ウォール街と中国2006年7月14日 田中 宇ブッシュ政権に、世界を多極化する戦略の「真打ち」が登場した。7月10日、財務長官に就任したヘンリー・ポールソンである。 ポールソンはこれまで7年間、米大手金融機関ゴールドマンサックスの会長をしていた。その間、彼が最も力を入れていたのは中国ビジネスだった。彼は10数年前に中国ビジネスに関わり始めて以来、中国を70回以上訪問し、中国の要人たちとも懇意にしていると報じられている。(関連記事) ポールソン会長の中国への肩入れにより、ゴールドマンサックスは2005年以来、中国の企業が、アメリカなど世界の証券市場で債券発行や株式上場を行うとき、その手続きを、世界のどの金融機関よりも多く引き受けている。同社は、アメリカで最も有力な投資銀行の一つだが、その利益の中心は、中国の経済成長を源泉としている。同社の経営者として、ポールソンは、中国の経済成長が今後も持続することを強く望んでいたはずである。 これまで財務長官だったジョン・スノーについては、半年以上前から、そろそろ辞めるのではないかという観測記事が出ていた。その理由の一つは、スノーの大きな役目が中国政府に人民元の切り上げ圧力をかけることだったのに、中国はなかなか人民元を切り上げなかったからである。アメリカ対する最小限のおつき合いとして、2%ほど対ドル為替の管理相場を上げただけだった。 ブッシュ大統領が、スノーの後任を探すにあたり、最も重視したのが、中国との話をつけられる人材という点だった。それで、中国の要人と親密な仲であるポールソンに白羽の矢が立ったが、ブッシュ政権の人気が下がり続けていたので、ポールソンは当初、就任要請を断っていたと報じられている。 ポールソンにどうしても就任してほしいブッシュ大統領は、これまで政権内で比較的軽視されるポストだった財務長官の地位を、国防長官や国務長官と同等まで引き上げるという好条件をつけた。それでポールソンは、就任を引き受けたという。(関連記事) ▼目標は大プラザ合意の実現? ブッシュ政権は、経済面で難問をたくさん抱えている。財政赤字・貿易赤字という双子の赤字の問題が最大のもので、年金改革などの問題もある。アメリカでは従来、2期目の大統領の後半というのは、それまでの6年間でこじれ、どうしようもなくなっている問題が多く、それはブッシュ政権でも例外ではない。財務長官をつとめるには時期が悪い。 今年は一時的に税収が増えて財政赤字が減りそうだが、来年からはまた赤字増に戻ることが予測されている。米国内の製造業の空洞化で、貿易赤字も減りそうもない。ポールソンは、自分がやったわけでもないのに、これらの責任をとらされ、いずれ議会やマスコミから非難されるおそれがある。しかも、ゴールドマンサックス会長の年収は4千万ドル(45億円)だが、財務長官の年収は18万ドル(2千万円)である。(関連記事) こんな分の悪い仕事をポールソンが引き受けたのは、何か語られていないメリットがあるからに違いない。私が疑っているのは「ポールソンは、中国の経済発展で儲けているウォール街(アメリカの金融業界)を代表して財務長官になり、中国経済の発展を阻害しないかたちで中国人民元の切り上げを実現しようとしているのではないか」ということである。(関連記事) ブッシュ政権は、人民元の問題を、単にドルと人民元との間の為替相場の是正する問題であるとは考えていない。もっと規模の大きな「東アジアや産油国などが貿易黒字を拡大し、アメリカが貿易赤字を拡大しているという、世界的な不均衡を是正すべき問題」の一部であると考えている。以前の記事に書いた、東アジア諸国と産油諸国の対ドル為替をいっせいに引き上げさせる「大プラザ合意」の推進である。 大プラザ合意が成立すれば、人民元だけでなく、日本円、韓国ウォン、サウジアラビア・リヤルその他の産油国通貨など、対米経常黒字を貯め込んでいる多くの国の通貨の全体が、ドルに対して切り上がる。