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欧州中央銀行の反乱

2014年9月15日   田中 宇

 毎年8月下旬の夏休みの終わりに、米国のロッキー山脈のリゾート地であるワイオミング州のジャクソンホールに、米連銀や各国の金融当局、民間金融界などの経済政策立案者が集まって経済政策について話し合う、カンサス連銀主催の「ジャクソンホール経済会議」が開かれる。金融界は、その後の金融市場の動向を示唆するものとして、毎年同会議での米連銀幹部の発言に注目する。今年は、QE3(ドルを増刷して債券を買い支える金融緩和策)をやめていく米連銀が、いつから金融を引き締め(金利上昇)に転じるかが注目されたが、その方面で大した話は出なかった。 (Today's Mindless Rally: Its Jackson Hole, Stupid!

 今年はむしろ、これまで毎年同会議に呼ばれていた大銀行の著名アナリストら民間金融界を代表する何人かが招待されなかったことが注目された。米連銀の理事会内で、QEの続行をめぐって紛糾があり、QEの続行を望む金融界の代表たちをジャクソンホールに招待すると連銀の紛糾に影響力を行使しかねないとの懸念から、米連銀でQEに反対する勢力が、金融界の人々を呼びたがらなかった。 (Wall Street Cut From Guest List for Jackson Hole Fed Meeting

 今年のジャクソンホールで、それ以上に注目を集めた演説があった。それは意外なところから発せられた。ゲストとして参加した欧州中央銀行(ECB、欧州中銀)のマリオ・ドラギ総裁が、演説の中で、演説原稿に書いていないこととしてアドリブで、欧州はデフレであり、経済成長もテコ入れせねばならないので、欧州中銀はユーロを大量発行して債券を買い支えるQEをやるべきだと表明した。 (Draghi approaches his Abenomics moment

 QEは、デフレ対策や景気対策を口実として金融界を救済するための、通貨の過剰発行による債券買い支えだ。欧州中銀は、倹約重視やインフレ敵視のドイツ連銀の流れを汲み、これまで米連銀や日銀がやってきたQEに反対する意見が強かった。今春来、デフレだし低成長だからQEをやった方が良いという意見が南欧諸国などから出ていたが、EUの事実上の盟主であるドイツが反対して実現しなかった。それなのに、メルケルと仲が良いはずのドラギが演説で突然にQEの必要性を語ったので、金融界は驚いた。

 これはドラギの、ドイツに対するクーデターのようだった。ドラギのQE発言は、欧中銀上層部のドイツ勢などが事前に見るドラギの演説原稿に載っていなかった。事前に用意された演説原稿は、QEの緩和策と逆方向の、ユーロ諸国の財政緊縮の必要について延々と語っていた。ドラギは演説で、原稿に沿ってドイツ好みの緊縮論を長々と述べた後、原稿から外れて自分の言葉でデフレやQEの必要性について短く語った。これはドイツに対する反逆だった。 (Eurozone: Draghi's new deal

 ドラギの発言は唐突だったので、為替相場に短期的な影響を与えるための口だけかとも思われたが、そうでなかった。ドラギが欧州に戻った後の9月4日、欧州中銀は民間のユーロ建ての資産担保債券(ABS)を買い取る事実上のQE策を10月から開始すると発表した。欧中銀は同日利下げも実行し、銀行への貸出金利を0・15%から史上最低の0・05%に引き下げ、実質的にゼロ金利にした。 (Draghi's Case For Quantitative Easing in Europe

 中央銀行である欧州中銀によるABS債券の買い支えは、QEそのものだ。欧中銀は「米連銀のQEが米国債も買い支えているのと対照的に、われわれは国債を買い支えておらず、民間のABSのみの買い支えなのでQEでない」とする立場をとっている。しかしドラギ自身は、記者からQEの定義を問われて「(中央銀行が)銀行への融資の担保として資産(債券)を受け取るのでなく、銀行から資産を買い取った場合がQEだ」と答えている。この定義だと、欧中銀がABSを買い取ることはQEになる。 (ECB cuts rates, buys assets, skirts quantitative easing question

