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スイスフランの転換

2015年1月18日   田中 宇

 1月15日、スイスの中央銀行であるスイス国立銀行(SNB)が、それまで1ユーロ=1・2スイスフランを上限として相場を市場介入などで維持してきた為替安定策(ペッグ)をやめると発表した。ギリシャなどユーロ圏の周縁諸国の国債相場が投機筋に攻撃されてユーロ危機が発生し、ユーロ圏からスイスに資金を逃避する動きが起こってフランの為替が急騰したため、SNBは2011年からペッグ制を導入してきた。 (Swiss franc surges after scrapping euro ceiling

 しかし今回、ユーロ圏の統合された中央銀行である欧州中央銀行(ECB)が1月21日の会議で、ユーロを大量増刷してユーロ圏諸国の債券を買い支える量的緩和策(QE)を拡大する見通しになった。ユーロの為替がさらに安くなりそうなため、SNBは対ユーロ為替相場の維持が困難になったと判断し、唐突にペッグを解除した。 (What Really Happened At The SNB Yesterday: One Person's Take

 ペッグ廃止によりフランの急上昇が予測されたため、SNBは同時に短期金利をマイナス0・25%からマイナス0・75%へと大幅に下げた。しかし、フランの対ユーロ為替は1日で3割以上も高騰した。フラン高騰で輸出産業や観光業が打撃を受けるとの見方から、スイスの株価が暴落した。為替市場でフランの売り先物に投資していた個人投資家たちが、この為替の急変で大損失を被って証拠金が払えなくなった。顧客の損をかぶった米欧の為替取引仲介会社が、米国最大手のFXCMをはじめとして何社も経営危機に陥った。 (Largest Retail FX Broker Stock Crashes 90% As Swiss Contagion Spreads

 SNBは2日前までペッグ制の維持を表明しており、IMFなどの金融当局にもペッグの廃止を事前に伝えなかった。IMFや米国の金融当局に伝えていたら、それらにスパイを潜り込ませている米大手銀行(IMFや米当局は米金融界の代理人ともいえる)に情報が伝わり、大手銀行は事前にフランの先物を買って儲けたろう。実際には、SNBがほとんど誰にも知らせずにペッグ制の廃止を決めたため、ゴールドマンサックス(GS)ですらペッグ廃止を事前に察知できなかった。GSは他の投資家と同様に、ECBがQEを拡大してユーロが下がったらスイスフランも連動して下がると考えてフランの下落に投資しており、SNBの発表とともに損失を出した。 (Goldman Admits It, Too, Was Short The Swiss Franc

 スイスは永世中立国の歴史を持つ。他の諸国が戦争などで混乱してもスイスは安定を維持し、混乱する諸国のお金持ちから資産を預けてもらうのを国家戦略にしてきた。スイスフランは、スイスの「安定」の象徴だった。このような特長を持つ国なのに、SNBは今回、スイスフランが急騰して世界の為替市場を大混乱させることがわかっていながら、あえて唐突にペッグの廃止を発表した。スイスの国家戦略からすると不可解な動きだ。 (Swiss Central Bank Confirms `Currency Battle,' Sets Up Bull Market for Gold

 ECBのドラギ総裁は昨秋以来、大規模なQEをやりたいと表明し続けてきた。ドラギは米連銀から頼まれ、ドルを救うためにユーロの安定を犠牲にしてQEをやろうとしている。当然ながら、EUの主導役であるドイツ政府はQEに猛反対してきた。ドイツは昨秋、欧州であまり発行されていない民間債券(社債、ジャンク債)を買い支えることをECBに許したが、これは大きな話でない。論争の中心は、ユーロ圏諸国の国債をECBが買い支える本格的なQEをやるかどうかだ。 (◆欧州中央銀行の反乱) (Someone Didn't Do The Math On The ECB's Corporate Bond Purchasing "Trial Balloon") (European Central Bank to start buying private-sector debt

