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ミャンマーの和解

2011年8月22日   田中 宇

 8月19日、ミャンマーの反体制指導者アウンサン・スーチーが、同国軍事政権から招待されて初めて新首都ネピドーを訪れ、ティンセイン大統領と初めて会った(ミャンマー政府は05年に首都をヤンゴンからネピドーに移した。スーチーは旧首都のヤンゴンに住んでいる)。側近によると、スーチーは大統領官邸で大統領夫人や政権の要人らに歓迎された。古くからの友人を迎えるような、親しみのこもった歓迎を受けたという。政府がスーチーを招待した公式の理由は、ネピドーで行われる経済開発会議への出席だったが、実際には大統領との会談が最重要の行事だった。 (Aung San Suu Kyi meets Burma president

 スーチーは昨年11月に釈放された後も、政府からヤンゴン市外へ政治遊説に出ることを禁じられてきた。だが今回、政権側はスーチーに政治遊説の再開を許し、スーチーは8月14日にヤンゴン郊外のペグーに遊説に出かけた。一方スーチーは、ティンセインとの会談に満足していると表明し、今後も対話していくと述べて、現政権を容認する姿勢を見せた。 (Burma: Suu Kyi And The Government - Analysis

 1990年の選挙でスーチーの政党NLDが圧勝したものの軍事政権が選挙結果を認めず政権に居座って以来、スーチーとミャンマー軍事政権は、敵対関係が長く続いてきた。昨春、当時首相だったティンセインをはじめとする軍事政権の将軍たち23人が退役してかたちだけ文民となり、新党(USDP、連邦団結発展党)を設立して昨秋の選挙に勝ち、軍事政権は表面上だけ文民政権に衣替えした(ティンセインは士官学校卒業後、40年以上の軍歴を持つ根っからの軍人だ)。

 スーチーらは、軍事政権が作った抑圧的な憲法下での選挙に反対し、昨秋の選挙に参加せず、政権側に対して敵視や懐疑的な態度をとってきた。それだけに、今回のスーチーとティンセインの和解的な会談は、ミャンマーの政治に重大な転換が起きていることを示していると、FTなどが分析している。 (Suu Kyi meets Burmese leader

 スーチーの転換は、突然に起きたことでない。スーチーは文民のふりをする軍事政権のやり方に反対し、昨年11月の選挙に参加しなかったものの、選挙直後の11月13日に釈放された時から、欧米に対し、ミャンマーに対する経済制裁を解除するよう求める姿勢に転換した。 (Aung San Suu Kyi shifts position on sanctions) (アウンサン・スーチー釈放の意味

 スーチーは今年2月、世界経済の行方を議論するダボス会議にビデオ映像を送り、ダボスに集まった世界の資本家たちに対し、ミャンマーに投資してほしい、ミャンマーに観光しに来てほしいと要請した。スーチーはこの手のメッセージを、昨年11月に釈放された時から世界に発していた。 (Did Suu Kyi's Davos Speech Signal U-Turn on Sanctions?

 スーチーは現実路線に転換し、特に経済開発の面で軍事政権とある程度協調し、自国を発展させていきたいと考えるようになった。昨年11月の選挙を受けて今年3月に発足したティンセイン政権は、スーチーの転換に呼応し、スーチーの側近だった経済専門家ウミントを、政権経済顧問に迎え入れ、スーチーが望む経済開発を政府が行う姿勢を見せた。7月に入り、政府の閣僚がスーチーと繰り返し会うようになり、今回のスーチーと大統領の会談が実現した。 (Cautious hope for change in Burma

 スーチーとミャンマー政権との和解は、米国も事前に知っていたようだ。スーチーがティンセインと会談する直前の8月14日、米政府は初めて国務省にミャンマー問題の担当官を置き、国務省や国防総省を歴任したアジア問題の専門家デレク・ミッチェルが就任した。ミャンマー担当官の設置は08年から立法されていたが、3年近く延期されていた。 (US appoints Burma special envoy Derek Mitchell) (US puts a new man in Myanmar

 8月15日には、ミャンマー政府が、国連人権委員会が派遣してきたミャンマー担当官(Tomas Ojea Quintana)に対し、入国ビザを発給することを決めた。担当官は昨年3月からミャンマーへの入国を求めていたが、拒否されていた。スーチーの待遇や、国連人権担当官の受け入れなど、ミャンマー政府が米政府の評価を受けそうなことを連発する直前に、米政府がミャンマー担当官を任命している。 (U.N. rights official heads to Myanmar

▼英国が中国に譲歩し、スーチーが転換?

