誘導している。加えて米政府は、同盟国不要論である「単独覇権主義」を宣言し、米英が協調して世界を支配する体制を破壊した。

 このような展開を見て、私はこれまで「911以来、アメリカの中枢で、好戦派と現実派、隠れ多極主義者と米英中心主義者が暗闘し、好戦的な隠れ多極主義者が勝っているのではないか。911は米英中心主義者による戦略で、その後の自滅は隠れ多極主義者の戦略ではないか」などという仮説を考えてきた。

▼クリントンの南アジア安定化策を潰したイギリス

 ところが今回、パキスタンのブット元首相の暗殺を機に、この記事を書くことを考え、年末から考察を重ねているうちに、実は911とその後のテロ戦争は、アメリカがイギリスを騙して巻き込み、米英中心の世界体制を崩壊させる大がかりな作戦だったのではないか、という新しい仮説を考えるに至った。少し歴史をさかのぼり、1990年代のクリントン政権時代の戦略から説明する。

 1993年から2001年までのクリントン政権は、経済的には米英中心主義で、ニューヨークとロンドンを世界の金融中心として機能させ、米英両方を儲けさせたが、軍事的には、イギリス好みの冷戦体制や世界分割支配を終わらせて世界を安定化し、アメリカの軍事負担を減らそうと試みた。1994年には、パキスタンのISIがタリバンを結成させ、パキスタンの影響下でタリバンがアフガニスタンを再統一することを容認した。クリントンは1999年には、インドとパキスタンの間の和解を試みた。

 これらのアメリカによる安定化策は、イギリスにとって大きな迷惑だった。イギリスは、第二次大戦後にインド植民地を放棄した後も、この地域をインドとパキスタン、アフガニスタン、バングラデシュなどに分裂させた上で影響力を行使する間接支配戦略を採っていた。印パ間にはカシミール問題が残され、双方のナショナリズムが問題解決を不能にする体制が作られている。アフガニスタンとパキスタンの国境(デュアランド線)は、アフガニスタンの主力民族であるパシュトン人の居住地域が分割されるように引かれ、パキスタンは常に辺境地域の反乱に悩まされ続けて弱いままで、イギリスの影響下から出られなかった。

 クリントンのアメリカは、これらのイギリスが作った間接支配のためのタブーを破壊し、パキスタンがタリバンを使ってアフガニスタンを影響下に置いて安定させることを黙認する一方で、パキスタンにカシミール問題で譲歩させ、印パ間を和解させようとした。

 これに対してイギリスは、MI6などがパキスタンのイスラム主義を扇動し、カシミール問題でインドに譲歩するのは絶対ダメだという世論を作った。MI6のエージェントだったサイード・シェイクによる、インドのイスラム教徒の過激化を扇動する作戦や、アフガニスタンでのテロリスト養成は、その一環だった。

 イギリスの策動の結果、アメリカに誘われてインドと和解交渉していたパキスタンのシャリフ首相は、1999年にイスラム主義者の反乱に負けて辞任し、代わりにイスラム主義者の支持を受けてクーデターを起こした軍のムシャラフ将軍が政権を奪取した。クリントンの南アジア安定化策は失敗した。(関連記事

▼クリントンが左からやって失敗したことを、ブッシュが右からやる

 その後のアメリカは、逆に、イスラム主義者のテロ活動を扇動するイギリスの戦略に乗る傾向を強め、2000年以降、アメリカのマスコミでは「イスラム原理主義のテロがいずれ起きる」といった特集がよく組まれるようになった。

 分割支配戦略のイギリスは、パキスタンの影響下でアフガニスタンが統一されることを嫌がり、タリバンを「人権侵害」「女性差別」の観点から攻撃する世界的プロパガンダを展開したが、アメリカはこれにも乗り、アフガニスタンの反タリバン勢力を糾合した「北部同盟」の結成にも力を貸した。これらの流れの末に911事件が起こり、米英軍はアフガニスタンに侵攻してタリバンを打ち破った。首都カブールには、反パキスタン的な米英傀儡のカルザイ政権ができ、イギリスの分割支配が戻ったように見えた。