中国が単独で通貨を切り上げるのに比べ、中国の輸出競争力が減退せずにすむ。ポールソンの財務省は、IMFなどと組んで、この大プラザ合意を推進することが期待されている。(関連記事) 「大プラザ合意」は、国際経済の世界におけるドルの単独覇権体制を崩し、多極化された新しい国際通貨体制へと軟着陸させようとするものである。ポールソンはこの動きを推進しそうなので、多極化の「真打ち」が登場したと私は感じている。(関連記事) ▼ネオコンは「前座」だった? ポールソンが「真打ち」であると私が感じているもう一つの意味は、ネオコンは「前座」だったのではないかということである。ネオコンは911後、単独覇権主義を唱えて世界中の反米勢力を活気づけたり、これまで世界の中心に位置していた欧米の同盟関係を破壊したり、イラク占領を泥沼化させてアメリカの軍事力を浪費したりしたが、これは世界を多極化するための「下ごしらえ」だった可能性がある。ネオコンがアメリカの軍事力や外交力を自滅させる画策が一段落したところで、ウォール街から、本格的に多極化を推進する役目のポールソンが出てきたのではないかと私は推測している。 通貨の多極化は1985年のプラザ合意でも画策されたが、対米従属の永続化を望む日本は、アメリカからの覇権の委譲を断り、通貨の切り上げだけを容認したため、円高ドル安は多極化につながらなかった。その一方、プラザ合意で画策された変化の中でも、マルク高ドル安は、数年後のユーロ誕生の動きへとつながり、ユーロがドルに対抗するという基軸通貨の多極化を生んでいる。 ポールソンの人事は、単に一人の金融マンが大臣に抜擢されたという話ではない。ウォール街がアメリカの世界戦略を動かしてきたという、アメリカの隠された国家体制の本質を象徴する出来事である。ポールソンの人事をめぐっては、ゴールドマンサックスの人々が何人も動いている。ホワイトハウスで最初にポールソンを推薦したのは、人事改革を担当しているヨシュア・ボルテンだったが、ボルテンは、ゴールドマンサックスの幹部から、ブッシュ政権の高官へと招かれて、政権の「人事改革」を推進した。ウォール街好みの人事が行われた疑いがある。(関連記事) ゴールドマンサックス時代のボルテンの上司の一人に、同社の副会長をしていたスティーブン・フリードマンがいる。フリードマンは、クリントン政権の財務長官になったロバート・ルービンと一緒に副会長をしていたが、2002年からブッシュ政権の経済顧問になって減税の強化(財政赤字の拡大)を推進し、今はホワイトハウスの「外交情報顧問評議会」のトップをしている。以前の記事で紹介したように、この評議会は、CIAつぶしを画策した黒幕であると指摘されている。CIAつぶしは、アメリカの覇権力の一部である軍事諜報力を自滅させる「多極化」の策動である。(関連記事) ▼昔からアメリカを動かしてきたウォール街 ポールソンは、ブッシュ政権の対中国政策の第一人者として機能すると予測されているが、これまでブッシュ政権の対中政策の第一人者として機能してきたのは、国務省で中国担当の次官補をしていたロバート・ゼーリックだった。ゼーリックも、ポールソンと同様、ゴールドマンサックスの出身である。 しかもゼーリックは、ポールソンの就任と入れ替わりに、国務次官補を辞め、ゴールドマンサックスに国際担当(中国担当)の副会長として戻っている。ゼーリックからポールソンへの交代により、ゴールドマンサックスからブッシュ政権に送り込まれている「中国担当者」の地位は、局長級から、主要閣僚級へと格上げされた。ウォール街の代表であるゴールドマンサックスは、ブッシュ政権の中で「昇進」したのである。(関連記事) ブッシュ政権の中国担当をつとめたゼーリックは、中国を「国際社会の責任者(ステイクホールダー)」の一つにすることを目標として掲げていた。