第4章:歴史各論2011年9月19日 田中 宇
これは「新刊本・第3章:世界のデザインをめぐる200年の暗闘」の続きです。 前章では、ざっと世界の200年の暗闘史を書いた。話が巨大で、表裏がある深いものなので、全体を簡潔に見渡すだけでも、かなり長くなってしまった。ここまで書いてきたことでは、説明しきれていない部分が多い。本章は、200年史の全体を通し、各論的な話を書いていきたい。前章の繰り返しもあると思うが、ご容赦願いたい。 ★多極化とポストモダン 今、世界的に起きている「多極化」は、1815年のウイーン体制から200年続いてきた英米の覇権が崩れ、世界の覇権体制が多極型に転換していく流れだ。英米覇権を欧米中心体制と言い換えれば、今の多極化は、1492年前後のコロンブスらの航海とスペイン・ポルトガルによる「世界分割」以来の(もしくは1453年に東ローマ帝国がオスマントルコに滅ぼされ、東方の知識人がイタリアに移動したことによるルネサンス以来の)500年間の欧米中心の世界が終わることを意味している。多極化は、人類史上、200年から500年に一度の画期的な出来事と考えられる。 コロンブスやルネサンス以来の500年間は、西洋史の区切りで「モダン」の時期にあたる(モダンの訳語は「現代」ないし「近現代」であるが、日本では近代を明治維新以後、現代を第2次大戦後と見なすことが多く、欧米の歴史概念と異なるので、ここでは訳語を使わず、モダンという片仮名を使う)。500年の欧米中心のモダンの時代が終わることは、今後、モダンの後の時代、つまり「ポストモダン」が到来することを意味しているように見える。そこで今回は「多極化はモダンの終わり、ポストモダンの始まりなのか」という歴史的な考察をしてみる。 「ポストモダン」は「モダンより後の時代」という意味を持つ言葉だ。だが、世の中で「ポストモダン」(Postmodernity)とか「ポストモダン主義」(Postmodernism)と称されているものについて調べても、モダンの次にどんな時代がくるか、何がどうなったらモダンが終わってポストモダンになるかということに関する具体的な手がかりは、ほとんど得られない。 建築、美術、文系評論、哲学などの分野に、ポストモダン主義と称するものが存在する。哲学の分野では「モダン主義(モダニズム)」が、同一性(アイデンティティ)、統合、権威、確実性などを包含するのと対照的に、ポストモダン主義は、同一性と反対の差違性、統合と反対の多様性、権威と反対の(著者の権威でなく)作品自体を重視する姿勢、確実性と反対の懐疑心などを重視している。 モダンの時代には、国民国家の形成が重要であり、そのために国民の「統合」、国家の「権威」や客観性の涵養が重要だった。だが、第2次大戦後の欧米先進諸国では、国民国家の体制がほぼ完全に確立し、国民国家の強化というモダン主義の(隠れた)目的を推進することが、もはや重要ではなくなった。 そのためポストモダン主義は、国民国家を形成してきたモダン主義の哲学的・精神的な支柱を破壊(脱構築、解体、deconstruction)する方向性を持っている。しかしポストモダン主義は、モダン主義に対する破壊的、あまのじゃく的な態度以上に、モダンの次に何が来るのかということを提示していない。とりあえず言ってみましたという実験的な言説の領域から出ていない。 工業社会から「高度情報化社会」への転換をポストモダンととらえる向きもあるが、そもそも18世紀からの産業革命の中に情報通信の高速化、多様化、産業化が含まれており、情報化はモダンの範疇である。情報化が高度になってもモダンの範疇を超えた状況が生まれているわけではない。インターネット産業も、儲け口が広告もしくはコンテンツ利用料(購読料など)であり、モダンの手法にとどまっている。 EUは国民国家の超越を目指しているのでポストモダンな試みだが、経済は統合されたがナショナリズムの統合は進まず、政治的にモダンのままである。国家を超えた経済の統合や経済グローバリゼーションは第一次大戦前からの現象で、ベニスのユダヤ商人の地中海貿易に象徴されるように、資本主義は最初から国際的であり、モダンの範疇だ。 工業に代わって金融が経済の中心になったことはポストモダン的だが、1985年以降の米英中心の債券金融の急成長は、結局のところバブルであり、08年のリーマンショック以降大崩壊が続き、今後もっと崩壊していきそうな感じだ。米英に代わって経済的に台頭している中国などBRICは、鉱工業が産業の中心だ。中国政府は国民の愛国心をあおり、国民国家体制の強化に余念がない。これも「まるでモダン」である。今回の記事の結論を先に書いてしまうことになるが、金融産業の席巻という、ここ四半世紀のポストモダン的な現象は、バブルとして崩壊し、それと同時に起きている覇権の多極化は、モダンの再台頭である。 