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全方位外交のアジア

2007年4月10日   田中 宇

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 インドネシアでは、1967年から1998年までのスハルト政権時代に、中国系(華人)に対する強い差別・抑圧が行われていた。中国系は、総人口の5%(一説には2%)を占める少数派で、独立前から商業を中心とする経済分野で支配的な影響力を持っていた。1967年まで大統領だったスカルノは反欧米主義を強め、中国に接近したが、この体制をクーデターで倒したスハルトは、一転してアメリカと親密な戦略を採り、国内の中国系を「中国共産党のスパイ」とみなして弾圧した。

(スハルトは一般の中国系を抑圧した半面、若いころから自分のために資金作りをしてくれたサリムグループの林紹良などごく一部の中国系資産家に、国家の経済運営を全面的に任せていた)

 漢字や旧正月の飾りもの、中国系の仏教寺院のろうそくまでが「中国の政治思想を表しており、反国家的である」とみなされて禁止された。中国系の人々は、中国式の名前を捨ててインドネシア風の名前に改名しないと市民権(国籍)をとれず、長く無国籍の状態に置かれた中国系が多かった。反政府勢力と見られないよう、中国系どうしで集まることも避けていた。インドネシアの有名人の中には中国系もいるが、みんなインドネシア風の名前なので、ほとんどの国民は、彼らが中国系であると知らない。(関連記事

 こんな抑圧状態が解消されたのは、1998年のアジア経済危機でスハルトが辞任に追い込まれ、その後東チモールの分離独立、2001年の911後のテロ戦争開始などによって、アメリカがインドネシアの人権問題やイスラム主義を非難し、武器輸出を停止したりして冷遇され、それと並行して中国が経済成長し、アジアの大国として台頭してきたからだった。

 漢字や旧正月の飾りなどの中国文化に対する禁止は、2001年に解除され、翌年には中国暦の旧正月が国民の休日に定められた。今年2月末の旧正月には、ジャカルタの催事場で行われた大々的なイベントにユドヨノ大統領が出席し、イベントの様子が全国にテレビ中継されるという政府肝いりの行事になった。昨年夏には国籍法が改定され、インドネシア生まれの人なら誰でも国籍が賦与されるようになり、中国系は約40年ぶりに、中国式の名前で自由に国籍を取得できるようになった。

 これらの中国系に対する待遇改善は、中国が、外交関係の最も緊密なカテゴリーと定めた「戦略的パートナーシップ関係」(戦略[イ火]伴関係)をインドネシアと締結する条件として求めたものだったと考えられる。両国は、2005年に戦略的パートナーシップを締結している。インドネシアは中国に石油などの地下資源を輸出し、中国はインドネシアに武器や電気製品などを輸出する関係だ。インドネシアにとって、中国は、米、EU、日本に次ぐ4番目の貿易相手国である。(関連記事その1その2

 中国は、中東からインド洋、マラッカ海峡を通って中国にいたる石油輸入のシーレーンを守るため、マラッカ海峡に近いインドネシアのどこかに潜水艦の寄港地を作らせてもらうことを検討している。(関連記事

▼インドネシアへの威圧をやめる豪州

 インドネシアにとって、1998年に通貨危機で経済が崩壊してスハルト政権が倒れ、99年に東チモールが分離独立し、2001年にテロ戦争が始まってイスラム教徒がアメリカから敵視されたころは、苦難の時代だった。世界はインドネシアに冷たかった。しかしその後、イラク戦争とテロ戦争の失敗でアメリカの単独覇権が減退し、世界が多極化しつつある中で、インドネシアは地政学的な位置づけが重視され、中国、ロシア、アメリカ、オーストラリアなど、いくつもの大国から接近され、秋波を送られる状況となっている。そしてインドネシアは、これらのすべての国々とうまくつき合おうとする全方位外交を行っている。

