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レバノンの暗殺と中東再編

2006年11月28日  田中 宇

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 11月21日、中東のレバノンで、産業大臣をしていたピエール・ジュマイエルが暗殺された。2005年2月にハリリ元首相が暗殺されて以来の20カ月間に、レバノンでは主要な政治家が暗殺され続け、犠牲者はこれが5人目である。(関連記事

 暗殺された5人はいずれも、隣国シリアがレバノンを隠然と支配していることに反対していた。そのため今回も、ハリリの暗殺時と同様に「シリアがやったに違いない」という見方が、欧米マスコミに流れている。ブッシュ大統領も今回の暗殺の後、シリアとイランがレバノンを不安定にしていると非難した。(関連記事

 とはいえ、今回の暗殺の犯人ではないかと世界のメディアで疑われている勢力は、シリアだけではない。むしろ「今の国際情勢から考えると、シリアが犯行に及ぶとは考えにくい」という説が強い。(関連記事

 暗殺事件が起きる直前、アメリカでは中間選挙での共和党敗北とイラク占領の混乱激化を受け、ブッシュ政権に対して「シリアやイランを敵視することをやめて、イラクの再建に協力してもらうことで、米軍が早くイラクから撤退できるようにすべきだ」と求める意見が、アメリカの政界や言論界からさかんに出ていた。(関連記事

 シリアのアサド政権は、2005年のハリリ暗殺で犯人扱いされ、アメリカのネオコンやタカ派から「シリアを政権転覆すべきだ」という主張も出され、サダム・フセインのようにアメリカにつぶされる懸念が大きかった。その後、アメリカのイラク占領が失敗したことで、シリアは何とかアメリカにつぶされずにすみそうな情勢になり、アメリカから敵ではなく交渉相手と見なしてもらえそうな状況になってきた。

 ジュマイエルが暗殺された日には、シリアの外相がイラクを訪問し、25年ぶりにシリアとイラクの国交が正常化されている。イラク政府はアメリカの傀儡色が強いから、アメリカの承認がなければ、この国交正常化は実現しなかったはずで、その意味ではすでにアメリカは「イラク占領の泥沼を救ってもらうため」という名目で、シリアを許し始めていることが感じられ始めていた。(関連記事

 そんな中で、シリアがレバノンの政治家を暗殺したら、シリアにとってはハリリ暗殺の時の悪夢が繰り返されることになる。そんな自滅的なことを、シリアがするとは考えにくい。イスラエルの新聞ハアレツですら、シリア犯人説を疑う解説記事を出している。(関連記事

(隣どうしのシリアとイラクは、もともとバース党のシリア支部とイラク支部が政権をとり、仲が良かったが、サダム・フセインが1979年に権力中枢のクーデターで大統領になると、国家方針をそれまでの親ソ連から親米に大転換させ、アメリカの仇敵イランに戦争を仕掛けるとともに、親ソ連を貫いていたシリアと断交した。「フセインはアメリカのエージェントだったが、最後はアメリカに見捨てられた」という見方が、中東では根強い)

▼イスラエル犯人説

 シリアが犯人でないとしたら、誰が犯人なのか。名前が挙がっているのはイスラエルである。レバノンでは1970年代以来、シリアとイスラエルが影響力の競争をしてきたが、今夏の戦争でイスラエルがレバノンのシーア派勢力ヒズボラを倒せなかったため、ヒズボラの力が強まり、イスラエルは不利になっている。この不利を挽回するため、以前からレバノンで活動しているイスラエルの諜報機関がジュマイエル暗殺に動き、欧米マスコミ内部の親イスラエル勢力がシリア犯人説を声高に叫んでいるのではないか、という説である。(関連記事

 イスラエルが犯人であったとしても、それはイスラエル政府のトップダウンの組織的犯行だということにはならない。イスラエルの軍や諜報機関の内部には、自国を不利にしてしまう自滅的な行為をする右派の勢力がいる。彼らは、今夏のレバノンでのヒズボラとの戦争の際にも、本来は反ヒズボラの意識が強かったレバノンの一般市民の社会インフラを破壊し、撤退直前に国際法違反のクラスター爆弾を120万個ばらまいたりして、イスラエルを世界の嫌われ者にしてしまうことをやっている。(関連記事その1その2

