世界貿易体制の失効2007年6月26日 田中 宇6月21日、ドイツのポツダムで行われていたアメリカ、EUとインド、ブラジルとの貿易交渉が、決裂に終わった。この破談によって、WTO(世界貿易機関)の「ドーハラウンド」は事実上失敗し、米英が「自由貿易」の旗頭のもとに世界の貿易体制を管理してきたWTOの体制も、崩壊に瀕している。(関連記事) 国際機関であるWTOは、国際協定だったGATTの時代から、ウルグアイラウンド、東京ラウンドなど8場の交渉を積み重ね、世界的な関税引き下げや、貿易紛争処理などを実現してきた。最新のドーハラウンドが失敗しても、かたちの上では、これまでのWTOの成果が失われるわけではない。だが、世界経済は、従来の先進国(G7)が支配する体制から、中国、インドなどを中心とした発展途上国が強い新体制へと転換している。(関連記事) ドーハラウンドは、先進国が作ったWTOの世界貿易体制に途上国を組み込むための交渉だった。交渉決裂によってWTOは、いまや世界経済の半分を超えて拡大している途上国を組み入れることに失敗した。WTOは世界経済の新体制に対応できなかった。アメリカの経済専門家フレッド・バーグステンは、昨年末の論文で「ドーハラウンドが失敗したら、WTOの信頼性と存在意義は大きく失われる。他国間の貿易協定そのものに対する信頼が失われる」と指摘し、貿易保護主義の台頭を警告している。(関連記事) (バーグステンは、すでに2004年の論文で、世界経済の危険な点として、貿易保護主義の台頭のほか、アメリカの財政赤字と経常赤字の急増によるドル暴落の可能性を指摘している。その後の世界は、彼が懸念した通りの展開になっている)(関連記事) ▼米ファストトラックの失効がWTOの命取り 今回失敗したポツダムの貿易交渉は、6月末にアメリカ政府の持つ「ファストトラック」の貿易交渉権が失効するのを前に、駆け込み的にドーハラウンドの話をまとめようとしたものだ。インドとブラジルは、発展途上国の集団(G20)の代表者として欧米との交渉に臨んでおり、ポツダム交渉が成功していたら、その決着を、7月に開くWTOの全体会議で可決し、WTOのドーハラウンドの取り決めとして決定する予定になっていた。ポツダム交渉の失敗によって、ファストトラック失効前に話をまとめることは不可能になった。(関連記事) ファストトラックは、アメリカの行政府(ホワイトハウス)と連邦議会との取り決めで、行政府が外国政府と交渉して決めた貿易協約について、議会が細かい注文をつけず、丸ごと認めるか拒否するかという二者択一の反応だけをするという決まりである。(関連記事) 米議会に対しては、米国内の各産業からさまざまな圧力がかかっている。他国との貿易協約について、議会が細かい注文をつけられるようにすると、農業団体、製薬業界、自動車産業など、いろいろな団体が圧力をかけ、自分たちの分野の条文を改定してしまうので、政府間でまとまった話が壊れてしまう。全体としてはアメリカ経済にとってプラスになる貿易協約が、一部の産業のわがままによって壊されるのは良くないということで、1974年以来、断続的にファストトラックの決まりが設けられている。(関連記事その1、その2) 現行のファストトラックは2002年から5年間の期限で設定されており、その期限が6月末に来る。米政界では、大企業寄りの共和党は、FTAやWTOなど貿易協定の締結に積極的だが、労組が支持基盤の一つである民主党の中には、自由貿易体制はアメリカの勤労者にマイナスだという主張がある。昨秋の中間選挙で民主党が議会の多数派を握っている状況で、ファストトラックの延長は不可能になっている。議員の間からは、ポツダム交渉が成功し、WTOのドーハラウンドが決定されるなら、そのためにファストトラックを延長しても良いとの提案も出ていたが、ポツダム交渉の失敗によって、その話も消えた。(関連記事) ブッシュ政権は今年5月10日に、すでにファストトラックの失効を見込んで、議会の民主党との間で、行政府は今後の他国との貿易協約に際し、民主党が求める労働や環境の問題を織り込むので、議会側は貿易協約の可決に協力するという約束を取り交わした。このあおりで、すでに政府間で合意に達していた、アメリカと韓国、コロンビア、ペルー、パナマとの4つのFTA(2国間貿易協定)は、再交渉しなければならなくなった。このうち韓国とコロンビアは、うまくいく可能性が低い。(関連記事その1、その2) アメリカで前回、ファストトラックが失効したのは、行政府が民主党のクリントン政権、議会の多数派が共和党という「ねじれ」が起きていた1994年で、次にファストトラックが成立するまで7年かかっている(大統領選挙によって、行政府がブッシュの共和党になったので再び成立した)。