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イスラエルとロスチャイルドの百年戦争

2005年6月22日   田中 宇

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 パレスチナの町ラマラの郊外に「バロウ交差点」という場所がある。パレスチナ人の自治区であるラマラ市内と、その外に広がるイスラエル軍政地域との境界線にあたる地点だ。この交差点は、ラマラに住むパレスチナ人の若者や子供たちが、軍政地域の側にいるイスラエル軍のジープや戦車に向かって投石を行う「インティファーダ」の闘争場所の一つとして知られていた。

(パレスチナ人の抵抗運動である「インティファーダ」は、2004年暮れにアラファトが死去した後、パレスチナの後継政権であるアッバス政権とイスラエルのシャロン政権の交渉開始とともに、休止されている)

 私が最初にバロウ交差点を訪れたのは2001年1月のことだ。そこで印象的だったのは、投石を行う若者たちが、ジャーナリストとおぼしき人々がやってくると投石を行うが、そうでないときは投石をしないことだった。

 私は日をかえてこの交差点を3回見に行ったが、行くときの人数がそれぞれ違っていたため、異なった反応を見ることができた。私一人で行ったときは、最初は若者たちは投石を始めたが、私が撮影などをせずに黙って見ているだけなので、間もなく投石を止め、私の方にやってきてしばらく雑談した後、どこかに行ってしまった。

 別の日に、日本人のジャーナリストら数人と一緒に行ったときは、私たちがいる間、若者たちは15分ほど投石を続けた。300メートルほど離れた場所にいたイスラエル軍は撃ってこなかった。

 そして、さらにまた別の日、私が体験した最も賑やかなバロウ交差点は、ラマラの中心街でデモ行進があったときだった。数百人のデモ隊が交差点まで行進してくると、その到着とともに激しい投石が始まった。イスラエル軍もゴム弾や催涙弾で反撃してきて、1時間近く「インティファーダ」が続いた。

▼パレスチナ問題とはユダヤ人どうしの対立?

 バロウ交差点を見た後で分かったことは、この場所はよくテレビに出てくるということだった。「行間」(Between The Line)というパレスチナの英文雑誌には「欧米のジャーナリストはインティファーダの取材というと、お手軽に取材できるバロウ交差点にばかり行き、ほかの場所に行かない」という批判記事が出ていた。

 バロウ交差点以外にも、パレスチナの各都市には、紛争の「名所」のような場所があった。イスラエル軍による攻撃や、パレスチナ側の抵抗運動の情景としてテレビによく出る場所はおおむね決まっている。ラマラでは市街地の中心にあるマナラ広場周辺もそうだし、ヘブロンではイスラエル側が占拠している聖地「マクペラの洞窟」のすぐ外側の道などである。

 私がバロウ交差点で感じたことは、パレスチナ人たちは「国際世論」を意識した戦いをしている、ということだった。だが、国際世論をコントロールしているのは、パレスチナ人ではない。欧米人の側である。私が疑問に思ったのは、何で欧米のマスコミは、同じ街路風景ばかりになってしまっても、パレスチナ問題をしつこく取り上げるのはなぜなのか、ということだった。

 同じようなことは、ラマラにあるアラファト議長の官邸に行ったときも感じた。それは以前の記事「アラファト官邸で考える」に書いた。

 確かに、パレスチナ人たちはイスラエル軍によって、ひどい人権侵害を受けている。しかし、殺された人数とか、紛争の残虐さにおいては、中南米やアフリカなどに、もっとひどい例がたくさんある。ところが、欧米マスコミでの報道の量から見ると、パレスチナ問題は、他のあらゆる紛争を引き離し、圧倒的に多い。

 アメリカを中心とする世界のマスコミが、これだけパレスチナ問題を取り上げる背景には、紛争のひどさに基づくニュース判断ではなく、もっと政治的な理由があるに違いない。パレスチナ人は、その構造の上に乗って、インティファーダなどの運動を続けている。何回かパレスチナを取材するうちに、私はそう思うようになった。

 イスラエルは、ユダヤ人の国である。そして、欧米のマスコミで大きな力を持っているのもユダヤ人である。それなのに、欧米のマスコミは意識的にパレスチナ問題を大きく報じ、イスラエルを批判する世論を世界で喚起している。ユダヤ人世界の中枢に、イスラエルを支持する派閥と、支持しない派閥があって、それらの間での戦いが、パレスチナ問題に投影されているのではないか、という仮説が私の中に浮かんだ。

▼バルフォア宣言は何のため?