 イスラエル軍の諜報機関は、ヒズボラの地下基地の場所を知っていたのに、その地図を軍の現場司令官に見せず、軍の作戦が失敗する一因を作ったことも、戦争後に暴露されている。(関連記事

 自国の軍事作戦を失敗させてしまう特殊部隊や諜報機関の勢力は、イスラエルだけでなく、アメリカやイギリスにもいて、彼らのせいで、イラク占領は失敗し、アルカイダはいつまでも正体不明のままになっている。アメリカのアメリカのネオコンやチェイニー副大統領は、彼らの一味であると考えられる。歴史的に、英米イスラエルの諜報機関は、イギリス軍の諜報機関(今のMI6など)を組織的な原点としており、半ば国家の枠を超えた秘密組織になっている。

 ドイツのヒットラーや戦前の日本を引っかけて大敗北させたのは、この米英の諜報機関の作戦であろう。ソ連を扇動して冷戦に持ち込んだのも、彼らが関係している。この軍事諜報組織のおかげで米英イスラエルは戦争に強いといえる半面、この組織のせいで米英イスラエルは「戦争中毒」から逃れられない。昨今は、この組織が、米英イスラエルを自滅させて世界を多極化することに貢献しているように見える。(関連記事

 イスラエル犯人説は、レバノンで昨年ハリリ元首相が暗殺された際にも出てきたが、それはアメリカの反シオニスト系の国際政治分析ウェブログなどに書かれるぐらいで、完全に少数意見だった。しかし今回のジュマイエル暗殺では、世界のマスコミで、かなりはっきりとイスラエルに対する嫌疑が出てきている。イスラエルは、この2年弱の間に、かなり悪者にされてしまっている。反イスラエルの傾向が強い衛星テレビ「アルジャジーラ」の英語放送も最近始まった。(関連記事

▼イラク戦争の尻馬に乗って反シリア派に

 今回暗殺されたジュマイエルは、レバノンのマロン派キリスト教徒であり、その中でも主要な政党の一つである右派の「ファランジスト党」を作った一族の人だ。レバノンは、19世紀までイスラム教のオスマン・トルコ帝国の領土だったが、マロン派キリスト教徒がオスマン帝国に対して自治権を要求した際、フランスがこれを支援し、それ以来フランスはマロン派を最も重視してレバノンを支配した(マロン派はフランスと同じカトリック系)。

 レバノンの政治エリートであるマロン派の中でも、ファランジスト党は極右のファシスト系である。今回殺されたジュマイエルの祖父が若いころ、1936年にナチス政権が行ったドイツのベルリンオリンピックを見に行き、ファシズムのナチスの組織力、結束力に感動し、レバノンに帰ってファランジスト党を作った。(関連記事

 今のレバノンは、マロン派のほか、スンニ派イスラム教徒、シーア派イスラム教徒などが主要な勢力であり、移民の流入などによってマロン派は最大勢力ではなくなり、最近では人口比率はシーア派35%、スンニ派22%、マロン派20%であり、民主主義の原則からいうとマロン派はすでに少数派なのだが、フランスが作った政治制度がまだ生きており、かつて政治力が最も強かったマロン派が大統領、次に強かったスンニ派が首相、政治力が弱かったシーア派は国会議長という割り振りが、今も続いている。(関連記事

 1980年代の内戦で米仏とイスラエルが負け、レバノンはシリアの影響下に置かれたが、シリアは、フランスが作った政治システムを破壊せず、隠然と換骨奪胎した。ジュマイエル家のファランジスト党は、2代目のバシール・ジュマイエル(今回殺されたピエールの父)が1982年にレバノン大統領に選出された直後に暗殺され、それ以来ジュマイエル家の指導力が低下して内部分裂していたが、党内の勢力の一部がシリアに接近し、ファランジスト党はシリアの影響下で再建された。(関連記事