今回の失効で、今後、再来年の大統領交代後まで、再びファストトラックが成立することはないだろう。民主党は、貿易保護主義の傾向を強めているので、その後の次期政権下でも成立しないかもしれない。(関連記事) ファストトラックなしでは、アメリカが2国間、多国間の貿易協定を結ぶことは難しくなる。諸外国は、せっかくアメリカの行政府と協約を結んでも、議会に難癖をつけられて改変されると知っているので、アメリカと貿易交渉したがらなくなる。その間に世界経済では途上国の力がさらに強くなり、先進国の支配力が低下して、先進国主導のWTOの力は弱まりそうだ。アメリカの官僚や財界人には、EUや中国がアメリカ抜きで貿易交渉をするようになるのではないかという懸念もある。(関連記事) ▼ウルグアイラウンドへの不満が出発点 2001年からのドーハラウンドの交渉は、それまでの貿易交渉で団結しておらず、先進国の言いなりだった発展途上国が、初めて団結し、先進国が書いた筋書きを拒否したという点で、画期的である。 世界各地の途上国の政府で、貿易交渉などにあたる高官の多くは、欧米の大学を出て、欧米の思考方法を身につけた人々だ。彼らは従来、母国を発展させ欧米化することを目標にし、欧米が考えたWTOの自由貿易体制に協力するのが良いと考える傾向があった。明らかに途上国の不利になる部分は拒否しても、WTOの交渉全体を拒否するのは避けてきた。WTOの自由貿易体制は、途上国を含む全世界にとって良いものであるとされてきた。 しかし、1986年から94年に協議されたWTO(GATT)のウルグアイラウンドに対し、途上国の間からは、先進国の利益が優先され過ぎているという不満が強くなった。この時期、アメリカとイギリスでは、金融・サービス業の自由化が進み、米英は、自国の自由化を世界中に広げるためにWTOを使った。 ウルグアイラウンドでは、世界各国の金融・サービス業の市場開放、海外からの投資規制の緩和がテーマにされた。海外からの投資を開放した途上国には、欧米などからの資金が流入したが、投資は短期的・不安定で金融危機を誘発しやすく、中南米、東南アジア、ロシアなどでの通貨危機につながり、途上国経済を破壊した。途上国は欧米(米英)中心の世界体制と、米英中心で進められる経済グローバリゼーションに疑問を持つようになった。知的所有権に関する欧米のがめつい態度も問題になった。(関連記事) ウルグアイラウンドで積み残された、途上国を自由貿易体制に組み入れる件と、農産物貿易、知的所有権などをテーマにして、1999年にWTOの新ラウンドの交渉が、アメリカのシアトルで開催され「シアトルラウンド」と命名されかけた。しかし、シアトル会議は、欧米市民団体による反グローバリゼーションの政治運動に席巻され、市民運動に扇動され、途上国の政府代表の中からも交渉自体のあり方に反対する主張が出て、最終報告をまとめられないまま流会した。WTOの新ラウンドは、その次の2001年のドーハ会議(中東カタール)で何とか開始されたが、途上国と欧米との対立は解けなかった。(関連記事) ▼途上国を団結させたドーハラウンド ドーハラウンドの交渉は、先進国が自国の農業に対する補助金を削減し、途上国の農産物の競争力が相対的に上がるようにする代わりに、途上国は工業製品の輸入関税を引き下げ、先進国が輸出しやすくするという取引を成立させるシナリオだった。だが、2003年に開かれた次のカンクン会議(メキシコ)では、再び世界から反対運動の活動家が結集する中で、途上国は、先進国が出した条件が悪すぎると言って拒否し、合意できなかった。 会議の過程を通じて途上国間の結束が高まり、カンクン会議の直前、インド、中国、ブラジル、南アフリカを中心とする21カ国の途上国が集まって「G20」(G21とも言う)を結成した。ドーハラウンドの交渉は、先進国(米とEUが中心)と、G20の代表であるインド、ブラジルなどとの交渉になった。(関連記事) 従来、欧米が書いたシナリオを拒否することを自らタブーとしてきた途上国の代表たちは、秩序破壊好きの国際市民運動に扇動され、途上国間で結束して欧米提案を拒否する行動を通じて自信をつけ、タブーを乗り越え、欧米への追随と協調ではなく、G20など途上国間で結束し、欧米に対抗するやり方を身につけた。中国からジンバブエまでが参加するG20は、参加国間の貧富の差や国家規模の大小の開きが大きく、結束が永続するかどうか疑問だが、今のところ欧米による世界支配を打ち破るという点で結束している。またG20は、中心をなす中国、インド、ブラジル、南アといった「途上国の中の大国」の間の結束が、強さになっている。