ポストモダンという言葉は1910年代からあり、多くの事象がポストモダンと称されてきたが、一つ一つ考えていくと、いずれも実はモダンな事象でしかない。とりあえずポストモダンと呼んでおけば格好いいので、あとは難解な文章でごまかそう、という浅薄さが、学界の周辺にあると感じる。ポストモダンという言葉にいかがわしさを感じているのは、私だけではないだろう。いかがわしさこそ、権威や確実性というモダンを超越するポストモダンの風合いだと言う人もいるが。 ポストモダンと称するものが、モダンの次に来るものを明解に示せない以上、代わりの策として、そもそもモダンとは何か、多極化によってそれが終わるのかどうかを考えた方が早い。 モダン(modern)という言葉は、ラテン語の「今(modo)」に由来し、ローマ時代末の5世紀に、キリスト教化された「今の時代」を、それ以前の多神教時代と区別するために作られた言葉だった。この用法はルネサンス後に逆転し、欧州がキリスト教の縛りから逃れていく「今の時代」を、それ以前のキリスト教に縛られた中世と区別するために「モダン」という時代区分が使われることになった。それまでの「神」が社会を席巻していた中世に代わって、今に至る500年のモダンの時代は「人間」が社会を席巻した。モダン主義は、人間の能力や人造物を賛美し、人間が進歩し続ける概念を提起し、宗教の政治支配を打破する政教分離を内包した。 経済で見ると、モダンは資本主義の時代である。中世の欧州では、金儲けもキリスト教会によって規制され、異教徒であるがゆえに金儲けの民族であることを黙認されたユダヤ人は隔離されていた。だが宗教改革とともに縛りが破れ、金儲けは個人の自由であり、努力して金儲けするのを良いこととみなすプロテスタント教会が出てきた。これが今に連なる資本主義の起源であり、プロテスタント系のキリスト教を信奉したオランダやドイツ、英国は、ユダヤ人にも寛容で、ユダヤ人の商業ノウハウが導入され、経済発展につながった。特に、経済発展を国家の海軍力とつなげた英国が最強となった。このように、資本主義の起源を、宗教改革や、その源流であるルネサンスに求める考え方があるため、東ローマ帝国の滅亡が、資本主義の時代であるモダンの発祥と考えられている。 欧州の資本主義の発祥はルネサンスであるとしても、資本主義が開花したのはもっと後で、18世紀末の産業革命とフランス革命(国民国家革命、国民革命)がきっかけだ。フランス革命から現在までが後期モダンと呼ばれる。産業革命は工業の効率を飛躍的に向上させ、国民革命は農民から労働者に転換した人々を「国民」として自覚させ、自発的に国家に縛りつける洗脳的な役割を果たした。国民の統合、無限の前進(経済成長、国家の発展)、教育(啓蒙。国民に仕立てる洗脳)の重視などが、モダン主義に盛り込まれた。 資本家は、産業革命と国民革命を世界中に拡大することで、儲けを最大化しようとしたから、すべての植民地が独立国家になって経済発展することが、後期モダンの時代の流れとなった。モダン主義的な思想の中に、植民地からの独立、民族自決、諸民族間の対等な関係などを支援する考え方が入った。資本家の儲けの拡大策として、鉄道や工業化、国民国家化が欧州から世界に広がるとともに、欧州という一つの地域の歴史的事態を指す言葉でしかなかったモダンは、産業革命後、世界的な事態を指す言葉へと拡大した。 産業革命と国民革命を世界中に広げる資本主義の策略が誰にも邪魔されずに進んでいたら、米国、中国、ロシア、インドといった広大で多人口の国家の力が強くなり、日独の台頭も続いて、世界は20世紀前半に多極化し、英国(欧州)の覇権は100年早く終わっていただろう。しかし英国には、自国の覇権喪失を阻止しようとする傾向があり、英国は、米国を引き込んで2度の大戦に勝ち、戦後は冷戦を誘発して中露を封じ込め、資本の論理(多極主義)と(大英)帝国の論理(英米中心主義)との暗闘が続いた。 産業革命で工業化した国は、それから30-50年の高度経済成長を続けた後、国民の多くが中産階級になって買いたいものを大体買い、賃金も上がって工業生産の国際競争力が落ち、低成長に入ってしまう。この時点で、工業化の時代が終わり、工業化の促進を前提としていた後期モダンの体制が、その国にとって必要性の低いものになる。その国はポストモダンの時代に入っていくと考えることができるが、実際には、すでに述べたように、工業化が完成して久しい米欧日いずれの先進国でも、ポストモダンの明確な方向性が見えていない。 1960-70年代に米欧日で広がった学生運動、市民運動、ヒッピーなどの文化運動が、見直しや破壊を起こそうとした対象物となった政府、学校、家庭、恋愛、文化などは、いずれも国民国家の強化策を内包するモダンの枠組みである。