他の記事を読む

貿易協定と国家統合

2013年8月12日   田中 宇

 世界各地で、大国間ないし多国間の貿易協定の交渉が進んでいる。日本は、米国などとのTPPの交渉に参加した。米国は6月から、EUとの貿易協定の交渉を本格化している。ブラジルはEUに貿易協定を結ぼうと提案した。中国は、明示的な貿易協定の代わりに、経済的な戦略関係を構築するかたちで、世界各地の諸大国と、実質的な貿易協定を結んでいる。BRICSそのものも、新興諸国間の貿易体制を深化させている。大国間の組み合わせの数だけ、貿易協定もしくは交渉が存在している感じだ。 (Transatlantic trade deal secretly pushed amidst the NSA scandal) (Brazil reaches out to EU for trade deal

 世界にはもともとWTOや、その前身のGATTといった、単一的な貿易協定の枠組みがあり、それなりに機能してきた。WTOの交渉は、01年にドーハラウンドが始まったが、その後、知的所有権などいくつもの新たな分野で交渉が頓挫し、そのままになっている。各国が個別ばらばらに貿易交渉を進めるより、世界単一の貿易の枠組みがあった方が、効率的であり、世界経済の発展への寄与が大きい。あるべき論で考えると、世界の諸大国は、WTOで難航している交渉を進めてドーハラウンドを成功させ、WTOを再生すべきだ。しかし実際のところ、各国はWTOを無視し、在野で2国間・多国間の貿易協定の交渉を進めている。 (世界貿易体制の失効

 第二次大戦後、GATTやWTOといった世界的な自由貿易交渉を率いてきたのは、覇権国の米国だった。米国は交渉の先導役として、自国にとって有益な国際貿易体制を発展させることができた。しかし近年、米国はドーハラウンドを事実上放棄し、TPPやNAFTA、米欧、米韓FTAなど、在野の貿易協定を次々と推進し、率先してWTOを崩壊させている。

 今月8年の任期を終えるWTOのパスカル・ラミー事務局長は、FTのインタビューで、TPPや米欧FTAなどの交渉を批判している。彼は「米政府は、TPPや米欧FTAについて、いずれWTOの世界貿易体制の一部になるものを部分的に先行させているのだというが、実際には誰も、TPPなどとWTOとの整合性をとることなど考えていない」と語っている。 (Pascal Lamy questions US-led regional trade talks

 ラミーはまた「インドや中国の強硬姿勢が、WTOの交渉前進をさまたげている」と、米国批判の後の返す刀でBRICSを批判している。実際のところ、WTOの交渉が進まないのは、米国かBRICSのどちらかが「悪い」からでない。イラク戦争失敗やリーマンショックによって米国の覇権が低下し、米国の影響力が落ちた分を、中露などBRICSが穴埋めし、WTOやIMF、国連安保理など国際機関における議論で、以前に比べて米国(米欧、米英)の主張が通りにくくなった。米国の提案に中露が反対すると、その反対論を多くの途上諸国が支持し、米国案が潰されたり、譲歩を余儀なくされる。 (Emerging economies gain more clout in world trade

 米国の影響力は落ちているが、世界には米国の力に頼ろうとする対米従属や親米の諸国が多い。米政府に対して影響力を持つ米国の財界や金融界は、世界でより大きく儲けるには、WTOで新興諸国に譲歩して米国の儲けが少ない貿易体制を推進するよりも、WTOなど放棄し、在野で親米諸国に直接に圧力をかけて貿易協定を結んだ方が良いと考えるようになった。その結果、ドーハラウンドは頓挫したまま、TPPや米欧、米韓FTAなどが推進されることになった。新興諸国の方も、米国がそういう態度なら仕方がないと、WTO外の在野の貿易協定の交渉に精を出している。

 米国の覇権は衰退しつつある。米国の債券金融システムの危機再燃の可能性が依然として高い。今後、米国覇権の崩壊が進み、世界が多極型の覇権体制に転換していくと、いずれWTOやIMF、国連などにおけるBRICSの発言権が増大し、米欧も多極型の国際社会を容認するようになり、WTOの交渉が、こんどはBRICS主導で再び動き出し、世界の貿易体制が再び単一型に戻るかもしれない。その「いずれ」がいつ来るか、私には、今のところわからない。米国の覇権が延命する限り、今のようなばらばらな世界体制が続く。

(早ければ米連銀が今秋QE3をやめた後、債券危機が再燃すると予測されるが、危機は、バーナンキ連銀議長がやめて来年サマーズが連銀議長になった後まで延命策がとられるかもしれない) (Lawrence Summers and money

 中国など新興諸国は、ドルを使わない貿易決済体制を、いくつもの2国間の協定の積み重ねとして実現しつつある。これも、IMFでの新興諸国の発言権が拡大せず、G20における国際基軸通貨体制の組み直し議論も進まない中で、新興諸国が代替策として採っていることだ。9月のG20サミットで、再び国際基軸通貨体制の組み直し議論がおこなわれることになっている。 (「ブレトンウッズ2」の新世界秩序