 しかし、実はアメリカは「クリントンが左からやって失敗したことを、ブッシュが右からやっている」だけだった。クリントン政権は正面から印パの指導者に働きかけて和解させようとしてイギリスに邪魔されたが、この教訓を受けたブッシュ政権は、イギリスの戦略に協力するふりをして意図的に過激にやりすぎ、イギリスの戦略を破綻させている。(ブッシュは、イスラエルに対しても同じ手法を採っている)

 テロ戦争は、諜報機関を使って世界各国の内政に介入する点ではイギリス風の戦略だが、イスラム対欧米という二元論の対立の構図にしてしまったのは全くの失敗で、二元論的な戦略を出したのはアメリカである。そもそもテロ対策を「戦争」と銘打った最初の時点から、軍事的にやりすぎて破綻する方向性が始まっていたともいえる。イギリスは昨年末「テロ戦争」という用語の使用停止を公式に決めた。(関連記事

 アメリカは911直後のアフガン戦争でタリバンを破り、イギリスの望みをかなえてやったが、ここにも大きな落とし穴があった。米軍は2002年初めにタリバンに勝ってから、06年までアフガニスタンを軍事占領し、全土をほぼ安定させたということで、占領をイギリス主力のNATOに引き継いだ。アメリカはイラクで苦戦して過剰派兵になっており、アフガンでの負担を軽減するしかなく、イギリスはアフガンを失わないためにも引き受けるしかなった。

 イギリスは、一国では軍事的にアフガニスタンを支配する力がなかったので、ドイツやオランダ、カナダなどのNATO諸国を巻き込み、NATOがアフガン復興を手がけるといううたい文句で、米軍からアフガン駐留を引き継いだ。ドイツやカナダなどNATO諸国は、タリバンはアメリカが完全に潰しており、もはやタリバンと戦う必要はなく、アフガンの復興を手伝うだけで良いというイメージで、軍隊をアフガンに派遣した。

▼イギリスのアフガン占領延命策を妨害するアメリカ

 タリバンは、米軍のアフガン侵攻によって一度は打ち負かされたが、蹴散らされて山中にこもっただけで消滅していなかった。NATO軍がアフガン占領を開始すると、タリバンは待っていたかのようにゲリラ戦を激化し、NATOは窮地に立たされた。(関連記事

 ほとんど戦う準備もなく進駐したNATO軍は、各地でタリバンに包囲され、兵舎から出られない状態になった。アフガンの国土の4分の1は、昼はNATO支配下、夜はタリバン支配下という状態だ。英独カナダなどの国民や議会は「戦闘」ではなく「復興支援」のイメージでアフガン派兵を了承していたので、戦闘で自国の兵士が一人でも死ぬと、一気に反戦気運が高まった。政府は自国兵士が死ぬと支持率が低下するので、NATO軍はますます陣地に引きこもり、外に出なくなった。ドイツ軍は、闇夜で襲撃されることをおそれ、午後3時に戦闘を打ち切って日暮れ前に陣地に戻り、夜は兵舎でビールを飲んで過ごしている。(関連記事

 すでにNATO軍は、アフガンで勝てる見込みがほとんどない。イギリスは、MI6要員や外交官をタリバン側に派遣して一時的な停戦交渉を重ね、何とかNATOの駐留を維持している。イギリスは07年夏には、アフガニスタンの各勢力と、パキスタン側のパシュトン人(アフガン系)の各種勢力を集めて、大きな和平会議(ジルガ)を開き、そこにパキスタンのムシャラフ大統領も参加させている。戦闘すると負けて撤退せねばならなくなるので、イギリスは、何とか戦闘を避けながら、アフガン支配を維持しようとしている。(関連記事

 またイギリスは、アフガニスタン駐在の国連とEUとNATOの代表を一人に統合する「アフガン総督」的なポストを作り、そこにMI6の要員だと疑われている、イギリスの外交官出身の政治家アシュダウン卿(Paddy Ashdown)を据えようとしている。(関連記事

