600年ぶりの中国の世界覇権2005年1月29日 田中 宇上海は「中国の中にあって中国でない町」であると言われる。1842年に中国(清朝)がイギリスとのアヘン戦争に敗れ、南京条約によって上海など中国の5つの港湾都市が開港させられるまで、上海は漁業を主体とする小さな町にすぎなかった。 上海のほか、香港、青島、天津、大連など、いずれもそれまでは小さな町か村だったが、欧米諸国の要求によって相次いで港が開かれ、欧米や日本は中国政府から土地を借りて、治外法権の「租界」を作り、そこを中心に港湾都市としての発展が始まった。中国を東西に横切る交通路である揚子江の河口近くに位置する上海は、欧米が作った中国の港湾都市の中で最重要かつ最大の町となった。(関連記事) 中国にはそれまで、大きな港湾都市がなかった。それは清朝とその前の明朝が、海賊などの反政府勢力の跋扈を恐れ、民間人による海運行為を禁止する「海禁」という鎖国政策を断続的に採っており、港湾都市が発達しにくかったためである。今では中国にとって最重要な都市群である上海などの港湾諸都市は、自国民ではなく、欧米や日本という植民地支配者によって創建され、租界の治外法権下で発展したという、世界でも珍しい歴史を持っている。 租界は第二次大戦の終了とともに中国側に返還され、その後の60年間は、港湾諸都市も完全に中国の町としての歴史をたどっている。だから中国の港湾都市が「外国人の町」だというのは、遠い昔の話である。ところが上海の場合、話はここで終わらない。1980年代から経済自由化政策を始めたトウ小平が、中国に社会主義の経済政策を捨てさせるためと、世界から中国に資本を集めるために、上海の外国的な性格を利用したからである。 トウ小平が行ったことの一つは、改革開放が軌道に乗りだした1990年代の初めに、江沢民などの「上海派」を起用するとともに、保守的な「北京派」に汚職の疑いをかけて逮捕一掃してしまったことである。1993年に元上海市長だった江沢民が国家主席に就任した後、1995年に北京市のトップである陳希同・北京市党委員会書記ら北京派が汚職を理由に解任もしくは逮捕された。 トウ小平の戦略のもう一つは、上海を国際金融センターにするための動きを開始し、世界から中国への投資の流れを作ったことだ。江沢民ら上海派は、これまでの市街地から川(黄浦江)をわたった反対側の浦東地区に広大な新市街を建設する計画を実行した。浦東開発計画のほか、上海とその周辺には工業や不動産の開発資金が巨額に流れ込み、中国の成長センターとなった。 ▼アメリカから誘われて大国になった中国 トウ小平の改革開放政策が始まった経緯を見ると、中国が経済発展して大国になる動きは、中国の内部からの発想で始まったというより、アメリカから「中国に投資しますから、発展して大国になりませんか」と誘われた結果であると感じられる。私がそう考える根拠を説明すると、少し長くなるが、第二次大戦の終わりにまでさかのぼって歴史を見直す必要がある。 終戦前後から現在に至るまで、アメリカの中枢では、世界戦略をめぐって2つの主張が対立錯綜し続けている。一つは国連安保理常任理事国の五大国制度に象徴される「世界多極主義」(バランス・オブ・パワー、中道派)で、もう一つはアメリカだけが世界を支配する「単独覇権主義」(冷戦派、タカ派)である。 第二次大戦の終戦前、多極化の考え方に基づいて国連の五大国制度が作られたが、それを壊すかのように米ソ対立が煽られた。冷戦は欧州を東西に分断し、世界の覇権地域の一つであるヨーロッパの復活を妨害し、その他の覇権地域であるロシアと中国を封じ込めることで、多極主義による安定を壊す効果があった。 中国に対しては、1949年にアメリカ国務省が「中国白書」を作り、中国の内戦でアメリカが支援していた国民党が負けそうだが、国民党は腐敗しているので、アメリカは共産党支持に転換した方がよいと主張した。ソ連共産党と中国共産党は対立しそうなので、ソ連を孤立させるためにも中国共産党と仲良くした方が良いという主張で、これは多極主義的な戦略だった。 ところが1950年からの朝鮮戦争で米中は戦争状態になり、アメリカは国民党(台湾)支持を強め、欧州戦線で始まった冷戦が東アジアにも飛び火した。 ▼中国と関係改善するためにベトナムを泥沼化? その後アメリカは、米軍が駐留できる中国包囲網を朝鮮半島だけでなくベトナムにも作ろうとして、共産化した北ベトナムと、親米の南ベトナムという分断を固定化しようとした。ところがアメリカはなぜか下手な作戦をやり続け、南ベトナムでの米軍駐留は泥沼化してアメリカは敗戦した。ベトナムを南北分断する冷戦派の戦略は、故意にと思える占領の泥沼化によって失敗したが、もしこれが故意に基づくものだとしたら、泥沼化させたのは多極主義者だった可能性がある。 (泥沼化が故意のものと思える点など、ベトナム戦争は、現在のイラク戦争とよく似た構造を持つ戦争である。いずれの戦争でも最重要のポイントは、現地での戦闘の展開ではなく、アメリカ中枢の単独覇権主義者と多極主義者との対立や騙し合いにある) ベトナム戦争の敗北が濃厚になった1972年、ニクソン大統領とキッシンジャー補佐官が中国を突然訪問し、米中関係を劇的に好転させた。キッシンジャーはソ連との関係も好転させようとするなど、多極主義者だったことがうかがえる。その後、アメリカ政界では冷戦派の巻き返しがあり、実際に米中国交が正常化したのはニクソン訪中から7年後の1979年だったが、その直後からトウ小平による改革開放政策がスタートした。 こうした経緯を見ると、アメリカの多極主義者は中国との関係を好転させ、欧米や日本の資本と技術を中国に流入させて中国を経済発展させ、大国に仕立てることで、多極的な世界を実現に近づけようとしたのだと考えられる。その後、天安門事件や香港民主化、台湾問題などをめぐって米国内の冷戦派/タカ派による反中国的な巻き返しもあったが、全体として米政府は親中国の方に傾き続け、その一方で今や中国は世界の大国の一つになりかけている。 ▼中国の勃興をアメリカの衰退に間に合わせる とはいえ、中国は安泰ではない。経済の中心である沿岸地域の発展を重視するあまり、内陸の農村がないがしろにされて疲弊し、地方の行政機構の不整備から役人による農民への搾取がひどく、暴動が頻発している。沿海地域は発展しているものの、急いで金持ちになりたい人々による投機の部分が大きく、バブル崩壊の危険が常にある。上海などの不動産市場は、いつ崩壊してもおかしくない。 中国の上層部が経済成長にこだわらねばならないのは、成長が止まったら人々の不満が共産党の方に向いて政権が崩壊し、混乱と分裂状態に陥る懸念があるからだが、もともと中国の大国化を誘発したアメリカの側も、早く中国に大きくなってほしいと考えている可能性がある。中国より先にアメリカが崩壊するかもしれないからである。 昨年末あたりから、フォーブスやFTといった権威ある欧米の経済紙に「近いうちにドル相場が崩壊するのではないか」といった記事をよく見るようになった。フォーブスは「早ければ今年の上半期ぐらいにドル急落が起きる」「ドルの円に対する相場は今の半分(1ドル50円台)まで下がるかもしれない」という分析者のコメントを載せている。(関連記事) FTは、これまで外貨準備蓄積のためにドルを買い増してきた世界の中央銀行の多くが、ドルよりユーロの備蓄を増やす政策を採り始めていることを紹介している。双子の赤字の拡大を嫌気して、すでに昨年初めから世界の民間投資家の多くはドルを買っておらず、ドル相場を支える頼みの綱は各国の中央銀行だったが、そのドル買いも終わりそうである。ドルが急落すると、人民元の切り上げと、アジア共通通貨のメカニズム創設が必要になる。(関連記事その1、その2) 以前の記事で、ドルとイラクがアメリカにとっての「双子の自滅」だと書いたが、その傾向はますます強まっている。アメリカが衰退すると、その後の世界は自然に多極化するが、そのときアジアの安定に中国が不可欠であるとアメリカの多極主義者は考えているようである。 (対米従属に固執する日本には新事態に対応する野心や意志がない。欧米の新聞の社説記事などを日々読んでいると、欧米は中国に対する期待が大きいのに対し、日本にはほとんど期待していないと感じる) ▼中華の伝統をギャグにして外国人を安住させる上海 大英帝国が衰退してアメリカが勃興した20世紀初め、世界経済の中心はロンドンからニューヨークに移動した。今後、アメリカが衰退したら、世界経済の中心(もしくはその一部)が上海に移ってくることになるかもしれない。 上海の外灘などを歩くと、黄浦江の川の両側に、ロケットの形をしたり、屋上に巨大な球体を乗せたりした、未来都市を思わせる浮き世離れしたデザインの高層ビル群が目に入る。上海人は「これは風水を意識したデザインです」と説明するが、私は違う推論を考えた。今後、上海がニューヨークのように世界から集まったビジネスマンを居住させるようになった時、中国くさい町並みでは敬遠されてしまう。だからわざと中国を意識させない「宇宙的」なビル群を出現させたのではないか、ということだ。 北京と上海の町並みを比べると、北京の中心には紫禁城があり、街区は明・清朝以来の秩序を持つ碁盤の目で、中国くさい歴史の威厳を感じさせる。これに対し、上海の伝統的な繁華街である豫園周辺は、キッチュな歴史テーマパーク風お土産屋街となっている。北京では「中華帝国」の歴史が威圧感を持っているのに対し、豫園で感じられる中華の伝統は、中国雑貨屋的な、ジョークのようなノリに格下げされている。