 インドネシアに接近してくる諸大国のうち、中国とロシアは、アメリカが東チモール問題とイスラム敵視でインドネシアに冷たくした空白を埋めるように、インドネシアとの関係を強化し、武器を売ったりしている。(アメリカは1999年から2005年まで、インドネシアに武器輸出を停止していた)(関連記事

 インドネシアの南にあるオーストラリアも、インドネシアに対する態度を大きく転換した国の一つである。オーストラリアは、インドネシアの弱みにつけ込んで東チモールが分離独立することを扇動したため、インドネシアはオーストラリアとの安全保障条約を破棄した。その後もオーストラリアは「人権重視」を口実に、インドネシア各地における分離独立運動を支援する素振りをみせた。2002年には、インドネシアのバリ島で88人のオーストラリア人が死ぬ爆破テロが起きたが、この後、オーストラリアのハワード首相は、テロの再発を防ぐためには、インドネシアなど東南アジアに対する先制攻撃も辞さないと発言した。(関連記事

 しかし、こうしたアメリカの単独覇権主義を笠に着た態度は、アメリカのやり方が失敗するとともに効力を失った。中国やロシアとの関係を強化して国際的に有利になった立場を利用して、インドネシアのユドヨノ政権は2005年、オーストラリアに対し、1999年に破棄された安全保障条約を再締結することを提案したが、その前提条件は、オーストラリアがインドネシア各地の分離独立運動を支持するのを止めて国家主権を認めることと、人権問題をうるさくいわないことだった。

 オーストラリアはこの条件を飲み、オーストラリア側の市民運動などの組織が、インドネシアの人権問題や環境問題などを監視したり非難したりすること制限する条項を盛り込んだ新安保条約について、両国の議会などで検討が進んでいる。

 オーストラリアの野党や市民団体は、この安保条約に反対している。だが、以前の記事「人権外交の終わり」に書いたように、アメリカが過激にやりすぎた結果、人権外交が持つ「間接植民地支配」「内政干渉」的な側面は、すでに世界的に露呈している。アメリカの覇権衰退で、アジアを威圧できなくなったオーストラリアは、インドネシアが好む内容の安保条約を結ぶか、さもなくば安保条約を結ばず、インドネシアが中国やロシアとの戦略関係を強化していくのを横で見ているしかない。先進国の「市民」が「人権」「環境」などを名目に、発展途上国の内政に干渉できた時代は、終わりつつある。

▼インドの全方位外交

 インドネシアと同様、地政学的に重要な場所にあり、いくつも大国から戦略関係を構築したいと誘いを受けているもう一つの国は、インドである。インドに対しては、日本が「中国包囲網」を作る観点から、小泉政権時代から関係強化を試みている。今月、初めての日米インドの3カ国軍事演習が行われる。(関連記事

 インドを中心とした南アジア地域には、多国間協力機構である「南アジア地域協力連合」(SAARC)がある。そこには2005年から日本と中国がオブザーバー参加し、翌06年からはEU、アメリカ、韓国もオブザーバー参加している。(関連記事その1その2

 日本は、アメリカ、オーストラリア、インドと組んで中国包囲網を作りたい意向だが、インドは、中国やロシア、中東諸国などとも戦略的関係を結ぶ全方位外交を望んでおり、中国包囲網のひとこまに使われることを嫌い、日本やアメリカからの接近を警戒している。

 インドは、ブッシュ政権の提案で、アメリカから原子力技術を供与してもらうことになったが、同時にインドは、アメリカの仇敵であるイランから、パキスタン経由で天然ガスパイプラインを引いて来る計画を、アメリカの反対を押し切って進めるとともに、イランをSAARCにオブザーバー参加させる話も進めている。(関連記事その1その2

 またインドは、戦略的な関係を強化している中国とロシアから誘われて、中露印のユーラシアの3大国間での定期的なサミットに参加し、アメリカの意のままにならずに反米諸国ともつき合う「非米同盟」の一員として振る舞っている。