 こうした仮説を抱きながら、イスラエル建国の源流である1917年の「バルフォア宣言」や、その前後に起きたことを読んでいくと、ピンとくるものがあった。

 イスラエルは、19世紀末に欧州を中心に世界に広がったナショナリズム(民族意識)の高揚に触発された欧州のユダヤ人たちが「自分たちも、国を持たない流浪の民である状況を脱し、ユダヤ人の国を作ろう」と考えて起こした建国運動(シオニズム)の結果、1948年に建国された。

 シオニズム運動が成功したのは、イギリスで非常に強い権力を持っていたユダヤ人政商のロスチャイルド家が支援したからであり、ロスチャイルド卿がシオニズム支援のために、当時のイギリス外相のバルフォア卿に「パレスチナにユダヤ人の祖国(ホーム)を作ることを支持する」という一筆を書かせたのが「バルフォア宣言」である、というのが定説だ。

 ロスチャイルド家は、イギリス産業革命に投資して巨万の富を蓄え、その後婚姻その他の人脈拡大によって、イギリス政府の中枢に入り込んで覇権を拡大維持する政策を行った。バルフォア宣言が発せられたころには、イギリスの上層部にはロスチャイルド系の人が多く、バルフォア卿もロスチャイルド家に近い人物だった。そのためバルフォア宣言は、ロスチャイルド家がお手盛りでイスラエル建国を決めたものと解釈されることが多い。

(ロスチャイルド家については「金融の元祖ユダヤ人」参照 )

 だが、私は最近「ロスチャイルドは本当にイスラエル建国を支持していたのだろうか」という疑問を抱くようになった。ロスチャイルド家に限らず、欧州諸国の政府に資金を貸し、金融などの政策立案まで担当していたユダヤ資本家の多くは、自らの存在を曖昧にし、黒幕として存在し続けることに、意義を見出していた。

 それは、ユダヤ人差別への対応策という意味もさることながら、それ以上の理由がある。戦争が起こりそうになったら、敵同士である双方に金を貸したり政策を出したりして、どっちが勝っても儲かるようにするとか、一つの国の産業革命に投資して大儲けできたら、他の国でも産業革命を誘発し、そちらにも投資して儲けを増やすなど、一つの国に対してのみ忠誠を尽くすのではなく、国際的に動くことで儲けるのが、伝統的なユダヤ商人の作法としてよく見られる。

 これをやるためには、それぞれの国の黒幕が誰なのか、分からないようにしておかねばならない。ばれたら両方の国から裏切り者とされてしまう。ロスチャイルド家の中には、キリスト教に改宗した人が多く、ユダヤ人であることすら自ら改変し、キリスト教社会の中に埋没し、目立たないようにネットワークを張り、その結果、イギリスの「上流階級」と「ロスチャイルド」とが、ほとんど同義語であるような状態を作り出した。

▼シオニズムに反対だが応援するという戦略

 これに対してシオニズムは、自分がユダヤ人であることを明言し、自覚し、イスラエルを建国し、そこに結集しよう、という主旨の大衆運動である。黒幕に徹して儲けてきた少数精鋭のユダヤ商人のやり方とは正反対である。バルフォア宣言当時のイギリスでは、ユダヤ人有力者の多く(キリスト教徒に改宗した人を含む)は、黒幕系であるがゆえに、シオニズムに反対だった。

 欧州のユダヤ人には、大別すると2種類の系統が存在する。一つは、16世紀のスペイン帝国の勃興に貢献した後、オランダ、イギリスへと覇権が移動するとともに、これらの覇権国に移住し、欧州各国政府の金庫番や知恵袋として機能した「スファラディ(スペイン系)」(もしくは、そこからキリスト教徒に改宗した人々)と呼ばれる商人勢力で、彼らは人口としては数万人から10数万人しかいない。これが黒幕系である。

