タイのタクシンが復権する?2011年4月29日 田中 宇東南アジアのタイとカンボジアで、国境紛争が激化している。両国国境にある11世紀のヒンドゥ寺院「プレアビヒア」周辺地域の領有権をめぐり、両国軍の交戦が何日も続き、国境周辺の5万人が避難している。 (Thailand and Cambodia border clashes escalate) プレアビヒアの周辺は、カンボジアがフランス植民地だった戦前からフランスとタイの間で国境紛争になり、1907年の両国間の協定でフランス領になったものの、1953年にフランスが撤退してカンボジアが独立するどさくさ紛れて、タイ軍が寺院を占領した。カンボジアは国際司法裁判所(ICJ)に訴え、1961年、ICJは1907年の地図を根拠に、寺院をカンボジア領と判断した。 (Cambodian-Thai border dispute From Wikipedia) ICJの判定は、寺院そのものをカンボジア領と認定したものの、寺院周辺の土地について何も判断を下さなかった。この問題について08年6月、カンボジア政府が寺院をユネスコの世界遺産に登録申請する際、タイ政府と話し合い、当時のタイ政府(サマック政権)は、カンボジアが寺院そのものだけを世界遺産に申請し、寺院周辺の土地を申請対象に含めない(寺院周辺の土地の領有権紛争を棚上げする)ことを条件に、カンボジアがプレアビヒアを世界遺産に登録することを支持すると決めた。 タイは当時、06年から今まで続いている国内の政治紛争の最中だった。紛争の始まりは、01年から06年までタイの首相をしていたタクシン・チナワットが、05年に歴代のタイ首相として初めて任期を全うした後で圧勝の再選を果たし、民意の支持を背景に、かねてからやろうとしていた抜本的な行政改革に着手したところから始まる。既得権益を握る枢密院(国王の諮問機関)、軍部や官僚機構、司法当局、マスコミなどが、改革を潰すべくタクシンへの批判を強め、既得権益派の傘下にある憲法裁判所が05年の選挙の無効を決定した。 (Political crisis in Thailand (2005-2006) From Wikipedia) 06年10月にやり直し選挙が行われることになったが、選挙ではタクシン派に勝てないと判断した既得権益派はクーデターを計画し、06年9月、タクシンが国連サミット出席のため出国している間に、軍部がクーデターを起こし、タクシンは英国への亡命を余儀なくされた。軍部はクーデター後、宮廷の枢密院の議長をつとめるプレム元将軍の側近が多く閣僚に入って暫定の軍事政権が作られた。彼らは憲法を改訂し、クーデターの黒幕だった枢密院の権力を大幅強化したり、選挙制度を改変したりして、タクシン派の再台頭を防ごうとした。しかし、07年末に行われた出直し選挙では、タクシンの支持者が集まる政党PPP(タイ人民党、赤シャツ派)が勝ち、反タクシン派のPAD(民主市民連合、黄シャツ派)の政党は負けた。 PPPのサマック政権ができ、08年初め、タクシンは亡命先から帰国したが、その後、改革を進めようとするタクシン派と、それを阻止しようとする既得権益派との対立が激化した。バンコクの街頭では赤シャツ派と黄シャツ派が激しい争乱を起こし、08年9月に非常事態が宣言され、その直後に既得権益派の傘下の憲法裁判所がサマックが汚職をしたとして有罪判決を出し、サマック政権を解任した。 その後、タクシン義弟のソムチャイが首相になったが、反タクシン派PADは反対を強め、再び争乱の中、08年12月に憲法裁判所がPPPの政府そのものを解任する「司法クーデター」的な判決を出し、タクシン派は潰され、PADが支持するアビシット現政権が作られた。タクシンは、この争乱が起きる直前の08年8月に出国し、再び亡命生活に入った。英国に逃げたが、タイが英国に圧力をかけた結果、英国にいられなくなり、英国の息がかかった場所であるアラブ首長国連邦のドバイに住んでいる。 この08年のタイの混乱の中で、寺院をめぐるタイとカンボジアの国境紛争が再燃した。タクシンは、タイを国際的な影響力を持った国にすることを目標に掲げ(つまり東南アジアの覇権国をめざす)、近隣のカンボジアやミャンマー、ラオスとの関係改善を打ち出していた。