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アメリカの戦争を支えた大学

2001年5月14日  田中 宇

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 アメリカ東海岸、ボストン近郊にあるマサチューセッツ工科大学(MIT)は、理科系中心の大学にふさわしく、建物の名前が番号で呼ばれている。たとえば、古代ギリシャの柱がついた、大学の玄関にあたる建物は「第7ビル」(Building 7)である。MITから歩いて30分ぐらいのところにあるハーバード大学では、建物の名前に昔の総長などの人名がついていることが多いのと対照的だ。MITの建物にも、一応別名として人名がついているが、数字の呼び名の方が主流となっている。

 MITの自慢は、出身者たちがアポロ計画のロケットや初期のコンピューターを生み出したという「科学」に関するものだが、それに対してアメリカ随一の「エリート養成学校」であるハーバードの自慢は、大統領の多くが卒業生であることなど「人」に関するものである。MITでは「数字」、ハーバードでは「人名」が建物の名前に使われていることは、2つのライバル校の特色の違いを象徴している。

 MITの建物群の一つに「第20ビル」というのが最近まであった。1998年に取り壊され、今は建て替え工事が行われているこのビルは、1943年に仮の実験棟として急いで建てられた。建設を急いだのは「戦争」のためだった。

 当時は第2次世界大戦が始まったころで、アメリカはドイツや日本と戦うための武器開発に国力の多くを注いでいた。武器の技術開発は大きな大学に委託する方針がとられ、アメリカ屈指の工科大学であったMITにも連邦政府からの資金が流れ込み、大学の規模は戦争中に急拡大した。1861年に産業技術専門の私立の単科大学として設立されたMITは、これを機にアメリカの武装を支える国家の大学へと変身した。

 その最中に建てられた建物の一つが第20ビルで、放射線研究所の実験室が置かれた。ここで開発されたものの一つにマイクロ波を使ったレーダーがある。これは戦争中、敵機の位置を確認するために絶大な効果を発揮した。また広島と長崎に落とされた原子爆弾につながる基礎研究も行われた。原爆を生み出した「マンハッタン計画」の中心は政府の「ロスアラモス研究所」だったが、そこにはMITからも多くの科学者が派遣された。

▼原爆の被害拡大を主張したハーバード出身者

 戦争への協力という点では、ハーバードも負けてはいない。いやむしろ、MITより200年以上前にアメリカ最初の大学として設立されたハーバードの方が、国家の戦争を支えた歴史は長い。第1次世界大戦に際して「ルイサイト」と呼ばれる毒ガスと、それを使う側の兵士がかぶる防毒マスクの開発を手がけたのは、ハーバードで化学を研究していた人々である。戦争は、国家の生死をかけた大事業なのだから、愛国心にあふれた大学の研究者たちが武器の開発に協力するのは、ベトナム戦争あたりまで、誰もが当然のことと思っていた。

 第2次大戦では、ハーバードの人々は技術開発もさることながら、戦略立案の面で活躍した。たとえば、第1次大戦で毒ガス開発にたずさわり、1930年代にハーバード大学総長となったジェームス・コナント(James Conant)は、第2次大戦では大統領の顧問団に入り、国防研究委員会の議長となって、1941年には原爆開発に全力を挙げるべきだと主張してマンハッタン計画を推し進めた。その後は、原爆による被害を大きくして威力を世界に示すため「日本の、軍事工場と一般市民の居住区が隣接している都市に原爆を落とすべきだ」という主張を展開した。

 「良心」より「戦略的思考」を重んじるという点では、科学の世界にいたMIT出身者より、政治の世界にいたハーバード出身者たちの方が勝っていた。第2次大戦が終わった後、原爆を開発した科学者たちは、戦後は原爆を国際管理下に置くべきだと主張した。当時すでにソ連が原爆の開発を進めており、このままではアメリカとソ連との間で核兵器開発競争が起きると予測されたからだった。

 ところがコナントら大統領の側近たち(ハーバード出身者が多かった)はこの要求に反対し、アメリカの核管理はアメリカ自身で行う方針を貫いた。核武装しているという自国の優位を保ちたかったことに加え、米ソ間で冷戦が起きれば、戦争中に形成された軍事中心のアメリカ経済の発展を戦後も維持できるという理由があったと思われる。

▼冷戦のための秘密研究

 第2次大戦が終わって冷戦時代に入ると、アメリカの大学と国家との関係は多様化した。その一つは戦争で培われた科学技術の「平和利用」であった。核兵器の開発は続けられたが、その一方で核技術は原子力発電所というかたちで開花し、MITの原子力研究の中心となった。ミサイル技術はアポロ計画として宇宙開発につながった。(冷戦の一環としてのソ連との開発競争ではあったが)