これは「中国を、世界の大国の一つであると認める代わりに、国際社会の中で責任ある行動をとってもらう」という方針であり、中国の覇権拡大を肯定的にとらえる多極化戦略である。北朝鮮の問題を、6カ国協議という中国中心の外交交渉に任せるのも、このアメリカの対中政策の一部をなしている。ポールソンも、ゼーリックが作った方向性を継承するだろう。 ウォール街がアメリカの外交政策を動かすのは、今に始まったことではない。古くは、1910年代の第一次大戦に際し、アメリカをヨーロッパ戦線に参加させたのが、ウォール街の画策の成果である。 それまでアメリカの政治経済体制は、各州などの地方政府の力が大きく、連邦政府の権力が小さかったが、第一次大戦への参戦に際し、アメリカの経済力を連邦政府(大統領)のもとに中央集権化することが行われ、連邦政府のドルの発行力を増すため、中央銀行にあたる連邦準備制度が作られたりしたが、これらを画策したのはウォール街である。ウォール街は、大統領に大きな権限を持たせてやった報酬として、その後の歴代大統領の外交政策を自分たちに都合の良いように動かす「政治献金」「回転ドア」「ロビー団体」「シンクタンク」などのメカニズムを作り続け、今日に至っている。 ▼中国やインドの発展を重視するウォール街 最近の世界経済は、中国を中心とするアジア諸国が製造した商品を、アメリカが消費するという構造によって牽引されてきた。だが、アメリカの双子の赤字の増大は、この構造を行き詰まらせている。アメリカの消費力の源泉となってきた不動産市場の上昇はもはや頭打ちで、今後1−2年以内にアメリカ経済は減速しそうである。「中産階級の消滅」を指摘する声もある。(関連記事) アメリカが双子の赤字を減らせば、行き詰まりを解消できるが、米政府にはその気がない。双子の赤字の一つである財政赤字は、財務長官がポールソンになっても、赤字削減のための実質的な努力が行われないだろう。ポールソンより2代前の財務長官だったポール・オニールはイラク侵攻直前の2002年12月「イラク戦争で巨額の財政支出が見込まれる中で減税を挙行すると、財政赤字がひどくなる。戦争するなら減税は見送った方が良い」とブッシュに進言して嫌われ、突然クビにされた。(関連記事) (オニールと同時に経済顧問のラリー・リンゼーも辞めさせられたが、その後任の経済顧問になったのが、ゴールドマンサックス副会長だった前出のフリードマンだった) それ以来、ブッシュ政権では、減税に反対するのはタブーになっている。ポールソンは、これまで時限立法として制定されていた減税を恒久化すべきだと発言しており、財政赤字を減らすつもりはなさそうである。(関連記事) もう一つの赤字である経常赤字は、アメリカにとって1970年代からの構造的問題である。これを解消するにはアメリカの諸産業を復活させるしかないが、90年代のITバブルが崩壊した後、米政府は自国の産業復活の努力をしなくなり、むしろ製造業はアジア諸国などに任せる姿勢を強めている。ブッシュ政権は、アジア諸国がアメリカ市場に頼らず、アジア域内の内需によって成長していく状態を作ろうとして、ドル安(人民元高)を誘発してきた。 ドル安やアメリカの産業衰退の放置は、一般の米国民にとっては、購買力の低下や雇用の減少を招くのでマイナスだ。ところが、中国やインドなどの経済成長で儲けているゴールドマンサックスのような金融機関にとっては、アメリカが衰退する分、中国やインドが発展するのなら、それは望ましいことである。アメリカの成熟した低成長の産業に投資するより、中国やインドなどの、発展初期の高成長の産業に投資した方が、利回りがはるかに高いからである。世界の多極化は「資本の理論」で考えると理解しやすい。 中国やインドはまだ貧しいので、これまでアメリカ市場が果たしてきた旺盛な消費を、すぐに肩代わりすることは無理だ。