 もう一つは、8世紀に今のウクライナ周辺にあった「ハザール汗国」がユダヤ教を国教にした関係で、ユダヤ教徒となった人々の末裔で「アシュケナジ(ドイツ系)」と呼ばれ、1000万人かそれ以上の人口があり、ほとんどは貧しい農民で、ロシア革命前までロシアからウクライナにかけて住んでいた。

 シオニズムは、最初に考えたのは西欧のスファラディ系の知識人だったが、それを支持した人の多くは東欧の貧しいアシュケナジ系だった。シオニズムは、パレスチナにイスラエルを建国する運動へと発展する中で、貧しいが数の多いアシュケナジ系の大衆が、ユダヤ人としての意識に目覚め、少数派の金持ちであるスファラディ系の黒幕的なあり方を批判する、という色彩をとった。シオニズムは、ユダヤ人社会の中での「革命運動」であった。

 だが、革命とは政権(商権)の交代なので、ビジネスチャンスでもある。戦いがあれば敵同士の両方に賭けておくロスチャイルド式の商法からいうと、シオニズムの革命家も投資の対象ということになる(実際、ロシア革命には、たくさんのユダヤ人が先導者として参加していた)。また、政治活動をする者にとって、大衆に敵視されないようにすることは重要である。ロスチャイルドがシオニズム運動を支持したのは、妥当な選択だった。

▼イスラエルを石油利権から遠ざけたサイクス・ピコ協定

 とはいうものの、中東のパレスチナに建国されるイスラエルが、大きな国になってしまうのは、ロスチャイルドだけでなく、ユダヤ系の商人全体にとって好ましくなかった。建国後のイスラエルが強くなると「すべてのユダヤ人は、欧州を捨ててイスラエルに集まれ」ということになり、黒幕として欧州で儲け続けたいスファラディ系のユダヤ商人は、立場が弱くなる。

 だからロスチャイルドは、イスラエルの建国を支持する一方で、イスラエルをなるべく小さな国として建国させ、そのころちょうど中東で採掘されるようになった石油の油田からも遠い場所のみを与えるようにした。

 これを実現するためにロスチャイルドがイギリス政府と謀って行ったのが「サイクス・ピコ協定」と「フセイン・マクマホン書簡」による、有名なイギリスの「三枚舌外交」だった。

 サイクス・ピコ協定は、バルフォア宣言の約1年前に英仏が結んだ秘密合意で、崩壊間近のオスマントルコ帝国の領土のうち、アラブ人の領域を南北に分割し、北をフランス、南をイギリスが支配することを決めた。北の仏領にはシリアとレバノンが作られ、南の英領にはイラク、ヨルダンとイスラエルが作られた。

 この協定は、イギリス外交官のマーク・サイクスと、フランス外交官のジョルジュ・ピコが話し合って決められたが、広瀬隆氏の著書「赤い楯」によると、サイクスもピコも、ロスチャイルド系の人物である。

 シオニズム運動の指導者だったハイム・ワイツマン(のちにイスラエルの初代大統領になったポーランド出身の科学者)は、1915-16年に、サイクスと何回も会っており、サイクスはシオニズムに対する強い支持を表明していたが、ワイツマンに対し、サイクス・ピコ協定の交渉が進んでいることについて、一言も話さなかった。ワイツマンの手記によると、フランスのシオニストは同時期にピコと会い、ピコの口からもシオニズム支持の言葉を聞いたが、サイクスとの秘密協定については、一言も聞いていなかった。(関連記事

 当時のシオニズムは「パレスチナにイスラエルを建国しよう」という運動を展開していたが、パレスチナがどこからどこまでの地域を指すのか、明確な定義がなかった。「パレスチナ」を最も大きな範囲でとらえると、今のシリア、レバノン、ヨルダン、イスラエルの4カ国を包含する地域になる。そのすべてをユダヤ人国家として与えてしまうと、イスラエルは中東の地中海岸の大部分を占める強大な国家になりかねない。

 パレスチナを最大領域として考えた場合、近くには、今はイラク領になっているモスルとキルクークの大油田地帯があり、ここをイスラエルに押さえられると、イスラエルは大きな石油利権を握り、それこそロスチャイルドを脅かす存在になりかねない。

 そのため、ロスチャイルド系のサイクスとピコが談合して秘密協定を結び、パレスチナを仏領と英領に分断したうえで「ユダヤ人の国を作れるパレスチナとは、英領の方だけを指している」という話に持っていき、イスラエルの建国範囲を狭めたのだと思われる。

▼イギリスの二枚舌外交はシオニストが標的だった?

