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人類初の世界一周は中国人?

2002年5月2日   田中 宇

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 歴史の教科書では、人類で初めて世界一周の航海をしたのは1522年、マゼランのスペイン艦隊だったということになっている。しかし最近、マゼランよりも100年ほど前の1423年ごろ、中国人の艦隊が世界一周していたという調査結果をイギリス人の研究者が発表し、論争を巻き起こした。

 新説によると、世界初の世界一周をしたといわれているのは、中国の明朝時代の朝廷に使えていた大臣級の有力者だった鄭和に率いられた艦隊だった。鄭和の艦隊は1405―33年に7回の遠征を行い、最盛期には300隻以上の大編成で航海していたと伝えられている。これらの遠征中、艦隊は中国からインド洋を通ってアフリカ東海岸までは行ったものの、そこから引き返したため、世界一周はしていないとされていた。

 だが、イギリスの退役海軍将校で歴史学者でもあるガビン・メンジース(Gavin Menzies)が、現存する鄭和の航海記録を調べなおしたところ、艦隊は1421年3月から1423年10月にかけて世界一周の航海を行い、艦隊の一部はアフリカ南端から北上してカリブ海沿岸、今のカリフォルニア沖などにまで達していることが分かったという。

 鄭和の艦隊は、天体の角度を測定する装置である六分儀を使って自らの船の位置を記録しながら航海していたが、コンピューターによるシミュレーションで当時の南十字星などの位置を再現し、鄭和の航海記録と照らし合わせたところ、オーストラリアや南極、南北アメリカの沿岸などの場所が浮かび上がった。

 メンジースは、カリブ海やオーストラリアの周辺で巨大な古い中国の難破船が発見されているが、これらは鄭和の艦隊の一部だった可能性がある、と指摘している。また彼は、イタリアのベネチアでは1428年にアフリカや南北アメリカ、オーストラリアを含めた正確な世界地図が存在していたことから、この地図は鄭和の航海記録をもとに中国で作られ、シルクロードの交易を経てベネチアに運ばれたに違いないと主張している。

 そして「この地図を見たコロンブスやマゼランらは、自分たちも航海をして貿易で大儲けしようと考えたのではないか」という理論を展開している。 (関連記事

▼ヨーロッパ勢より30倍大きな船

 鄭和の航海は、当時の明朝の国家的な大事業だった。第1回の航海の2年前、皇帝からの命令で福建省や江蘇省などの港に造船所が作られ、福建では137隻、江蘇では200隻の造船が命じられた。航海が始まった後の3年間には、さらに1700隻の建造が進められた。これらの船は最大で長さ140メートル、3000トンの大型船だった。マゼラン艦隊でただ一隻、途中で沈まず世界一周に成功したビクトリア号はわずか80トン、コロンブスがアメリカ「発見」の航海で使ったサンタ・マリア号も80トン(長さ24メートル)だったから、中国勢はヨーロッパ勢より30倍以上大きな船を作れたことになる。

 当時の中国は、造船技術そのものがヨーロッパよりかなり進んでいた。大きな船の造船や修繕にはドックを使う必要があるが、中国では10世紀にドックが作られていたのに対し、ヨーロッパでは15世紀になってイギリスで作られたのが最初である。造船技術だけでなく技術や制度の多くの面で、そのころの中国はヨーロッパより進んでいた。 (関連記事

 ところが、そんな明朝の大国家事業だったにもかかわらず、鄭和の大航海が終わってしばらくすると、大航海によって蓄積された海図や国際情勢に関する資料などのほとんどが朝廷内の紛争で焼かれてしまった。

 それだけでなく、明の朝廷は大航海の期間中にはさかんに造船を奨励したのに、航海が終わった1436年ごろから造船や海上貿易に対して消極的になった。1500年には2本マスト以上の船を作ることが禁じられ、1525年には海外渡航できる外洋船を取り壊すよう命令が下った。中国は、鄭和の遠征からわずか100年で「鎖国」と「海上貿易禁止」の国に転じていた。

 なぜそんなことになったのか。それは、鄭和が「色目人」(しきもくじん)で「宦官」(かんがん)だったことと関係していると思われる。色目人はペルシャ・トルコ系のイスラム教徒の中国人を指す言葉で、明の一つ前の王朝である元(モンゴル帝国)の時代、特権階級だったモンゴル人に次いで高位の人々だった。中国人の圧倒的多数を占める漢人などは、その下の階級に押し込まれていた。

 元は100年ほどしか続かなかった王朝だが、チンギス・ハンがユーラシアを征服して以来、東ヨーロッパ、中東、東南アジアにまたがる世界帝国の中心となり、陸上・海上の貿易を通じて富を蓄えた。だが、元朝は国内運営に失敗して反乱によって滅び、反乱を率いていた農民出身の朱元璋(洪武帝)を初代皇帝とする明王朝に取って代わられた。

 洪武帝は、貿易よりも農業など国内運営を重視する体制をとったが、3代目の皇帝となった永楽帝の時代になって、貿易と外交を重視する政策に代わった。永楽帝は甥に当たる先代の皇帝を内乱で倒して皇位についたが、内乱が成功したのは宮廷内の宦官たちが永楽帝に味方したからだった。