 とはいえ、スーチーの転換を引き起こした主導役は米国でない。主導役はおそらく、この間の政治劇の水面上にほとんど出てこないが、中国である。ミャンマー軍事政権は以前、米国に天然ガスなど資源の利権を与えることで、自国の軍事独裁や人権侵害を大目に見てもらおうとする戦略をとっていた。だが、ブッシュ前政権が03年にイラクのフセイン政権を「悪の枢軸」に指定して侵攻してつぶし、05年に悪の枢軸の後継戦略としての「圧政国家」にミャンマーが入れられ、米国との和解は不可能になった。その後、07年夏にミャンマーで物価高を原因とする市民の反乱が起こり、これがCIAなどが裏で糸を引く政権転覆策「サフラン革命」と指摘されるに至った。 (イラク化しかねないミャンマー

 この展開を見て、中国政府は大きな懸念を抱いた。ミャンマーの軍事政権が市民革命で転覆されると、中国の隣接国であるミャンマーが内戦化し、難民が押し寄せるなど中国側も不安定化しかねない。昨年末にウィキリークスが暴露した米国務省の機密電文とされる文書によると、07年秋以降、中国政府はミャンマー軍事政権に対し、スーチーや辺境少数民族などの反政府勢力と交渉したり、民意の反感を抑えるような工夫をせよと強く圧力をかけるようになったという。08年1月には、ミャンマー問題に関する米中間の会議も開かれた。 (Burma CNimp2 China's dim view of Myanmar junta

 この後、08年秋にリーマンブラザーズが倒産し、基軸通貨としてのドルの将来が疑われるようになった。ドルに代わる基軸通貨体制などについて議論するG20サミットが立ち上がり、世界経済政策に関する既存の最高意思決定機関だったG7に取って代わった。これは、世界の主導体制が、既存の米英単独から、米英と中国などBRICとの対等関係の多極型合議体制に転換していくことを意味していた。国際社会において中国が大きく台頭する方向が決まった。

 この転換を受け、それまでスーチーに戦略的なアドバイスをしてきた英国が、中国に譲歩せねばならなくなった。スーチーは、すでに故人となっている夫が英国MI6の諜報部員で、夫婦で英国に住んだこともあり、英国の諜報機関とのつながりが深い。英MI6や米CIAは、スーチーに軍事政権を転覆させ、ミャンマーを英米好みの国に転換させ、そこを拠点に北隣の中国を不安定化しようと考えていたのだろう。だが、金融危機によって、ドルの基軸性喪失や、米英の覇権低下の可能性が大きくなったことで、米英は中国に譲歩せざるを得なくなった。

 英国外務省は08年10月末、チベットを独立国として認めた1914年のシムラ協定を事実上放棄し、チベットの独立を支持して中国を分裂させる戦略をやめていることを宣言する声明を発表している。これは、リーマンショック後に世界経済の主導役がG7からG20に取って代わられ、英米の国際影響力が減退する半面、中国の影響力が拡大する方向が確定する中で発せられている。ミャンマーに関しても、英国は、スーチーを使った民主化戦略(不安定化策)を引っ込め、中国がミャンマーに対して自国に都合の良い政策をやることを認めたと推測できる。 (チベットをすてたイギリス

 英国がストレートに地政学的な中国包囲網戦略をとってきて、それを放棄せざるを得なくなったのに比べ、米国の戦略はもっと暗闘的に分裂している。英国の同盟勢力である軍産複合体は中国包囲網の戦略だが、二ューヨーク資本家の一部がこっそりやっている多極化戦略は、軍産英複合体の戦略を過剰にやって破綻させ、中国など新興諸国の台頭をむしろ誘発して、世界の中で経済発展する地域を拡大する戦略だ。米国は、ミャンマー敵視策を過激に貫くことで、ミャンマー軍事政権が中国に頼らざるを得ない状況を作るとともに、CIAなどが煽動する民主化運動によってミャンマーが不安定化させられる前に介入せねばならないと中国に思わせる策をとった。

 09年を通じて、ミャンマー軍事政権のティンセインら将軍がかたちだけ退役して文民となって新政党を作り、総選挙をやってその政党に政権をとらせる上っ面の脱軍事政権策が、中国の忠告のもとに計画され、10年にそれが実施され、今に至ったと考えられる。以前なら、このような上っ面の文民化は、米英やその傘下の欧米マスコミによって茶番として否定され、ほとんど何の効果も得られなかっただろう。だが08年以降、ミャンマー問題解決の主導役が中国になり、欧米の政府はこの茶番劇に対してほとんど黙認する姿勢をとっている。

 ミャンマー問題に外から介入する主導役が米英から中国に転換したことを、スーチー自身がいつ悟ったかはわからない。スーチーらが昨秋の選挙に出なかった理由が、転換を悟っていたからなのか、それともCIAあたりに騙されたのかは、わからない。しかし、昨秋選挙直後に釈放された時、すでにスーチーは主導役の転換を悟っており、中国がミャンマー軍部に作らせたティンセイン政権を敵視するより、協調した方がミャンマー全体のためになると考えていた。欧米で賞賛される存在であるスーチーは、新政権と協調し、世界からミャンマーに投資してくれる資金を集める役割を買って出た。今回、スーチーと新政権との協調が進み、今後のミャンマーが中国の隠然とした影響力のもとで安定していく方向性が強まった。

 ミャンマーは南東側の国境がタイに隣接しているが、タイではタクシンの妹の政権ができた。タクシンは、それまでのタイの王室と軍部、官僚機構による軍産複合体系の権力機構を崩し、政治主導型の自立的、非米的な国家建設を試み、長い軍部・官僚との戦いにようやく勝ちつつある。以前のタイは、ミャンマーの反政府少数民族の勢力を自国内に住まわせ、米英によるミャンマー包囲網に協力してきた。しかしタクシンの影響力がタイに戻ってきたことで、タイは、むしろ中国主導のミャンマー安定化策に協力し、ミャンマーの少数民族と政府との対立を終わらせていく役割を強める可能性が高くなっている。 (タイのタクシンが復権する?



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