世界のデザインをめぐる200年の暗闘2011年9月12日 田中 宇
これは「新刊本・第2章:米国覇権が崩れ、多極型の世界体制ができる」の続きです。 本書ではここまで、いずれ米国債の価値が大幅に下がり、ドルが国際基軸通貨としての地位を喪失して「ドル崩壊」が起こり、米国の単独覇権が崩れ、代わりに多極型の世界体制がG20などによって出現すると予測されることを説明した。ドルを支える米国の「影の銀行システム」の状況が不透明なので、ドル崩壊がいつ起きるか予測は難しい。しかし今後10年ぐらいの間に、ドルの崩壊と国際体制の多極化が起きる確率がかなり高いと私は考えている。 ドル崩壊や多極化といった、米国の覇権喪失が起きる可能性が高いと私が考えている根拠は、歴史的な分析にある。この200年ほどの世界の近現代史を私なりに見ていくと、米英の単独覇権体制を守ろうとする勢力(米英中心主義)と、米英覇権を崩して多極型の世界体制に転換しようとする勢力(多極主義)が、米英の中枢におり、長い暗闘状態にある。この暗闘は、長らく米英中心主義が優勢だったが、この10年ほどの間に、米英中心主義を過剰にやりすぎて米英の覇権体制を崩してしまうことが前ブッシュ政権時代の米政府によって行われた。現オバマ政権も、ブッシュ政権が掘って自らはまった落とし穴から出られないでいる。その結果、ドル崩壊と多極化が進みそうな感じになっている。米英は国際政治の中心に位置し、事実上、世界の体制を考案する権限を持っている。米英中枢での長い暗闘は、世界経済の長期デザインをめぐる相克である。 16-17世紀に欧州で最強の国となった英国は、資本家(ユダヤ商人)と英王室(貴族集団)が連合した国として強くなった。ユダヤ商人(スファラディ)は、15世紀のレコンキスタ(イベリア半島でキリスト教勢力がイスラム勢力を駆逐した)を機に、それまでイスラム側についていたのがスペイン(キリスト教側)に鞍替えし、それ以降、今に至るまで、金融分野を中心に、欧州経済を主導する勢力である。彼らの主力は、ユダヤ教徒を迫害するスペインを嫌い、16世紀にスペインから独立してプロテスタントの共和国となったオランダに拠点を移し、世界初の自由貿易共和国となったオランダが欧州でもっとも貿易で栄える国となった。オランダの東インド会社は、200年間の平均株主配当率が18%だった。英国は、オランダの繁栄を奪おうとユダヤ商人たちに働きかけ、彼らの拠点をオランダから英国(ロンドン)に拡大・移転してもらった。英国は資本家を誘致して繁栄の基礎を作った。英国は、武力でオランダの制海権を奪い、欧州で最も繁栄する強い国となった。 18世紀末に産業革命とフランス革命(国民国家化)が起こり、この2つの革命を全世界に拡大することが、資本家にとって利益を拡大できる望ましいことになった。この時点で、英国における王侯貴族と資本家の連合体に亀裂が入り始めた。産業革命は英国の経済力や軍事力を急増したが、産業革命が他国に広がっていくと、他の諸国に対する英国の優位が失われてしまう。産業革命の世界への伝播は、資本家の儲けを増やすが、英国の国益にならなかった。国民国家化(民主化、身分制廃止)は、貧農から労働者に転換した人々に「国民」の自覚を与えて「やる気」や「勤勉性」を持たせるためのプロパガンダ(考え方)の革命である。これも資本家の利益になったが、半面、英国など欧州各国の王侯貴族は民主化によって権力を奪われるので、王室にとって阻止すべきものだった。 一般に、資本家と王侯貴族は仲間であり、資本家は保守的で、革命的な民主化を嫌うと考えられがちだ。しかしそれは、社会が資本家にとって満足できる状況で安定している時代の話でしかない。資本家の目的は、投資の効率を上げることだ。社会体制を壊して別のものにすれば投資効率が劇的に上がると考えられる時、資本家は、当然ながら、革命的な体制転換をこっそり支援し、扇動するだろう。フランス革命は、王侯貴族とキリスト教会による支配に対し、市民が反逆して体制を転覆した。「市民」の中にはユダヤ商人ら資本家が含まれており、資本家の代理人が市民を率いて王侯貴族と教会による支配を倒したのがフランス革命だった。 これ以降、欧米資本家は、革命や民族主義運動をこっそり支援扇動することを何度も繰り返している。20世紀初頭のロシア革命や辛亥革命、1960年代の非同盟諸国運動やベトナム反戦運動、そして最近の米国が「テロ戦争」を過剰にやって中東のイスラム主義勢力を団結強化しているのが、その具体例だ。左翼の中高年者の中には「資本家がロシア革命やベトナム反戦運動を扇動するはずがない」と思う人が多いだろう。私からすると「先輩方はまだ気づかないのですか?」という感じだが、その点は後で説明する。 フランス革命で生まれたナポレオンの仏国民軍は、全欧征服をめざした。これは欧州全体の王制を潰して国民国家に転換する試みであり、資本家の利益に沿ったものだった。しかし欧州の王制各国は英国主導で結束し、ナポレオンを打ち負かした。