上海なら、外国人も中国くささをあまり感じず、国際感覚で住めるというわけである。実際、私は上海に行くたびに中国語が話せる欧米人が増えていると感じて驚く。 上海では、租界時代に多かったユダヤ教のシナゴーグ(ユダヤ教会)を修復復活させようとするプロジェクトが進んでいる。この話を聞いて、お金持ちのユダヤ人にニューヨークから上海に引っ越してもらおうとする多極主義者の戦略か、となかば冗談のように思ったりした。今後、上海では、中国人、アングロサクソン(英米)、ユダヤ人という、世界最強の三者連合が実現するのかもしれない。(関連記事) ▼衰退から復活へ 中国が大国になり、世界に影響を及ぼす覇権国の一つになるとしたら、それは「海禁」の鎖国政策を採る以前の明朝の初め、永楽帝の時代(1402年−24年)以来の約600年ぶりのことである。(18世紀前半、清朝の全盛期にも領土拡大があったので、それを重視すると300年ぶりとなる) 以前の記事「人類初の世界一周は中国人?」にも書いたが、元(モンゴル帝国)を追い出した後にできた明朝には「モンゴルの世界帝国を継承する」という覇権主義と「中国は十分豊かなのだから、外の世界のことなどかまわなくて良い」という農本主義が存在し、覇権主義は「宦官」が、農本主義は「儒家」が代表で、朝廷の中枢で両者が対立していた。 永楽帝は覇権主義の人で、彼が皇帝だった約20年間に、鄭和の艦隊が世界一周を目論んだ。日本とも友好関係を強化し、当時の日本の権力者だった室町幕府の足利義満との間で「勘合貿易」を行い、富を築いた義満は天皇に取って代わろうとした。 明は急速に国際関係を拡大したが、永楽帝の死後、宮廷では覇権主義者が負けて儒家が勝ち、海禁の鎖国政策が採られ、中国は国際政治の世界から身を引いた。当時の中国は世界の富の半分ぐらいを生産する超大国だったので、世界と貿易する必要はないという考え方は一理あった。しかしその後、中国はじょじょに衰退する一方、欧州では18世紀に産業革命が広がり、生産力が急上昇して中国より強くなり、世界支配に乗り出したイギリスが起こしたアヘン戦争に負けて、中国は強制的に開国させられた。(関連記事) そして沿岸地域には上海などの外国人都市が造られたが、中共の建国後、この屈辱的な歴史を逆手に取り、上海の「外国性」を生かして経済自由化をやり、欧米の多極主義者の支援を受けつつ、中国を再び大国にしようとしたのがトウ小平だったのだと思われる。 中国政府は外国人に対し「帝国主義のころと同じように、上海で自由に資本主義の賭博をやって儲けて良いですよ」と言っているが、重要なのは、その資本主義賭博場の管理人は、以前はイギリスだったが、今は中国自身であるという点だ。一番儲かるのは賭博をする人ではなく、賭博場を管理する人である。 ▼日本の選択肢 中国人と欧米の多極主義者が結託して中国を覇権国の一つにしようとしていることに対し、日本人はどうすべきなのか。選択肢の一つは、アメリカ内部のタカ派に協力することによって、多極主義者と中国人の連合体を挫折させ、中国の台頭を阻止する、というものだ。今の日本政府はそれを望んでいるようだが、ドルとイラクという「双子の自滅」が強まっていることを考えると、アメリカが衰退して多極主義者の考えたとおりの展開になる可能性が大きく、タカ派に賭けることは危険である。 2番目の選択肢は「中国から誘われるのを待つ」というものだ。中国は、まだ覇権国になるには早すぎる。農民・農村・農業の問題や経済バブル、法治制度の未整備などがあって国内が不安定で、世界のことを考える前に国内問題に注力しなければならない段階なのに、世界の事情がそれを許さない。中国政府は、本音としては、アジア地域の安定策について、日本に協力してもらいたいはずである。日本側から見ると、日中合作の大東亜共栄圏である。 日本側は、中国に言い寄られると対米従属の貞節が守れなくなると考えているのか、靖国問題や中国脅威論を利用して中国とつき合わないようにしている。だがおそらく、アメリカの衰退がはっきりしてくれば、日本は態度を変えたくなる。そのときは政権を交代させて「以前の中国敵視は、全て小泉の独断でやったこと」などと言えばよい。 ドルの下落とアメリカの衰退が起こりうる可能性は、日に日に高まっているように感じられる。現実策として、対米従属や反中国の看板は当面はおろさなくてもかまわないが、日本の内部では、アメリカの衰退後に日本がどうすべきかを真剣に考えておかないと、日本はアメリカと心中する結果となり、無意味に衰退してしまうのではないかと懸念される。
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