 世界中のドルの国際決済は、すべて米国のニューヨーク連銀をいったん経由するシステムになっている。米国は01年の911後、テロ資金監視と称し、米国とまったく関係ない中露と途上諸国間のドル建て貿易決済を監視するなど、中露を苛立たせている。このことも、中露や途上諸国が、ドルに代わる多極型の国際基軸通貨体制を希望する理由になっている。ドル離れは米国が誘発していることでもある。 (G20 Showdown on dollar Hedgemony

 戦後のGATTやWTOの交渉によって、世界各国の関税率は、かなり低下している。特に先進諸国間では、工業製品の多くが無関税か、それに近い低率の関税だ。世界的ないし個別の貿易交渉において、関税引き下げは、すでに最重要の題目ではない。代わりに主題になっているのが、製品の安全基準の厳しさや、環境問題、知的所有権、産業育成のための補助金の有無、食糧自給政策と絡む農業問題、健康保険や年金など公的部門の民営化の問題、はては消費者の民族的な好みの問題までの、非関税障壁についてである。 (Japan Boosts the Trans-Pacific Partnership

 これらの広範な非関税分野は、その国の鉱工業、農業、社会保障、教育などの根本的な政府の政策や国家戦略、社会的な慣行に関わる問題だ。貿易問題というよりも、他国との間で経済社会政策の違いをなくしていくことだ。強い国が弱い国に、この分野の転換を見返りなしに求めると「内政干渉」「植民地化」になる。もしくは政策や風土がかなり異なる独仏伊西などが政策の違いを乗り越えて経済行政を統合していこうとする「EU統合」と同じ分野だ。

 関税引き下げを超える非関税分野の貿易協定は、国家統合に近いものになる。世界中の国々が国家統合していくことなどできないのだから、関税交渉が一段落して非関税分野に入っていったWTOのドーハラウンドが難航するのは当然だった。EUは25年前から明示的に国家統合を進めてきたが、他の地域の諸国も、貿易協定の交渉をする段階で、意識しないうちに、他国との国家統合(国権の一部放棄)を容認していることになる。

 国力比から考えて、米欧FTAの交渉は米国とEUが対等な関係で国家統合的だが、TPPは米国が他のアジア太平洋の中小の国々を「植民地化」する感じだ。小国は多くの場合、経済的な自給ができず、安全保障面でもどこかの大国に従属するのが国家運営の早道だ。米国はグアム、プエルトリコ、サモアなど、植民地的な準州の島々をいくつか持っている。概念的に、それを経済分野に限定して拡大したものがTPPだと考えられる。米国は1990年代、カナダ、メキシコと国家統合していくNAFTAを計画したが、あれの小規模な焼き直しがTPPであるともいえる。 (国権を剥奪するTPP

 TPPは徹底した秘密交渉で、米国は大統領府(ホワイトハウス)が米財界の意見を聞きながら、議会に何も報告せず進めている。日本は外務省など官僚が、首相官邸と直結して進めている。交渉内容がマスコミや議会に流出すると国民的な議論になり、国権が侵害されていることが顕在化し、交渉に反対する世論が勃興するので、完全秘密交渉で進められている。

 このように考えると、日本がTPPに入ることは、日本という経済大国が、グアムのような小さな存在(もしくはメキシコという荒れた存在)にまで自国を矮小化・弱体化していく行為に相当する。日本の「自己矮小化」「自己弱体化」の国家戦略は、対米従属のためである。もう少しましな言い方をすると、日本のTPP加盟は、日本がNAFTAに入り、米国主導の国家統合の仲間入りをさせてもらう方向性だ。これは日本にとって主権の(部分的な)放棄になる。 (さらに弱くなる日本

 戦後日本で権力を保持してきた官僚機構の基本的な国家戦略は対米従属であり、不可逆的に米国の一部になるのは、願ってもないことだ。安倍首相は「TPP参加は日本の安全保障だ」と言ってきた。その意味は、TPPに参加すると日本の国権の一部放棄や経済的な不利益の見返りに、日米の安保同盟を恒久化できるということだ。 (TPPより日中韓FTA

 しかし、米国は覇権を失いつつある。米国が今後も末永く単独覇権国であるなら、国権と国民的経済利益を棄てて対米従属にしがみつくのも意味があるが、世界の流れはそうでない。米国は中産階級が崩壊していく過程にあり、今後大衆消費社会から遠ざかる。日本製品の輸出先として未来がない。米国に従属する利得はここ数年、劇的に低下している。中産階級が急増しているのは新興市場諸国であり、日本の近くでは中国だ。経済面でいうと、TPPより日中韓FTAの方がずっと重要だ(中国経済はしばらく前の減速・崩壊しそうな感じを薄めている)。 (China's flood of July economic data show improvement in most areas.