その後、1814-15年のウィーン会議で、フランスが再び領土拡張せぬよう、小規模な諸侯国で構成されていたドイツとイタリアに国民国家を建設する方向性を決め、欧州を当時の大国だった英国、ロシア、オーストリア、プロシア、王制に戻り英国の傀儡となったフランスの、5極体制でおさめていく均衡体制が決まった。欧州諸国間の均衡の上に、国力でやや優位な英国が立ち、得意な隠然外交と諜報力を駆使して覇権を維持する「パックス・ブリタニカ」が確立し、この体制が1914年の第一次大戦勃発まで百年続いた。 ナポレオンが勝っていたら、欧州は一つの国民国家になり、英国も征服され、統合された欧州が世界を支配する体制が出現し、世界的な産業革命と国民国家化が急進展する資本家好みの状態になっていたかもしれない。実際は、ナポレオンが敗北し、英国が欧州大陸の王制諸国を隠然と率いる英覇権体制が維持された。しかし、資本家が希求する産業革命と国民革命の世界的な拡大は、全く阻害されたわけでなく、その後、第2次大戦後まで約150年かけて2つの革命が世界に拡大した。 19世紀前半以降、欧州各国は競って産業革命と国民革命を進め、強国をめざしたが、ドイツやイタリアは国家として統一したのが遅かったため、先進の英仏に追いつくため、ナショナリズムを強く打ち出して国民の結束を高め、国家が産業育成を主導するターボエンジン的な国家体制として全体主義(ファシズム)を導入した。一方、多民族国家でナショナリズムによる結束を進めにくいロシアでは、ロマノフ朝政府の失政によって起きた混乱に乗じて政権が転覆され、ナショナリズムの代わりに共産主義の思想を使って国民の結束を高めようとする社会主義が導入された。全体主義も社会主義も、建前的に選挙で代表を選ぶ民主体制をとり、国民国家システムの改訂版という色彩を持っている。 一般に、資本主義(国民国家+自由市場経済)は資本家のための体制で、社会主義(国家計画経済)は貧民のための体制のように言われ、2つは敵対するあり方と認識されることが多い。だが実は、投資対象としての国家の成長力として見ると、社会主義は、資本主義を導入できない国々で急成長を実現するやり方だ。(すでに述べたように、フランス革命も「市民のための革命」と言われつつ、実は資本家にとって都合の良いものだった) ロシア革命には、ニューヨークの資本家群(ロスチャイルド系のヤコブ・シフ)が資金援助しており、ロシアの初代外相として国際共産主義運動(コミンテルン)を主導したトロツキー(ユダヤ人)は、革命の最中に亡命先のニューヨークから帰国した。当時の米国の資本家たちは、革命後のロシア(ソ連)の経済建設に投資するつもりだったのではないか。ロシア革命後の国際共産主義運動は、国民国家革命を導入しにくい世界中の国々で革命を起こして社会主義国家を作っていき、社会主義国の国際ネットワークを作ろうとする動きだった。これは、当時の第一次大戦後の国際社会で何とか覇権を維持しようともがいていた英国の覇権体制を潰すための「別の覇権体制作り」に見える。 結果的にソ連は、独裁を強めたスターリンがトロツキーを失脚させ、国際共産主義運動は下火になり、欧米とソ連との関係も対立的になったが、もしソ連が国際共産主義運動を先導し続け、ソ連自体の経済政策も成功していたら、社会主義諸国のネットワークは高成長に入り、当時の英国中心の国際社会の成長力をしのぐ、米国の資本家肝いりの「新興市場諸国」になっていたかもしれない。今のBRICは、かつての国際共産主義運動の延長線上にある多極主義運動といえる。 これより前、米国の資本家は、中国で国民国家革命をやろうとする孫文の中国国民党を、ハワイの華僑(孫文の兄ら)を通じて支援していた観がある。孫文の革命は、清朝を倒して中華民国を建国したものの、第一次大戦後は、欧州勢が撤退した空白を埋めて日本が中国支配を広げ、中国は混乱が続いた。その中で、ソ連のコミンテルンは、共産党と国民党を仲裁して連立政権を作らせようとする第1次国共合作を手がけた。米国の資本家は、中国を統一された国民国家にして経済成長させることを目標に、孫文に託した国民革命が不発に終わった後、ソ連のコミンテルンに中国を託したと考えられる。 19世紀以前、強国が弱い国々を支配するやり方は直接的・暴力的だったが、19世紀以降、国家主権や民主主義を重視するのが良いという考え方がしだいに欧州を席巻し、他国に対する影響力の行使は、直接的・暴力的なものから、隠然的・諜報的(騙し的)なものに変質していった。それを率先して進めたのが諜報力に長けた英国だった。直接的な「支配」は「武力を使わずに他国に影響力を持つこと」を意味する「覇権」に取って代わった。国際的な支配構造は、より巧妙な形で行われるようになった。日本のマスコミは「国際社会」という言葉が好きだが「国際社会の意向」とは、実際には「覇権国政府の意向」である。日本は対米従属が国是なので、覇権国である米国の意向を、国家としては喜んで受け入れたいが、国民の中には他国への従属を嫌がる気持ちもある。