 このような、目立たず時間はかかるがリスクの少ないやり方で、シリアはレバノンでの影響力を強化した。ジュマイエル家も、05年に暗殺されたハリリ元首相も、シリアが支配的だった時代には、反シリア的な言動を避けていた。それが変わったのは2003年にアメリカがイラク侵攻し、ブッシュの中東民主化の一環でシリアも政権転覆の対象にされてからである。

 04年ぐらいからレバノンではシリアを追い出す「民主化」運動が盛んになり、05年2月のハリリ暗殺後、アメリカがこの運動を積極支援するようになり、シリア軍はレバノンから撤退した。マロン派の守護者であるフランスは再びレバノンに介入し、もともとファシストのジュマイエルも反シリア色を強めて「民主主義の推進者」になった。

▼フランス式の政治体制を壊すヒズボラ

 だが、親欧米のマロン派が強い時代は、今夏のヒズボラとイスラエルの戦争によって終わった。ヒズボラがイスラエル兵を捕虜にしたという小競り合いから始まった7月の戦争は、イスラエルによる無差別的な攻撃と、アメリカが親イスラエルの立場を表明し、フランスなどEUは停戦せよと言うばかりで何もできなかった。レバノンの世論は、反米反イスラエルになり、イスラエルと戦って負けなかったシーア派のヒズボラに対する支持が急騰した。戦後の復興も、レバノン政府よりヒズボラの方が早く着手した。(関連記事

 ヒズボラは、シリアとイランから支援されているので、本来は反ヒズボラであるはずのマロン派キリスト教徒の指導者の中からも、イスラエルとアメリカに対する怒りから、ヒズボラを公然と支持する勢力が表れた。(関連記事

 その後、最近になって、中間選挙後のアメリカで、イラクからの撤退が必要だとか、その際にシリアやイランに協力を仰がねばならないといった主張が強まり、レバノンの反シリア派の後ろ盾だったアメリカが中東から撤退し、代わりにイランやシリアの影響力が強まりそうな流れが明確になってきた。シーア派のヒズボラは、この機会をとらえ、レバノンにおける人口比率ではシーア派が最大派閥(35%)なのに、100年前にフランスが決めて以来の現行の政治システムでは小さい権力(国会議長)しか持っていない状況を変えようと動き出した。(関連記事

 米の中間選挙から6日後の11月13日、レバノン政府の閣僚のうち、ヒズボラとアマル(シーア派の左翼系組織)が政府に送り込んでいた6人の閣僚が辞任した。この辞任の直接のきっかけは、レバノンの親欧米のシニオラ首相が、05年のハリリ前首相の暗殺事件について、国際法廷を開くことを国連に要請することへの抗議で、ヒズボラの後ろ盾であるシリアがハリリ暗殺の犯人扱いされることに抗議する辞任だった。(関連記事

 だがもっと深い意味としては、この辞任は、ヒズボラを中心とするレバノンの反欧米派(親シリア・イラン派)が、これまでレバノン政界を握ってきた親欧米派を追い出そうとする動きの始まりである。ヒズボラは、今夏のイスラエルとの戦争で増えた自派に対する支持を政治力につなげようと、レバノン政府に選挙の実施を求めている。(関連記事

 フランスが100年前に敷いたレバノンの現政治体制は、実際の人口比に関係なくマロン派の優位が決まっている。レバノンではこの体制を守るため、もう長いこと人口調査が発表されず、ゆがんだ制度になっている。ヒズボラをテロ組織扱いするブッシュ政権にとっては皮肉なことに、ヒズボラがレバノンの有権者の過半数に支持されて政権をとるのは、フランス式のゆがんだ制度よりも「民主的」である。

(この現象は、パレスチナで民主的な選挙をやったら反米のイスラム原理主義のハマスが勝ってしまったのと同じだ)(関連記事

▼アメリカの撤退とイランの台頭

 今のところ、ヒズボラを支持する勢力は、レバノンの有権者の過半数には届いていないようだが、中東からアメリカの影響力が減退し、それと対照的にイランの影響力が強まる状態が今後も続けば、レバノンでの政治状況も変わる。すでにアメリカの有力なシンクタンク「外交問題評議会」は、アメリカの中東支配は終わりに向かっているという分析を発表している。(関連記事