 アメリカは表向き、イギリスの戦闘回避戦略に賛同している。しかし実質的には、好戦的な戦略を掲げ続け、タリバンとの敵対も緩和する気はなく、イギリスの戦略を潰しにかかっている。アメリカは、イギリス系の要員がタリバンと交渉し続けていることを嫌い、傀儡であるアフガニスタンのカルザイ政権を動かして、タリバンとの交渉の主役である2人の外交官(一人はイギリス人、もう一人はアイルランド人でEUから派遣)を、最近アフガンから追放してしまった。(関連記事

 またアメリカは、米軍の特殊部隊をパキスタンのアフガン国境近くのパシュトン人地域に派遣して戦闘させる計画も表明している。これも、アフガン・パキスタン双方のアフガン系の勢力を怒らせ、イギリスによる交渉を潰す方向の動きになっている。(関連記事

 アメリカのネオコンは「パキスタンはイスラム主義で欧米の敵になっているので、米軍を侵攻させ、3つに分割してしまえ」と主張している。ネオコンは以前には、サウジアラビアを3つに分割して制裁する案を出していたが、これはサウジ人の反米感情を高め、サウジをアメリカから遠ざける効果を持った。(関連記事

 ネオコンは、イスラム諸国をことさら敵視し、イスラム世界の親米勢力を反米勢力に転じさせ、米英の覇権を自滅させる努力を続けている。イギリスは、強硬姿勢と柔軟姿勢をうまく使い分けて、支配を持続しようとしているが、アメリカは強硬姿勢だけを貫き、イギリスの支配を失敗に誘導している。

▼ブットを送り込んでムシャラフを弱体化させる

 すでに述べたように、タリバンはパキスタンの諜報機関ISIに支援された勢力である。911後、米英はパキスタンにタリバン支援を禁じていたが、ISIはこっそりタリバンを支援し続けてきた。NATOがアフガン占領に失敗して撤退せねばならなくなった場合、その後のアフガンは再びタリバンの政権になるだろうが、タリバンの背後にいるのはISIを筆頭とするパキスタンである。NATOが負けるにつれて、アフガニスタンはパキスタンの傘下に戻っていく。これはイギリスにとって、食い止めねばならない流れである。

 ISIは、911まではMI6やCIAの忠実な弟分だったが、その後のテロ戦争で米英がイスラム主義を敵視し、ISIもイスラム主義者の一味と見られている。米英がテロ戦争に失敗してアフガンから撤退するなら、その後のISIはもはや米英の弟分ではない。むしろサウジアラビアやイラク、イランの反米イスラム主義者と組んで、イスラム世界から米英を追い出して影響力を拡大しようとする勢力の一つになりつつある。(関連記事

 イギリスは、アフガニスタンでタリバンとともに伸張しそうなパキスタン(ISI)を抑えるため、パキスタンの政権を弱体化する戦略も開始した。これが昨年展開された、イギリス亡命中のベナジル・ブット元首相をパキスタンに戻し、ムシャラフ大統領と組む首相にさせる戦略だった。ブットがパキスタン政界に返り咲く構想は2005年ごろからあり、ムシャラフは米英からの非難を緩和するために、この構想に乗ったが、ブットはムシャラフが軍籍を離れることや、ISIの力を弱めることを要求したため、ブットとムシャラフの連立政権交渉は結局破綻した。(関連記事その1その2

 ムシャラフは昨年10月の大統領選挙(間接選挙)で何とか再選され、その後、軍人の大統領続投は憲法違反だと主張する最高裁判所のチョードリ判事を解任するために、ムシャラフは11月に非常事態を1カ月半敷いた。ムシャラフは、大統領再選が確定できたので、12月15日に非常事態を解除、1月8日に予定されていた総選挙に向けた選挙戦が開始されたが、選挙期間中の12月27日にブットが暗殺された。

 それ以前、07年にはムシャラフを政権から追い落とそうとする政治運動がいくつかパキスタンで展開されたが、その中には、グルジアやウクライナなどで、米英の支援によって展開された「カラー革命」とよく似た風合いのものがいくつかある。カラー革命は、反米的な政権の国で、米英の諜報機関から訓練を受けた人々が、市民運動を装った反政府運動を展開し、政府を倒してしまう、民主化運動を装った米英による政権転覆作戦である。(関連記事