だから「米政府の意向」を「国際社会の意向」と歪曲して報じることで、国民が国際的な現実に気づかないように仕向けている。このような思考面の歪曲が、覇権の体制の中に多く含まれている。だから覇権の本質が見えにくい。 ナポレオン戦争後、資本家と英国(英王室)は再び談合体制に戻り、英国など欧州諸国の王制を守る代わりに、全世界を国民国家化しつつ産業革命(工業化)をめざす方向性が続いた。だが、そこには暗闘があった。産業革命は工業生産力を急増させる。そのため、産業革命を経た国は、できるだけ大きな消費市場を必要とする。同時に産業革命は、交通の速度を飛躍的に増大させた。帆船は汽船に代わり、馬車は鉄道に代わって、速度が数倍以上向上した。その分、世界各地に行くことが容易になった。産業革命で国力が急増した欧州諸国は、消費市場の拡大のため、労働者としての国民の数を増やすため、工業原料の資源を獲得するため、世界中に植民地を増やした。全世界が欧州の影響下に置かれることになった。欧州は、15世紀の地理上の発見によって「世界システム」の概念を得てから400年後に、世界システムの全体を自分たちの支配下に置くようになった。 欧州列強が世界を植民地化するに際して、その動きを主導したのは英国だった。英国は19世紀末、他の欧州諸国を誘ってアフリカを分割し、アヘン戦争で中国(清朝)を打ち負かした後、他の列強を誘って中国分割を試みた。第一次大戦でオスマントルコ帝国が敗北して解体された後の中東では、フランスを誘ってアラブ地域を分割し、英国の影響下に置かれたパレスチナを、さらにトランスヨルダンとイスラエル、そしてパレスチナ人国家の予定地に3分割した。英国が、このように世界を細分化していく戦略をとったのは、世界の各地に大きな国を作ってしまうと、その国々がいずれ2つの革命を導入して強い国になり、英国の覇権体制に脅威となる可能性があるからだった。各大陸を小国に分割すれば、英国が得意とする諜報を使った隠然とした外交力の行使によって、各地で隣国どうしを永続的に敵対させ、経済発展や国力増進を阻害することもできる。 これらは英国(英王室)の国益に沿った戦略だった。ナポレオン戦争後、フランスの再拡大を防ぐため、フランスに隣接していたドイツやイタリアに国民国家を作ることをウィーン会議で予約したのと同じ戦略だ。世界各地の産業革命と国民革命を推進し、世界的な経済発展を引き起こして儲けようと考えてきた資本家は、こうした英国の国益重視の戦略に反対だった。フランスやドイツは、植民地を「海外県」にして、自国の中に完全に取り込んだが、英国は海外領を本国と異なる地位に置き、いずれすべての植民地が国民国家として独立する時がくるという資本家との談合に沿った制度にしてあった。そこまでは、英国と資本家の談合体制が生きていたが、その先になると、世界をできるだけ細分化して英国の覇権を守ろうとする英国の「帝国の論理」と、世界的な経済発展を極大化しようとする資本家の「資本の論理」が対峙する状態だった。 ▼米国は多極型世界を作るために建国された とはいえ、この時代の英国と資本家の暗闘は、すべて英国の勝ちとなったわけでない。資本家が1792年のフランス革命と並んで、てこ入れしたと思われるこの時代の出来事は1789年の「アメリカ合衆国の独立」だった。英国の世界細分化戦略にしたがうなら、北米や南米の大陸も、アフリカや中東と同様、小さな無数の国々に細分化してから独立させた方がよいことになる。この戦略を先制的に阻止するために挙行されたのが、米国を英国から独立させることだったと考えられる。米国は連邦制の「合州国」として建国され、放っておけば英国の戦略に沿ってバラバラな小国として独立させられていきそうな、フランス領やスペイン領の中西部や太平洋岸の地域を、州として米国に併合し、広大な連邦を作ることに成功した。 これと対照的に、西半球でも南側の中南米は、英国の国家戦略に沿った展開になった。中南米地域は、今のブラジルがポルトガルの植民地、その他の大部分がスペインの植民地だったが、1808年にナポレオン戦争でスペインがフランスに征服されると、そのすきに中南米で独立戦争が起こり、1822年までに中南米各地で独立が宣言された。その際、ブラジルは一つの巨大な国として独立したが、スペイン領はいくつもの国に分裂して独立した。当時の南米は、貿易など経済面で英国の影響下にあった。英国が影響力を行使して、細分化して独立するように仕向けたと考えられる。ナポレオン戦争時、スペインはフランスに征服されたが、ポルトガルは政府がブラジルのリオデジャネイロに避難していた。宗主国から切り離されていたスペインは、英国の謀略で分割されて独立したが、ブラジルはナポレオン戦争後、ポルトガル皇太子が国王になる形で形式的に独立し、分割されなかった。 その後、スペインとフランスが組んで南北米州に対する影響力を再獲得しようと動き、英国がこれに対抗して米国と協調しようと動いたが、これに対する米国の返答は「英国など欧州諸国は、中南米の政治に介入するな。