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知のディズニーランド、ハーバード大学

2000年9月21日   田中 宇

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 私は8月下旬から、アメリカ東海岸のボストンに住んでいる。私の妻がハーバード大学に留学することになったので、それに同行して東京から引っ越してきた。妻はジャパンタイムス(英字新聞)の記者をしているのだが、1年間会社を休職し、「ニーマン・フェロー」という、ジャーナリスト向けの特別研究員の制度を使い、ハーバードにやってきた。(妻は大門小百合 - Sayuri Daimon - という旧姓で記事を書いている)

 来てみて分かったことだが、ハーバード大学は「知の蓄積」に関して、世界有数の規模を持っている。しかも、近くにはマサチューセッツ工科大学(MIT)ボストン大学タフツ大学など、ハーバードに匹敵する質の高い研究機関を持つ大学がいくつもある。

 私は毎週、国際情勢に関する解説記事を書いているため、大学で行われる国際分野の講義や講演会などに、なるべく参加するようにしている。ところが、その数があまりに多く、興味を引くテーマの複数の講義や講演会が同じ時間帯に重なっていることもしばしばで、最も面白そうなものだけしか出ていないのに、非常に忙しい日々を送る結果となっている。

 たとえば昨日(9月20日)は、昼12時から2時まで、カフカス地方(ロシアの南)の地域紛争の和平交渉に携わってきた学者のミニ講演会と、遺伝子組み換え技術がメキシコの農業にどのような影響を与えそうか、というセミナーが重なっており、カフカスの方を選んで行った。

 昨夜8時からは「インターネットがアメリカの政治にどんな影響を与えるか」というテーマで、VOTE.COMSLATEという2つの政治・評論系サイトの代表者を呼んで討論会があった。大学内のケネディ行政大学院の学生食堂で行われたが、会場にはフィンランドの元首相とエクアドルの前大統領も来ており、挙手をして質問していた。元首相らは行政学院に招かれている特別研究員である。

 一昨日には「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の著者として知られるエズラ・ボーゲル(ハーバード教授を今春退官)が「なぜ日本はナンバーワンでなくなったか」というテーマで講演した。彼はかなりの有名人だが、参加者は50人ほどで、気軽に質問できる雰囲気だった。

 ボーゲル氏は、日本はまだまだ可能性があり、4−5年後には再び力を取り戻しているだろうと予測していた。同じ時間帯には「最終局面に入ったアメリカ大統領選挙を分析する」という行政大学院のセミナーが重なっており、そちらには行けなかった。

 その前日には、ハーバードから地下鉄で2駅離れたMITで、サミュエルソン、ソロー、モディリアニという3人のアメリカ人ノーベル賞経済学者が一同に会する講演会があった(英文の詳しい説明はこちら)。

 演題の中心は、アメリカのこれまでの50年間の流れを総括し、今後50年間の変化を予測するものだったが、予測の部分は新聞などで広く語られているものと同じで、その点は期待はずれだった。MITは今後も毎月に近い間隔で、各分野のノーベル授賞者を呼んで講演してもらう計画だという。

▼無料で昼食つきの講演会やセミナー

 これらの講演会やセミナーはすべて無料で、大学に関係ない人も参加できる。しかも昼どきのセミナーなどは、ハンバーガーなど簡単な食事と飲み物が無償で用意されている。開催日時は各研究所や学部のウェブサイト( 大学のトップページから探索していける)に出ているか、掲示されていない場合は、サイトの担当者に電子メールを送ると、定期的に催事情報をメール配信してくれる。(例:中南米に関する連続セミナー)

 ハーバードには、東アジア、中央アジア、中近東、アフリカ、中南米など、地域問題の研究所が10か所以上あり、その多くは毎週1回とか月に1−2回の定期的な公開イベントを持っている。週末前後の金曜日と月曜日を避けたがる講演者が多いため、講演会やセミナーは火・水・木曜日の昼どきに集中している。このほか、金曜日の午後にゆっくりと語る、というスタイルのセミナーもある。

 ハーバード大学には、いくつかの美術館や博物館があるので、芸術や文学、歴史、科学、医療などの分野の学術イベントも膨大にある。多すぎて、それらの情報までチェックしている余裕がないのが私の現状だ。

 私はこのほかに、ハーバード大学と、近くのタフツ大学のフレッチャー大学院(国際問題の専門大学院)の授業を、あわせて3つほど聴講し始めている。フレッチャーの授業は国際移民とグローバリゼーションに関するもので、私が最近配信した移民に関する連続記事は、その授業をとる準備の一環として書いたものだ。ハーバードではアメリカの大統領制についての授業も聞き始めたので、その方面の記事もいずれ書けるかもしれない。

 このように、無数の授業や講演会、音楽や美術などのイベントなどの中から、面白そうなものを見つけて参加するという日々は、まさに「知のディズニーランド」にいるかのようだ。たくさんのアトラクションの中から好きなものを選んで一日をすごすという、ディズニーランドの遊び方に似ているからである。

▼大学を活性化するフェローシップ制度

 私の妻が参加したニーマンフェローの理念は、アメリカと世界から職歴5−15年ぐらいの中堅キャリアのジャーナリストたちを毎年25人ばかり招待し、この「知のディズニーランド状態」を1年間楽しんでもらい、ジャーナリズムの発展に役立てようというものだ。奨学金はくれないが、授業に無料で参加(聴講)できる。