 パキスタンでは07年3月、ムシャラフが自分の大統領再選を阻止する判決を出した最高裁判事を罷免したことに対し、法曹界や学生らが反政府運動を展開したが、これらは即席の反政府運動だった割に、非常によく準備されており、しかも組織の実体が不明で、既存の法曹団体や学生団体が率いていたものではなかったため、米英の諜報機関が背後で準備したカラー革命型の運動だと指摘されている。(関連記事

▼米英が去ってイスラム主義になった方が安定する

 パキスタンでは1月の総選挙を2月に延期して行う予定で、その選挙でブット家の政党(PPP)や、11月に亡命から帰国したシャリフ前首相の政党(PML−N)が勝って連立政権を組み、ムシャラフの政党(PML−Q)が破れ、政権交代が起きるかもしれない。

 しかし、暗殺されたブットの跡を継いで事実上PPPを仕切っているブットの夫(アシフ・ザルダリ)は、以前に妻が首相だった時代に、政府の事業を受注する業者に受注総額の10%の賄賂を要求し「ミスター10%」と呼ばれた男である。シャリフも、首相時代には非常に腐敗しており、ブットもシャリフも、腐敗が原因で国民から愛想を尽かされて首相を辞めた経緯がある。

 パキスタンの政治は、軍とイスラム主義勢力をおさえない限り、安定した統治はできない。軍をおさえ、イスラム勢力も何とかおさえているのはムシャラフだけである。そのこともあって、ブット家とシャリフが連立しても、パキスタンを安定させられるとは考えにくい。

 イスラム諸国では、国内が混乱するほどイスラム主義が強くなる。パキスタンでも911以降、イスラム主義が強くなり、国民の多くは「イスラムに基づいた民主主義をやりたい」と考えている。もともとパキスタンで強かった、親米英の世俗的(非イスラム主義)リベラル派は、急速に弱くなっている。ムシャラフが政権を維持できても、できなくても、パキスタンは反米イスラム主義の傾向を強めていく可能性が大きい。(関連記事

 イスラム世界を怒らせて反米にする隠れ戦略を採っているアメリカも、イスラム世界を分裂させて傀儡政権を置いて支配し続けようとしているイギリスも、どちらもパキスタンや中東イスラム諸国から追い出されていく方向にある。米英が追い出されてイスラム主義が席巻した方が、むしろイスラム世界は安定すると考えられる状態にまでなっている。今は過激な考えをしているイスラム主義者は、米英が去った後は、現実的な考え方をするようになるだろう。インドとパキスタンの関係も、イギリスが南アジアから追い出され、分断支配戦略が消えた後の方が好転しやすいといえる。

 今回の記事のもう一つのテーマである、米英関係の諜報的な深層については、分析が難しい。米も英も、互いに協調するふりをして、相手を自国の戦略の中にはめこもうと暗闘している。諜報機関は米英ともマスコミ操作が非常にうまいので、マスコミ報道やウェブログでの分析も鵜呑みにできないが、これらの情報を全く無視して考察することもできない。諜報関係者に直接話を聞いても、その話が歪曲されている可能性が高いので、いわゆるジャーナリズムの「現場主義」も通用しない。「直接話を聞いたのだから正しい」という軽信に陥りやすい。

 分析は難しいのではあるが、911以来の米英の動きをずっと見てくると、もはや「米英は一枚岩だ」という従来の常識を信じ続けることは、どう考えても間違いである。しかし、一枚岩でないのなら、どのような関係なのか。米英双方の真の目標は何なのか。特に、アメリカはなぜ奇妙な自滅策を繰り返すのか。来年、米政権がブッシュから代わったら自滅策は終わるのか。見えないことは多いのだが、実は米英関係の深層が、国際情勢の「奥義」であることは、しだいに確かなものになってきている。多くの人には、いまだに珍説扱いされているのではあるが。



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