南北米州は米国の影響圏だ」という1823年の「モンロー宣言」だった。これは、世界の各大陸(南北米州、アフリカ)や地域(中東、東アジア、欧州など)が、大陸・地域ごとに問題解決する体制を作り、他の地域の大国が自国の利益に沿って介入してくることを禁じる「多極型の世界体制」を米国が希求した時代の始まりだった。英国は、欧州からの自立(孤立)を宣言する米国に「孤立主義」のレッテルを貼ったが、その後30年もすると、米国は工業化によって高度成長して経済大国になり、英国をしのぐ国力を持った。 19世紀後半、英国が他の列強を誘って中国を分割しようとしたのに対し、米国は1899年に「門戸開放宣言」を発し、英国主導の中国の分割を防いだ。次いで米国は、1911年に孫文の辛亥革命を手伝い、国民国家をめざす中華民国の成立を裏で支えた。米国は早くから、中国を、多極型世界体制における「極」の一つとして育てようとしてきた。英国は、世界を細分化する戦略を続けたが、米国は逆に、世界中の大国を大国のまま温存して国民国家に発展させ、英国主導の欧州が世界を支配する覇権体制を崩し、多極型の世界体制を作ろうとした。 19世紀末になると、米国が経済発展して英国を追い越し、ロンドンを本拠地にしていた資本家がニューヨークに移った。独立当時、米国の中心地はボストンだった。だがロンドンの資本家が大挙して移ったのはニューヨークだった。ボストンは「古都」のような存在になり、米経済の中心はニューヨークに移った。その理由は、ニューヨークがかつて、ユダヤ資本家の戦略によって自由貿易共和国として繁栄していたオランダの北米における貿易拠点「ニューアムステルダム」だったからだろう。ニューアムステルダム市のユダヤ人たちは、オランダが英国に打ち負かされ、同市が英国領になってニューヨークと改名された後も住み続けており、ニューヨークは米国の独立時、すでにユダヤ人の拠点となっていた。 ニューヨークの資本家(JPモルガンなど)は、1895年と1907年に起きた金融危機を意図的に悪化させ、米政府の財政を破綻寸前まで追い込んだ上で、政府に救済の手を差し伸べ、その結果、政府を牛耳る政治力を得た。その後、1914年に第一次大戦が勃発した。大戦の本質は、ドイツが台頭して英国を追い越し、欧州における英国の覇権が崩れ、ドイツが戦争によって覇権を取ろうとしたことだったが、米国の資本家にとっては、欧州列強を相互に戦わせて自滅させ、欧州が英国の覇権下で世界を支配している構図を崩壊させる意味があった。対戦前、米国の投資家はドイツに積極的に投資していた。欧州が大戦で自滅すれば、欧州以外の地域が植民地から独立して国民国家になり、欧州以外の地域の経済発展(産業革命)も促進されて、資本家好みの多極型の世界体制に近づくはずだった。 第一次大戦の当初、米国は参戦せず中立を保っていたが、英国が敗北しそうになった段階で、米国は英国と談合した。米国が英国の味方をして参戦する代わりに、英国は戦後の世界体制となる国際連盟の創設に協力し、英国は隠然と世界を支配することをやめて、代わりに覇権を国際連盟に委譲して、各国を平等な関係に置く国際連盟を中心とする、明確で顕在的な国際体制を作る協約だった。米国は1917年に参戦した翌年、ウィルソン大統領が国際連盟の原則として「ウィルソンの14カ条」を発表した。大戦は1920年に終結し、ベルサイユ会議で国際連盟が創設された。米国は、国際連盟を、一カ国一票で民主的に世界の運営を行う、国家間民主主義を実現する世界政府として機能させるつもりだった。 だが、米国が希望する世界体制はできなかった。それまでの100年以上の隠然とした諜報型の外交戦術の経験を持つ英国は、ベルサイユ会議でフランスなどを巻き込んで立ち回り、国際連盟を英国好みの体制にしてしまった。一カ国一票の国際民主主義は建前だけで、実態は、ナポレオン戦争後のウィーン体制に似た、英国が隠然と主導する大国群が世界のことを決める体制だった。ウィルソンの14カ条のうち、4カ条しか実現されなかった。不満を抱えたウィルソンは、米議会が国際連盟の批准を否決するよう仕向け、米国は国際連盟に入らなかった。米国は、第二次大戦の勃発後まで、欧州の政治に関与しない「孤立主義」の政策をとった。 米国は独英を引き分けにする構想だったが、英国の策略によってドイツはベルサイユ会議で敗戦国のレッテルを貼られて巨額の賠償金を科され、第一次大戦後、インフレに苦しんだ。その苦境の中からヒットラーが台頭し、全体主義の政策を推し進め、1930年代以降、再びドイツが台頭した。国力を復活したドイツは、欧州制覇を目指して英国を追い落とそうとする戦略を展開し、第二次大戦が起きた。アジアでは、第一次大戦で欧州列強の世界支配力が激減した真空状態を埋めて日本が台頭し、中国の征服に取り掛かった。米国が孤立主義を続けている間に、日独伊の枢軸連盟が結成され、ドイツが英国を潰して欧州を制覇し、日独伊で世界を3分割して支配する計画が進行した。 