 ドラギや欧州中銀がQEという言葉を使いたがらないのは、ドイツやフランス、特に独がQE発動に強く反対しているからだ。欧中銀が利下げとABS買い取りを発表した直後、ドイツ連銀の総裁は、これらの政策が時期尚早だと言って、反対を明確に表明している。 (Bundesbank Chief Opposed ECB Rate Cuts and Planned Asset Buys

 9月12日にはドラギが、欧州中銀の買い支えの対象を、リスクの高い低格付けの民間債券(ABS)まで広げ、同時にユーロ圏諸国がこれらの債券に政府の債務保証を与えることを提案した。バブル崩壊の懸念が大きい高リスク債を買い支えることで、きたるべき債券バブルの世界的な崩壊を先送りしようとする策だ。ドイツ連銀総裁はこれに対しても「金融界が持っている債券のリスクを納税者(政府)に転嫁するものであり、支持できない」と強く反対した。ドイツ連銀の態度はまっとうだ。ABSに対する債務保証にはフランスも反対している。 (Bundesbank's Head Says Against Public Guarantees for Asset-backed Securities ) (Draghi Plea for ABS Support Rebuffed by France, Germany

 ドイツでは金融当局だけでなく、政界や言論界も欧州中銀の緩和策への反対を強めている。EU統合でドイツが南欧諸国の浪費のつけを払わされることに反対して支持を増やしている反ユーロ政党「ドイツのための選択肢(AfD)」などは「欧中銀の利下げで独国民の預金の金利収入が減る」「中銀に付託された権限はインフレ対策だけで、景気対策は越権行為だ」「債券買い取り策は、野放図に債券を買った金融界の失敗のつけを納税者に払わせるものだ」と欧中銀の最近の策に猛反対している。 (Many Germans fear that the European Central Bank is not on their side

 独メルケル首相の側近は、欧州中銀による債券買い取りを「ジャンクな債券を買い取る危険な策」と強く非難している。この非難は正しい。ABSは、多くの債券を束ねたうえ、破綻時の返済順位が高いもの(低金利)、中くらいのもの、低いもの(高金利)という風に輪切りにして売る債券で、08年のリーマン倒産前、返済順位が高い債券は安全だとされていたが、リーマン危機でこの安全神話が吹き飛び、格付けに関係なくABSの多くが高リスクであることが露呈している。 (Merkel Ally Slams Draghi's Plan To "Buy Junk Paper"

 2011年からの南欧の国債危機に際してEUでは、財政破綻寸前のギリシャやイタリアの国債を、財政に余裕があるドイツなどが買い支えてくれという要請が非常に強かった。ドイツの世論は、南欧の放蕩のつけを払わされることに反対し、国債買い支えは行われなかった。今回ドラギが、国債買い支えを含んでいる「QE」という言葉を使ったため、ドイツは、イタリア人のドラギが、欧州中銀を動かして南欧諸国の国債をドイツに買い支えさせようとしていると警戒し、反対している。 (Merkel unhappy with Draghi's apparent new fiscal focus - Spiegel

 ドラギは2011年からすでに3年間欧州中銀の総裁をしている。なぜ彼は、今のタイミングで盟主のドイツに楯突くクーデターを始めたのか。それを解くカギはたぶん、ドラギがクーデターを発動した場所、つまり米国にある。米連銀の視点で見ると、ドラギがドイツに楯突き、欧中銀がQEを始めてくれることは、米国の覇権の源泉になっているドルや米国債、債券金融システムの延命に役立つ。

 リーマン倒産で債券金融システムが壊れかけて以来、米国は、財政赤字を増やし、ドルを過剰発行して、システムを延命してきた。ドイツ銀行によると、世界の(米国主導の)金融システムを維持するために、昨今の金融バブル膨張が不可欠なものになっている。(国際的な大銀行がこんなことを認め始めたことは驚きだ) (Deutsche Bank: The Bubble Must Go On To Sustain The "Current Global Financial System"

 米政府がこれ以上財政赤字を増やせなくなり、ドルの過剰発行(QE)も連銀の勘定が肥大化して限界になると、米国は、自国の言うことを何でも聞く対米従属の日本に、QEと財政赤字拡大の策を命じてやらせた。安倍政権がQEや赤字拡大を始めると、国際マスコミはこれを「アベノミクス」と礼賛した。 (円をドルと無理心中させる