この方針はサマック政権に引き継がれ、08年春にカンボジアがプレアビヒア寺院の世界遺産登録を申請した際、条件付きで認める決定につながった。PADは、この動きがタクシン派潰しに使えると気づき「タクシン派は、タイが領有権を持っているプレアビヒアをカンボジアに渡した売国奴だ」とナショナリズムを扇動し、タクシン派非難につなげようとした。 軍部は、反タクシン派の主要な勢力だ。タイ軍は世界遺産申請問題が出てきた直後の08年6月、50人の兵士をプレアビヒア寺院から300メートル離れた場所に進軍・駐屯させた。寺院自体はICJの判決でカンボジア領とされたが、寺院周辺は未確定なので、そこはタイ領であり、進軍する権利があるという理屈だった。カンボジア側は怒って交戦となった。タイ軍は08年8月、150キロ離れた別の国境地帯でもカンボジア軍に戦闘を仕掛けた。既得権益派は、軍が戦争を煽ってタイのナショナリズムを扇動し、どさくさの中で裁判所がPPPの政権を解任する連携プレイによって、タクシン派を潰すことに成功した。06年のクーデター以来、タイの軍事費は倍増し、軍の権益が拡大した。 (As election looms, Thai generals go on offensive) ▼選挙が近づくとカンボジアと戦争するタイ軍部 08年末にタクシン派の政権が潰された後、反タクシン派に支持され政権についたアビシット首相は、タクシンの人気の源泉となっていた地方の農民や都会の貧困層に対する貧困救済策に力を入れた。タイ経済はリーマンショック以後の世界的な不況からも立ち直る傾向を見せた。アビシットは「タクシンを潰した軍部から政権を任されただけの、民主主義に基づかない政権」という汚名を着せられている。アビシットが率いるタイ民主党(DPP)はこの20年間、一度も総選挙に勝ったことがない。アビシットは、自分に着せられた汚名を晴らすため、今のタイの好調さを背景に、議会を解散して総選挙に打って出る構想を持っている。早ければ5月前半に議会を解散し、7月に総選挙を行うと目されている。アビシットは、選挙に勝てば政治的な正統性を獲得でき、タクシンに負けない長期政権を目指すことができる。 (Uncertainty ahead of polls in Thailand) しかしタクシンは、亡命生活を長く続けているにもかかわらず、タイ国内でいまだに地方農民や都会貧困層に広範に支持され続けている。タクシン派の政党(かつてのPPPは裁判所に解散を命じられ、今はPTP)が勝つ可能性もある。PTPが勝った場合、首相にタクシンの妹のインラック・チナワットを立て、タクシンが目指した政治改革の続きをやると予測されている。タクシン派が勝ちそうな場合、06年のように軍が選挙直前にクーデターを起こすかもしれないとか、タクシン派が勝っても08年のように憲法裁判所が政権に解体を命じる「司法クーデター」が行われるとか、既得権益派の非民主的な反逆が予測されている。 (Ballot and bloodshed could hinge on Thaksin's leadership decision) 近いうちに行われる選挙でタクシンが復活を狙っているのに対し、軍部は、プレアビヒア寺院をめぐるカンボジアとの国境紛争を再燃させ、タイのナショナリズムを扇動するとともに、カンボジアに対して寛容な外交政策を採ってきたタクシン派を攻撃する材料を作っている。タイ軍部は08年にタクシン派を政権から追い落とした際、カンボジアとの国境紛争を激化させ、その後も紛争が断続的に続いた。アビシットが解散総選挙を行う意志を強めた今年に入って、タイ軍は再びカンボジアとの対立を激化させ、選挙に向かう可能性が高まった今年4月に、両国間の戦闘も激化した。 (As election nears, Thailand's military starts shooting) 今回のタイとカンボジアの国境紛争に対し、ASEANが仲裁に入った。国際司法裁判所のお墨付きを得ているカンボジアは仲裁に乗ったが、タイは乗りたがらず、いったん和解に応じてもまた交戦したりして、紛争を継続する姿勢を示している。タイの軍部は、自国より弱いカンボジアを相手に延々と国境紛争を続け、タイ国内に有事的な事態を作り出すことで、軍部や宮廷(枢密院)が政治介入できる状態を維持しようとしている。