米国にとって、英国の覇権が瓦解するのは歓迎だったが、代わりに日独伊の世界支配ができることには反対だった。米国が孤立主義を維持したまま第二次大戦に参戦しないと、日独伊が英国を潰して新世界体制を作った後、中国は日本の支配下に置かれ、ソ連も日独に挟み撃ちにされて、米国が望む各国が対等な世界体制から程遠い状況が生まれ、いずれ日独が米国を包囲して潰しにかかる展開になりそうだった。 そこで米国は、第一次大戦で失敗した欧州介入策を、こんどは失敗しないかたちで繰り返すことを決めた。米国は1941年に英国と話し合って「大西洋憲章」を打ち出した。これは第一次大戦時のウィルソンの14カ条に相当するもので、民族自決権や自由貿易体制などの条項からなり、国際連合の基盤ともなり、第二次大戦後の世界体制を決める宣言だった。 国際連盟は欧州のスイスに本部が置かれていた。米国は多極型の世界体制を重視して欧州のことに介入せず、国際連盟に対し、あえて参加者としての地位にとどまっていた。その米国の姿勢が、英国の狡猾な策略的な立ち回りを許してしまった。そのときの教訓から、国際連合は、本部を米国の資本家の拠点であるニューヨークに置き、米国自身が英国から覇権を譲り受けて覇権国として機能し、国際民主主義の世界政府を作るための後見役になることにした。国連本部の土地は、米国の資本家の筆頭だったロックフェラー家が寄贈した。 米国は英国の同意を得て、米英主催で終戦前にヤルタ会談やカイロ会談を開き、スターリンのソ連や、蒋介石の中国(中華民国)に、戦後の世界体制の重役級の国になるよう求め、米国と、既存の列強である英仏に加え、ソ連と中国の合計5カ国が、世界の安全保障を守る国連の安全保障理事会の常任理事国になる、多極型の世界体制を用意した。 だが、この新たな米国主導の世界体制は、作られてから数年しか役割を果たせなかった。終戦の翌年である1946年、英国のチャーチル首相が米国に来て「鉄のカーテン演説」を放ち、ソ連が東欧に介入して欧州を分断しようとしていると非難した。実のところ、米英はヤルタ会談で、ソ連が東欧を影響圏として取り込んで社会主義化することを容認しており、ソ連が東欧に介入するのは、米英が認めた規定路線だった。しかしソ連に対する米英の容認は密約として行われており、その状態を逆手にとってチャーチルがソ連を非難した。 米国では第二次大戦中、戦争遂行のため、軍事産業が肥大化し、マスコミも戦争協力のプロパガンダ態勢にあった。戦後、米国の軍事産業は再び縮小することが予測されていたが、チャーチルの英国は、米国の軍事産業に「ソ連を敵視し、米ソ対立の体制を作れば、軍事産業が肥大化した状態を永続でき、儲け続けられる」と持ちかけた。米国の軍事産業はチャーチルの誘いに乗り、米マスコミも戦時中のドイツ敵視を、戦後はソ連敵視に切り替えてプロパガンダ態勢を続けたため、チャーチルが米国で煽ったソ連敵視策は見事に成功した。これは英国が画策した、米国中枢での隠然としたクーデターだった。 その後の米国は、軍事産業とプロパガンダ型マスコミ、英国の傀儡として機能する国務省やCIAの戦略立案者、連邦議会の好戦的な勢力といった「軍産複合体」(私はこれを「軍産英複合体」とも呼ぶ)に牛耳られ、ソ連や中国といった共産圏諸国を強く敵視し続けた。ソ連は米国に敵視されて動物的な反応をとり、報復的に米国を敵視したため、その後の40年以上にわたって続く「米ソ冷戦体制」が確立した。1950年には、軍産複合体の諜報作戦に引っ掛かった北朝鮮の金日成が「南侵すれば韓国から米軍を追い出して南北を統一できる」と勘違いして韓国に侵攻して朝鮮戦争が起こり、米軍は意図的に中朝国境まで迫って中国軍の参戦を誘発し、米中を決定的な敵対関係に陥れた。欧州での米ソ冷戦体制は、東アジアでの米中冷戦体制に拡大した。 戦前の米国は、英国の覇権を崩そうとする多極主義の戦略を持っていたが、戦後の米国は、軍産英複合体に乗っ取られ、米英覇権主義(米英中心主義)が強くなった。米国は、覇権を英国から譲り受けた上で、国連を使って多極型の覇権体制に世界を転換させていくはずだったが、ミイラ取りがミイラにされ、米国は隠然とした英国の傀儡としての覇権国家になってしまった。 戦後の米大統領だったアイゼンハワーは途中でこの謀略に気づき、1961年の任期満了時の演説で「軍産複合体」(military-industrial complex)という言葉を初めて発した。だが彼自身はこの状況に対し、任期中にほとんど何も手を打てなかった。その次の大統領であるケネディは、キューバミサイル危機の後、ソ連に接近して冷戦体制を終わらせようとした。だが彼は結局、暗殺されて終わった。ケネディ暗殺については、07年に死去した元CIA要員のハワード・ハント(Howard Hunt)が生前に残した録音テープで、自分を含む米当局者たちが、ジョンソン副大統領と謀ってケネディ暗殺の謀略を計画したと述べている。 