 しかし、日本の拡大策も間もなく限界だ。最近、円の為替がドルや人民元などに対して下落しているが、これは日銀が円を過剰発行したQEの結果であると考えられる。日本の貿易が輸出超過(黒字)なら円安は輸出競争力の増加になるが、今のように輸入超過だと、円安は輸入価格の値上がりの悪影響の方が大きくなり、国富の減少、物価の高騰、国民の貧困化につながりかねない。米国は、自国のドルや債券を延命するために、日本に自滅的なQEをやらせ、それを国際プロパガンダ機関が「良いこと」と歪曲喧伝してきたが、日本のQEも限界にきている。

 あとには、国民が軽信しているうちにQEで富を浪費して死に体になった日本経済が残されている。言論界は、日本経済の現状について歪曲ばかり発している。日本人の多くはこの先も自国に何が起きているかわからないまま、経済崩壊が進むだろう。(日本は人々の単一性が強く、社会的に崩壊しにくいので混乱が少ない。粛々と衰退していく)

 日本が吸い尽くされて限界とあらば、次に米国がドル延命のために自滅的協力を求める「同盟国」は欧州だ。ドラギが8月末から打ち出している緩和策は、金融緩和(QE)、財政赤字急増、経済構造の「改革」(米企業の参入規制緩和など)の「3本の矢」から成り立っているアベノミクスと良く似ており、「ドラギノミクス」と呼ばれている。 (Economists hail birth of `Draghinomics'

 ドラギは、盟主ドイツの姿勢に沿って財政緊縮の必要性を踏襲しつつも「減税などによって景気を刺激する必要がある」と力説している。ドラギは経済改革の必要性も説いており、米国が望むドル延命(QE)、財政を使った(米国がやれない分の)世界経済テコ入れ、(米企業のための)構造改革という「(米国に献身する)3本の矢」を推進している。 (Pushing EU governments to spend, Draghi appears to change course

 米国の高官たちは、ジャクソンホールに来たドラギに、ドイツに逆らってドラギノミクスをやってくれと頼み、了承されたのだろう。ドラギは中銀総裁を辞めた後、イタリアの大統領か首相になりたいと思っているふしがある。昨年、イタリアのベルルスコーニ元首相が、ドラギが伊大統領になりたいなら支持すると表明している。ドラギがイタリアの指導者、ひいてはEUの指導者になることを狙っているなら、米国や米金融界の後ろ盾はありがたい。米国がドラギの政治野心を支援する見返りに、ドラギが欧州中銀を使ってドル延命に協力するという秘密協定が結ばれても不思議でない。 (Berlusconi says would back Draghi as Italy president; ECB demurs

 ドラギはジャクソンホールに行く前の8月中旬、イタリアのレンジ首相と秘密裏に会い、伊経済の建て直しや経済改革について話し合っている。ドラギはレンジに「これから欧州中銀が緩和策をやるから、その波に乗れ。その代わり、一段落したら僕が首相になるよ」と言ったのかもしれない。 (Italy's Renzi, ECB's Draghi hold 'secret' meeting as economy slides

 ドラギがQEをやると表明した後、米英の国際マスコミがドラギの策を賞賛する記事を出し始めた。アベノミクス開始の時と同様の、プロパガンダ機能の発動を感じさせる。 (Mario Draghi's vision for eurozone growth

 米連銀がドラギに反独クーデターをさせて、欧州中銀にドル延命のQEをさせる策は、このまま成功するのか。そうとは限らない。ユーロ圏最大の経済力を持つドイツが不参加の状態だと、欧州中銀は主要な政策を実行できない。ドイツが賛成・参加・協力しない限り、EUは大きな経済政策をやれない。経済政策の面で、フランスはドイツに反対しない。独仏が反対するとEUは動かない。これがEUの政治力学だ。ドラギのQEは、初めの段階の小規模な債券買い取りが実施されても、それ以上にならない。 (Mario Draghi cannot launch QE without German political assent

 日本では安倍政権が、米国に命じられてQEを開始する際、自滅的なQEに反対していた日銀総裁らを更迭し、安倍をあやつる官僚機構の主導力の一つである財務省から黒田東彦が日銀総裁に送り込まれてQEを開始した。だから黒田は何でもやれる。しかし欧州では、EUがドラギに与えた権限の範囲が、通貨政策による価格の安定(インフレ回避)に限定されている。 (Can Mr. Draghi Get Germany To Spend?