米欧の工業化や国民国家化が達成され、米欧が工業における優位性を失い始めていた時期に、モダンを解体しようとする学生運動が起きたことは、偶然ではないだろう。しかしこの運動は、モダンを超越する現実を具現化することができなかった。 ポストモダンの世界が現実に立ち現れない理由として考えられる一つ目のことは、産業革命と国民革命を組み合わせた体制を超えるような、発展の体制が見つからないことだ。ポストモダンは50年以上、試論の域を出ていない。 考えられる二つ目のことは、世界中を工業化しようとする資本の論理と、中露などの工業化を阻止する封じ込めをやって英米覇権を維持する帝国の論理との暗闘が、延々と続いていることとの関係だ。米英は1960-80年代にモダン的な工業が衰退し、代わりのポストモダン的な体制として85年以降、金融を中心とする経済体制が出てきた。モダン的な軍事覇権に代わって、ヘッジファンドや債券格付け機関などの先兵による先物取引で相手国の金融財政を破壊する、ポストモダン的な金融覇権の体制が生まれた(IMFのワシントンコンセンサスなどもその関係)。 しかし米英の金融覇権は、07年以来の金融危機に対する米当局の、隠れ多極主義的に稚拙な対応策の数々の結果、リーマンショックを経て崩壊が進んでいる。資本の論理は、米英がポストモダン的な金融覇権に転換して強さを維持することを許さず、覇権を自滅させるとともに、多極化を引き起こし、中国などBRICの新興諸国の工業の発展によって世界経済が牽引されるという、モダンの体制を呼び戻した。つまり、多極化はポストモダンの出現ではなく、モダンの出戻り、復活である。 多極化の流れの中には、国連の世界政府化、EUや東アジア共同体といった地域諸国の政治経済の共同体といった、現存の国民国家の世界体制を超越する、ポストモダン的な動き(構想)が含まれている。ドルに代わってIMFのSDR(特別引き出し権)を国際基軸通貨として使おうとする動きも、モダン的な国家体制を超えるもので、ポストモダンの色彩がある。しかし、これらの動きは、今のところ構想の域を出ていない。東アジア共同体が具現化する可能性も薄く、国民国家を基盤とするモダン的な世界体制は強固で、簡単に終わりそうもない。 多極化はモダンの出戻りであってポストモダンではないが、世界が多極型に転換し、覇権を失った後の米英(欧米)で、その後の展開を模索するポストモダン的な試みが再燃するかもしれない。言論を作っていく業界は、欧米人やユダヤ人のものであり、中国などの新興諸国がその分野で追いつくのは簡単ではない。 ★ニクソンの隠れ多極主義 1970年代以降、米国の中枢では、軍産複合体が作る恒久的な冷戦体制に風穴を開けようとする行為が何度かあった。その一つは、ベトナム戦争末期のニクソンとキッシンジャーの訪中に始まる、1970年代の中国との国交正常化への動きだ。もう一つは、1980年代のレーガン政権時代の、ソ連との関係を一触即発の戦争一歩手前まで悪化させ、ソ連側に「冷戦なんかやめたい」と思わせ、ゴルバチョフの柔軟姿勢を出現させ、冷戦の終結までこぎ着けた動きである。 1969年から74年まで続いた米国の共和党政権であるニクソン政権は、それまで10年あまり続いていたベトナム戦争による米軍の疲弊、ソ連の軍事能力の向上、経済分野における日本や西ドイツの台頭、米国の財政赤字増とインフレといった不利な状況の拡大への対策として、日欧などの同盟国に軍事的自立を求めた1969年7月の「ニクソン・ドクトリン」発表、1971年8月の金ドル交換停止(ニクソン・ショック)、1972年2月のニクソン中国訪問、72年の対ソ協約(SALT)、73年のベトナム終戦(パリ協定)などの政策を打った。 ニクソン・ドクトリンや中国訪問、対ソ宥和策といった一連の外交軍事戦略の裏には、米ソが対立する「2極」の冷戦構造の世界体制よりも、米国・ソ連・中国・日本・欧州という5つの大国が並び立つ「多極」(multipolar)の世界体制の方が、米国の軍事力・経済力が低下した場合の安定感が大きいと考えるニクソン大統領自身の信念があったのだと、ニクソン政権の国防長官だったメルビン・レアード(Melvin Laird)が、1985年に発表した論文「A Strong Start in a Difficult Decade」で書いている。ニクソンは「多極主義者」だった。 ニクソン・ドクトリンの前提として、世界に自律的な極がいくつもある多極的な世界が誕生した方が米国にとって好ましいという考え方が存在していたということは、1974年に米空軍の研究者が書いた論文でも指摘されている。 ニクソンが多極主義者だったと元側近らが論文で指摘しているという事実は、大きな意味を持つ。ニクソンからレーガンを経てブッシュ(息子の方)に至る3つの共和党政権はいずれも、無茶な財政赤字の拡大や戦争によって米国の覇権を浪費した後に「現実策への転換」と称して、世界の多極化を促進・容認している。