こうして、国連の5大国による多極対等型の世界政府システムは、早々に機能不全に陥った。米国の資本家が英国の覇権を潰すつもりだった2度の大戦は、いずれも英国の策略の勝利となり、資本家は完敗した。19世紀のナポレオン戦争も含めると、資本家は英国に3戦3敗した。 しかし、ロックフェラーなど米国の資本家は執念深く、あきらめなかった。次に資本家たちが画策したのは、長期的に米国の覇権を意図的に自滅に追い込んでいき、米国の覇権を崩壊させることを通じ、多極型の世界体制を取り戻す長期戦略だった。米政府は1960年代後半にかけて財政的な大盤振る舞いを続け、財政赤字を急増させた。これは、米政府がブレトンウッズの金本位制で許される範囲を超えてドルを増刷する事態を招き、1971年にニクソン大統領が金ドル交換停止(ニクソンショック)を唐突に発表し、ドルの覇権を自滅させることにつながった。 同時期に米政府は、冷戦の一環としてベトナム戦争を起こし、共産ゲリラとの泥沼の戦いで巨額の軍事費が浪費される状況が作られた。もともとベトナム戦争は、中国の北側にある朝鮮半島を南北に分断して中国と米国が恒久的に対立するアジアの冷戦構造を作った朝鮮戦争の戦略の繰り返しとして企画された。中国の南側のベトナムでも、北ベトナムと南ベトナムを対峙させ、中国が北ベトナムを支援せざるを得ない状況にして、米国が支援する南ベトナムとの恒久対立の構図を作るため、米国がベトナムに軍事介入した。軍産複合体は、軍事費が増え続けるのでベトナム戦争の策略に賛成だった。 だが、米国が下手な戦略をやりすぎて北ベトナムが勝つような誘導が途中から行われ、米国の敗北につながった。米軍の残虐行為が意図的に喧伝され、ベトナム反戦運動が世界的に盛り上がり、米国に対する国際信用が失墜した。すでに書いたとおり、市民運動を扇動して隠れた目的を達成しようとするのは、資本家たちのフランス革命以来の得意技である。米国の敗北が決定的になったところで、ベトナム戦争を終わらせるため、中国と和解せざるを得ないという口実で、ニクソン大統領が中国を訪問して米中対立を終わらせ、冷戦体制に風穴を開けた。ニクソンの外交戦略を決めたキッシンジャー補佐官は、ニクソン当選まで、ロックフェラー家の影響下にあった外交問題評議会(CFR)で戦略研究を練っていた。ここでも資本家の影がちらつく。 ニクソンは結局、軍産複合体の側から「ウォーターゲート事件」のスキャンダルを起こされ、任期途中で失脚した。米議会は中国との国交回復に猛反対したが、米中は7年後の1979年に国交を正常化し、その年から中国は鄧小平の指揮下で「改革開放政策」を開始し、米国の資本家の協力のもとで高度経済成長を開始し、今では米国に次ぐ有力な大国になっている。米国の資本家は、何十年もかけて「隠れ多極主義」の戦略を展開している。 ▼軍事覇権から金融覇権へ 経済面で見ると、第二次大戦後の米国の覇権は、1944年のブレトンウッズ会議で、ドルが国際基軸通貨として定められた「ドル基軸体制」によって支えられていた。1971年に金ドル交換停止を挙行したニクソン政権は、交換停止によってドルを基軸通貨の座から落とし、米英の衰退と日独や中ソの相対的な台頭を招くことで、覇権体制の多極化をねらったのだろう。だが、ここでも米英中心主義(軍産英複合体)の方が賢かった。日独に覇権希求の意志が薄いと見るや、日独にドルを支えさせるG7の構図を新設し、ドルの下落を防いだ(G7設立は85年だが、秘密裏の為替協調介入はニクソンショック直後に始まった)。そもそも、戦後の日独は去勢された国家であるのに、日独を煽れば覇権を再び希求すると思った多極主義者は甘かった。さらには、ドルが金との交換性を失ったことを逆手に取って、ドルを無限に増刷できる体制が作られた。その結果、80年代のレーガン政権がひどい財政赤字増とドル増刷をやっても、ドルは崩壊しなかった。 レーガン政権が米国を自滅させ損ねた後の85年、米英は金融自由化を打ち出した。これは、無限に増刷できるドルの新機能を、先進国の他の国々の国債や、米大手企業の社債など、米英が「優良」とみなす証券類に拡大することで、無限に近い富の拡大機能を創設し、この富の力で米英覇権を維持する戦略だった。これによって米英は、それまでの軍事主導の覇権から、金融主導の覇権(金融覇権)に転換した。米国のニューヨークだけでなく、英国のロンドンが、並立的に世界の金融センターになった点が重要だ。米英は、債券格付け機関の権威を上昇させ、ドルを頂点とする格付けの序列を作り、英米中心主義にそぐう債券の格付けを高くした。ちなみに日本は、米国の覇権に楯突きませんという対米従属の誓いの意味で、90年代のバブル崩壊時に失策を繰り返し、日本国債の格付けを自ら意図的に低下させた。 米英が金融覇権体制に転換したのは、米経済が成長期をすぎて成熟し、赤字体質になったことも関係した。米英は、自国の赤字拡大の受け皿として国際金融市場を拡大し、世界の黒字諸国の政府や人々に米英の債券や株式を買わせる体制を作った。