 ミサイル弾道の解析など急いで膨大な計算をする必要に迫られ、戦時中に開発が進んだコンピューターは、産業用機械に変身した。「第20ビル」では、言語学者のノーム・チョムスキーらが研究を進め、その成果はコンピューター言語として何がふさわしいかを探るために役だった。

 科学技術のための大学だったMITは、社会科学分野の研究機関をも含む総合大学となったが、表面的な「平和」の裏で、冷戦を戦うための技術開発は、依然として政府肝入りで続けられていた。その一つはMITやハーバードだけでなく、アメリカ各地の大学で冷戦中に増えた「秘密研究」の存在である。

 これは、研究の存在そのものを公開しないという約束で、国防省やCIAが大学に予算つきで発注する研究のことだ。ハーバードでは、大学の総予算に占める政府からの研究費は1940年代にはほとんどなかったが、60年代には33%にまで増えた。(John Trumpbour編 "How Harvard Rules" による)

 大学が冷戦に協力したもう一つの分野は、外交政策を立案する際の基礎となる「国際地域研究」だった。冷戦時代、ソ連は世界各地の発展途上国を支援して社会主義陣営を拡げようとしたが、アメリカ政府は世界各国についての動向を把握し、この動きを封じて世界支配を維持する必要があった。この役割を担ったのがCIAで、全米の主要大学の地域研究に金を出すとともに、海外からの留学生に対して帰国後に諜報員として働いてくれるよう勧誘した。

▼「ホワイトハウスの控え室」

 MITとCIAの深いつながりは、1950年代にマックス・ミリカン(Max Millikan)という教授が休職してCIA副長官をしたことに始まる。ミリカンはMITに戻った後、CIAとフォード財団の基金で「国際学研究所」(CIS)を設立した。この研究所では、東欧諸国でソ連の支配に反対する国民運動を巻き起こす方法を考える「トロイ計画」(Project Troy)や、中南米諸国で起きる社会主義勢力による反政府活動をどう察知して潰すか考える「キャメロン計画」(Project Cameron)などが行われた。 (研究所のサイトにある記事によると、冷戦後は安全保障から経済、環境問題まで、幅広い国際テーマを扱っているという)

 ハーバードでは、1957年に「国際問題センター」(CFIA)が設立された。ベトナム反戦運動が高まった1971年、学生たちがCFIAのビルを占拠した際、CFIAがCIAとの密接な関係を持ち、冷戦に勝つための世界戦略に関する秘密研究をしていたことを示す資料が大量に暴露された。アメリカでは当時、すでに政府が大学に秘密研究を依頼することが違法となっていたので大問題となった。

 しかしその後も秘密の関係は続き、1985年にはCFIAの所長だったサミュエル・ハンチントンらがCIAからもらった資金で秘密研究を続けていることがマスコミにすっぱ抜かれている。「敵はソ連であるということを、学者も忘れるべきではない」という主張を展開していたハンチントンは、ソ連が消滅すると、今度はイスラム文明圏などを今後のアメリカの仮想敵と位置づけようとする本「文明の衝突」を書いて有名になった。

 ハーバードでは、中堅の官僚や政治家らを世界から学生や研究員として集めて教えている「ケネディ行政大学院」(ケネディスクール)も、冷戦に積極参加した歴史を持つ。ここは1950年代からフォード財団などの金で、ソ連との軍拡競争に勝つための研究を始め、発展途上国から中堅行政官を招いて勉強してもらうプログラムも行っている。CIAなどの金で秘密研究を行うことが禁止された後は、逆にCIAや国防省の職員が特別研究員としてケネディ大学院で研究できる制度を拡大し、現在に至っている。

 大学は国家に貢献すべき組織であり、戦争が国家の大事業である以上、大学が戦争に協力することは悪いこととはいえないと考えることもできる。しかし、その分野の研究の多くは秘密にされ、自由な議論の対象となっておらず、大学としての理想からはかけ離れている。

 ハーバードの教授陣、特にケネディ行政学院の教授の多くは、大統領から指名されて政府の要職に就き、ワシントンと大学とを数年ごとに往復することを人生の目的としている。「政府要人の予備軍」「ホワイトハウスの控え室」となっているハーバードで、アメリカ政府が本当のところ何をやっており、それが良いことかどうかということについて、自由な論議など期待する方が間違っているのかもしれない。



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