米国の共和党に、40年前から脈々と「多極主義」の流れがあったことになる。しかもこの流れは、米マスコミを含む軍産英複合体との暗闘に対処するためか、各政権の明確な方針として打ち出されるものではなく隠然と行われ「隠れ多極主義」と呼ぶべき戦略になっている。 ニクソン政権の外交戦略を描いたのは、大統領補佐官(のちに国務長官)だったキッシンジャーである。キッシンジャー本人がファイナンシャル・タイムス紙に語ったところによると、もしケネディが1963年に暗殺されなかったら、1964年の米大統領選挙に共和党からネルソン・ロックフェラー(ニューヨーク州知事)が立候補し、当時大学教授だったキッシンジャーも、そこに入閣する予定になっていた。ケネディが暗殺されたため、64年の選挙は民主党のジョンソン(ケネディ政権の副大統領)が圧勝し、事前に負けるとわかったのでロックフェラーは出馬しなかった。 キッシンジャーは64年から68年まで、CFRにおいて、中国・ソ連との関係についての研究を続け、68年の選挙で勝ち、69年に就任したニクソンの政権に入った。ニクソンを当選させたのはロックフェラー家の政治力と金力だったとよく言われる。またCFRも、ロックフェラーが動かしてきた組織である。ロックフェラーがニクソンを政権に送り込んだのは、キッシンジャーが立てた構想に基づき、中国やソ連との冷戦を終わらせ、軍産複合体が維持してきた冷戦体制を打破し、世界の覇権構造を多極化することが最大の目的だったと推測できる。 CFR仕込みのニクソン政権の対中国戦略は、1972年2月のニクソン訪中によって実現した。米国は、1950年の朝鮮戦争で中国軍と戦って以来、中国と敵対関係にあったが、米軍がベトナムから撤退するに際し、北ベトナムに対して大きな影響力を持っていた中国と和解することで、撤退を容易にしようとする戦略だったと説明されている。1950年代までは、中国はソ連と仲が良かったが、60年代に中ソ対立が起こり、米国にとっては中国を取り込んでソ連を孤立させる利点もあった。 朝鮮戦争から20年後のニクソン訪中は、米政界の親中国派による反撃だった。冷戦派は議会で猛反対して米中国交正常化を実現させず、ニクソンをウォーターゲート事件で辞任させて挽回したが、結局、米中国交正常化は次のカーター政権下の1979年に実現した。その直後から、中国の経済発展(改革開放政策)が始まり、冷戦派が仕掛けた天安門事件後の経済制裁などを乗り越え、約30年かけて中国は世界の「極」の一つに成長した。 ニクソンの2つ目の多極化戦略は、1969年2月の「ニクソン・ドクトリン」の発表だ。これは日本や韓国、英仏独などの同盟国に対し、それまでは米軍が直接派兵して守っていたものを、軍事技術や諜報、核の傘、資金面での支援のみに切り替え、同盟国を自立させ、米国の負担を減らすという宣言だった。1971年の沖縄返還は、この宣言の具現化の一つである。ニクソン・ドクトリンを「世界多極化」の一環としてみると、日本や独仏などを米国の傘下から外し、世界の「極」になる自立した大国に仕立てる動きだが、この多極化戦略は成功しなかった。失敗した理由の一つは、米国内の軍事産業(軍産複合体)が多極化による冷戦構造の終焉に反対したことで、もう一つの理由は、対米従属に安住する同盟国が自立したがらなかったからである。 独仏の自立は、1989年の冷戦終結の後の欧州統合まで実現しなかった。韓国は気持ちは反米だが、いまだに軍事的に米国におんぶしている。日本は、戦後の発展が対米従属のもとで大成功したので自立など真っ平で、ニクソン・ドクトリンの意図を換骨奪胎し、日本の軍事拡大は対米従属を強めるためのものと規定した。日本では左翼も「護憲」を理由に、自国の軍事的な自立に反対した。 ニクソン・ドクトリンは、イランやアラブの産油国に対する軍事支援強化も含んでいた(当時イランはイスラム革命前で親米だった)。これは私から見ると、イスラエル(シオニスト)が軍産複合体の知恵袋として米政界に食い込んでいたのに対抗し、イランやアラブを軍事的に支援して中東における力の均衡状態を作り、イスラエルの力を削ごうとしたと感じられる。 ニクソン在任中の1973年には、中東産油国が石油の対米輸出を止めて石油危機が起き、世界の石油利権を支配していたはずのメジャー(米英大手石油業界)はほとんど無抵抗で石油が高騰し、米経済は大打撃を受け、その後の米国の経済的衰退の端緒となったが、これも「イスラエルの力を削ぐ」「米国の経済的単独覇権を自滅させる」という意味で多極化戦略の一つに見える。 ニクソンの3つ目の多極化戦略は、1971年8月の「金ドル交換停止」(ニクソン・ショック)である。