 今回SNBが唐突にペッグを廃止したのは、ドラギがドイツとの論争に勝ち、ECBが大規模なQEを開始することが決まり、SNBが追随しきれないほどの大幅なユーロ安になる見通しが、1月21日のECB会議を前に突然見えてきたからだという見方を、米金融界が流している。1月14日に、EUの司法担当顧問が、ECBがQEをやることは合法で、QEの総額に上限を儲けるべきですらないとする意見書を発表した。これはEUの最終的な結論でないものの、意見書がEUの裁判所の判事にくつがえされることはほとんどないという。 (Currency Carnage: Why did the Swiss Pull the Peg?) (EU legal advisor supports ECB's bond purchase plan

 ドイツの憲法裁判所は、ECBのQEはEUの法律に違反しているとの判断を下しているが、EUの司法当局は正反対の意見を出した。これでQEに対する法的な最後の障害が解かれ、ドラギはドイツの反対を押し切って自由にQEを開始できると報じられている。EU司法当局の判断が、SNBがペッグ廃止を決めた背景だったとの見方が出ている。 (EU lawyer says bond-buying scheme is compatible with EU law

 しかし、私は別の見方をしている。ドラギとドイツの戦いは、まだ決着していない。ECBは、ユーロ諸国を代表してECBがユーロ圏のすべての諸国の国債を買い支える権限を持つことを求めている。しかし1月16日のFT紙によると、ECBに対して事実上の拒否権を持つメルケル首相らドイツの上層部が、ドラギに対し、ユーロ圏の各国の中央銀行がそれぞれ自国の国債だけを買い支えるかたちでないとQEを了承しないと言っている。 (ECB set to bow to German pressure over QE

 この体制の場合、ドイツや北欧の中央銀行は自国の国債を買い支える必要を感じず、QEに参加しない。南欧諸国はQEに参加したいだろうが、財政難でユーロの増刷を許されていないので参加できない。結局のところQEは絵に描いた餅だ。ECBがドイツなどユーロ圏の金持ち諸国の資金を自由に使って南欧など資金難の諸国の国債を買い支える体制でないとQEは意味がない。

 ドイツの根強い反対ゆえ、本格的なQEは無理だとECB自体が認めているとFTが報じている。報じられている範囲内で判断すると、1月21日のECBの会議でQEの拡大が決まったとしても、それはドイツが納得する骨抜きの策にしかならず、米連銀がドラギをたらしこんで(または脅して)表明させたような、大規模で過激な内容になりそうもない。 (◆欧州中央銀行の反乱) (The ECB's 4 QE Scenarios, And Why CS Thinks Waking From The "QE Dream" May Be The Worst Possible Outcome

 しかし、だとしたらSNBはなぜ唐突にペッグ廃止を発表して市場を混乱させたのか。この点について投資家のピーター・シフが興味深い見方をしている。シフは、SNBが唐突にペッグを廃止することで「ECBのQEにはついていけないよ」と世界に向かって大声で表明する効果をもたらし、QEをめぐるドラギとメルケルの戦いでメルケルを加勢したとみている。ドルの覇権を延命するためにQEが必要だが、米連銀は自分たちの会計を肥大化するQEをこれ以上続けられず、代わりに他の国々にQEをしてもらいたい。日本銀行は自国民の生活を犠牲にしてQEを拡大しているが、日本だけでは足りないのでECBにもQEを本格化してほしい。ECBがQEを本格化しない場合、米連銀自身がQEを再開せねばならない。こうなると「今年はドル高ユーロ安、米国の利上げとEUの利下げ(QE)だ」と考えて投資している金融界の多数派が大損するとシフは予測する。 (Peter Schiff: Swiss Surrender Wins Currency War

 SNBは、QE拡大でユーロの為替が下落していくのを好まない。ユーロに合わせてフランを下落させると、フランの過剰発行になって不健全になる。フランの上昇を黙認するとスイス経済にマイナスだ。この点でスイスの国益はドイツに近い。ドイツがSNBに応援を頼んだのかもしれないし、SNB自身がドイツへの応援を決めたのかもしれない。