▼インドに冷や飯食わせたイギリス

 第二次大戦後にインドを独立させたイギリスは戦後の当初、インド、パキスタン、南アフリカ、オーストラリア、カナダなどの旧イギリス植民地を「英連邦」として同盟関係を組み、その中心に位置するという国際戦略を描いていた。第二次大戦後のイギリスの世界戦略は、アメリカとの関係ではなく、英連邦との関係が中心になるはずだった。ところがその後間もなくイギリスは、アメリカと組んでソ連などの社会主義圏と対立するという冷戦構造の方がイギリスにとって有利だと分かり、英連邦を軽視し、英米同盟中心の世界戦略に乗り換えた。

 捨てられた英連邦諸国のうち、オーストラリアはアメリカとの関係を強化する国是に転換したが、インドはインドネシアや中国などと、米ソどちらにもつかない「非同盟諸国」を結成し、世界の3つめの極になろうとした。ところが米英は、得意の「味方でないやつは敵だ」という二元論で「非同盟」は「親ソ連」だと敵視し、インドは米英など西側からの経済支援を失って経済的に行き詰まった。すでに述べたように、同時期にインドネシアは、親米反共のスハルトが、中ソと親しかったスカルノを追い出し、中国・インド間も国境紛争で対立し、非同盟諸国の戦略は崩壊した。

 インドが再び経済発展したのは冷戦後の1990年代からで、アメリカのハイテク産業の下請け的な工業地域として注目を集め、イラク戦争後の多極化の中で、再び非同盟的な全方位外交を強化している。中央アジアへの進出にも積極的で、タジキスタンの昔のソ連軍の基地を改修し、中央アジアで初めてインド軍の基地を作った。この基地はロシアと共同運営で、アフガニスタンでの親パキスタンのタリバン復活に対抗する意味がある。(関連記事

 このような拡張戦略はあるものの、インド周辺の南アジア地域は、まだ内部が不安定で、インドとパキスタンは戦争関係が解消できていないし、スリランカとネパールは内戦を抱え、バングラディシュも内政が不安定だ。インドは、世界の他の大国群との関係より先に、地域の安定化を優先しなければならない状況にある。

▼米中両方と戦略的関係を持つシンガポール

 東南アジアでは、最も親米的な国であるとされるシンガポールも、全方位外交をしている。インドネシアとマレーシアという、イスラム教徒主体の国に囲まれている中国系中心の国シンガポールは、911後、アメリカのテロ戦争の戦略に積極的に乗り、アメリカから戦闘機を大量購入したりしてきた。しかしその一方でシンガポールは、中国の対外戦略の下請けを受注することにも積極的で、中国が最近パキスタンに開港した戦略拠点「グワダル港」の港湾運営は、シンガポール政府系の港湾会社「PSAインターナショナル」が40年契約で受注した。(関連記事

 グワダル港はペルシャ湾に近いインド洋に面し、中東の油田地帯からマラッカ海峡を通って中国への石油輸入ルートにある。中国はパキスタンと国境を接しており、将来的には中国からグワダルまで鉄道を敷設する構想もあり、グワダル港はインド洋に面した中国の戦略拠点となる。(関連記事

 グワダル港を運営するPSAインターナショナルの親会社は、シンガポール国有の投資会社「テマセック」だが、テマセックは最近、中国政府の投資分散戦略に協力し、ノウハウを提供している(中国は従来、米国債に偏った外貨保有をしてきたが、ドルに対する懸念が増しているため、投資先を分散している)。中国政府が最近設立した外貨準備運用会社の仕組みは、テマセックをモデルにして設立されている。シンガポールは、中国の軍事戦略と資金運用戦略の両方に、深く食い込んでいる。(関連記事