1944年のブレトンウッズ体制(ドル基軸制)の開始以来、米政府が25年間、世界と米国内に対して経済援助や戦費、補助金や公共事業などの大盤振る舞いを続けた結果、財政赤字と経常赤字(貿易赤字など)が巨額になり、ダメ押しとしてベトナム戦争の戦費急拡大でドルの信用不安が強くなり、米政府保有の金が流出して空っぽになったため、ブレトンウッズ体制の根幹をなしていた金ドル交換の保証をニクソンが放棄し、ドルの体制が崩壊した事件である。その後は、金本位制を切り離した疑似変動相場制(スミソニアン体制など)が採られ、今に至っている。 ニクソンによる金ドル交換停止はやむを得ない措置だったという見方もできるが、私はそう考えない。ニクソン政権は金ドル交換停止の直前まで戦費の大盤振る舞いを続けており、意図的にドルの信用不安を悪化させたと見るべきだと思っている。金本位制を離脱したことにより、米国はドルを際限なく刷れるようになったため、金ドル交換停止は米国の通貨覇権拡大が目的だったという説もあるが、私はそれも採らない。 ニクソン・ショック後、ドル中心の国際通貨体制の維持に躍起になったのは、米国ではなく英国やドイツ、日本などの方だった。ニクソン政権のコナリー財務長官(John Connolly)は「ドルは私たちの通貨だが、(ドル下落は)君たち(英独日)の問題だ」('The dollar is our currency, but your problem')という有名な発言を発している。 ニクソン後の歴代政権の多くは、依然として財政赤字や経常赤字の拡大を放置し、金本位制という天井がなくなった分、赤字は急増し、1985年のプラザ合意や、最近のドル不安など、ドルの崩壊局面が繰り返されている。ニクソン以後の米国は、ドルの通貨覇権を粗末に扱い、覇権を自滅させる傾向を続けている(唯一の例外は、米英中心の国際金融覇権を強化したクリントン政権)。 ニクソン・ショックは、レーガン時代のプラザ合意と並び、日本の円とドイツのマルクを強化したという点で、世界を「米欧日露中」の5極体制に転換させようとした多極化策の一環である。通貨の多極化は、ニクソンの時代には実現しなかったが、レーガンが冷戦を終わらせて欧州諸国に統合を勧め、ユーロが誕生したことで、世界の通貨体制は多極化し始めた。日本については1970年代以来「円の国際化」が騒がれたものの、日本は対米従属下で経済発展した状態を続けたかったので、円の国際化は掛け声だけに終わった。 通貨の多極化は、最近のドルの信用不安な世界的なインフレを受け、中東産油国(GCCとイラン)がドルペッグを止めて独自の通貨統合をするかもしれないということで、新たな段階に入ろうとしている。ニクソンがブレトンウッズ体制を壊し、レーガン(とパパブッシュ)がユーロ誕生を誘発し、今のブッシュが中東や東アジアの通貨統合を誘発しているのが、国際通貨体制の30年史である。 多極主義に基づいて米国の自滅を画策したニクソンは1974年のウォーターゲート事件で辞めさせられた。この事件の騒動からは、米国のマスコミを操っているのは英国の側であり、資本家の側ではないことが感じられる。ニクソンを辞任に追い込んだ米マスコミは「悪を退治した正義の味方」として描かれ、その後、世界中の多くの若者が英雄談にひかれ、ジャーナリスト志望になった(かつての私自身も)。だが、これは実は英国系の謀略であり、ヒットラーや東条やサダムフセインを極悪に描いたのと同じ、英国お得意のマスコミを使った善悪操作の戦略だった。 ニクソンの失脚後、米国では「多極化」を口にする政権はなくなった。米政界では軍事産業とイスラエルが結束した右派勢力が強くなり「軍産英複合体」は、イスラエルの加勢を受けて「軍産英イスラエル複合体」に発展した。彼らは、米英中心主義に基づいた冷戦の永続を目指し、多極主義を目の敵にした。これに対して多極主義の勢力は、軍事産業とイスラエルのために働いているかのように見せかけた戦略を推進し、それを大失敗させることで米英中心主義を壊し、結果的に多極化の方にもっていく「隠れ多極主義」を強めた。 ★産業革命としてのインターネット 産業革命を、現在まで続く発明と産業構造の転換による経済効率化として考えると、パソコンの開発と普及、それを前提としたインターネットの登場と拡大は、一般に「IT革命」(情報技術革命)と呼ばれているとおり、産業革命の一つである。IT革命はインターネットと関係ない部分もある。表計算、文書の作成・検索・管理、画像処理などは、ネットワークなしの単立のコンピューター内でも成り立ち、企業など経済活動の劇的な効率化をもたらしている。そこに、クライアント&サーバー型のサーバー共有システムから発展したネットワークが、さらに通信手順としてパケット通信のTCP/IPを使った「閉ざされた各ネットワーク間のネットワーク」として「インターネットワーク」(その短縮語が「インターネット」)へと発展し、それらが組み合わされてIT革命になっている。 