(関連記事) 06年末までを交渉期限としていたドーハラウンドは、03年のカンクン会議の後、2005年のパリ会議、香港会議、06年のジュネーブ会議と交渉を続けたものの、途上国の拒否は強く、話がまとまらなかった。期限を半年延長し、今年6月末のアメリカのファストトラックの失効を新たな期限として、今回のポツダム会議を開いたが、それも決裂した。 ドーハラウンドでは、途上国が農産物を輸出し、先進国が工業製品を輸出することを想定しているが、中国やインド、メキシコ、タイ、チリなど、G20加盟の途上国は、工業製品の輸出による経済発展を始めており、経済発展の結果、途上国が農産物を輸入する傾向も強まっている。先進国は、すでに過去50年間のGATTの交渉によって、工業製品の輸入関税を、かつての40%から、今では平均4%にまで下げている。中国やインドが、欧米や日本に工業製品を輸出する際には、関税はほとんどかからないので、この点について途上国は、今さら何も交渉する必要はない。 つまり途上国にとっては、新たにWTOで先進国と交渉する必要はあまり感じられず、自国の輸入関税の引き下げや、国内での違法DVD取り締まりなど知的所有権問題に取り組まねばならなくなる分だけ、ドーハラウンドにまじめに取り組むと損をする。先進国から見れば「ただ乗り」だが、現状は、中国、インドなど大きな途上国にとって有利になっている。 ▼先進国が世界貿易体制を支配した時代は終わる 今後、アメリカは、次にファストトラックを成立させるまでの何年間か、事実上、貿易協定を結べなくなる。残されたEUと日本だけの先進国側は弱く、WTOの交渉は成立しない。今後は、世界全体を対象にしたWTOの交渉に代わり、2国間や多国間のFTA交渉が多くなりそうだ。先進国が世界貿易体制を支配した時代は終わる。 アメリカの後ろ盾を失ったEUや日本は、中国やブラジルなどと同等の交渉力しか持たず、ともすると途上国間で結束しているだけ、むしろ中国やブラジルの方が強くなる。数年後、次にアメリカがファストトラックを復活させても、そのころには途上国側が今よりさらに強くなっており、先進国が支配権を取り戻すのは難しくなっているだろう。 中国は、ASEAN+3(中国、日本、韓国)でアジアのFTAを作ることを構想している。アメリカと韓国のFTAが実現していたら、そこに日本も入り、中国を外した日米韓のFTAがあり得たが、アメリカのファストトラックの失効により、もはや米韓FTAすら実現しそうもない。中国を外した日米韓のFTAより、アメリカを外したASEAN+3のFTAの方が実現性が高くなった。「対米従属・反中国」にこだわり続けると、日本の経済発展は失われる。(関連記事) アメリカでは、人民元の為替問題をめぐって、中国からの輸入を規制する法案が議会で審議されるなど、貿易保護主義の傾向が高まっている。しかし同時に、アメリカは政府も個人も赤字が拡大し、消費力が減退していく過程にある。従来は、アメリカは世界から商品を輸入して消費し、世界経済の牽引役を果たしてきたが、その機能は失われつつある。そのため、アメリカが今後、貿易保護主義を強めても、世界経済に対する悪影響は、従来よりも減っていくと予測される。(関連記事) WTOの行き詰まりで世界の自由貿易体制が崩れ、アメリカで保護主義が台頭することは、世界経済がブロック化して世界大戦に突入していった第二次大戦前の状況に似ていると懸念する声が出てくるかもしれない。だが、私が見るところ、状況は第二次大戦前とは異なる。第二次大戦は、世界支配を維持したいイギリスが、後から台頭した日本やドイツを潰すため、ブロック化を誘発し、国際不干渉主義だったアメリカを日独との対立関係の中に誘い込んで開戦した、イギリスの企画に基づく戦争である。ブロック化は、英米と日独との対立を深めるための、イギリスの意図的な戦略だったと見ることができる。 これに対して昨今の状況は、アメリカの支配下にあるIMFなどが90年代後半から、途上国に嫌われるがめつい「借金取り」的な政策を展開し、さらに911後はアメリカがイギリスの制止も聞かずに単独覇権主義に走り、経済的に行き詰まってアメリカ自身が保護主義を強めており、英米を中心とする先進国と、中国・ロシア・インド・ブラジルなどを中心とする非米的な途上国とが対立している。この対立は、アメリカの多極主義者による、非米諸国を勝たせて世界を多極化するための動きとも感じられ、戦前のブロック化が持つ方向性とは逆の、米英の負けになる方向のものである。米英は分裂し、弱くなる傾向にある。
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