 欧州中銀は5千億ユーロの資産担保債券(ABS)を買い入れる策を打ち出したが、ユーロ建てのABSの市場はドル建てに比べて非常に小さい。金融機関の売買担当者は、日々の取引量が大きくないので10億ユーロの債券を買い集めるのに3カ月かかると言っている。市場の規模から見て、5千億ユーロの債券購入は事実上不可能だ。欧中銀のQEは民間債券だけだと不十分で、ユーロ諸国の国債買い支えを含まない限り非現実的だが、ドイツが反対しているので国債買い支えは不可能だ。 (Why Draghi's ABS "Stimulus" Plan Won't Help Europe's Economy) (ECB's Draghi Sees Ways to Expand Stimulus

 ギリシャ国債危機以来、南欧の国債を(ドイツの資金で)欧州中銀が買うべきだという南欧側の主張に反論する裁判がドイツで起こされた。イツの憲法裁判所は今年2月、南欧の国債を欧州中銀が買い支える策をEU条約違反とみなし、ドイツ連銀が中銀のこの策に参加することを禁じる判決を下した。つまり欧中銀はすでに、国債買い支え策でドイツの支持を得ることができない。今後、欧中銀のQE策自体に対する違憲性(EU条約違反性)を問う裁判も予定されており、提訴とともにQEは法的にもドイツの支持を得られなくなる。 (Mario Draghi cannot launch QE without German political assent

 今回の件をドイツから見ると、米国がドイツ主導のEUの金融政策に介入し、ドラギをそそのかして反独クーデターを起こさせた内政干渉の問題だ。これは、2月のウクライナ危機以来急減しているドイツの米国に対する信頼を、いっそう減らすことにつながる。ドイツは米国の介入への対応策として、欧州中銀の主導権がドイツにあることを示す必要性に迫られている。米国からの再介入を防ぐため、中銀に対するドイツの手綱が強まるだろう。

 今回の件は、米政府の信号傍受機関NSAがドイツの高官たちをスパイしていた件や、ドイツが迷惑している米国の馬鹿げたウクライナ介入策と相まって、ドイツが米国の覇権下から出てEUを率いて自立していく動きを強める(多極化促進の)働きをする。最近は、NSAなど米英の諜報機関がドイツの電話会社からこっそり通話記録を得ていたことが独雑誌によって暴露され、ドイツが米国に愛想をつかす傾向に拍車をかけている。 (US, UK spying on German telecom

 ウクライナ危機は、独露が話し合ってEUがウクライナとの経済協定の締結を延期することを決め、事態の安定化に向かい始めている。米国を絡めず、欧州(独仏。反露な英をのぞく)が直接ロシアと交渉した方がはるかにうまく行く。世論調査によると、すでにEUの人々の半分は、EUが米国に介入されずに国際問題に取り組んだ方が良いと答えている。 (EU-Ukraine integration pact postponed till 2016 after talks between Moscow, Kiev & Brussels) (Half of Europeans want to tackle international issues without US meddling

 米国の上層部は、欧州中銀がドイツの支配下にあることを良く知っていたはずだ。ドラギをたぶらかしてQEをやらせる策はうまくいかないと事前にわかっていただろう。それなのに米連銀はドラギをたぶらかし、ドイツを激怒させて米国に愛想をつかせる方向に傾かせている。米国のやり方は隠れ多極主義的である。

 とはいえ、もし9月18日のスコットランドの独立を問う住民投票で独立支持が勝ち、英国やスコットランドからの資金逃避が激しくなり、それが欧州大陸に波及するなどして、欧州の金融が大混乱になると、ドラギのクーデターが、ドイツをしのぐ新たな局面に入るかもしれない。英国からの資金流出は、すでにリーマン倒産後の最高額になっている。スコットランド投票でなく、その後の何か他のきっかけで欧州金融界が混乱するかもしれない。事態はまだ動いている。 (UK Suffers Biggest Capital Outflow Since Lehman As Scottish Vote Nears



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