 イランはすでに、イラン・シリア・イラクという3カ国同盟を結成するためのサミットを準備している。11月26日に予定されていたサミットは、ジャマイエル暗殺犯人に名指しされたシリアがアメリカの怒りを恐れて出席を見送ったため実現しなかったが、いずれ実現するだろう。3カ国同盟ができ、レバノンでヒズボラの影響力が強まれば、イランは、イスラエルのすぐ北隣までを明確な影響圏として拡大することになる。イスラエルにとって、これはイランの「核開発」より、はるかに深刻な脅威である。(関連記事

 イランは、サウジアラビアなどペルシャ湾岸諸国に対しても、集団安全保障条約を結ぼうと持ち掛けている。中東でのアメリカの影響力が減退したら、サウジなどアラブの親米諸国も、以前のようにアメリカが求めるままにイランを敵視するより、イランと和解した方が自国の安全につながると考えるだろう。サウジの場合、イランとの敵対を激化させると、国内の油田地帯に住むシーア派住民にイランが影響力を行使して反政府的な運動が扇動される懸念もある。(関連記事

 イスラエルの新聞には、中東からアメリカが引いてイランの力が強まる前に、シリアやレバノンとの関係を改善しておくべきだという主張も載っているが、そのような冷静な論調は少数派だ。むしろ、イランが強大になる前に、イランの核施設に「先制攻撃」を仕掛けた方が良い、という論調が強い。(関連記事

 イランが核兵器を開発している兆候はないというのは、国連や米CIAも認めているところであり、イスラエルはイランを先制攻撃する必要などまったくない。好戦的な論調は、イスラエルを不必要に自滅に近づけている。(関連記事

 イスラエルがイランを攻撃し、アメリカを戦争に巻き込むことに成功したら、イランの政権は崩壊するかもしれないが、その場合、アメリカは今よりひどいゲリラ戦の泥沼にはまって自滅を早め、イスラエルの滅亡も早まる。(関連記事

 中東のイスラム世界は、イランを中心に再編されつつある。そしてその一方で、イスラム世界を支配する側だったアメリカ、イギリス、フランスとイスラエルは、追い出される方向にある。これは、世界の多極化の一環をなしている。

▼パレスチナ問題が急に好転?

 今回の記事は、ここで終わりにしようと考えていたのだが、記事を書いた後に最新の情勢を見てみると、ここ数日で、EUが提案した和平案にイスラエルが乗り、イスラエル軍は侵攻していたガザから撤退して、ハマスとの間に5ヵ月ぶりの停戦が実現している。(関連記事

 提案はEUの中でも、スペイン、イタリア、フランスという地中海に面した3カ国が11月16日に発表した(3カ国は、中東を含めた地中海地域全体をEUの影響圏と考えている)。イスラエルは従来、アメリカの言うことしか聞かず、EUの提案など無視するのが常で、今回も当初は提案を一蹴したが、その後態度が軟化した。オルメルト首相は11月27日に「真の和平の実現と引き換えに、占領地から入植地を撤退させ、パレスチナ国家の建設を容認する」と演説している。(関連記事

 パレスチナ問題では、これまでに何回も「和平案」が出され、世界の期待が集まったが、結局すべて頓挫している。私は何度も「和平が実現しそうだ」と書き、そのたびに「また予測が外れましたね」と読者から揶揄されるので、もはや和平案が出されても期待をかけないようにしている(イラクからの「撤退案」も同様だ)。

 しかし、今回は違うかもしれない。エジプトのムバラク大統領は、EUの提案に期待を表明している。11月29日にヨルダンを訪問するブッシュ大統領は、イラクのマリキ首相とは会ってイラク問題の解決を考えるが、パレスチナ問題についてはイスラエル・パレスチナのどちらの指導者にも会わないことになっていた。しかし、11月27日に突然予定が変更され、パレスチナのアッバス議長(大統領)と会うことになった。(関連記事その1その2その3

 イスラエルにとって、これが和平を実現する最後のチャンスになるかもしれない。パレスチナ問題が解決されれば、イスラエルが国家として存続できる可能性が一気に高まるが、解決できないままイランなどとの対立が深まれば、イスラエルは終わりである。



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