ASEANは、タイとカンボジアというメンバー間の対立が解けず、結束力が低下し、組織的な存亡の危機になっている。 (Thai-Cambodia dispute flares; ASEAN burned) ▼権力の不透明さが王室の本質 06年のクーデター以来、タイでずっと続いている政治紛争の本質は、王室にぶら下がる勢力(軍部、官僚)と、議会を中心とする勢力(諸政党)との権力の奪い合いである。この対立の構図は、1932年に軍部の若手将校たちがタイ史上初の政党(人民党)と組んでクーデターを起こし、政治体制を絶対君主制から立憲君主制に転換してから、ずっと続いている。王室にぶら下がる勢力は、政治体制を立憲君主制にすることに譲歩し、議会や内閣の権力を認めたものの、その後できるだけ議会を抑制しようと試み、権力増大をはかる内閣を、軍事クーデターや憲法裁判所の判決によって潰してきた(司法権と軍事力は事実上、王室側にある)。逆に議会は、立法の力によって王室系の権力を削ごうとしてきた。 (A searing indictment of the coup) (Siamese revolution of 1932 From Wikipedia) タイは、1945年の終戦まで日本の影響下に置かれた後、47年から89年までの冷戦体制下で米国傘下の反共産主義陣営に入った。王室の権限を削ごうとする勢力は左翼とみなされ、政権の共産化を防ぐ名目で軍事クーデターが頻発した。冷戦体制は、タイ国内の政治対立の中で、王室派を有利にした。この構図は89年の冷戦終結とともに終わり、90年代の後半から、議会の側が政治改革によって軍部など王室派の権力を削いでいく試みを強めた。90年代もタイの政治は不安定だったが、01年に就任したタクシンが議会と行政で強い力を持ち、政治改革に着手するとともに、今に続く王室派とタクシン派の長く激しい戦いとなった。反タクシン派(PAD)が黄色のシャツを着るのは、黄色が王室の色だからだ。 タクシンがやろうとした改革は、たとえば地方の各県における行政の実質的な権限の移動だった。タイの地方の県知事は政府による任命で決められるが、知事の権限は弱く、実質的な権限は、中央政府の各官庁の地方事務所が持っている。タクシンはこの体制をくつがえし、地方事務所の権限を剥奪して県知事に権限を与える行政改革を行った。官僚機構が地方事務所を通じて地方行政権を持っていたのを潰し、政治的に知事を任命しようとした。ビジネスマン出身のタクシンは、この行政改革を「地方の県知事に会社経営者(CEO)のように権限を与え、行政を効率化する」と言い表していた。だが、権力を奪われる王制派は行政改革を阻み、06年のクーデターでタクシンを追放した後にできた軍事政権は、行政改革を無効にして元に戻してしまった。 (Thaksin Shinawatra From Wikipedia) 王制派の強みは、司法権を握っていることだ。タイの国家3権のうち、立法権と行政権は議会にあるが、司法権は王制派が握っている。だから、タクシン派が選挙で勝っても憲法裁判所が新首相の微罪(テレビの料理番組に出演したこと)を理由に有罪にして解任を決定するし、タクシンは汚職で有罪にされ、悪人のイメージを塗りつけられる。日本の司法当局が、小沢一郎を潰しにかかったのと同じ構図だ。政府を襲撃した反タクシン派(PAD)の幹部を警察が検挙しても、裁判所で棄却されて釈放されるので、PADはしつこく争乱を起こせる。 (2008-2010 Thai political crisis From Wikipedia) 内部の権力構造がブラックボックスになっていることも、王室派の強みだ。もともと、どんな国でも、絶対君主制から立憲君主制に移行することの意味は、権力構造や意志決定システムの透明化である。透明化することによって、人々が政治に参加したり監視したりでき、民主主義が機能する。対照的に、立憲君主制に移行した後も王室側に残っている権力は、ブラックボックスのままだ。 王室派の中心は、プレム元将軍を議長とする宮廷の枢密院とされており、そこから軍部や裁判所、官界などに対する介入がなされているようだが、実態が不明だ。タイ王室内では、王妃がPADの女性集会に参加するなど、反タクシン的な姿勢の王族がいる一方、それに反対する王族もいる。