 ニーマンフェローの制度を運営するニーマン財団は、ミルウォーキー・ジャーナルという新聞の創設者だったL・W・ニーマンを記念して、彼の妻アグネス・ニーマンの提唱で、1937年にハーバード大学内に作られた。

 ハーバード大学にはニーマンフェローのほか、外交官その他の官僚、企業の専門家や研究者、弁護士など、いろいろな職業の中堅キャリアの人々を特別研究員として招待する、さまざまなフェローシップ・プログラムがあり、相互に「知のディズニーランド」状態を生み出している。

 フェローどうしの立食パーティのようなものがよく開かれるが、他の職業の中堅キャリアの人々と話をするだけで勉強になる。こうした状態は、大学自体の質を高め、学問の世界が各職業の現場から離れて机上の空論に陥ることを防いでいる。

 先日パーティがあったフェローシップには、軍人と外交官が混在する陣容だったが、その中には、中国と台湾とアメリカの軍の関係者がおり、彼らは互いに談笑していた。こうした交流は、紛争解決の手段になるかもしれない、と感じられた。

 私自身はフェローではないのだが、フェローと似たような生活を送っている。それはハーバード大学やニーマン財団が、配偶者に対してもフェロー本人に準じる待遇をするからだ。フェローと同じように授業を聴講できるし、学生証の提示が必要な図書館への入館や本の貸し出し用に特別貸出証をもらった。

 ニーマンフェローの中には、配偶者もジャーナリストという人が他にも数組おり、フォトジャーナリストのフェロー本人(男)よりテレビ記者の奥さんの方が授業でよく見かけるというカップルもいる。

▼道場破りを歓迎する大学

 最初は、配偶者を厚遇する大学の姿勢に感心したが、よく考えると、大学と何の関係もない人でも授業を聴講できるシステムであることが分かった。何曜日の何時から、どの教室でどんな授業をやっているか、大学のウェブサイトに大体出ているし、生協の書店でもコースガイドとして5ドルで売っている。

 教授に聴講の申請をするときも、その授業に関心を持つ理由をはっきり説明できれば、外部の人であっても、おそらく誰でも大体歓迎されると思われる。ただし一般の学生と同様に、教官が指定する関連図書を読む宿題をこなすことが求められる。その量は、多いときには一回分の授業用が200ページを超える。全部を読み切れないので、数人で分担して読み、それぞれが自分の読んだ部分の要約を作り、それを交換した上で授業に臨むという学生がけっこういるようだ。

 宿題の図書指定をウェブサイトに掲示する教授もけっこういるので、日本からボストンを旅行する人でも、事前に大学のサイトを見て日時を把握し、宿題を読んでおけば、学生顔負けの発言や質問をする「道場破り」が可能だ。アメリカの大学には、外部の人が来て意外な発言をすることが、大学を豊かにするという考え方があるように見える。知のディズニーランドは、知的プロレスのリングでもあるらしい。

 例外的に、外部の人々を歓迎しないといわれるのは、ハーバード・ビジネススクールである。ここは、高い授業料収入と企業から流入する研究費などで非常に儲かっているにもかかわらず、外部の人々が金を払わずに授業を聴講しにくることを歓迎しない体質がある、とニーマン財団の人から聞いた。金持ちほどケチだという「ビジネスの原理」を自ら示しているかのようだ。

 ハーバードの各大学院は独立採算制をとっており、ビジネススクールと対照的に清貧なのは、神学部だそうだ。他の学部は数年前から学生に電子メールのアカウントを配布していたのに、神学部はインターネットのサーバーを買う予算が足りず、昨年になってようやく電子メールが使えるようなったのだという。

▼アメリカの強さを支える大学教育

 ハーバードの知の豊かさは、アメリカの政治経済の強さを支える一因となっていることは間違いない。MITで講演したノーベル賞経済学者たちは、過去50年間のアメリカの発展の一因として、高等教育の成功をあげていた。(反面、アメリカでは小中学校など初等教育が成功していないと指摘した)

 そして対照的に、その翌日に講演したエズラ・ボーゲルは、日本でここ数年間に停滞がひどい分野の一つは、大学を中心とする高等教育だ、と指摘していた。特に国立大学は、文部省を頂点とする硬直化した官僚制度のため、時代の変化に柔軟に対応する教育や研究ができなくなっている、と語っていた。

 ハーバードの学生はよく勉強している。図書館も深夜12−1時ごろまで開いている。宿題をこなさないと卒業できないという現実もあるが、勉強する楽しさを感じている人も多いはずだ。授業のシステムは、聴衆を引き付ける技術を持った教授の講義を聞き、指定された大量の本を読み、学生どうしで討論する会合に出るという「聞く・読む・話す」の3つの要素を組み合わせたもので、系統的に理解が進むようになっている。

 ワシントンポストから来たニーマンフェローは「大学の周りを歩いている人々は、みんな幸せそうな、輝いた顔をしているので驚いた」という意味のことを言っていた。新学期が始まったばかりで、エリート大学に入れてうれしい新入生が多いせいかもしれないが、知的好奇心を満たされて幸せな人も多いのではないかと思う。(私もそのひとりだ)

 最近の日本人の若者は勉強しない、物事を知らない、と言われるが、実は問題なのは若者(学生)の不勉強ではなく、学生の知的好奇心をかき立てる努力をしない先生(大学制度)の方なのかもしれない。すでに日本の大学関係者の改革努力は始まっているとも聞くが、日本の大学が「知のディズニーランド」として復活すれば、日本は昨今の停滞感から抜け出せるだろう。



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