 このほか、韓国やパキスタンといった、従来は親米でやってきた国も、中国やロシア、イラン、アラブ諸国などの関係を強化して、全方位外交を展開している。

▼中国包囲網は絵空事

 ここまでアジア各国の全方位外交について説明したが、こうして見ると、アジアの現状は、日本の新聞で最近よく解説されているような「アメリカを中心とする民主主義諸国連合と、中国を中心とする独裁系連合の対立」という「中国包囲網」の概念からほど遠いことが分かる。

 中国包囲網の親分であるはずのアメリカは、4年前から北朝鮮問題を中国主導で解決してもらうべく中国に圧力をかけ続け、中国が北朝鮮を持て余したときには、今年1月のベルリン協議のようにアメリカが北朝鮮と直接交渉し、その成果を全部中国の手柄にさせるという、中国の外交力をテコ入れする行為を続けている。(関連記事

 アメリカの対中国戦略には、分裂した表と裏がある。米高官が中国を敵視する発言を繰り返す裏で、米中枢の関係者は、中国が経済的・外交的に大国になれるよう、補助してやっている。日本の外務省などは、この複雑な構図の中から、対米従属戦略に都合のいい部分だけを抽出して説明し、日本のマスコミはその説明を鵜呑みにして記事を書いている。(関連記事

 中国包囲網の一員であるはずのオーストラリアは、中国との「戦略的パートナーシップ関係」を構築することを検討している。中国は、味方と見なした重要国との2国間で「戦略的パートナーシップ関係」(戦略[イ火]伴関係)を締結するという外交戦略を展開している。中国はすでに、ロシア、インド、インドネシア、フランスなど約20カ国と「戦略的パートナーシップ関係」を結んでいる。

 日本との間では、昨年10月に訪中した安倍首相が「戦略的互恵関係」を提案したのを受け「戦略的パートナーシップ関係」に近いものを目指す方向で今週、温家宝首相が訪日する。中国が、日本やオーストラリアとも「戦略的」な関係を構築した時点で、敵対関係はなくなり、中国包囲網は雲散霧消していくことになる。

▼日豪安保はチェイニーの寝技

 日本は3月にオーストラリアと安全保障協定を結んだ。これは「日米豪で中国包囲網を作る」という戦略の一環であると報じられているが、これも深く分析していくと、違う側面が見えてくる。日豪安保協定を提案したのはアメリカのチェイニー副大統領で、彼は2月下旬に日豪を訪問し、両国の指導者をたきつけて安保協定の締結へと誘導した。(関連記事その1その2

 日本は戦後一貫して、アメリカ以外の国と安保協定(もしくは戦略的関係)を締結することを拒み、対米従属関係を絶対視してきた。1970年代以来、自国の潜在的な衰退傾向を感じる米中枢の人々は、日本を対米従属絶対視から脱する方向に誘導しようとしたが、日本側は一貫して消極姿勢だった。

 こうした経緯を踏まえて考えると、日豪協定を誘導したチェイニーは、日本を何とか対米従属絶対視の状況から脱出させようとして「中国包囲網を強化するため、日本はオーストラリアと安保協定を結んだ方が良い」と提案したのではないかと思えてくる。チェイニーは「隠れ多極主義者」だから、こうした寝技をしても不思議はない。アメリカの同盟国であるオーストラリアとなら、日本政府内の対米従属派も、安保協定の締結に強い抵抗ができない。

 日豪安保協定は、日本を、アジアで最も全方位外交から遠い「対米従属絶対視」の従来状況から離脱させるきっかけとなるかもしれない。今週、温家宝首相が訪日した後、日中関係がどう動くかが重要になってくる。中国との関係が改善されれば、その後はいずれ、北方領土問題などロシアとの関係も改善方向に動き出す。北方領土、首相の靖国参拝、拉致問題などはいずれも、日本を対米従属絶対視の状況にとどめておく「外交防波堤」として、日本政府が国内世論を扇動し、維持してきた問題だからである。(関連記事




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