この動きが90年代の金融グローバリゼーションである。世界中の人々は、ドルを頂点とする格付けの秩序を「巨大なねずみ講」と気づかずに信用し、米国の債券は低リスクとみなされ、低利回りなのによく売れ、さらに低リスクとみなされる傾向を強める好循環に入った。債券が売れている限り、米英金融覇権は安泰だった。 米英は「投機筋」の機能も活用した。高度成長が終わる先進国と対照的に、中国や東南アジア、インドなどの新興市場諸国は80年代以降に高度成長に入ったが、新興諸国の台頭が経済から政治に拡大すると、米英の覇権を崩しかねない。そのため米英は、ケイマンやバハマ、バーミューダといった米国沖の大西洋の英国領諸島などに、国家の規制を全く受けずに金融取引できる租税回避地を英国主導で作った。そして、そこを拠点とする巨額資金(投機筋)が一見無秩序に、実際には米英に誘導されつつ、米英が標的とした国の為替や金融の市場を、巨額流入でバブル化させた後に、先物取引と巨額流出によって暴落させて破壊する「金融兵器」とも呼ぶべき機能を作った。 90年代以降、金融兵器は軍事兵器をしのぐ破壊力を持つようになった。金融兵器は、誰が発動しているのか見えず、攻撃された方も国権に対する破壊(つまり戦争)と気づきにくい。発動する側にとっては、戦争犯罪に問われる心配がなく、自国民に知らせず発動でき、少人数で遂行できるので、軍事的な戦争より好都合だ。東南アジアからロシアへと広がった97-98年のアジア通貨危機や、最近のギリシャ国債危機は、金融兵器が発動された疑いが濃い。 戦争は一般に、武力の発動開始(開戦)以前の作戦(諜報戦)が、開戦後の作戦よりもずっと大事である。「孫子」も、戦争の要諦は諜報だと言っている。諜報機関の任務の中心は、昔は敵の軍事力や動員力の調査だったが、米英覇権が金融化し、金融兵器が開発されてからは、どうやって金融取引で敵国を倒すかが、諜報戦略の中心となった。投機筋としての仕事や、他の投機筋や一般投資家を操ることが、諜報機関の主要任務となった。今の諜報要員の主流は、ラングレー(CIA本部)やペンタゴンではなく、ウォール街やシティ(ロンドン)に勤務している。 米英覇権の内部は、英米中心主義と多極主義の暗闘の構図になっている。だから、金融兵器の発動も、アジアやロシアに対する英米中心主義の強化策としてだけでなく、多極主義の方向性の攻撃も発生している。92年のポンド危機での英国に対する投機筋の攻撃や、07年のサブプライム危機以来の米金融界内部の共食い的なデリバティブ取引の続発などが、それにあたる。 金融自由化(債券化)と市場の国際化(金融グローバリゼーション)、金融兵器(投機筋)の出現によって、世界は90年代に米英金融覇権の時代に入った。覇権が金融化した結果、それ以前の覇権構造の中核にあった冷戦体制は不要となった。米国の隠れ多極主義者は、60年から冷戦終結を画策していたが、英米中心主義者たちは85年の金融自由化の開始と並行して冷戦の終結を了承し、89年に冷戦が終結した。その時にはすでに、米英覇権は金融化が確定し、冷戦は英米中心主義にとっても不要になっていた。暗闘は、またもや英国側の勝利になった。 その後、90年代のクリントン政権下で、米英は金融覇権体制を謳歌した。資本家の多くは、自分らの儲けが急増する金融覇権体制に満足した。金融覇権体制に乗り換えた英国は、米国の軍産複合体を見捨て、米政府は米国の軍事産業を縮小し、企業合併などの合理化を進めた。 捨てられた軍産複合体は、90年代末から「テロ戦争」の構図を作り、それが2001年の911テロ事件によって爆発的に具現化し、軍事分野への巻き返しが始まった。911は、米当局の自作自演臭がある事件だ。これは、英国や金融界に捨てられた軍産複合体による逆襲としてのクーデターだったと考えられる。しかしこの策略は、ブッシュ政権がアフガニスタンやイラクに次々と侵攻し、地元のイスラム系ゲリラとの戦う泥沼の占領態勢に陥ったため、大失敗していった。この失策をやらかしたのは、ブッシュ政権の中枢に入り込んだ、過激な戦略を無謀に展開する米共和党の右派勢力「ネオコン」だった。彼らは、過剰な戦略によって、意図的に米国の軍事力や国際信用力を浪費し、米国の覇権を失墜させる隠れ多極主義の資本家のスパイだったと考えられる。 同時期に、投機筋によるアジア通貨危機で金融グローバリゼーションが破壊され、その後はサブプライム住宅ローンなどジャンク債やデリバティブの発行が急増し、米国の金融バブルが急拡大した。高リスクのはずのジャンク債が、実質よりも低リスクに格付けされて大売れし、いずれ債務不履行が続発して格付けシステムそのものが崩壊するというバブル膨張の仕掛けが用意された。金融覇権体制下で本来、敵国に向けて行われるべきバブル拡大作戦が、米国自身に向けてセットされた。 このバブルは、07年夏のサブプライム危機とともに破裂し始めた。