 宦官とは、一夫多妻制の皇帝の家族がいる後宮に勤めるために去勢された役人のことで、明の時代には色目人が宦官になることが多かった。外国系の中国人であり、貿易帝国だった前の元王朝で高位にあった家系を受け継ぐ宦官たちは、永楽帝の時代に宮廷内の強い政治勢力となった。彼らは貿易の拡大を目指し、永楽帝自身が遠征の得意な人だったこともあり、この時代の明は領土と貿易の拡大をさかんに行った。この時代の宦官の頂点にあった人が鄭和だった。

▼宦官対儒家の戦い

 古代から、中国の外交のやり方は「冊封」(さくほう)と呼ばれるシステムをとっていた。これは、中国の皇帝が周辺国の君主を家臣(王)として認め、中国が必要とする兵力などを出す代わりに、自国が他国から攻められた場合は中国が援軍を送る軍事同盟を結ぶとともに、中国との間で貿易を行う制度だった。

 中国は冊封した周辺国の内政には干渉せず、しかも財宝や中国産の絹製品、陶磁器など、当時の世界では最高級品とされた品々を贈った。周辺国としては、中国皇帝の家臣になるという窮屈さはあったが、それを上回る物質的な恩恵を受けることができた。

 冊封体制は、唐の時代まで中国外交の基本体制だったが、その後の宋の時代には王朝が弱かったために冊封体制がとれず、その次の元の時代にはモンゴル人という異民族による支配だっため採用されなかった。冊封体制は、明の時代になって復活し、永楽帝の時代に拡大された。朝鮮、ベトナム、琉球(沖縄)など古くからの冊封国のほか、シャム(タイ)、チベット、ビルマ、マラッカ(マレーシア)、それから足利義満の室町幕府も「日本国王」の称号を与えられ、冊封国となった。(足利義満が冊封を受けたのは、自分が「国王」になり、天皇の力を弱めるためだったといわれている)

 鄭和の大航海は、この冊封体制をさらに世界に広げるためのものだった。財宝を船に積んで東南アジア、南アジア、中近東からアフリカまでの国々に配って回ったのである。これは元の時代のように中国を貿易帝国として復活させる試みだったと思われるが、これは宮廷内の色目人の宦官たちの勢力を拡大するためでもあったようだ。

 当時の明朝の宮廷では、後宮で皇帝一族の身の回りの世話をすることを通じて皇帝の意思決定に影響を与えていた宦官たちと、皇帝に伝統的な政治哲学である儒教の教えをアドバイスする「儒家」たちとが勢力争いを展開していた。当時の中国では、支配者は儒教に沿って国を統治するのが良いとされていた。

 宦官が海外貿易を通じて自分たちの勢力への富の蓄積をはかろうとしたのに対し、儒家は「海外貿易の拡大は国家財政の浪費になる」として反対した。イラン・トルコなどシルクロードの外国系の人々が多かった宦官は外交重視、中国の伝統を重んじた儒家は内政重視で対立したのである。

 この宮廷内の対立は、鄭和に大航海を実行させた永楽帝が1424年に亡くなり、息子の洪煕帝や孫の宣徳帝の時代なって、儒家の勢力が強くなり、外交より内政を重視する政策がとられたことで決着がついた。宦官たちは何回か抵抗を試み、鄭和が世界中から集めた品々や地図などの情報を根拠に、外交や貿易を重視した方が良いと皇帝に進言した。

 これに対抗するため、儒家勢力は1433年に鄭和の最後(7回目)の大航海が終わった後、大航海の記録や文物を保管してあった宮廷の保管庫に放火するという謀略を行い、鄭和が集めた情報を焼失させた。こうした経緯があるため、鄭和の大航海の全容は分からなくなった。

 そして、断片的に残って後世まで伝えられた航海記録をイギリス人研究者メンジースが調べたところ、鄭和の艦隊が世界一周をしていた可能性があることが分かったのだった。メンジースは今年9月、鄭和の世界一周について詳しく書いた本を出す予定になっている。

▼鄭和より前にアラブ商人が世界一周していたかも

 とはいえ、鄭和よりもっと前に世界一周をしていた人々がいても不思議ではない。アフリカ一周航路の存在は古代エジプト時代から分かっていた可能性があるし、8世紀に起こったイスラム帝国の商人たちは、すでにアフリカ東海岸を南下する航路や、インド洋を横断する航路を頻繁に行き来していた。アラブ商人たちが、インド洋のもっと先の太平洋から南米に達したり、アフリカ南端を回って南米方面に向かっていたとしても、不思議ではない。

 「地理上の発見」とか「大航海」といったような概念は、15世紀まで西欧からほとんど出たことがなかったヨーロッパの人々にとって「発見」であり「大」航海だった、というだけのことだ。その後、西欧文明が世界と「世界史」を支配するようになったから、「人類初の世界一周はマゼラン」ということが「常識」になったのだと思われる。

 また中国の学会では、すでに1980年代に「鄭和の艦隊はアフリカ南端の喜望峰を回り、アフリカ西海岸まで達していた」という指摘がなされ、鄭和がどこまで行ったのかということについて、ずっと議論が続けられてきたという。 (関連記事



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