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続・フジモリ前政権の本質

2001年8月20日   田中 宇

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・この記事は「フジモリ前政権の本質」の続きです。

 2000年5月の大統領選挙でフジモリは三選を果たしたが、この選挙は不正の多いもので、内外から強い批判を受けた。

 フジモリ政権が崩壊する最初のきっかけは、選挙から4カ月後の2000年9月14日にペルーのケーブルテレビが報じた特ダネであった。報じられたのは、フジモリ大統領の右腕で陰謀家だったモンテシノスが野党政治家に対して1万5千ドルを渡し、フジモリ側に寝返ってもらうシーンを映したビデオテープで、このビデオはモンテシノスが隠し撮りした2700本のうちの1本だとされる。

 ビデオの放映から2日後、フジモリ大統領は突然の辞意表明を行うとともに、モンテシノスの権力基盤だった国家情報局を解散させると発表した。モンテシノスを罰し、自らも責任をかぶるという意思表示だったが、フジモリがそれまでモンテシノスをめぐるどんな明らかな不正が暴露されても彼をかばっていたことを思うと、異様な感じがする。フジモリは、この暴露を利用してモンテシノスを切ろうと計画したと感じられる。

 買収シーンの暴露後、フジモリが自らも辞任すると表明したことから考えて、フジモリはすでにこの時点で大統領を続ける気がなく、むしろどうやったら自分が辞任後に安泰に生きていけるかということに関心が移っていたと思われる。だから、フジモリはモンテシノスを切り、悪いのはすべてモンテシノスだというかたちをつくる一方で、政権の悪事のすべてを知っているモンテシノスから反逆されることも防ぎたかったのだろう。

 半面、モンテシノスはとことん権力の座に留まるつもりだったようだ。フジモリに切られ、「もう引退しよう」と持ちかけられて拒否した後、モンテシノスは自分が支配してきた軍隊や警察を使ってフジモリを追い落とし、別の誰かを大統領に仕立て、そのもとで権力を維持しようと画策を始めた。

▼探して捕まえるふりをする

 ビデオが放映された10日後、モンテシノスは歌手の卵だった恋人をつれ、ヨットなどを乗り継いで乗ってパナマに行き、亡命申請した。ところが政治改革の最中だったパナマ政府は亡命を断り、1カ月の滞在しか認めなかった。30日後、モンテシノスは自家用飛行機でペルーに戻った。

 彼の帰国は事前にマスコミで報じられ、フジモリが帰国したモンテシノスを許すのではないかとペールー内外から非難されていた。これに対するフジモリの対応は、大騒ぎしてモンテシノスを探して捕まえる「ふり」をすることだった。

 モンテシノスがペルーに戻るとされた日、フジモリは朝から軍や警察を指揮し、首都リマでモンテシノスを一日じゅう捜索したが、見つからなかった。この日、フジモリは常にマスコミの一群を従えて行動し、軍の捜索部隊とは一時はぐれてしまったが、その時でもマスコミはちゃんと自分のあとをついてきているか、確かめながら行動していた。

 その一方でフジモリはモンテシノスに対し、ペルーの地方にある空軍基地内の住宅を隠遁場所としてあてがうことを提案したと報じられている。

 また、フジモリは野党に対して「君たちの要請に応えて再選挙をしてあげるから、再選挙後、誰が大統領になったとしても、モンテシノスを含む国家情報局の関係者に恩赦を与えることに同意してくれ」と交渉した。

 つまり、フジモリはモンテシノスに対し「野党と交渉して、君は無罪だということするから怒るな」となだめようとしたと見える。ところが、モンテシノスはこれらのフジモリの提案を拒否したらしく、息のかかった将軍たちを集めてクーデターを呼びかけた。

 クーデターは不発に終わったものの、フジモリがモンテシノスから軍や警察の支配権を奪うことができないこともはっきりしてきた。軍や警察の幹部が恐れていたのはモンテシノスの底知れぬ策略のパワーであり、モンテシノスと別れたフジモリになど従う必要はなかった。

 そんな状況に気づいたフジモリは、身の危険がしだいに大きくなるのを感じただろう。モンテシノスがペルーに戻る騒動が起きて3週間ほど後に、東南アジアでの国際会議に参加した帰りに日本に立ち寄るという名目で東京に降り立ち、そのまま日本に事実上の亡命をすることを発表し、大統領を辞めるという辞表をファクスでペルー議会に送った。

 議会ではフジモリ派の議員が相次いで野党に寝返ってすぐに与野党が逆転し、フジモリの辞表は受理されず、代わりに議会の方からフジモリを辞めさせる議決が下された。

▼「ノーコメント」ですむ黒幕

 一方モンテシノスは、いったんペルーに戻った後に再び行方をくらまし、今度はベネズエラに向かった。ベネズエラの大統領であるチャベスは元将軍で、1992年にクーデターを企てて失敗しているが、このとき配下の反乱兵士の一部がペルーに敗走し、モンテシノスの配慮でペルー滞在を許されている。この恩義から、チャベスはモンテシノスのベネズエラ滞在を黙認したとされ、ペルーやアメリカの捜査当局が探しにきても協力を渋った。

 モンテシノスはベネズエラ滞在中も、自分に忠誠を誓わせたペルーの政治家やマスコミを動かし、モンテシノスの行方を調べていた議会の専門委員会を無力化しようとしたり、フジモリが日本に亡命して野党出身の議会の議長が暫定大統領になった後は、暫定大統領に関する架空のスキャンダル話をテレビに報じさせたりした。

 こうした動きに対し、ペルーの混乱が南米での麻薬取り締まりに悪影響を及ぼすことを恐れたアメリカは、FBIなどがベネズエラでのモンテシノス捜索に力を入れるようになり、今年6月末、モンテシノスはベネズエラの首都カラカスで逮捕された。

 その一週間前、ペルーの新大統領になることが決まっていたアレハンドロ・トレドがベネズエラを訪問し、チャベス大統領と会っている。(フジモリが辞めた後、ペルーでは4月に大統領選挙が行われ、アメリカとのつながりが強いトレドが選出された。トレドは7月末に大統領に就任した)

 ペルーでは、実はモンテシノスはかなり前にFBIに拘束されていたが、アメリカはペルーの新政権が定まり、モンテシノスを尋問・裁判する体制にめどがつき、新大統領がベネズエラに挨拶に行ってから逮捕にゴーサインを出したのだろう、との見方がある。

 モンテシノスがペルーに護送された直後の報道によると、彼は特に警備の厳しい拘置所に収容され、獄中でも防弾チョッキを着せられ、食事はすべて毒が盛られていないと確認が入るという態勢が敷かれていた。この厳重さは滑稽な感じがするが、「ペルーの最上層部でモンテシノスと秘密の会話をしなかった人はいない」と言われ、モンテシノスを殺したい人が無数にいることを考えると、笑い事ではなくなる。

 モンテシノスが逮捕された後、アメリカではマスコミが政府に「モンテシノスはCIAとどういう関係だったか」と質問している。その答えは「ノーコメント」であった。たとえCIAがモンテシノスといろいろな秘密の会話を交わし、それをモンテシノスが取調官に自白したとしても、親米だったフジモリ政権からトレド新大統領という別の親米政権に乗り換えることにアメリカが成功した以上、モンテシノスとアメリカとの本当の関係が表に出ることはないだろう。

 フジモリの日本亡命後のことを考える前に、またもやかなりの量を書いてしまった。このテーマがもう1回続くことをお許し願いたい。

(続く)



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