インターネットの通信手順TCP/IPが開発されたのは、米国防総省傘下のコンピュータネットワークであるARPANET上だ。国防総省など政府機関や大学の閉ざされた複数のネットワークをつなぐためのシステムとして、商業利用を禁止したかたちで1970年代に開発された。米国が外部から軍事攻撃されても国防総省の国内ネットワークが寸断されないよう、複数の経路を確保するために、ランド研究所やMITといった歴史的に米軍に協力してきた研究機関も参加して開発された。米国と対照的に欧州では商業利用を前提としてX.25などの通信手順が開発されたが、冷戦が終結していく80年代に米国はTCP/IPの商業利用を容認し、83年に軍事部門がARPANETから分離され、92年に米議会が科学技術分野に限定した商業利用を認め、95年に米政府がインターネットのバックボーンに金を出すことをやめ、インターネットは完全民営化された。 95年は、マイクロソフトがウインドウズ95を出した年でもある。このOSが出たことで、パソコン(IBM PC互換機)がインターネットの端末として使いやすくなり、IBMPC(PC/AT)は初期の80年代からハードウェアの仕様が公開されていたため部品メーカーが急増してパソコンの価格が劇的に下がっていき、PCが世界的に普及し、インターネットやIT革命が世界的に広がった。同時に、米国などの株式市場でIT関連株の上場や値上がりが加速し「IT株バブル」の膨張が、2000年のバブル崩壊まで続いた。 技術的には、米国のARPANETがインターネットのTCP/IPを唯一の公式な通信手順と定めた1983年がインターネット革命の元年とされるが、産業的には95年あたりがIT革命の元年だろう。その後、最近に至るまで、IT革命という産業革命における「資本と帝国の相克」は起きなかった。米国はインターネットの中心である一方、ヤフー、マイクロソフト、アップル、IBM、シスコ、グーグル、フェイスブック、ツイッターに至るまで、IT系の主要企業は米国企業ばかりだった。アジア太平洋地域の全体のIPアドレスを管理する国際組織であるAPNICの本拠地はオーストラリアに置かれ、アングロサクソンの支配色が感じられる。 携帯電話を使ったインターネットの技術では、99年に日本のNTTドコモがiモードを開発して先駆者となったが、iモードは国際標準とならず、ドコモ(など日本)の携帯電話は、世界の進化から孤立したガラパゴス(諸島の珍奇な動物たち)的な哀れな存在とあざけられている。これは「NTTの官僚主義の弊害」とみなされているが、私が見るところそうではなく、日本は対米従属を続けたいので、世界のシステムを握る技術面の覇権(国際標準の運営権)も握りたくないうえ、戦後ずっと覇権を忌避するあまり技術覇権をとるために米英とどう話をつけていいかもわからない状態に自分たちを置いてきたからだ。日本が何らかの技術覇権を持ちたければ70年代から動いていたはずだが、実際には何もなされていない。日本はガラパゴスに向かう道を意図的に選択してきた。 インターネットをめぐる資本と帝国の相克が始まったように思えるのは、ここ数年間にソーシャルメディア(SNS)が世界的に普及し、それを使って米国やイスラエルなどの当局が、イランやウクライナ、ベラルーシなどの国々で、反米的な政権を転覆する市民運動に協力するようになってからのことだ。「ソーシャルメディア革命」「ツイッター革命」「カラー革命」などと名付けられた連続的な政権転覆の試みは、08年のイランでの反政府運動あたりまでは、米国(米イスラエル)が潰したい政権を潰すという覇権的(帝国的)な戦略であり、その時点では相克になっていなかった。 しかしエジプトのムバラク政権という、米イスラエルにとって非常に重要な傀儡がソーシャルメディア革命で倒れ、次はこの革命がバーレーンからサウジアラビアにも波及しようとしている。エジプト革命は、それに先立つチュニジア革命が伝播したものだが、チュニジアもエジプトも、バーレーンもサウジもヨルダンも、親米国であるだけに、シリアやイランなど米国に敵視されてきた諸国に比べ、インターネットに対する規制がはるかに弱く、ソーシャルメディアの利用者も多かった。 それが逆にあだとなり、ソーシャルメディアを活用した市民の政権転覆活動にいったん火がつくと急拡大し、チュニジアとエジプトは親米政権が潰れ、バーレーンとサウジとヨルダンは危機に陥っている。これを「ブローバック」(作戦の結果起きた予期せぬ悪影響)と考えて軽視することもできる。教科書的には、そのような意味づけとなるだろう。 だが、予期せぬブローバックであるなら、オバマ政権は、エジプトの市民運動によってムバラク大統領が失脚しそうになった時に、市民運動の側に立ってムバラクに譲歩を求めることはしなかったはずだ。