アラファトの「死」2004年11月10日 田中 宇パレスチナの指導者アラファト議長(大統領)の「死」をめぐる騒動は、殺人事件をめぐる推理小説のような展開を見せている。「死」とカッコで括ったのは、今のところアラファトが死んだのかどうかも公式には確定していない状態が続いているためだ。(この記事は日本時間の11月10日午前に書いている) 「11月4日から脳死状態」というロイター通信などの報道は、10日にパレスチナのクレイ首相らが入院中のアラファトを訪れた結果「脳死していない」と否定された。だがその後も「死んだ」「生きている」という矛盾した報道が飛び交い続けている。病名が明かされていないため「アラファトは毒を盛られたのだ」という人もいる。 殺人事件の推理小説は大体、殺された人物に死んでほしいとずっと思っていた人が複数いて、その中の誰が殺したのかが謎として提起されるが、アラファトの場合も、彼に死んでほしいと思っている勢力は複数おり、しかもそれが敵味方どうしだったりする。「事実」を伝えているはずの報道機関も、話が今回のようなイスラエル・パレスチナ問題の要所になると、巧妙かつ意図的と思える誤報を流し、鵜呑みにできなくなる。国際報道機関の深層が垣間見える瞬間である。 ▼戦闘激化で低下した穏健派アラファトの人気 パレスチナでアラファトに対する人気が落ち始めたのは、2000年にイスラエルの占領に抵抗するゲリラ戦「アルアクサ・インティファーダ」が始まってからのことだ。パレスチナ人による自爆攻撃と、イスラエル軍による報復攻撃によってガザや西岸の状況が悪化し、イスラエルによる検問所設置の影響で多くのパレスチナ人が行動の自由を制限され、失業して生活が苦しくなった。(関連記事) 絶望した人々はしだいに「ハマス」などイスラエルとの戦闘を呼びかけるイスラム主義勢力への支持を強め、交渉で解決しようとする穏健派アラファトの人気が低下した。2000年からの4年間に、イスラム勢力に対する支持はパレスチナ人の17%から35%へと増え、アラファトが代表するPLO主流派(ファタハ)への支持は37%から28%へと落ちた。(関連記事) もうアラファトではダメだと考えた欧米諸国は、2002年末に新たな和平構想「ロードマップ」を提案し、大統領であるアラファトの権力を削いで若手などに分散させる「改革」を行わせてパレスチナ側の安定と団結を維持し、イスラエルにも交渉に参加させようとした。 昨年2月には、アラファトがそれまで拒否していた「首相」ポストがパレスチナ自治政府に設けられ、PLOのナンバー2(事務局長)であるマフムード・アッバスが就任し、アラファトの権力の一部を委譲する手続きがとられた。ところがアラファトは、権力委譲を阻止する対抗策を採り続け、結局アッバスは半年後の昨年9月に辞任した。後任にはアハメド・クレイが就任したが、アッバスより力がなく、欧米が望んだ「改革」は失敗した。 「改革」の失敗を見て、イスラエルのシャロン首相は「アラファトがいる限り和平交渉はできない」として、一方的な「解決策」として昨年末、ガザ地区からイスラエル軍と入植地を撤退する方針を打ち出した。 イスラエル側は撤退後も、ガザを出入りする全ての地点で検問を行い、制空権やガザ前面の地中海の制海権も維持する予定で、ガザがイスラエルによって封じ込められた「強制収容所」の状態であることは変わらない。そのためガザ撤退は、イスラエルに対する国際的な非難をかわすための方策だと批判されているが、イスラエルにとってはもう一つの効果があった。それは、撤退後を見越した権力闘争がガザのパレスチナ人の諸勢力間で激化し、アラファトを中心とした既存の体制が崩壊に近づくことだった。(関連記事) ▼イスラエルもハマスもアラファト排除を望んでいた シャロンが撤退を表明した後のガザでは、ハマスやイスラム聖戦(PIJ)といったイスラム主義の勢力と、アラファトより若い世代のPLO幹部、特にパレスチナ自治政府でガザの治安担当をしていたモハマド・ダハランの勢力とが台頭したが、彼らは相互には戦わず、共通の敵としてアラファトを非難しつつ、イスラエル軍との戦いを激化させた。 状況の悪化を受け、パレスチナ和平を進めたい欧米の人々や、パレスチナ人の間では「内部分裂を防ぐには、アラファトが引退し、選挙で次の指導者を決めることで、パレスチナ自治政府の権威を保つしかない」という意見が強まった。今年9月に入ると、アメリカ政府がアラファト排除の姿勢を鮮明にし、ブッシュ大統領が世界の国々にアラファトとの縁切りを呼びかけた。(関連記事) 9月後半、パウエル国務長官は「アラファトの権力を剥奪すれば、パレスチナ和平は進展する」と述べた。