 米連銀がQEを再開できない理由の一つは、米国債の金利上昇を止める究極の策として、米政府が国内インフラの整備などの支出を犠牲にして新規の国債発行を減らしたので、QEの買い支えの対象が減ったからだ。道路や橋など、米国のインフラは老朽化が進んだまま放置されている。これは長期的に米経済を減速させるが、米当局は短期的な国債金利の低め誘導を優先し、支出すべきところに支出しないことで米国債の発行を減らしている。 (Quarter of nation's 600,000 bridges structurally deficient or functionally obsolete

 ドイツは親米を国是とし、独上層部は米国が(無茶苦茶しない限り)覇権を持ち続けてかまわないと考えている。しかし同時にドイツは、EUを経済統合から政治統合へと先導することも国是としている。ユーロの長期安定にはEUの政治統合が不可欠だ。冷戦終結時にドイツにEU統合を強く勧めたのはレーガン政権の米国だったが、米中枢にはユーロが強い通貨になってEUが対米従属を離脱することを脅威と感じる者も多い。彼らは、ギリシャ危機がユーロを弱め、ウクライナ危機でロシアとドイツが仲違いし、EUがNATOから出ていけず政治統合(欧州統合軍の創設など)も進められない状態を歓迎している。 (Greek Debt Will Not Be Included In Bond-Buying Plan; ECB's Knot Warns QE "Distorts Markets"

 ドイツ自身は、米国がEU統合やユーロの安定を妨害しているので困っている。米連銀がドラギをたらし込み、ユーロの安定を犠牲にしてドルを延命させるQE拡大をやろうとしているのを、ドイツは看過できない。ドイツは親米だが、米国がユーロやEU統合の国家戦略を壊そうとすることを容認できない(自国を破壊してもドル延命に協力する日本と異なる)。ドイツは、ECBの提案を骨抜きにした上でQEを容認するかもしれないが、本格的なQEを許さない。1月21日に「ECBが本格QEを決定」と報じられたら「本格のふりをした骨抜き」であるなど、何か裏があるはずだ。

 今年に入って、米大手銀行の信用リスクの拡大が目立っている。米銀行のリスクが拡大しているのに銀行株は高いままで、株価と現実との乖離がひどい。シェール石油産業の倒産も始まっている。 (Counterparty Concerns Surge: US Bank Credit Risk At 11-Month Highs) (原油安で勃発した金融世界大戦) (Crashing Crude Is "Unambiguously Bad" For These Americans

 SNBはペッグを外したことで、世界中に通貨の過剰発行をさせてドルを延命させる米国の覇権体制からの離脱を宣言した。スイスは本質的に、米国覇権に楯突いてロシアや中国と同じ側に転じたことになる。SNBは米国覇権に風穴を開けた(小さくて一時的な穴かもしれないが)。これは地政学的な事件だ。だからこそ、SNBがペッグ廃止を宣言するとともに金地金の相場が高騰した。 (Swiss National Bank Tells the World - "We're Gettin' Off This Train!") (`Carnage' In Financial Markets Boosts Gold As Safe-Haven Asset

 昨年11月、米連銀のグリーンスパン元議長が、ドルを「幽霊通貨」と呼び捨てて金地金相場の中長期的な上昇予測を表明した。今回の金相場の上昇は、グリスパの予測が当たっていることを示した。しかしこの先、金相場が一本調子で上がり続けるとは思えない。米連銀は追い詰められたらQEを再開せざるを得なくなり、QE再開とともに金相場に再び売り圧力がかかる。地金だけでなく多くの金融市場が乱高下を繰り返し、政治的にも混乱が拡大する1年になりそうだ。 (金融危機を予測するざわめき) (Gerald Celente: The Financial And Political Volatility That Will Grip The World In 2015



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