国王の息子(皇太子)は反タクシン派だが、その妹はそうでないなどと言われているが、これも不確定な話だ。不透明さがあるので、タイの議会派は王室派のどこを攻撃すれば良いか判断が難しく、不透明さが王室派の強みとなっている。 (End to an inauspicious year for Thai royal family) この点は、多くの国の王室について言える。かつて世界を支配した英国が、中東など多くの国々に傀儡的な王室を置いて立憲君主制にしたのは、英国自身の体制に似せたからという理由だけではない。王室の権力構造が本質的に不透明であるがゆえに、その国の国民に知られずに英国が隠然と政治介入し続けられるからだ。 王室は「国民統合の象徴」であり、強い権威を持っている。だから、王室にぶら下がる勢力の既得権益を削ごうとする議会派は、反王室の立場をとることができない。王室に尊敬の意を表しつつ、王室にぶら下がる勢力を潰さねばならない。これは大変であり、王室にぶら下がる人々は「自分たちこそ王室を守る勢力だ」と自称するとともに「タクシン派は王室を潰そうとしている」と非難し、王室を慕う国民を味方につけることができる。このような状態なので、タイの王室にぶら下がる人々は、しぶとく権力を握っている。 しかし同時に、いまさら立憲君主制を絶対君主制に戻すことはできず、議会の権力を王室が公式に奪うことはできない。王室派は隠然と権力を保持し得るが、議会の側に強い指導者が出てくるたびに、議会側は民意という強い後ろ盾を得て、王室派から権力を剥奪しようとする。だから王室派は、国民に慕われる首相の登場を望まない。 従来、反タクシン派として政権を任されてきたアビシット現首相も、次の選挙でタクシン派を破って民意に支持された政権になることができたら、その後はタクシン顔負けの行政改革をやって、王室派から権力を奪おうとするかもしれない。アビシットは就任以来の2年間、地方の貧困の撲滅など、タクシンがやりかけたのと似た政策を展開することで、人気を得てきた。これが「タクシン派を二度と権力につかせないための方便」でなく、本当に地方の貧困を減らすことでアビシットの人気が強まる事態になると、王室派にとって脅威となる。 すでに王室派のPADは、アビシットがカンボジアに対して寛容すぎるとして非難し、次の選挙でアビシットを支持しない姿勢をとっている。PADは「政治安定のため、今後数年は選挙をすべきでない」とも言っている。これはつまり、選挙をやると、どちらが勝っても民意を背景にした強い指導者になり、王室派の権限剥奪を再開しかねないので、選挙をしない方が良いということだ。 (Political party aligned with Thailand's 'Yellow Shirts' to skip elections) 議会の誰がやるにせよ、今後、タイの議会派が王室派から権力を奪った場合、その後もタイの王制は続くだろうが、国王の権力は象徴的なものに近づく。世界的に見ると、政治権力を全く抑制されている王室というのも存在する。その筆頭は、わが日本の皇室だ。日本では戦後、米国の戦略に基づき、官僚機構(宮内庁)が皇室の「監視役」として機能し、皇室内で政治権力を持とうとする動きがあったとしても、それを萌芽の状態で潰してしまう。宮内庁長官は政治家でなく官僚であり、国会の政治勢力が皇室に接近することを阻止している。政治権力という面で見ると、戦後の日本の皇室は、明治以前の250年間、京都の御所に幽閉され、幕府に厳しく監視されていた時期と大差ない状況にある。タイの王室が持っている大きな政治権力と比べると、その違いが良くわかる。 タクシンは最近「中東の民主革命に影響された(だから選挙に勝ってタイの改革を進めたい)」と言っている。中東では、バーレーンで王室批判の民主化運動が強まり、ヨルダンやサウジアラビアでは、今のところ露骨な王室批判は避けられているものの、時間の問題という感じだ。中東の革命やタイの政治争乱は、世界各地にある王室というものの政治的な本質について考える、格好のきっかけを与えてくれている。 (Ousted Thai Minister Vows to Play Role after Elections)
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