シャロン首相は「アラファトは、ハマスのヤシン師と同様(イスラエルによって)暗殺されるかもしれない」と発言した。(関連記事その1、その2) ガザでは9月下旬、ハマスとダハランが反アラファトの態度を鮮明にした。ハマスは、選挙でアラファトの政権を倒そうと人々に呼びかけた。ダハランは、アラファトが治安機関のトップとしてガザに送り込んできた甥のムーサ・アラファト(Musa Arafat)と相互に非難しあう状態になった。(関連記事) アメリカ政府内で中東和平を進めたがってきたパウエル国務長官から、和平に抵抗してきたイスラエルのシャロン、そしてシャロンの仇敵であるガザのハマスと、そのライバルであるダハランまでが、こぞってほぼ同時期にアラファトに「辞めてほしい」「消えてほしい」と表明したわけである。パレスチナ自治政府内ではこのほか、アラファトに首にされたアッバス前首相(PLOの古参幹部)なども、声には出さないがアラファトの辞任を希望していたはずだ。推理小説的に言うと、これらの全員に殺意があったということになる。 ▼死んでも大統領府から動かないはずが・・・ アラファトの健康状態は、10月10日すぎから悪化した。15日のラマダン(断食月)入りの金曜礼拝では気分が悪く中座し、恒例のラマダン入りの客人接待も行わなかった。最初は風邪だと言われていたが、10月19日にエジプトから医師団がラマラの大統領府を訪れたあたりから重病説が始まった。(関連記事) 側近らは、ラマラの病院で精密検査を受けることを提案し、イスラエル側も「病院に出かけても、再び大統領府に戻ってこれるよう保証する」と表明したが、アラファトは断った。アラファトはイスラエル軍から命を狙われているため2001年から3年半もの間、ラマラの半壊状態の大統領府に閉じ込められた状態で、ほとんど外に出たことがなかった。(関連記事) アラファトは前々から「イスラエルが攻撃してきたら、ここで殉教する」と言っていた。殉教されるとアラファトの人気が死後に高まってしまうので、イスラエルはアラファトを殺さず、閉じ込めたままにしていた。(関連記事) アラファトは、病院に入っている間に大統領府をイスラエル軍に壊され、戻ってこれなくなることを恐れてラマラの病院にも行かず、代わりに病院から大統領府に医師が派遣されてきたが、その後10月27日に病状が悪化して嘔吐を繰り返し、何度か意識不明の状態に陥った。そして、29日にヨルダン政府が派遣したヘリコプターでアンマンを経由し、パリ郊外の軍病院に搬送された。 搬送前にクレイ首相とアッバスPLO副議長が「出国する前に、大統領権限の一部を私たちに一時的に委譲してほしい」と頼んだが、アラファトは断った。そのためパレスチナ自治政府は10月29日以来、法律も発効できず、軍(治安部隊)も動かせない状態になった。(関連記事) ▼毒を盛られたのだとしたら? ラマラの大統領府で死ぬと宣言していたアラファトがパリに搬送された経緯は不明な点が多い。血小板の値が低下していたため「白血病」ではないかとされたが、白血病では嘔吐など胃腸系の障害はほとんど出ないため「毒を盛られたかも」という見方がフランスの医師からも出た。(関連記事) パレスチナ側では、毒を盛ったとしたらイスラエルだという見方が出ている。パレスチナ側によると、イスラエルはこれまでに13回もアラファトを殺そうとして失敗しており、そのうち3回は毒殺の作戦だった。パレスチナには、イスラエル側に弱みを握られてスパイとして働かされている人がかなりおり、その一部はパレスチナ自治政府にも潜入しているだろうから、毒殺は不可能ではないだろう。(関連記事) とはいえ、すでに述べたように「殺意」はイスラエルだけでなく、アメリカやパレスチナ内部の関係者も持っていたわけだから、仮にイスラエルが毒を盛ったのだとしても、それはアメリカやパレスチナの要人たちも黙認していたことだった可能性が大きい。フランス政府もパレスチナ和平の進展を望んでおり、アラファトがいなくなれば和平が進む可能性がある以上、パリの病院内も「安全」とはいえないことになる。 (アラファトはパリの病院に着いたとき、笑顔で写真に写っており、比較的元気だったことがうかがえる。その後、二度目の異変が起きたことになる)(関連記事) ▼「死亡した」「死んでない」 パリの軍病院に搬送された後、アラファトはいったん回復したとされたが、3日後の11月3日に再び悪化して集中治療室に入り、翌4日には「死亡した」と報じられたものの、パレスチナ自治政府は「死んでいない」と発表した。