 同時に、1915年10月のフセイン・マクマホン書簡も、ユダヤ人国家の範囲を狭める役割を果たしている。この書簡は、イギリスの高等弁務官マクマホンが、アラブ社会で最も権威ある人物だったメッカの知事フセイン(ヨルダン国王の祖先)に対し、地中海岸の地域を除くオスマントルコ領内のアラブ人居住地に、アラブ人国家を建設することをイギリスが許したものだ。

 この書簡でアラブ人の国として指定された領域からは、今のイスラエルとレバノンが除外されている。そして、フセインは、レバノンが除外されていることには反発したが、エルサレム周辺(今のイスラエル)が除かれていることに対しては、特に反発していない。

 フセイン・マクマホン書簡で約束したことを、その後イギリスは、部分的に守っている。ヨルダンとイラクに、フセインの息子兄弟を国王とする国々を建国してやったからである。このうちヨルダン(英領パレスチナの東半分)に関しては、シオニストとしては、バルフォア宣言で約束されたイスラエルの領土に入るものと思っていただろうが、イギリスはフセイン・マクマホン書簡をたてに、パレスチナを英仏で分割した英領の中を東西に分割した西半分のみをユダヤ人与えるようにした。

 このような経緯があるので、シオニストは今も「われわれは、バルフォア宣言で約束された土地のうちの、わずかしか与えられていない」と主張している。イスラエルの国旗は、上下2本の青い線の間に、ダビデの青い星が描かれているが、この上下の線は、チグリス・ユーフラテス川とナイル川であるとされている。

 つまりシオニストが主張する「約束された土地」とは、この2つの川の間にある、今のイスラエル、ヨルダン、シナイ半島(エジプト領)、シリア、レバノン、イラクの西半分までを含む「大パレスチナ」である。

 イギリスの二枚舌外交は、アラブ人を騙すための戦略だったとされるが、当時はまだアラブ人が「騙す相手」として存在していなかった。民族主義の考え方は、西欧で生まれて世界に広がった経緯があり、欧州のユダヤ人はすでに民族主義に燃えていたが、中東のアラブ人は、一部の知識人を除き、まだ民族主義の洗礼を受けておらず、自分たちを「アラブ人」として自覚している大衆は少なかった。

 だから、イギリスの二枚舌外交は、アラブを騙すためのものではなく、イギリス政府(つまりロスチャイルド)が、シオニストを煙に巻くために行った計略だった可能性が大きい。

▼パレスチナ問題の起源はバルフォア宣言の中に

 ロスチャイルド家は、ユダヤ人国家の範囲を狭め、油田地帯を外させただけでなく、ユダヤ人が入植してくる前からパレスチナに住んでいたアラブ人(パレスチナ人)の権利を重視するとバルフォア宣言に明記することで、イスラエルが建国後にパレスチナ問題を抱えねばならなくなるという素地も作った。

 しかもバルフォア宣言では、ユダヤ人がパレスチナに作ることを約束されたものは「国家」ではなく、もっと曖昧な「ユダヤ民族の故郷(ナショナル・ホーム)」だった。その「民族の故郷」を「国家」にするためには、そこに住んでいる人々の意志が重要になるが、イスラエル建国前の英領パレスチナに住んでいる人の大半はアラブ人だったから、住民の意思としては、パレスチナにできる国家は「ユダヤ人の国」ではなく「アラブ人の国」になってしまう。

 バルフォア宣言に仕掛けられたこの難問を解くため、シオニストはその後、世界中のユダヤ人をパレスチナに移民させ、アラブ人よりユダヤ人の方が多い状態を実現し、民主主義でユダヤ人の国を建国しようとした。イギリス当局は、ユダヤ人のパレスチナ移民を規制してこれを防ぎ、シオニストはイギリスに対するテロを行って対抗した。