オバマが市民運動の側に立ったので、ムバラクは辞任に追い込まれ、反米反イスラエルのムスリム同胞団がエジプトで台頭していく素地が作られた。同時に、バーレーンからサウジへと市民の政権転覆運動が伝播していく流れが作られた。これはブローバックでない。米政府が意図的に親米政権の転覆を支持しているとしか思えない動きだ。 エジプト革命を主導した「4月6日運動」は、米当局と米企業が支援する国際組織「国際青年運動連盟」(AYM)に支援されていた。AYM( <URL> )は、米政府の国務省や、ホワイトハウスで世界戦略を練る安全保障関係者、米国の世界戦略を立案する外交問題評議会(CFR)、グーグル、フェイスブック、米3大テレビ局、AT&T、ペプシコーラといった米国のメディア関係などの大企業が後援・関与し、ソーシャルメディアを活用する若者らの市民運動体を世界各国から招待して毎年会議を開いており、08年12月の第1回会議に、結成間もないエジプトの4月6日運動も呼ばれている。 AYMを「インターネットのソーシャルメディアを活用し、米当局の肝いりで、米国のIT関連などの企業が金を出し、発展途上諸国の市民を誘導し、反米政権を転覆して親米的な傀儡政権に交代させていく」という米国の戦略と考えると、それはインターネットを活用して資本と帝国が相克なく協調する戦略となる。 だが協調的なのは、この枠組みの段階までだ。枠組み論を越え、実際にどんな政権が転覆されていくかというと、それはエジプト、チュニジア、バーレーン、サウジ、ヨルダンといった国々の親米的な政権である。反米的なリビアのカダフィ政権も転覆されるかもしれないが、その前に内戦になり、米軍が介入したらイラクやアフガンと同様の占領の泥沼にはまり込む。 最初は米国の世界覇権を維持拡大するために起こされた戦略が、やっていくうちに米国の敵を強化し、米国を窮地に追い込む結果となるのは、イラクやアフガンに対する侵攻で経験済みだ。イラクもアフガンもパキスタンも、反米イスラム主義が強まっている。いずれエジプトもこれに加わるだろう。米国は、自滅的な同じことを、あちこち異なる地域を対象に何度も繰り返している。 中東を反米イスラム主義の地域にすることが「資本と帝国の相克」であるなら、それは米国の資本家にとってどんな利益になるのか。ムスリム同胞団やハマスやイランの聖職者群が、高度経済成長の政策を実施できるのか。そうした可能性は非常に低いように、今は見える。 しかし、一足先の1970年代から資本と帝国の相克の対象となってきた中国を参考にすると、中東に関しても別の分析が見えてくる。中国と米国(米欧)の関係史は第二次大戦以来、まさに資本と帝国の相克だった。帝国の論理は、中国やロシアなどユーラシアの内陸部を支配しうる国々を封じ込めるか弱体化しておくことによって、ユーラシアの周縁にある米欧とその傀儡諸国が世界に対する影響力を維持できるという、地政学に基づいた冷戦型の敵対の構図を維持することを模索してきた。対照的に資本の論理は、政治的にもっと無節操で、中国に投資して経済発展させ、中国人を貧乏人から中産階級に引っ張り上げ、その消費力で世界経済を回しつつ儲けようというものだ。 戦後の当初、米国は国共合作を仲介し、中国に安定した政権を作って経済発展させようとした。これは資本の論理に基づく動きだ。国共内戦で共産党が勝って中華人民共和国が作られても、まだ米政府は毛沢東と国交を結ぼうとしていた。だが、その2年後に北朝鮮の金日成が引っかけられて朝鮮戦争が起こされるという帝国の論理に基づく動きがあり、米軍が鴨緑江近くまで攻め上がって中国を挑発して参戦させ、米中は敵同士となり、アジアに冷戦構造が定着した。 その後、1971年になると、米軍がゲリラ戦争の泥沼に陥ったベトナム戦争をうまく終わらせるためと称してニクソン訪中が企画され、米国と中国は劇的に和解した。これは資本の論理に基づく動きで、ニクソン訪中は、冷戦という帝国の論理に基づく地政学的な恒久対立の構図をぶち破る外交戦略上のクーデターだった。ニクソンは帝国の論理の側からウォーターゲート事件を起こされるという反撃を受けて失脚したが、米中は1978年に正式に国交回復した。その翌年から、中国のトウ小平が改革開放政策を開始し、今に至る30年間の経済成長が始まった。中国は国際政治的にも台頭し、帝国の論理に基づく中国包囲網はしだいに弱まる方向にある。 中国をめぐるこの流れの中で、ニクソン訪中時の中国がどんな状態だったかを思い起こしてみると、とてもではないが、40年経ったら今の経済発展している中国になるとは誰も思わないような、政治的にも経済的にも無茶苦茶な国だった。ごりごりの社会主義で、まだ文化大革命の余韻が残り、広範な知識は疎まれ、みんな人民服を着て自転車に乗り、人々は粗野で貧しい労働者か農民ばかりだった。