この日からアラファトが死んだかどうかをめぐる混乱が始まった。(関連記事) フランスの新聞リベラシオンによると、アラファトは脳死状態になり、医師団が脳死検査の1回目を行ったが、その後2回目の検査をしないことになった。脳死検査は数時間の間をおいて2回行い、2回とも脳死であると判断された場合にのみ脳死と診断されるが、アラファトの場合は1回目だけしかやっていないので、事実上脳死なのに脳死とは発表されていないのだという(フランスでは、脳死は人の死であると判断されている)。(関連記事) リベラシオンの記事は世界各地のメディアに転電され、事実であると感じられたが、11月9日にパレスチナのクレイ首相らがラマラからパリに飛び、入院中のアラファトを見舞った後、アラファトは昏睡状態だが脳死ではないと発表した。(関連記事) 11月8日から9日にかけて「アラファトはまだ生きている。パレスチナ自治政府は、アラファトを生きたまま葬り去ろうとしている」と主張するアラファトの妻スーハ・アラファトを悪者扱いする報道がイスラエルなどのメディアで目立ち「スーハはアラファトの隠し資産をめぐって自治政府と対立している」といった解説も出たが、これも政治的な攻撃とも考えられる。(関連記事) ▼中東和平、最後のチャンス この記事を書いている最中(11月10日午前)は、まだアラファトが死んだと確信できる報道はないが、すでにいつ亡くなっても不思議ではない状態だ。アラファトの死後、パレスチナがどのような状況になるかは、良い方向と悪い方向の2つの展開が予測できる。 良い展開は、アラファトの死後、パレスチナで選挙が行われて後継指導者が確定し、新しい首脳陣をアメリカとイスラエルが承認し、パレスチナが今よりも安定する中で和平交渉が復活するシナリオだ。イスラエルは来年末にガザから撤退する予定で、パレスチナ自治政府が従来のように弱いまま撤退が行われると、ガザはいくつものゲリラ組織が主導権争いを強めて内戦状態に陥り、選挙が二度とできなくなるおそれがある。アラファトの死後が、和平の最後のチャンスだということである。(関連記事) 悪い展開とは、選挙が行えないまま後継争いなどでパレスチナ自治政府が内部崩壊し、パレスチナ諸都市が地元の武装勢力によってバラバラに統治されるアフガンやイラクのような状態を強めることである。 パレスチナ人は、西岸とガザの住民、ヨルダン国民、イスラエル国民、レバノンやシリアに住む難民、中東各地で出稼ぎ生活を送る人々など、何十年も多様な状況下に分かれたまま住んでおり、考え方が分散している。1960年代から指導者だったアラファトは、これらのすべての人々を束ねることができたが、次期の指導者群はいずれも知名度がそれほど高くなく、パレスチナ人の団結を維持できないという見方もある。(関連記事) 次のパレスチナの指導者は前首相のマフムード・アッバスになる公算が大きいが、アメリカのブッシュがアッバスを支持すれば良いシナリオが実現するかもしれない、とアメリカの中東和平推進派は考えている。パレスチナ問題を通じて欧米間の仲直りを実現し、自国の欧米橋渡し機能を復活させたいイギリスのブレア首相は、ブッシュにアッバスを支持するよう求めており、中道派のパパブッシュも「ブレアのいうことを聞くべきだ」と表明した。(関連記事その1、その2) ブッシュの再選が「民主化」をかたって中東を崩壊させたいネオコンと、中東の崩壊によってキリストの再臨を招きたいキリスト教原理主義の勝利であると考えると、ブッシュが中東和平を進めてもそれはふりだけで、決して成功することはない、という予測になる。 だがその一方で「2期目の米大統領は、歴史に名を残したがるもの」という米政界の伝統から考えると、すでに「サダム潰し」「再選」という、父親がやろうとしてできなかった2つのことを実現した息子のブッシュが「中東和平」というもう一つ父親が成し遂げられなかった事業に取り組む可能性もまだ残っている(私が感じる中東和平の「可能性」は、以前から何回も外れているのではあるが)。(関連記事) 前回の記事で「パウエル国務長官は退任する」という予測がアメリカで多いと書いたが、その後「パウエルもラムズフェルドも、しばらくは辞めない」という見方も出てきている。私が「この人の詭弁はむかつくが、予測は当たることが多い」と感じているネオコン系コラムニストのウィリアム・サファイアは、両者続投を予測している。この予測が当たっているなら、中東和平が行われる見込みがある。(関連記事)
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