だが人口で見ると、中国とインドを合わせるとアメリカの10倍以上になる。長期的に見ると、中国やインドは、巨大な消費力を内蔵している。ポールソン財務長官の役割の一つは、アメリカの消費力が衰える前に、中国などアジア諸国や産油国の経済構造を、アメリカから自立した体制にすることである。そのために「大プラザ合意」が必要となる。 中国政府は今のところ、アメリカへの輸出が減ったら自国の経済成長が減速するので、人民元の切り上げに抵抗している。しかし、米経済は行き詰まりつつあり、アメリカの消費に頼った経済成長を今後もずっと続けることはできない。ポールソンは、自分に与えられた大きな権限を使って、中国に対して外交面などで大胆な譲歩を行う一方で、アジアのドル離れを誘発させる「アジア通貨統合」や「大プラザ合意」の画策を強化すると予測される。 ▼大プラザ合意に協力させられる日本 ポールソン就任後のブッシュ政権は、中国を重視しそうだが、その反動で日本が無視されるかといえば、そうでもなさそうだ。アメリカはIMFに、大プラザ合意を推進するための新組織(サーベイランス委員会)を作ったが、この組織はアメリカ、EU、日本、中国、サウジアラビアの5カ国で構成されており、日本も名を連ねている。(関連記事) イギリスのガーディアン紙は、もはやG8より、IMFのサーベイランス委員会の方が、世界経済についての決定を行う組織としては重要であるという趣旨の記事を出している。(関連記事) 世界経済の今後の枠組みを決める主要5カ国の中に入れてもらったことは、日本にとって誇らしいことであると同時に、困ったことでもある。「大プラザ合意」への動きは、円高ドル安圧力の再来だからである。 また、日本と中国を中心とするアジア諸国は、大プラザ合意を機に、アジア域内の通貨統合を進めていくことをIMFなどから期待されているが、その実現には日本と中国が協調関係を強めることが必須だ。今のように日中関係が非常に悪いままでは進まない。近年の日本政府は、大プラザ合意を頓挫させるために、中国との関係悪化を故意に進めてきたのかもしれないが、今後、アメリカから日本に、中国との関係を改善せよという隠然とした圧力が強まる可能性がある。(関連記事) ▼アメリカ自身以外は望んでいないアメリカの覇権失墜 日本も中国もサウジアラビアも「世界の覇権国はアメリカだけでかまわない」と考える傾向が強い。日本は頑強な対米従属派である一方、中国は大国になる野心があり、サウジアラビアは911で濡れ衣を着せられて以来アメリカに迷惑させられているという違いはあるが、3カ国とも、アメリカの覇権を潰してまで自国の覇権を拡大したいとは思っていない。この傾向は、他の東アジアや産油国の多くも同様である。(関連記事) 今のところ「大プラザ合意」に賛同する動きを唯一しているのは、プーチンのロシアである。産油国であるロシアは最近、長引く原油高による国家収入増を背景に、先進国(パリクラブ)からの借金をすべて返し、これを機に、通貨ルーブルの国際取引を全面的に自由化した。ロシア政府は、ルーブルをドルやEUと並ぶ国際通貨にするのだと宣言している。(関連記事) 世界的に見ると、このようなロシアの動きは例外である。大プラザ合意は、各国の支持が得られず、頓挫する懸念が大きい。しかしその場合、アメリカの赤字問題は「市場原理」によって「解決」される、つまりドルがどこかの時点で急落するのではないかと指摘する記事を、欧米の新聞で最近よく見かけるようになっている。(関連記事その1、その2、その3、その4) IMFの新組織は、年内に何らかの決定を出すことを目標にしている。この問題がどのように進展していくか、今後数カ月から1年ぐらいの間に、明らかになりそうである。
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