40年後の今、中国は、マスコミの言論統制はきつく、一党独裁ではあるものの、見事に経済成長し、都会人の生活様式は日本とさほど変わらなくなっている。 この中国の40年がかりの大転換と似たようなことが、今後の中東でも起きると考えることはできないだろうか。中東諸国は20世紀初頭のオスマントルコ帝国の解体以来、英国主導でいくつもの国に分断され、イスラエルという「くさび」も打ち込まれてアラブとユダヤが恒久的に対立する構図も作られ、リベラル(左翼)対イスラム主義、スンニ派対シーア派といった各種の対立の構図が焼き込まれ、政治はいつも不安定で、経済成長どころではない状態が続いてきた。米欧は中東諸国に対し「リベラル民主化すれば経済発展できるが、イスラム主義になったら貧困が恒久化する」という偏向した理論も植え付けた。 これらの既存の状況は、エジプト革命がサウジアラビアなどに拡大していくと、壊されていくだろう。反米イスラム主義が席巻するだろうが、米国は今後数年内に財政やドルの信用が破綻して覇権を失っていくだろうから、中東に対する米国の影響力は問題にならなくなり、中東諸国の政権が「反米」を掲げる必要もなくなる。 中東における米国の覇権が失われると、中東の混乱の元凶となってきたイスラエル国家の存在も失われていくだろう。ブッシュ政権以来の米国は、親イスラエルのふりをしつつイスラエルを潰そうとして、06年のレバノン戦争や今回のエジプト革命を誘発している。イスラエルは米国が自国をイランなどイスラム側と戦わせて潰そうとしていることを知っているようで、米国の画策に乗らず、戦争を起こさないようにしている。しかし今後、米国の覇権が失墜していくと、イスラエルをめぐる最終戦争がどこかの時点で起きるだろう。核戦争になるかもしれない。米国の資本家の多くはユダヤ人だが、イスラエルの存亡をめぐる100年の暗闘は、本質的にユダヤ人内部のものである。 イスラエル国民の中でも、中東やアフリカから移住してきた人々は、イスラエルが国家消失すると苦労するが、欧州からイスラエルに移住してきた欧州出身者のかなりの部分は、欧州の出身国や米国カナダとイスラエルの二重国籍を持ち、イスラエルが国家消失しても、もう片方の国に移り住めるようにしている。戦争でイスラエル国家が消失し、ユダヤ人たちが欧米に移住した後、中東はようやく安定する。その後の中東諸国が、経済発展できるかどうかは、中東の人々の資質にかかっているが、人民服を着て自転車に乗った粗野な労働者と農民ばかりの40年前の中国人が、こんなに経済発展できるとは思えなかったのだから、中東の人々も意外に経済発展できるだろう。アラブ人もペルシャ人も、歴史をさかのぼれば中国人に負けない商業民族である。経済発展の資質はあるはずだ。 米国の資本家は、ニクソン訪中の時点、もしくはもっとずっと前(たとえば米国が孫文をテコ入れした20世紀初め)から、中国を経済発展させようとしてきた。資本の論理に基づく動きは、数十年とか100年がかりである。ソーシャルメディアを使った世界民主化運動のブローバックのふりをしてエジプト革命を誘発する行為が、数十年先の中東の安定化と経済発展と、世界を安定化するための覇権構造のユーラシア包囲網型(米英中心型)から多極型への転換を目指したものであったとしても不思議でない。 中東諸国は、先行して経済発展する中国から、かなりの恩恵を受けることができる。たとえばイランは、すでに中国からかなり恩恵を受けている。米欧日がイランを経済制裁して撤退した穴を中国の企業が埋め、石油ガスの採掘から地下鉄や道路の建設、ソーシャルメディア革命のイランへの波及を食い止めるインターネットの国策ファイアーウォール(長城防火)などを中国から輸入している。 長城防火について言うと、これも「資本と帝国の相克」の一つだ。中国がインターネットに参加したのは比較的遅く、中国政府は1991年に北京の精華大学を国際的なTCP/IPのネットワークに参加させた。その後、精華大学を中心に中国独自のインターネット技術が推進され、国家的にパソコンやインターネットの商業利用が奨励される一方で、紅旗リナックスや長城防火が国策的に開発された。中国がインターネットを活用することは、中国の経済発展を促進し、資本の論理にかなっている。帝国の論理だと、中国の台頭は脅威の拡大であり、中国を潰すためにソーシャルメディアを使ったジャスミン革命を誘発したいところだが、中国政府は長城防火を用意して米欧からのネット経由の政権転覆策を阻止している。おそらく中国のジャスミン革命は尻すぼみになり、資本の論理が優勢を維持するだろう。 【「第5章:金融覇権をめぐる攻防」に続く】
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