 さらに、第二次大戦後にイスラエルが建国の最終段階に入った1947年11月、イギリスはアメリカと組んで設立して間もない国連において、パレスチナをアラブ人国家とユダヤ人国家に二分し、中心都市であるエルサレムはどちらの領土にもせず国際管理下に置く、という決議を下した。

 これは、ユダヤ人国家の範囲を、大パレスチナの中の英領の中の、ヨルダンを除いた西半分の、そのまた西半分に限定し、しかもシオニストが「永遠の首都」にしようと夢見ていたエルサレムは渡さない、という「国際社会」による決定だった。

 イスラエルは建国を強行し、国連決議から半年後の1948年5月に独立を宣言し、独立を阻止しようとするエジプトやヨルダンの軍隊に勝って、建国を果たした(エジプトやヨルダンとは事前に話がついており、戦争は「ふり」だけの部分が多かったとされている)。イスラエルは国家となったものの、国連決議を破ってパレスチナ人を追い出した「悪い国」というレッテルを「国際社会」から貼られ続けることになった。

▼「国際社会」に変身したロスチャイルド

 前回の記事「行き詰まる覇権のババ抜き」に書いたように「国連」や「国際社会」は、イギリスが世界を間接支配するための仕掛けである。そしてこれらは、イギリスの中でも特にロスチャイルド的な考え方である。

 大英帝国は、第一次大戦を機に衰退が明確になるが、イギリスが衰退しても、ロスチャイルドやその系列の資本家たちが世界で儲けることができるようにするために、英米が中心となる国際社会や国連が作られた。またイギリスは、自国に近いアメリカを次の覇権国にすべく、アメリカの資本家を国際社会で儲けられるように誘った。

 欧州のユダヤ商人は、ロスチャイルドの出現以前に、スペイン帝国からオランダ帝国へ、そしてオランダ帝国からイギリス帝国へと、何回も覇権の移転を経験しており、この覇権の移転そのものが、新規投資対象の開拓の結果だった可能性がある。

 ロスチャイルドの世界支配は、覇権がイギリスからアメリカに委譲された時点で、ロスチャイルド家という一族支配から、ロスチャイルド家によって作られた英米中心の世界体制で儲ける人々のネットワーク(「国際エスタブリッシュメント」あるいは「国際協調派」)へと進化した感がある。

 「国際社会」も、その実態は彼らであり、実際の世界の人々の民意とは、本質的に関係がない。米英の政府やマスコミも、このネットワークの中の組織であり、世界の民衆の世論は、米英中心の国際的なマスコミによって、扇動されている部分がかなりある。イスラエルの建国を制限し、建国後も国連のパレスチナ分割案などでイスラエルに制限をかけ続けたのは、この国際エスタブリッシュメントである。

 資源を持たず、パレスチナ人との関係という問題も抱えた、小さな国として建国されることになったイスラエルの初期の政府(労働党政権)は「国際社会」という巨人と戦うことを得策ではないと考え、むしろイスラエルが国際社会から認知されることの方を重視した。ロスチャイルド家は、イスラエルの建国に際し、国会議事堂その他の政府機関の施設などをいくつも建設・寄贈した。シオニストが小さなイスラエルで満足している限り、お金を出してあげます、というわけだった。

▼シオニストの反撃

 この建国当初の状態を変化させたのは、冷戦の進展により、イスラエル周辺のエジプトやシリアが社会主義の側に寄り、それと対峙するイスラエルが親米の国として注目され、1970年代からイスラエル系の勢力がアメリカ政府に入り込むようになったことだった。

 1967年の第三次中東戦争では、イスラエル軍はアラブ諸国を打ち負かし、国家としての自信をつけた。イスラエルは建国以来の20年間で、荒れ地が農地として開拓され、工業力も発展した。それにアメリカからの軍事支援が加わり、エジプトやヨルダン、シリアの軍隊を蹴散らす軍事力を持つに至った。

 1970年代に入ると、近年になって「ネオコン」と呼ばれるようになったイスラエル系の勢力が、国防総省などのアメリカ政府内で政策立案者として注目されるようになった。ネオコンがアメリカの中枢に入り込んだ経緯は、以前の記事「ネオコンの表と裏」上下の下はこちら)に書いたとおりである。