 しかもTPPの「植民地化」の主役は、米国の政府でなく財界・大企業群だ。米国の政府が日本を植民地化し、それが終戦直後のGHQが再来に近いものであるなら、政治の民主化(官僚支配の破壊)など、日本にとって良いこともあるかもしれない。しかし植民地化の主役は、大企業群である。TPP交渉において、米大統領府は米財界と密接に審議し、米企業が満足する貿易体制をめざしている。米企業は、日本人の生活がいかに悪化しようが、農業が潰れて地方の過疎化が激化し国土が荒廃しようが、日本の健康保険制度が民営化されて米国のメディケアのようにひどいものになろが、米国のように解雇が簡単でパートタイムの仕事ばかりの労働状況になってもかまわず、企業の短期利益だけを追求するだろう。 (米雇用統計の粉飾

 なぜ日本の官僚機構は、国家経済や国民生活を破壊してまで対米従属に固執するのか。日本が国家戦略として対米従属を維持しようとしていることが顕在化したのは1970年前後、ベトナム戦争の敗北を認めた米国が、ニクソン訪中で中国と和解し、沖縄を日本に返還し、在日米軍を撤退し始め、日本の政治軍事的な自立を容認し始めた時だ。日本政府は「自衛隊の準備ができていない」として軍事的な自立を遅らせようとする姿勢を採り、やがて在日米軍の駐留費を負担するようになり、今に続く対米従属の国是となった。70年代から40年以上も経つのに自衛の準備ができないのは、あまりに奇妙だ。隠然と意図的な戦略と考えるのが自然だ。 (日本の権力構造と在日米軍

 日本と並んで、経済力があるのに対米従属に固執している国として、サウジアラビアがある。サウジが対米従属に固執する理由は、米国の傀儡から抜けて自立すると、独裁的なサウジ王政を潰して民主化を実現しようとする国内の政治勢力(ムスリム同胞団からアフガン帰りまでのイスラム主義者たち)が勃興し、王室が政権を転覆されてしまうからだ。

 日本の権力機構である官僚体制は、サウジのように単純でなく、隠然としている。彼らは第二次大戦の敗戦時、米軍政府(GHQ)が天皇と軍部と政界(戦争を遂行した政治家群)を無力化してくれたため、日本で唯一の権力機構となり、冷戦のアジア波及(1953年の朝鮮休戦)後に作られた自民党を、言いなりになって動く「おみこし」として担ぎつつ、軍隊の復権を禁止し、宮内庁が天皇の発言の機会(つまり政治力)を封じ込めて、事実上の官僚独裁制を維持してきた。

 官僚機構、特に外務省は、米国という「お上の御意」を、官僚に都合の良いように勝手に「翻訳(解釈)」する権限を握り、これが事実上の日本の執政権だった。日米同盟が希薄化し、米国という「お上」がいなくなると、日本の政界(国民が民主的に選んだ国会議員)が、官僚を押しのけて意志決定したがる「民主化」が起きてしまう。事実、米国の覇権衰退が如実になったリーマン危機後の09年にできた民主党の鳩山政権は、官僚機構の最高調整(意志決定)機関である事務次官会議を廃止し、対米従属の大黒柱である米軍駐留の終了をめざすなど、官僚の権力を剥奪する試みを急拡大した。

 官僚機構は、マスコミなど傘下の勢力を全力動員して鳩山を抑制し、小沢一郎に濡れ衣の罪を着せた。後続の菅直人政権に入り込んで縛りをかけ、311の大震災で「防災に行政(官僚)の力が必要だ」という理屈を作って、事務次官会議を防災会議(各府省連絡会議)として復活し、その後は東日本大震災の「復興」を恒久化することで、官僚権力を復活し、昨年末の選挙ででき自民党の安倍政権を、かつてのように「おみこし」としてかつぎ、官僚は完全に復権した。 (民主化するタイ、しない日本

 官僚機構は、鳩山政権のような民主化(官僚政権の転覆)が二度と起きないよう、自分らの権力を恒久化するため、米国が金融危機再燃で崩壊してしまう前に、日本と米国から二度と離れられないよう、完全従属させたい。そのためにTPPはうってつけだ。

 311以前、日本のマスコミでは、大地震が起きる可能性を明確に書いた記事が、人々の不安をあおるものとしてタブーだった。震災予知は不確定なものだ。しかし311後、今にも大都市圏で大地震が起きるかのような記事がマスコミに大々的に載る。これは、地震予知の技能が上がったからでなく、官僚機構が「防災」を軸にした新たな自分らの権力体制を維持するため、国民の不安をあおって「お役所は大事だ」と思わせる新戦略だろう。「きずな」万々歳である。

 米国が衰退して中国が勃興するなら、日本の官僚機構は、従属相手を米国から中国に切り替えてすりより、自分らの権力を維持する方法もあり得る。しかし中国が傀儡国を相手にするときの基軸は、執政党どうしの関係、中国共産党と相手国の政権党の関係だ。中国と、北朝鮮やカンボジアとの関係を見ると、それがわかる。鳩山政権の時、小沢一郎は民主党の600人の政治家を連れて中国を訪問し、中国共産党の幹部群と交流した(長城計画)。この手の政治家どうしの関係を軸として中国が日本を支配すると、日本の官僚機構は外され、日本は政治家が権力を持つ国になってしまう。これは官僚機構にとって受け入れられないので、中国は対米従属の裏側としての「敵」であり続けねばならない。 (強まる日中韓の協調



田中宇の国際ニュース解説・メインページへ