米政府や米連銀が、金融界のすべての不良債権を買い取って吸収し、すべての不良債権を米当局が背負う傾向が強まり、米国は金融財政的に自滅の道をたどっている。米国債が崩壊するなら、米国と同じ金融システムを採っている英国債も前後して崩壊し、米英の覇権は失墜する。 同時期に、ニクソン訪中以来、米国の資本家が仕掛けてきた中国の経済台頭が加速し、中国はロシアやブラジルなどと組んでBRICなどの新興諸国連合を形成し、米英の覇権が失墜した後の多極型の世界経済体制の準備が静かに進行している。 2010年初めからのギリシャ国債危機は、こうした隠れ多極主義的な自滅策に対抗するための、英米中心主義からの反撃である。ユーロ圏が無傷なまま、米英の金融財政が破綻すると、EUは米英の傘下から抜け出て単独の地域覇権勢力として台頭する。それを防ぐために、ユーロ圏内で財政体質が弱いギリシャを皮切りに国債危機を拡大させてユーロを潰し、EUが多極型世界を推進できないようにするのが英米中心主義の戦略だろう。ギリシャ国債危機は、金融世界大戦の戦場の一つである。第一次大戦はバルカンから始まったが、今回の金融大戦もバルカンからだ。 もう一カ所、金融大戦の戦場になるかもしれないのは中国だ。中国政府は、米英系投機筋の餌食になることを恐れ、人民元の国際取引を自由化せず、為替をドルにペッグし続けている。中国政府は慎重だが、いずれ米英中心主義者が中国を経済的に引っ掛けて潰しにかかるかもしれない。EUと中国の両方を潰せば、多極型世界は形成されず、米英が財政破綻しても代わりの世界体制が浮上しないので、多極化ではなく混乱の「無極化」となる。しばらくの混乱の間に、英国主導で何らかの国際的な新しい仕掛けが作られれば、米英覇権は延命しうる。中国は最近、経済面での米国依存と対米従属をやめる方向に動き出しており、今後の展開が注目される。 このように、産業革命やフランス革命以来の約200年間の世界の近現代史は、英国(米英中心主義。帝国の論理)と、資本家(隠れ多極主義。資本の論理)との長い暗闘である。この暗闘は、発展途上国や新興諸国が存分に発展できる状況を作ることで、世界経済の成長を最大限にしようとする試みと、これらの諸国の発展を阻害して、世界経済の成長よりも、覇権国である英国(米英、欧米)にとって都合の良い世界体制を長く続けようとする試みとの間で起きている。 今は、米国の覇権が崩れかけ、BRICが台頭し、隠れ多極主義が優勢になっているが、200年の歴史を見ると、米英中心主義はかなりしぶとい。米英中心主義の側が負けたはずが、いつの間にか勝っているという展開が、何度も繰り返されている。わが日本を見ると、しつこく米英中心主義の傀儡に徹している。日本人は、中国と協調するぐらいなら鎖国の方がましだとさえ思っている。米英中心主義はマスコミのプロパガンダを握っており、日本人をはじめとする世界の人々の頭の中を操作できる。この世界的な暗闘がどう展開しているかを洞察し続けるのが、すでに私自身のライフワークにもなっている。 本章の暗闘構造の分析は、私の独自のものだ。この分析には弱点もある。その一つは、誰と誰の暗闘なのか不透明なことだ。隠れ多極主義者は資本家とのその代理人たちであるが、彼らと敵対する軍事産業の資金源は資本家だし、金融覇権体制を支えるのも資本家だ。資本家どうしの暗闘ということになるが、資本家の中の誰が多極派で誰が米英中心派であるか、はっきり見えない。多極派の資本家としてロックフェラー家がいることは、ほぼ確実だ。だが同時に、債券金融システム(金融兵器)の機能を急拡大させた立役者はJPモルガン・チェースである。この銀行はJPモルガンとチェースマンハッタンが合併したものだが、チェースマンハッタン銀行はロックフェラー系だ。産業革命後、欧州で最有力の資本家となったロスチャイルド家も、大英帝国のために働いて儲ける一方で、ロシアや東欧などへの産業革命の拡大に投資しており、両面的な動きをしている。この事態は「暗闘」と呼ぶより「相克」「葛藤」「両義的な状況」などと呼んだ方がいいかもしれない。 読者の中には「誰と誰の暗闘かも言えない君の分析は信用できない」と思う人が多いかもしれない。しかし、欧米の資本家の原点はユダヤ商人で、彼らはほかに気づかれないように商売や利権のネットワークを欧州で何百年も維持してきた人々だ。英国の諜報力の源泉もユダヤ商人のネットワークにある。秘密保持、ごまかし、詭弁、煙に巻く歪曲的説明など、諜報やプロパガンダの技術に長けた彼らの内部の暗闘を見極めるのは非常に困難だ。だが同時に言えることは、毎日世界で起きていることを詳細に読み解いたり、この200年ほどの近現代史をいろいろ考えていくと、どうも覇権中枢で決着のついていない暗闘状態がある感じがする。これは、マスコミや教科書の説明を鵜呑みにせず、自分で分析する気のある人にしか感じられないことでもある。 【「第4章:歴史各論」に続く】
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