 1970年代まで、イスラエルは左派の労働党の政権が続いていたが、1973年に右派政党が結集して新政党「リクード」を作り、77年には選挙に勝ってベギン政権を作った。アメリカの中枢に入り込んだのは、イスラエルの中でもリクード系の勢力である。彼らは、アメリカの仲介でイスラエルとエジプトが和解した1979年の「キャンプデービッド合意」を演出し、アラブ側の内部に親イスラエル派と反イスラエル派の分断を生じさせた。

 その一方で、イスラエルは79年のイランのイスラム革命後、強烈な反米国家となったイランに秘密裏に武器を送り続けるなど、中東におけるアメリカの敵を強化することで、アメリカが中東で常に難問に直面している状態を作り出し、その難問をイスラエルが解いてやることで、アメリカがイスラエルに頼らざるを得ない状況を作り出した。

 こうした状況下、アメリカの中枢ではイスラエル系の勢力が、冷戦を推進していた「軍産複合体」と連携して「タカ派」を形成することで力を持ち、それまでアメリカの中枢で力を持っていたロスチャイルド系の「国際協調派」(中道派)を押しのけていった。

 レーガン政権では、1期目にはタカ派が強かったが、2期目には国際協調派が盛り返した。次のパパブッシュ政権では、タカ派の計略で湾岸戦争が起こったが、協調派の防戦で、イラク国内に米軍を侵攻させることは止められた。あのとき米軍がイラク領内まで深く侵入していたら、2003年から発生しているイラク占領の泥沼とイスラエル軍への依存は、1991年に起きていただろう。

 次のクリントン政権は、国際金融を中心にした典型的なロスチャイルド的な政権で、アメリカが経済的に世界を支配する構造を強化することでタカ派を排除したが、1996年からの世界的な金融危機によってこの構想は崩れ、1998年ごろから米国内では再びタカ派の論調が強くなり、次のブッシュ政権では2001年の911事件を機に、完全にタカ派が支配的になった。

▼今後も続くロスチャイルドとシオニストの戦い

 こうしてみると、アメリカの世界支配をめぐる揺れの根本にあるものは、従来の支配層だったロスチャイルド的な国際協調派と、それを倒してイスラエルに対する抑圧を解こうとするシオニストとの戦いであると考えられる。

 国際協調派は、国連を使ってイスラエルを何度も非難しており、イスラエルは国連を全く無視している。そして、タカ派の影響力が強いブッシュ政権は、国連や国際社会を無視して動いている。これらのことからも、ロスチャイルド対シオニストの戦いが、アメリカ中枢を舞台に、今も続いていることが感じられる。

 以前の記事「ネオコンは中道派の別働隊だった?」に書いたように、ネオコンは、イスラエルの回し者ではなく、国際協調派の回し者であると感じられる部分が、今もある。これは、もしかするとネオコンと呼ばれる人々の中に、イスラエル支持者のふりをした国際協調派の回し者が混じっていたのかもしれない。

 だがその一方で、ニューヨークタイムスのコラムニストでネオコン系と目されるウィリアム・サファイアは、6月15日にイスラエルで「シオンの守護者」として表彰され、その際、アメリカでイスラエル系の勢力を強化するため、ユダヤ教への改宗運動を進めるべきだと演説している。イラク侵攻後、米政界で国際協調派が盛り返しそうになっていることへの対抗手段として、アメリカでユダヤ教への改宗運動を進めることは、シオニストにとって効果がある。(関連記事

 ユダヤ人の最大の敵はユダヤ人であると言われる。ユダヤ人がアラブ人などを騙すのは簡単だが、ユダヤ人どうしの戦いは秘密戦争であり、外部の人間には、誰と誰の戦いなのかも判別しがたい。しかし、アメリカと世界の将来がどうなるかは、この秘密戦争の行方がどうなるかにかかっている。この問題はタブー視されたり「陰謀論」として退けられることが多いが、この問題を考えずに、国際政治を語ることはできない。その意味で私は、今後もこの問題について分析していく必要を感じている。



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